近年、いわゆる「クトゥルフもの」ないし「クトゥルーもの」はすっかりライトサブカルとしての市民権を得た感があります。
太古から宇宙に存在した、恐るべき旧支配者たちとそれにかかわる人間たちの物語。かつてはH.P.ラヴクラフトと、彼の数人の友人作家との間で描かれていた「ラヴクラフト宇宙」のエピソードは、例えばゲームのモチーフになり、ライトノベルのモチーフになり、漫画のモチーフになり、アニメやエロゲーのモチーフになりと、サブカル畑の至るところに出現するようになっています。
最近では、「World of warcraft」を元ネタとするオンラインカードゲーム「Hearthstone」にも、「クトゥーン」を始めとする「古き神」たちが出現し、ランダム20ダメージを飛ばしたり断末魔ミニオンをまとめて甦らせたりと猛威を振るっている始末です。ン=ゾスおなかこわせ。
昨今、「ラヴクラフトは読んだことないけど、クトゥルフ神話って言葉だけは知ってる」という人が相当数いらっしゃることは想像に難くありません。
ただ、これも有名な話ですが、ラヴクラフトは決して「神話」としてのクトゥルフのエピソードを描いたわけではありません。というか、実はラヴクラフトの作品で、クトゥルフやナイアルラトホテップなど、クトゥルフ神話で著名な名前がちょっとでも出てくる作品は意外と希少です。多分、全体の2割無いくらいじゃないでしょうか?
彼が描いたのは、「人間よりも遥かに昔から存在するものたち」と人間の関わりをテーマとした「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」。それを「邪神」や「神話」といった形に、主にラヴクラフトの死後に整形していったのは、オーガスト・ダーレスを始めとする後続の作家たちなのです。(※ラヴクラフト自身、ダーレスの創作を気に入ってはいたようで、ダーレスへの激励の手紙や協力の痕跡が残っているそうです)
そういう話を聞いて、
「クトゥルフものの原点って気になるけれど、ラヴクラフトって難しそうだし…」
と思うクトゥルフもの初心者が、恐らく日本全国に2800万人くらいはいると考えられます。いるよね?
ラヴクラフトが書く文章に不思議な魅力があることは間違いないことなのですが、正直な話、ラヴクラフトの作品が(訳も含めて)かなり難解であり、慣れない人には非常に読みにくいことは否定が出来ない事実です。
ただ、クトゥルフもののルーツをたどるとすれば、ラヴクラフトの作品を避けて通ることは決して出来ない訳で、ここでは
ラヴクラフト作品の中でどれが初心者向けなのか、どれが難解過ぎるのか、
というお話を主に書いていきたいと思います。
そもそもラヴクラフト全集自体がとても初心者向けとは言えない
という点は唯一些少の問題ですが、まあ気にしないことにします。
○比較的初心者にも読みやすいラヴクラフト作品
○長かったり難解だったりで読解には若干努力が必要だが、話自体は面白いラヴクラフト作品
○読解にかなりの努力が必要だが、クトゥルフもののルーツを追うには抑えておきたいラヴクラフト作品
○sanチェックをしたい初心者にお勧めなラヴクラフト作品
の4カテゴリーに分けて紹介していきます。
○比較的初心者にも読みやすいラヴクラフト作品
「宇宙からの色」(ラヴクラフト全集4巻に収録)
個人的には、ラヴクラフトの短編・中編の中でも屈指の傑作に数えられるべき作品ではないかと思います。展開もわかりやすいですし、完成度も高く、話の展開、読んだ後の絶妙な後味の悪さも含めて、ラヴクラフト節が満載です。
時は1882年。アーカム近郊の農夫ネイハムの自宅近くに隕石が落ちたことをきっかけに、ネイハムの周囲では奇妙な事件が起こり始めます。不快な味がする作物、奇妙な生育をした動物たち、そして不可思議な色。
ラヴクラフトのこの手の作品の特徴は、「怪異の存在がヴェールの裏に隠れており、決して正体が明かされはしないこと」「一見逃げ道がありそうなのに、得てしてその逃げ道は選ぶことが出来ない、あるいは逃げ道として成立していないこと」あたりだと思うんですが、この作品でもそれが十分に発揮されています。ホラーとラヴクラフト宇宙観の適度なブレンド具合も良好。
