最初に結論を書いてしまうと、言語に「乱れ」なんて存在しない、少なくとも非難されるようなものではない、というのが私のスタンスです。
多分、同じ研究をしていた人は大体そうなんじゃないかと思います。私の研究室で「日本語の乱れだ!けしからん!」という考え方の人を観測したことは一度もなく、「なんか新しい口語用法だ!レポートのネタになる、逃がすな!!」って人ばっかりでした。
この記事の目次は下記の通りになります。
1.書いている人の立ち位置
2.国語学ってなんですか
3.で、「日本語の乱れ」ってなんでしょうね
4.「正しい日本語」とかいうものを商売のタネにする人達があんまり好きじゃない
順番にいきます。
1.書いている人の立ち位置
私は文学部出身でして、日本語日本文学、その中でも国文学ではなく国語学というものをやってました。古い日本語から新しい日本語まで、「言語としての日本語」について研究する学問です。
今では私はシステム職なわけであって、文学部、それもガチガチの文系学科出身ということを言うと驚かれることもありますが、なんということはなく、「大学では絶対「今後役に立つ」ことはやらない」というよく分からない方針の元、「忍者ハットリ君みたいな巻物に触ってみたい」という願望をかなえる為に、日本古典に直接触れる学科を選んだ、というのが経緯になります。
そういう意味で、私の大学での進路を決めたのはハドソンになります。巻物はたくさん触れましたが、チクワも鉄アレイも降ってきませんでした。同じ道を歩みたい人はその点にご注意ください。
2.国語学ってなんですか
「国語学」というのが、具体的にはどんな研究をするのかというと。
例えば、数学畑から言語学者になられた三上章先生の、「象は鼻が長い」というタイトルの名著があります。1960年に出版された本です。
細かく説明するとえらい長くなるのでざっくりと書きますが、「「象は鼻が長い」の主語は何か?」という命題を入口に、「象は」「鼻は」という言葉はいずれも「長い」にかかる修飾語であると論じ、「そもそも主語という概念は仏語や英語から導入されたものであって、日本語にそのまま当てはめるのは無理がある」「日本語に「主語」は存在しない」「日本語の「は」という助詞は、他の様々な助詞を兼ね、主語ではなく飽くまで修飾語を導く主題提示である」というようなことを論じたのがこの本です。
「日本語には主語がない」という説が主流になった訳ではないですが、三上先生の論は今でも、様々な研究者の議論・検討の対象になっています。大変面白い本ですし、上で書いたのはざっくりもざっくり、教授に見せたら怒られそうな適当要約なので、読んだことがない方は、機会あれば是非ご一読ください。
上記は「国語学」のほんの一端ですが。とにかく、古今東西の「日本語」の文献を手当たり次第漁って、色んな議論をこねくりまわして楽しむ人達、と認識すればそんなに間違ってはいないと思います。ルールはたった一つ。「文献の記載という根拠があること」。昔の辞書から、手書きの半紙から、文献として参照出来るものであれば、全てが国語学の資料です。
私自身は、最終的には「唐大和上東征伝」という文書を研究していました。唐の大和上、つまり鑑真が日本に来航した時のことを記録した文書で、井上靖の「天平の甍」の元ネタにもなっています。
3.で、「日本語の乱れ」ってなんでしょうね
当たり前なんですが、「乱れた日本語」がある為には「正しい日本語」が必要ですよね。
国語学をちょっとでもかじった人間は、まずこの「正しい日本語」という時点で「こりゃあかん」と思います。
正しい日本語とは何か。文語か。口語か。いつの時代の、どの地域の、どの文献を根拠とする、どんな日本語のことなのか?
当たり前のことですが、奈良時代や平安時代の日本語は、それぞれ全く違います。江戸時代、明治時代の日本語と今の日本語すら全く違います。更に、東北地方で使われている/いた日本語と、九州地方で使われている/いた日本語も相当違います。日本語は、平仮名や片仮名が出現する更にその前から、連綿と変化し続けて今の時代まで使い続けられてきました。
ちなみに、どんな言語でも、歴史を追っていくと「楽な方に楽な方に」変化し続けていることが分かっています。万葉仮名が平仮名・片仮名に変化していったのもその一環ですし、ガ行鼻濁音が次第次第に減っていったのもその一環です。そこから考えると、例えば「ら抜き言葉」なんかも当然の言葉の変化ではあるんですよ。
つまり、「歴史的に、ある程度一般に通用していたと思われる日本語」ならともかく、「正しい日本語」などというものを一言で定義するのはとても不可能、必然的に「乱れた日本語」というものも存在しないんじゃねえの、ということになる訳です。
乱れというのは、要するに変化です。言語が「活きている」、つまりたくさんの人に使われている限り、言語が「変化しない」ということは有りえません。だから、日本語にこれが「正しい日本語」というものはないんです。あるのは、「今、この地域で多数派の日本語」というものだけ。
だから、国語学を研究する人で、「乱れた日本語」なるものに眉をひそめる人、ってあんまりいないと思いますよ。若年世代の新語とかインターネットスラングとか、言語の変化の生きた見本です。むしろ是非研究したい。
4.「正しい日本語」とかいうものを商売のタネにする人達があんまり好きじゃない
この記事を書いた理由は単純で、「実はその日本語間違ってます!」とか、「正しい日本語を使いましょう!」とかいうお題目でお金を稼いでいる向きがあんまり好きじゃないからです。
以前、こんな記事を書きました。
安易な「気付き」には身構えた方がいいよなあ、という話
この時は、「間髪をいれず」という言葉が、歴史的には「かん、はつをいれず」という読みだ、ということをネタに、「実は皆間違っている!」という「気づき」を安売りしている人がいまして、それを批判しました。
