2015年10月02日
ケーナを吹いている時の唐突な気づき、もしくは「部分」と「全体」の切り替えのお話
ちょっと昔話をする。ケーナという縦笛を練習していた時の話だ。
もう十年以上前のことだった筈だ。当時、私はまだ学生だった。
その時私は、ハッチャマリュクという南米のグループの、かなり難しい曲を練習していた、と思う。大学の学生会館、いわゆるサークル長屋のような場所だった。その一曲に随分長いこと手こずって、それでも思い通りの演奏が出来ず、まあ一言で言うと私は煮詰まっていた。
私は余り器用な方ではなく、一度煮詰まるとなかなかそこから脱出出来ない。たまに気分転換をしながら、執念深くその曲を吹けるようになろうとしていた。
ケーナを吹いている時、何の前触れもなく、「今鳴っている音って、息だよな」と思った。
それまでの自分は、「ケーナという楽器を演奏している」と思っていた。「自分の息を使ってケーナを鳴らしている」と思っていた。
何か特別なタイミングがあった訳でもなんでもなく、その瞬間、唐突に意識が切り替わった。「自分は息を吹いているだけ」であって、「その息を、ケーナが勝手に音に整形している」のだ、という意識になった。鳴っている音は、息である。つまり、自分は息を出しているだけだ。それが、たまたまケーナによって音に変わっているだけだ。
つまり、私は別に「演奏する」必要はなかった。「楽器を鳴らす」必要はなかった。「息を吹く」だけで良かった。それを音に変えるのはケーナの仕事であった。
そう切り替わった瞬間、今まで満足に吹けていなかったパートが、冗談の様にすらすらと吹けるようになった。嬉しいとか達成感というよりは、むしろ「なんだこりゃ」という感覚であった。自分でも何かずるをしているような気分だったと思う。
「気付き」というか、「唐突な意識の転換」で物事が上手くいくようになったことは、他にもないわけではなかったが、私が一番記憶に残しているのがこの時の話だ。以来、今でも私は、「自分は息を吐いているだけ」「それを音に変えるのはケーナの仕事」という意識を、どこかに残してケーナを吹き続けている。
多分これは、理屈で言うと、「全体ではなく、部分部分に集中する方が効率が良いということに気付いた」ということなのだ、と思う。実際には、ケーナを吹くという作業は「息を出す」という気管の仕事、「タンギングで息を区切る」という舌の仕事、「音階を操作する」という指の仕事の組み合わせだ。
それら全体を一遍に捉えるよりも、部分部分を取り出して意識した方が、私には適していた、ということだったのだろう。「楽器を演奏する」というワンパッケージの処理は、私の脳には少々高度過ぎた。「息を出す」ということと、指を動かすということを、切り離した方が私の脳は上手く処理することが出来たのだ。
人によっても違うだろうし、ものによっても違うだろう。ただ、「部分と全体の切り替え」というのは、意識の転換の方法として、割とアリだと私は思うようになった。
上手くいかない時は、全体ではなく部分を意識する。それでうまくいかないならば、逆に部分ではなく全体を意識する。これは、楽器の演奏だけではなく、割と普遍的な「切り替え」の仕方として、それ以来私に根付いた思考法だ。多分、色んな人が知っている思考法だとは思うのだが、私の場合、大学に入る年になり、ケーナを初めてようやくこれに気付いた。
ところで、近々「ロス・ガラパゴス」というグループで演奏をするのだが、丁度その曲を10年振りくらいに演奏することになった。その曲のタイトルは、Danza del Inca(インカの踊り)という。
10年前の練習と、10年前の発想の転換を、私の体は果たして覚えているだろうか。半ばわくわくしながら、私は最初の練習に臨もうかと思う。
11月1日土曜日、目黒区東山社会教育館のお祭りで、13時くらいから演奏します。気が向いた人は良かったらどうぞ。
目黒区東山社会教育館

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