なんというか、「好き」を語るのに、前提知識とか、もろもろの条件とか、そんなもんが求められるのはあんまり好きじゃないなあ、と思うんですよね。「好き」を表明するのはただでさえ勇気がいることなんだから、ハードルは可能な限り低くあって欲しい。凄く気軽に「○○が好き!」と言える世界であって欲しい。
Twitterで、こんなことを書きました。
shinzaki / しんざき
「○○が好き」という時には、資格も知識も一切不要だ。SF小説をホーガン一冊しか読んでいない人が、「SF小説好き」と言っても何ら問題はない。まず「これいいなあ」と思って、「これ好き」というところから、自分だけではなく周囲も巻き込んで、世界は広がっていくもんだから。 at 04/03 14:35
shinzaki / しんざき
「○○が「嫌いだ」」って表明することに対して、ある程度その対象への知識を求めるというのならまだわからなくもないが、「○○が好きだ」って表明することに事前の知識を求めるというのは、本当に意味がわからない。 at 04/03 14:41
このTweet自体は、「自称○○好きに限って、実際は大してそれを摂取していない」という批判ツイートをみてツイートしたものです。
元ツイート自体はここでは引用しませんが、多分、「あるジャンルに対する半可通」に対する批判に近い文脈だと思うんです。「SF小説好き」というなら、せめて××くらいは読んでおけよ、とか。「本屋好き」というなら、何故もっと本屋に行かないんだ、とか。そういうことを言いたくなる気分も、心情として理解出来なくはないんです。
それを踏まえた上で。
私は、その対象がジャンルであれ作品名であれ何であれ、そしてその「好き」がどんなに中途半端な内容であれ、「好き」と表明することを全肯定します。「好き」と表明する為のコストは、可能な限り低くあるべきだと考えます。
何故なら、「○○が好き」というのはゴールではなく、スタートだから。
例えば「SF小説」というジャンルであれば、「あ、これ、好きだなあ」とおもったその時から、そのジャンルに対する世界は広がっていくものだから。そして、それは自分だけではなく、それを見た他の人へも伝播していくものだから。
ジャンルの裾野っていうのは、そうやって広がっていくものでしょう。誰かが、どんなに僅かな知識であろうと、「これ好き」といったところから、その人も、他の人も、さらにそのジャンルについて知っていく。そこからもっと詳しくなっていく。
要は、「好き」は出口ではなく、入口なんです。
入口は入りやすい方がいい。入りやすければはいりやすい程、そのジャンルは栄えます。
そこを、元からそのジャンルが好きな人が、「おいおい、その程度で「好き」とか言ってんのか?」と絡んでいたら、その入口、どうなりますか。もしかしたらその「好き」を見て、そのジャンルに入ってくれていたかも知れないそれ以外の大勢の人まで、軒並み排斥することになりませんか。
そういう意味では、私は、「中途半端な知識で語る」という、いわゆる半可通ですら、一義的に否定されるべきではないと思います。
明らかに誤った知識を広めていたらそりゃ指摘した方がいいかも知れないですが、そこに純粋な「好き」があるなら、「その程度の知識で語るな」という批判は慎重であって然るべきでしょう。そういう批判を投げかけたくなったら、もっと精密な内容を自分が語ればいい。それを見て、更に他の人がそのジャンルに入りたくなったら、そりゃもう万々歳じゃないですか。
「好き」を表明することというのは、自分をさらけ出す行為でもあり、ある意味ではハイリスクですらあります。注目を引くだけなら、どちらかというと「これ嫌い」を表明した方が楽に注目を稼ぐことが出来る。ローリターンハイリスク。
けど、だからこそ、「○○が好き!」ということくらい、何も考えずに表明できる世界であって欲しいんですよね。
だから私は、「「好き」を表明するのに、一切の前提知識も条件も要らない」と強く主張したいです。
どんなに中途半端な「好き」であっても、そこからそれに続く何かが始まることを。世の中の色んなジャンルが、色んな「好き」によって栄えることを、強く祈念しております。
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