上でも書いたように、「歴史的な読み方」「歴史的な語用」というものは確かにありますが、それは「正しい日本語」とイコールじゃないんですよ。「日本人の9割が間違って使っている」言葉があるとしたら、それは既に誤用ですらなく、「妥当な日本語」なんです。
そういう事情を承知しているのかいないのか、まるっと無視してお金稼ぎや注目稼ぎに「正しい日本語」「実は間違っている日本語」という言葉を使う人が、私はあまり好きではありません。
断っておきたいんですが、「どんな言葉も日本語として間違いではないんだから、がんがん間違えましょう」と言ってる訳じゃないですよ。場面場面によって「無難な日本語」「妥当な日本語」というのはありますし、その時点で一般的な使い方でない言葉は当初「誤用」として扱われます。例えばビジネス文書に使うべきでない言葉、というのは今でも厳然として存在しますし、永遠と、という言葉は多くの場合明確に「延々と」の誤用です。
今の時点での誤用を避けた方がいい場面、というのは確かにあります。
ただし我々は、それら誤用が、もしかすると次の時代には「言葉の変化」として受け入れられているかも知れない、ということを忘れるべきではない。そして、だからこそ、「正しい日本語を使いましょう」「この言葉は実は誤用!」というような、もっともらしい顔をした金稼ぎや言葉狩りに付き合うべきではない。
「言葉は生き物だ」という認識を持った上で、大事に言葉を使っていければいいなあ、と。そんな風に思うわけです。
2014年09月20日

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ところで、「ら抜き言葉」というのは昔から関東以外では圧倒的多数派だった言葉です。ですから「ら抜き言葉」の氾濫は関東が周りに合わせただけですね。
しかし、意味用法が簡単に変わられると困ることも有ります。
それは、「今までの意味でよく知られていた既存の文章・格言など」の意味が後の人にとって全く別のものになってしまうことです。
たとえば今、「偽善」という言葉の意味用法が少しずつ変化しているようですが、それによって「やらない善よりやる偽善」という格言の指す解釈が変化し、よくない意味になっていると思います。
ただ、公的な場での発言など、厳密な言葉遣いが求められることがあるでしょう。
そのような場で、変化した日本語が出てくることは避けたい、というのはわかります。
となると、「多くの人間が正しい日本語を理解しなければならない!}と義務感に駆られる人々が出てくるのもしかたのないことだと思います。
> ただ、公的な場での発言など、厳密な言葉遣いが求められることがあるでしょう。
> そのような場で、変化した日本語が出てくることは避けたい、というのはわかります。
公共の場でこそ空気を読んで、9割の人が使う間違った日本語が求められているように感じます。
例えばビジネスメールでは何故か相手の社名に様をつけて「NTT様の〜」のように書いたりしますが
これを間違っているからと言って様を取り外すと大変なことになります。
>「日本人の9割が間違って使っている」言葉があるとしたら、それは既に誤用ですらなく、「妥当な日本語」なんです。
>場面場面によって「無難な日本語」「妥当な日本語」というのはありますし、その時点で一般的な使い方でない言葉は当初「誤用」として扱われます。
要するに「多数派に従え」「空気を読め」ということですか?
ならば、この記事も彼ら(歴史的なものを疑わない人達)と同程度に空っぽだと僕は思います。
また、会社名が間違っている、という場合でもない限りは厳密な言葉遣いを指摘されるようなものでもありません
NTT様、NTT、御社、貴社、株式会社○○、○○(株)、どれも通用すると思いますよ
多数派に従えないというのなら害悪でしかないので滅びるべきではないでしょうか
たとえば、「情けは人の為ならず」なんて、放っておけばまず誤用に流れてしまう言葉ですが、
「そんな意味にしたくない」という人がそれを正そうとするのは当然ではないでしょうか。
経緯もありますし、混同も避けねばなりません。
数学のテストで計算過程を書かず解答欄のみ埋めるだけで良いのか?というような。
上のコメントで「情けは人の為ならず」が例に挙がっていますが、
なぜ本来の意味が「情けは巡り巡って自分の為になる(からすべきである)」なのか、
なぜ現代では「情けはその人の為にならない(からすべきでない)」という真逆の解釈が生じたのか、
そこまで筋道立てて考える人が少ないように感じるのが気にかかります。
(「〜ならず」が古語の用法だと考えれば、現代語で「〜ならない」に変化した道理も分かる)
「なぜ正しいのか、なぜ間違いなのか」「それならどうして乱れや揺れが生じたのか」など、
「なぜ?どうして?」という掘り下げは、もっと増えていいと思います。
乱れが生じた理由があるから、正しいとか多数派とかの議論や現象が起こるんじゃないでしょうか。
実際に9割ほどの人が間違っているのならば、まったく同意であります。
ただ、「汚名挽回」「役不足」なんかを中心として、よく見かける誤用はそこまでの高確率ではないのではないかと思います。いやただの印象であって統計も何もとってませんが。
ちなみに私が「汚名挽回」の間違いを理解したのは、第四次スーパーロボット大戦での万丈のセリフからでした。
というわけで、私個人としては「屁理屈こねるより素直に間違いを認めようぜ」が基本スタンスです。
国語学や言語学を学ぶ人達がそう結論するのは自然ですがそれはあくまで“学問のための意識”でしょう
この記事の主張は「宗教学ではある宗教が優れていて別の宗教が劣っているなどとは言わない。だから世間での特定の宗教への賛美や批判は全部おかしい」くらい乱暴に聞こえます