少なからざる人が「私たちはだまされて、虚偽の歴史像を注入されていたのだ」と書いている。「憤りを覚える」とまで書いていた学生複数いた。どうも彼らの好きな自画像とは「だまされていたけど、真実の歴史に触れて目が覚めた」というものらしい。
意外とややこしい話の様な気がする。
なんか幾つかトピックスが抽出出来そうなので、順番に列挙してみよー。
1.信じる閾値、みたいな話。
第一感としては、「説」を頭から信用してしまう学生がそんなにいるのか、ほんまかいな、という所であった。
文中引用されている永井晋氏の著書は、言うまでもなく永井氏の学説を語っている。説は意見であって、見方であって、当然「事実とイコール」ではない。説得力の有無とは関係ない。思考の材料の一つにはなるが、そもそも頭から信用する様な類のものではない筈だ。
「説」は真に受けるものじゃない。参考にするものだ。
この「真に受ける→事実として受け取る」から「参考にする→懐疑的に受け取る(イコールではない)」までの間にはいくつかの段階があって、多分大体の人が、「○○は事実として受け取る」「○○は懐疑的に受け取る」という幾つかの基準をもっている筈だ。疑ってばかりじゃ自分の中のコンセンサスを形成出来ないので、どこかで折り合いをつけなくてはやっていけない。
どんな話を真に受けるか、という基準は人それぞれだし、理由も人それぞれだ。
例えば世の中の多くの人は、報道をある程度「真に受ける」。これは新聞やテレビが事実を報道する割合の話であって、リテラシーの問題とはまた別の話だ。
例えば私は、今、冒頭で引用したエントリーを「事実として受け取って」このエントリーを書いている。これは、私の今の思考が冒頭で引用したエントリーに立脚している為であって、同じくリテラシーの問題とは多分あんまり関係ない。
じゃあリテラシーの問題がどこにかかってくるかというと、「自分の"真に受ける基準"を把握しているかどうか」という部分になるんではあるまいか、と思う。
普通に考えれば、「発信者が何者か」「発信者はどんな意図、どんな形態でその情報を発信しているか」ということを基準にして「真に受ける」のが一番安全だ。キバヤシよりは新聞の編集者の言葉の方が事実に近そうだし、スポーツ新聞やネタブログよりはNHKの報道番組の方がなんぼか信用度は高いだろう。そこに政治の意図が絡んできた場合、経済の意図が絡んできた場合、といったニュアンスの微調整が出来れば更に確実だ。
ただ、これが例えば「その説の説得力」とか「自分の先入観」辺りに影響されて、「真に受ける基準」がブレるとちょっとばかりまずい。扇動者の言葉は往々にして説得力に満ちている。説得力の有無は「それが事実に近いかどうか」とは実は全く関係ないのだが、信用する基準がはっきりしていない人はそれに流される。
「真に受ける基準」には定期的な棚卸しが必要だ。きちんと整理されていれば、外からの情報で惑わされることは滅多にない。
おそらく、「扇動されやすい人」と「信用する基準がブレやすい人」の間には、ニアリイコールの記号くらいはつけられるんじゃないだろうか。
・覚醒したい人のお話。
どうも彼らの好きな自画像とは「だまされていたけど、真実の歴史に触れて目が覚めた」というものらしい。
これはなんか色々と掘り下げられそうだなあ。
でも長くなりそうだからまたでいいや。基本的には単なる中二病の話だと思うんだけど。「真に受ける基準」への影響はあるのかも。
個人的にはどちらかというと、「あらゆる言説、報道には必ず裏がある」と考える人の方が考察しがいがあるとは思う。実際はもっと単純な話でした、みたいなことも結構あるんじゃないかとは思うんだけど、けどまあ深読みした方が面白いってことも確かだしな。
3.レポート技術のお話。
ここまで書いといてちゃぶ台ひっくり返すのもアレだが。
学生は結構したたかなので、実際のところホントーに真に受けた人がどれだけいたのかというのは割と謎だ。
「私たちはだまされて、虚偽の歴史像を注入されていたのだ」と書いている。「憤りを覚える」とまで書いていた学生複数いた。
レポートや小論は大上段に構える、というテクニックを受験勉強の過程で教え込まれている人は割といる訳で、単に大上段乱舞だっただけの話かも知れない。
私はいわゆる「小論を書くコツ」的なものをひっじょーーーに懐疑的に受け取る人なので、使うなそんなテクを、とは思わんでもないが。
いわゆるシケ対というか、一枚のレポートが複数の学生間で何かのテンプレートとして使われた可能性、というものには敢えて触れない。(シケ対という言葉が一般用語なのかどうかは知らんが)
関係ないが、永井晋氏の「現象学の転回」はちょっと面白そうだな、と思ったんだが、この前本屋でペラペラめくってそのままになっている。最近技術書と海外SFしか読んでないんで、久々に本腰入れて読んでみようかなあ。
実はとても大変で困難だということを、
結構みんな自覚していないかもしれませんな。
なんか人の良心を誑かせているようで、
「虚偽の歴史像」なんて言葉を聴くと
あきれた気持ちになります。
>なんか人の良心を誑かせているようで、
>「虚偽の歴史像」なんて言葉を聴くと
>あきれた気持ちになります。
んー、そうですね。実際のところ、「歴史の真実」というものは基本手が届かないもの、と考えておいた方が精神衛生上よさそうな気はしますよね。