「神殿」(ラヴクラフト全集5巻に収録)
第一次世界大戦中、敵の攻撃を受けて漂流するUボート。ある事件を境に、Uボートは漂流を始め、乗組員は徐々に正気を失っていく。ただ一人確固とした意志を保ち続ける、Uボートの艦長たる主人公は、やがて海底で奇妙な光景を目にする。
怪異の中にも幻想的な、ラヴクラフト作品の中でも美しい描写が特徴の一遍です。「異様な状況の中でも、徹頭徹尾冷静な主人公」と、彼の手記という視点から様々な恐怖が仄めかされる構成が素晴らしい。
ラヴクラフト作品の中でも例外的に、「最後まで正気を失わない、少なくとも最後まで主体的に狂気と対面し続ける」人物が主人公でして、彼の気骨には一種感銘を受けます。個人的には、短めの作品の中では「宇宙からの色」に次いで気に入っている作品。
「アウトサイダー」(ラヴクラフト全集3巻に収録)
廃墟のような広大な城に、たった一人で住む主人公の視点で進む物語。
ただ一度空を見てみたいという一心で、黒い塔をひたすらに上り、城からの脱出を試みる主人公が見たものとは。
ラヴクラフトの最高傑作として挙げる人も多い一作。
エドガー・アラン・ポーの影響を強く受けた、と解説されることの多い作品ですが、私自身は、なによりその「暗い森と、広大な城」「そこから続く尖塔」といった舞台の、その圧倒的な描写に驚かされます。この作品については、いわゆるラヴクラフト宇宙観はそれほど関係がないのですが、頽廃的な中でもどこか悲しいそのエンディングは、通常のホラーがお好きな方にもお勧め出来る作品です。
○長かったり難解だったりで読解には若干努力が必要だが、話自体は面白いラヴクラフト作品
「クトゥルフの呼び声」(ラヴクラフト全集2巻に収録)
大伯父の遺産を整理していた主人公は、ある時奇妙な粘土板と、記事を見つける。その粘土板に描かれた存在の情報を追ううちに、おぞましい事実が徐々に明らかに。
TRPGのタイトルにもなっている、クトゥルフ神話の代名詞的な作品です。ラヴクラフトが「ルルイエ」と「クトゥルフ」という存在を直接、具体的に描き出した、多分唯一の作品でもあります。クトゥルフ神話の原点を追うという意味でラヴクラフトを読むなら、この作品を外すことは出来ないでしょう。
この作品で注目すべきなのは、やはりなんといっても「ルルイエ」の描写だと思います。様々なところでネタになる、「ラヴクラフト的な描写」がこれでもかこれでもかとばかりに前面に打ち出されています。「ああ、この表現ってここが初出だったのか!」と納得すること請け合い。
「時間からの影」(ラヴクラフト全集3巻に収録)
3巻の最後に収録されている長編です。「イースの大いなる種族」や「盲目のもの」など、後々クトゥルフ神話の中でも重要な立ち位置になってくる存在が多く描写される、ラヴクラフト宇宙観の中でも特に重要な一作。
「数年の間、まったくの別人になっていた」教師が主人公。自分を取り戻した後、切れ切れに思い起こされる記憶と悪夢をたどって、彼と仲間たちはオーストラリアの遺跡を探索することになります。その中で彼が見たものとは。
この作品は、何といってもオーストラリアの遺跡探索時の描写と、徐々によみがえっていく主人公の記憶が交錯するシーンが一番の見所です。「恐ろしいエピソードが語られるのだが、一番恐ろしいのはそれ自体ではなくまた別のもの」という、ラヴクラフト得意の手法が用いられる作品でもあります。
物凄い時間スケールで交差するエピソードが、終盤にかたっぱしから回収されていく、その構成の巧みさはSFファンの審美眼にも耐えるものだと思います。ただ、やはり描写が細かくて読みにくい部分は若干あり。
「ダニッチの怪」(ラヴクラフト全集5巻に収録)
マサチューセッツ州のとある頽廃的な村、「ダニッチ(ダンウィッチ)」で起きた怪事件と、その事件にまつわるウィルバー・ウェイトリーについての物語。
上記の「時間からの影」や「狂気の山脈にて」と並んで、ラヴクラフト宇宙観の中心に位置づけられる作品の一つです。これは言ってしまっていいと思うのですが、クトゥルフ神話の中でも中心的な存在として描かれる、「ヨグ=ソトース」の存在が明らかになる作品でもあります。
