2016年05月10日

「科学に誠実な人の話はなぜ届きにくいのか」という話、あるいはなるべく分かりやすく「科学」について書く


特に疑似科学界隈でよく問題になるのですが、「科学に誠実な人のいうことはわかりにくく、科学に不誠実な人のいうことはわかりやすい」という厄介な特性があります。


分かりやすいことは、聞き入れられやすいことでもあります。分かりにくいことは、たとえ妥当であってもなかなか耳を傾けられないことでもあります。つまり、「妥当な内容の方がみんなに聞き入れられにくく、妥当でない内容の方がみんなに聞き入れられやすい」という、ひじょーーに厄介なジレンマが発生してしまいます。


何故かというと、「科学的に誠実な人程、「そんなものにはなんの効果もない」「それは頭っから間違っている、でたらめである」という分かりやすい断定をしにくい」という問題がある為です。

以下、その辺の話をしてみたいと思います。



@.科学って何?というお話

そもそも科学ってなんなの、という話から始めます。

一般の人は「科学」と聞くといわゆる「科学者」だとか「実験」だとか、理系っぽいものを思い浮かべるかもしれませんが、実際には人文科学や社会科学といったフィールドもあり、理系から文系まで、「科学」という言葉は非常に広い範囲を射程に収めています。ただ、ここでは主に「自然科学(物理学とか化学といった、いわゆる理系学問)」についての話が中心になります。


科学というのは、要するに手法、方法のことです。Civ4でいうところの科学的手法という奴です。また、科学的手法に則って集められた系統だった知識、それ自体のことでもあります。

ざっくり書くと


1.仮説を立て、
2.誰にでも明らかな根拠(再現可能な実験や観察)を元に、
3.その仮説について適切な方法で考察・推論・検証を行い、
4.根拠(エビデンス)に則ったことが明確な結論を出す。


このプロセスをきちんと回して得られた結論こそ、「科学的に正しい」と言える、という話なわけです(実際には確率的な部分や統計的な部分もあったり色々面倒くさいですが、話がややこしくなるので一旦おいておきます)。

一番重要なところは、


2.誰にでも明らかな根拠(再現可能な実験や観察)を元にしなくてはいけない


という点であって。どんな分野でも、「誰にでも明らかな根拠」を欠いた知識や結論は、科学的に正しいものとはみなされません。

たまに勘違いしている人がいるようなんですが、科学の根幹は飽くまで上記の「フロー、手続き」ですので、それによって得られた知識を絶対の真実と考えたりはしませんし、そこに含まれていないものを「間違い」と言ったりもしません。ある「科学的な正しさ」が後から同じく科学的な手続きによって否定されることは実によくあることですし、まだ「科学的に正しい」と認められていないことでも、それが後から「科学的に正しい」と認められる可能性も否定しません。

ただ、「それは現時点で科学的に検証されている」「それは現時点では科学的に検証されていない」というだけです。


A.じゃあ「科学的に正しいもの」って何?というお話


「科学的に正しいもの」とみなされる為の労力というのはそんなに軽いものではなく、ただ「実験をして結果が出ました」だけではなんの意味もありません。その内容は、きちんと論文にして、いろんな人に査読(論文のチェックや追試)をしてもらって、といった幾つものステップを踏まないと認められないのです。


例えば、だれか一人が「こんな実験やった!こんな結果が出た!」と言っていたとしても、エビデンス(証拠)が明確でなかったり、他の人達が追いかけでその実験をやって再現できなかったとしたら、それは「科学的に正しいもの」とはみなされません。

例えば、何人かの人が「これは体にいい気がする!」と言っていたとしても、きちんとした実験が行われていなかったり、査読された論文が残ったりしていなければ、それは「科学的に正しいもの」とはみなされません。



要するに、「みんながちゃんと試して、検証して、「これは正しい!」って言えるものだけ「正しい」と信じようね」というスタンスが科学の根底であって、そこを外れたものは(その時点では)信用に値しない、というのが科学なのです。


一人の知恵や経験は間違うこともあるけれど、みんなの分析や考察があるなら信用出来る。当たり前のことですよね。

自然科学で言えば実験と検証。人文科学で言えば文献や統計だったりしますが、その辺の話は科学一般すべて共通している筈です。



科学に誠実な人であればある程、「それは正しい」「それは間違っている」という言い切りを行うことに慎重です。なぜかというと、上記の1〜4までが科学の根底となる手続きである以上、


実験が行われて論文になっていないものはそもそも科学とは言えないし、

「正しい」「間違っている」どちらにしても、きちんと実験・検証しないと妥当だということは出来ないし、正しい可能性も、間違っている可能性も否定できないから。


なので、「それは現時点では科学的に検証されたことではない」という言い方しかできない場合が非常に多い、ということなんですね。

「正しい」というのと同じように、「間違っている」ということにもコストがかかります。反証するのも大変ですし、後から反証が覆る可能性だってないとは言えない。だから、「間違っている!」「でたらめだ!」という言葉は発しにくいのです。

それでも、そういったコストを敢えて背負って、妥当でないことに「妥当でない」ときちんという人は、大変尊敬に値すると私は思います。


B.不誠実なのに分かりやすい、という話


科学に不誠実な人は、上記のようなことを気にしません。

何の実験も行われていないのに、数人の「効いた気がする!」という話を元に「体にいい○○食品!!」と謳ってしまったり。

身内の回し読みだけで、信頼出来る査読を経ていないてきとー論文を元に「万能の××菌」などと謳ってしまったり。

場合によっては、本来そういう意味ではない論文の意味を曲解して、「△△が体にいい!!」などと謳ってしまったり。


何が厄介かって、そういう言い切り、断言は何より「分かりやすい」んですね。実験がどうとか査読論文がどうとか、しちめんどーくさい留保がついていない。「体にいい!」「なぜなら○○が××だから!(根拠なし)」おおそうなのか、いいじゃないか、と。


そして、それに反対する人のいうことはなんだかわかりにくい。実験?論文?査読?なんのこと?論文ならあるって言ってるじゃないの、中身まで知らないよ、と。


分かりやすいことは、受け入れられやすいことでもある。わかりにくいことは、受け入れられにくいことでもある。

それ自体は仕方ないことかも知れません。


ただ、我々が覚えておかないといけないことは、

「分かりやすいからと言ってそれが妥当だとは限らない」

ということであり、何かを信用するのであれば、昔からのきちんとした方法論に則ったものを信用した方がいいんじゃないの、ということだと思うんです。

疑似科学という、「分かりやすさ」を盾にいい加減なものでお金儲けをする人たちに騙されない方が、社会がもうちょっと素敵になるんじゃないかと、私は思うのです。



まとめておきます。


・科学というのは別に難しい話ではなく、ざっくりいうと「誰にでも検証可能な根拠に則って話しましょうね」ということです
・いわゆる疑似科学には、その「誰にでも検証可能な根拠」がくっついていない、ないしひじょーにいい加減です
・けど、面倒な留保がついていない分わかりやすいんですよね
・「分かりやすい」からといって頭から信用せず、「それは科学的なものなのか?」ということは、常に気にするべきだと思います


大体上記4点くらいが私の言いたいことになります。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらい。

posted by しんざき at 09:48 | Comment(1) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
するとこの記事自体が科学に不誠実な人の話ってことになりますが、それでOK?
Posted by えーと? at 2016年05月20日 16:37
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