2015年05月01日
「自分」が育児の指標になるかどうか、という話
多分傲慢に響くと思うんですが。
私は、比較的自己評価が高い方であり、自分と、自分の周囲が好きです。そして、今現在の自分や自分の境遇に結構満足しており、今の自分が幸せだと思っています。
私は、自分の子ども達にも、出来れば自分を好きになって欲しいし、自分の周囲を好きになって欲しいし、幸せだと感じて欲しい。つまり、今の私自身がそれなりに、「一つの目指すべき目標」になり得るんじゃないかなあ、と思っています。
なので、私の子育てについての第一の指標は、「自分はどんな風に育てられたか」です。あ、こんな時俺どういわれたかなあ、というのが一つの尺度になります。俺なんでこういう風に考えるようになったんだっけかなあ、というのが一つの物差しになります。長男は「パパみたいになりたい」と言ってくれますし、私も「パパみたいになれるといいね」と言っています。
勿論、ゴールは一つではありませんし、それが唯一の正解だという気もありません。息子や娘たちが、どこかの時点で私と全然違う方向を向いて、全然違う方向を目指すのであれば、それも全くアリだと思います。まあ、「自分が幸せだ」と思えるようになる、という目標については、割と普遍的な一つのゴールだと思いますので、親として頑張ってそっちには誘導してあげたいですけど。
ただ、無数にある筈のルート、無数にある筈の子育ての尺度の一つの指標として、「自分」というものが物差しの一つとして使える、少なくとも使えると自分自身で確信出来ているというのは、大変幸福なことじゃないかなあ、と思う訳です。
先日、職場の人と、飲みの席でちょっと子育てについて話しました。話したというか、その人の子育てについての愚痴に延々付き合いました。愚痴の大部分は、反抗期に入り始めた子どもとのコミュニケーションの問題、早い話「子どもが自分のコントロールを離れ始めた」というところに立脚しているようでした。そして、彼は、「子どもが自分のコントロールを離れ始めた」ということに大きな不安を感じていました。
勿論、色々考えなくちゃいけないことはあると思うんですよ。そもそも、何で子どもをそこまでコントロールしたがるのかなあ、とか色々。
けどまあ、聞いていてちょっと思ったんですが、その人は、突き詰めると「指標の欠如」で苦しんでいるんじゃないかなあ、と思いました。
なんというのかな。どんな時代、どんな立ち位置でも、子どもがいずれ自分の物差しを持って、親と距離をとろうとするのって自然、当然なことだし、むしろそうならない方が色々と心配だと思うんですよ。その人だって、今自立した大人として生きている以上、どこかで親と距離をとった筈ですよね。
大体どんなことでも、迷ったら一度スタート地点に立ち返ってみるべきだと思うんです。道を見失ったら、まず戻る。
反抗期だとか、思春期だとか、自立心の芽生えだとか、そういうお仕着せの言葉に依拠するまでもなく、「自分はどうだったっけ」と振り返って、かつ自分という物差しをある程度信頼出来ていれば、多分そこまで不安に思うこともないと思うんです。折角「自分」という物差しがあるんだから、使えばいい。
ただ、そういう確かな物差しを使えない、あるいは使うことにためらいがあるから、子どもの歩いている道が見えにくくなった時、大きな不安を感じてしまうんじゃないかなあ、とか、その時の私はそう推測しました。
勿論、こんな偉そうなこといえませんけどね。いや、けど子どもって大体そんなもんじゃないんですかねえ、という風にその場はお茶をにごしましたし、彼が不安なく過ごせるような言葉を、どこからか取り出してくるのは大変難しい。
ただ、将来、自分の子どもが自分の手を離れ始めた時、自信をもって「よしゃ、行って来い」と送り出せるといいなあ、と。そんな風に思ったわけなんです。

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おっしゃる通り、自身を指標とできることはとても幸福なことであり、また素晴らしいことでもあると思います。そのような実感を得られないままに大人になっていく人々も結構いる、というだけで。どちらも、良きにせよ悪きにせよ世代を超えて連鎖していきます。
もし自分の家族の外にも気持ちを注ぐ余力があるのならば、傲慢に見えようとなんだろうと、しんざきさんの目線でおかしなことはおかしいと伝えてあげてほしいな、と個人的には切に思います。