「ダニッチの怪」や後のランドルフ・カーターものの作品を読んでいると、ラヴクラフトは、クトゥルフよりもむしろヨグ=ソトースを「邪神」的な存在として描いていた、ような節があります。ダーレスは更にそれを発展させて、「クトゥルフ神話」に組み込んだようです。
「ダニッチの怪」についていえば、中盤までウェイトリー家の異様さが語られた後、ヘンリー・アーミテッジ博士が登場してからが物語のクライマックス。アーミテッジ博士を含めた三博士による、ダニッチの捜索と怪異との対峙は必見です。
○読解にかなりの努力が必要だが、クトゥルフもののルーツを追うには抑えておきたいラヴクラフト作品
「狂気の山脈にて」(ラヴクラフト全集4巻に収録)
ラヴクラフト作品の中でも、一、二を争う長さの大長編にして、クトゥルフ神話の直接的なルーツといっても過言ではない重要な作品です。
岩石調査の為に南極を訪れた主人公一行は、二手に分かれた調査中に、高度に進化した生物の痕跡を発見する。世紀の大発見だと興奮する一行だったが、やがて生物の調査を行っていた隊との連絡が途切れてしまう。彼らの捜索に向かった主人公の見たものとは。
南極探検ものとしても成立しそうな程、探検についての描写が詳細で、スケールが大きい作品です。主人公が「狂気山脈」を探索するくだりについては、次に何が見つかるのか?そこに何があるのか?というのを想像して、冒険ものと同質のスリルを味わうことが出来ます。
そんな中、ラヴクラフト宇宙観に基づく存在が明らかにされる、物語終盤の展開は、ラヴクラフト作品屈指の完成度といっても良いと思います。
ただ、とにかく内容が細かく、かつ長い。描写が緻密なだけに、読み通すにはそれなりの時間と根性が必要です。ただ、読み通した時の充実感と面白さは保証しますので、気が向いた方は是非ご一読を。
個人的には南極洞窟の中の巨大ペンギンがお気に入りです。
○sanチェックをしたい初心者にお勧めなラヴクラフト作品
「未知なるカダスを夢に求めて」(ラヴクラフト全集6巻に収録)
ラヴクラフト全集6巻は危険です。上に書いたような作品を一通り読み終わって、更にラヴクラフト世界を味わってみたいと思った人が、最後にたどり着くべき地点です。
いわゆる「ランドルフ・カーターもの」といわれる作品が複数おさまっており、その集大成ともいえるカーターの冒険作品が、この「未知なるカダスを夢に求めて」です。夢の国における危険に次ぐ危険、それらと時には対峙し、時には回避するカーターの大冒険は読み応え満載です。
ただ、大長編なのに章立てが全くなく全部が一続きになっているとか、一人の人物の台詞が数ページにわたって続くとか、その構成は相当エキセントリックになっており、読者に若干のsanチェックを求めます。
「ラヴクラフト宇宙観」にどっぷり漬かった人であれば、「あー!ここでアレが出てきた!」「あー!今度はコレが出てきた!」とキャラクターものめいた楽しみ方をすることも可能ですが、まだ漬かりが浅い人には (;゚д゚) な顔になる可能性が否定できません。心してご一読をお勧めします。「凍てつく荒野のレン」とか「這いよる混沌」といった言葉に親和性の高い方は是非。
あと書けてない作品も相当数ありますが、上記が気に入った人たちは、
・インスマスの影
・チャールズ・ウォードの奇怪な事件
・無名都市
・ダゴン
辺り読んでみるといいと思います!!
ということで、大概長くなりました。
結論として、
ラヴクラフトは初心者向けとはとてもいえないけれど覚悟して読めば超面白いよ!
という一言を結句としたいと思います。
今日書きたいことはそれくらい。
いろいろ調べてて一番びっくりしたのは、ヴァーチャルボーイにインスマウスの館というどまんなかな作品があったことですね。
あれを最初に読んだせいで興味を失った人が相当数いると思われます。俺とか。
国書刊行会とか青心社とかよりメジャーな版元であるという罠。
あと、北極星や流離の王子イラノンなどのダンセイニ風のものも割と読みやすいと思います。