今から、あんまり具体的じゃない話をします。
あるテーマがあるとします。
で、そのテーマについての意見を、てきとーに数字化するとします。どの程度極端に振れているかという尺度によって、1から10くらいまでの数字に分かれると思ってください。
可視化されやすい、というか、分かりやすくて目を引き易い意見って、やっぱり「1だ!」と「10だ!」なんですよね。1派の人と10派の人が殴りあいとか始めると、そりゃもう人目を引きます。万事、絶対評価よりも相対評価の方が分かりやすいので、周囲の人たちも、「1なのかな?」「いや、10なんじゃないか?」「10はない」「1の問題点は3つあって」といった、色々付随的な議論も始まるわけです。
特にWeb界隈では、「1か10か」という議論が注目されやすいこともあいまって、極端な立ち位置、極端な言説がもてはやされやすい土壌みたいなものがある気がします。
ただですね。往々にして、「現実的な妥協点」とか、「丁度いいところ」みたいなものは4から6くらいのところにあって、「実際に実行に移したら上手くいきました」みたいなのもその辺だったりすることが多いと思うんですよ。いや、勿論、全部が全部じゃないですが。
4から6、くらいのポジションを取る人の言説は、あんまり注目されません。場合によっては日和見ともとられますし、1派の人、10派の人、それぞれから対立陣営だと判断されて攻撃されたりします。基本的に損な立場です。
ただ、「4から6くらいに現実的な回答があるんじゃないかなー?」って考え方って、絶対必要だし、その辺のこと検討しないと現実的な解が出てこないケースって多いと思うんですよ。実際に4から6くらいの回答を求めるときに、「1か10か?」って議論は不要だったりするんです。
言うまでもありませんが、エラい単純化した話ですよ。物事、綺麗に10段階に数値化出来る程シンプルなケースは多くはありません。
ただ、考え方の一つとして、
・一見分かりやすくて目を引きやすい意見が、「実は現実的でない程極端に振れた意見かも知れない」ということ
・二つの対立陣営があったとしたら、実は現実的で妥当な回答はその真ん中くらいにあるかも知れないこと
・一見どっちつかずの日和見っぽく見える意見を言っている人が、実は一番現実的な人かも知れないこと
・必ずしも、あるテーマについて1か10かで考える必要はない、ということ
辺りは、頭に入れておいた方がいいかもなあ、と思った次第なわけです。
あ、今日書きたいことはそれだけです。
2015年07月24日

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4〜6辺りのところは大きく外してもいないけど
大正解でもないみたいな、
ベストにするのか、ベターにするのか、はたまた
大博打を打つのか的な感じに思えました。
ただ、既存の概念に乗っかる、いわゆる
二番煎じ的なものとか、他の技術に追随した
汎用的なものだと、どう置いても目立つように
するには努力が相当いると思います。
そんな時にじゃA〜Zに置きますねと
1〜10の話の時にまったく別で新機軸の
提案がされたとした場合はAに置いたとしても
Zに置いたとしても新しいから割とラフにおいても
目立ったりもしますし、多少荒くても
誰もやってないからさしたる苦労もなく目立つ。
みたいな話を、松本人志と宮本茂の対談で、
オリジナリティーのこだわりって部分でやってたこと
まで思い出しました。
あ、この対談2011年に行われてますけど、
いま見ても超面白いです。
極論だからこそ本質的な部分が含まれていて、何故良いのか、何故ダメなのかが見えやすい。
そこを理解してからじゃないと、4や6の意見だって意味をなさないと思うんですよ。
そういった意味で、特に観衆にとっては議論の本質・論点をつかむために、1や10の意見は重宝されるのかなと思います。
極論だからこそ本質的な部分が含まれていて、何故良いのか、何故ダメなのかが見えやすい。
そこを理解してからじゃないと、4や6の意見だって意味をなさないと思うんですよ。
ただ、「本質的な部分を理解する」為に「1か10か」で大げんかする必要はないっていう
http://togech.jp/2015/03/31/21306
ネット上だとじゃあこういう結論に至りましたなんて解決することなんてほぼ無いわけで、、
4から6の人なんかは1、10の人達からの攻撃的な論調にうんざりしたらこれは身にならないなと去る場面が多いと感じます。