のろけを書く。
多分、ある程度の自己愛の深さは、夫婦生活というか、近しい人たちと生きていく為に必要なことなんだと思う。
私は、自分が奥様を愛しているのと同じように、奥様が自分を愛しているということを、全く疑っていない。
自分が酔っ払って適当なことを喋っている時、奥様が本に視線を落として生返事をしつつ、たまに適当な相槌を打つことを、私は愛の証だと思っている。
私が奥様の背中をなでて、奥様が邪険にしつつ、たまーにこちらに気持ち良さそうな視線を送ることを、私は愛の証だと思っている。
私がフォルクローレの曲について熱弁して、奥様が社労士の問題集に目を落としつつ、たまーにハモりのメロディを歌うことを、私は愛の証だと思っている。
私が奥様にちょいちょいちょっかいを出しつつ、奥様は無反応なのに、私が立ち去ろうとすると袖口を掴まれるのを、私は愛の証だと思っている。
うん、これは多分、結局私がそう思い込んでいるだけだ。奥様はあまり自分の思いを口にしないので、普段は「好き」を口にするのは私ばっかりではある。
ただ、恐らく、「自分は邪険にされているのではないか」「相手は自分のことを愛していないのではないか」と思い悩むよりは、「自分は相手に愛されている」という絶対の自信の元に、相手の一挙手一投足の全てを勝手に肯定する方が健全なのではないか、と。
散文的だが、愛は、そういうところについてくるのではないか、と。
「勝手に否定」よりは、「勝手に肯定」があふれている方が健やかに過ごせるのではないか、と。私は、そんな風に考えながら日々を過ごしている。
今日書きたいことはそれくらい。
2015年06月08日

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