劇場版の大長編ドラえもんには「弱音枠」というものがあり、そこをほぼ毎回スネ夫が担当しています。
以下、無駄に長文なのでお暇な時にどうぞ。
劇場版大長編ドラえもんには、「中盤以降にのび太(あと場合によってはジャイアン、しずか)が覚醒する」という、お定まりの特徴があります。序盤、導入時にはいつも通りのダメのび太であって、ドラえもんのひみつ道具を私欲の為に使ったり、学校やのび太ママのお小言から逃避したりといった行動に走り、それがメインストーリーに流れ込んでいくことも良くある話です。
が、ストーリーがある程度進行し、ドラえもん一行の大ピンチや劇中の友人キャラクターの危機などが迫ると、のび太は周囲のメンバーに率先して、それらピンチに立ち向かっていくことになります。
例えば、「日本誕生」では、さらわれたククル達を助けようと真っ先に周囲を説得するのがのび太であったり、とか。
例えば、「宇宙開拓史」では、コーヤコーヤ星のピンチをジャイアンたちに知らせるも一度は説得に失敗し、自分とドラえもんだけでもロップルたちを助けようとしたり、とか。
例えば、「宇宙英雄記」では、一度は海賊に不覚をとった中、アロンたちやポックル星をなんとしても助けよう、と最初に声を挙げるのがのび太だったり、であるとか。
この時、しずかちゃんは大体の場合積極的にのび太を援護しようという立ち位置ですし、ジャイアンも多くの場合、多少文句を言いつつも友情の為に率先して協力する、といったパターンが専らです。
これは、「普段はダメだけどいざという時には勇気を出すのび太」であるとか、「普段は乱暴だけどいざという時には友情に篤いジャイアン」といったギャップ効果によって、観客に強い印象を残す演出であろうと思われます。これは昔からの演出ではありますが、ここ最近の劇場版を見ていると、
・新・のび太の大魔境
・のび太の宇宙英雄記
・新・のび太の日本誕生
・新・のび太の鉄人兵団
・のび太と奇跡の島
・のび太の人魚大海戦
と、「ひみつ道具博物館」以外のすべてで、若干形を変えながらも上記パターンは継続していましたので、現在でも定番の演出だと言ってしまっていいでしょう。
その際の典型的なパターンはこんな感じになります。
1.のび太やドラえもん、ないし友人たちのピンチが描写される。
2.のび太(ジャイアンである場合もある)が、そのピンチ打破の為に行動に出ることを主張する。例えば敵のアジトに乗り込む、友人たちを救出する、といった内容。
3.スネ夫がそれに対して弱音を吐いて反対する。
4.しずかやジャイアンがのび太に同調する。
5.スネ夫も仕方なく賛同する。
この、
3.スネ夫がそれに対して弱音を吐いて反対する。
という箇所、これが私の考える「弱音枠」です。
我々は通常、この「弱音枠」に「スネ夫の情けなさ」のみを読み取りがちです。
元来スネ夫は、原作・アニメ・劇場版問わず、視聴者の共感や高評価を誘うようなキャラクターではありません。普段はジャイアンの腰ぎんちゃくのような立ち位置に終始し(時には立場が逆転することもあるのですが)、ジャイアンよりも陰湿にのび太をいじめ、自分の家庭が裕福であることを鼻にかけ、ことあるごとに自慢する。
そういった彼がごくナチュラルに精神的弱さを出すことで、視聴者は「ああ、やっぱスネ夫は情けないな」「一方のび太は、普段は情けないけどいざという時は勇気があるな」と印象づけられることになります。
元より、これが製作者側の意図でしょうし、そのように視聴者が感じることはおかしなことではありません。
ただ、こと劇場版ドラえもんに関する限り、「大事な場面で弱音を吐く」というのは、十分に勇気がいることなのではないか、と私は思うのです。
たとえば、「のび太の宇宙英雄記」で、のび太一行(のび太、スネ夫、ジャイアンの三名)は一度宇宙海賊に敗北してしまいます。その後、ドラえもんに救出された後で、その後どうやって反撃するかを相談する中、スネ夫が恒例の弱音を吐き、ポックル星を放っておいて帰ることを主張します。
「普通の子どものぼくたちが宇宙海賊なんかに勝てるわけないじゃないか!」
で、これも恒例の通り、ほっといて帰ることを主張するスネ夫を、ジャイアンやしずか、のび太が勇気ある発言をして、スネ夫も最後には説得される訳なんですが。
これ、冷静に、客観的に考えるとスネ夫の発言100%正しいと思うんですよ。
宇宙海賊に敗北した後ですよ?ドラえもんに救出されてなんとか難を逃れた後だとはいえ、海賊がヌルくなければ本来殺されてても全くおかしくなかった状況の筈です。それなのに、空気に流されるまま「頑張って皆の笑顔を守り抜こう!」とか結論が出るのはどう考えてもおかしい。本来、敗北後には敗北の原因分析と、改めての戦力比較が必要になる筈なのです。
発言としては「冷静な諌言」というよりは泣き言に近かったですが、「一旦立ち止まって考えよう」的な方向の言葉としては、誰かが発言しなくてはいけない言葉だった、といっても良いのではないかと思います。
「宇宙英雄記」の話は典型的なパターンの一つですが、みんなががーっと盛り上がっている中で、一番勇気がいるのは、むしろこういう「総意に逆行する弱気な発言」であったりします。空気に流されてみんなに同調していた方が、少なくともその場では波風が立たない。これは仕事の場でも同じでして、どんな形であろうと「おいちょっと待て」的な発言を提示できる人材は貴重です。
そもそも、スネ夫は元来「空気を読む」キャラクターです。空気を読むと言っても褒められた話ではなく、ジャイアンを上手いことコントロールしたり、大人におべっかを使ったりといった、我田引水の為の空気の読み方なんですが、それでも彼が「その場の空気を上手いこと読んで、自分の思うように状況をコントロールできる」キャラクターの一人であることは疑いがありません。
そんなスネ夫が、ピンチの後の相談シーンで、周囲の「それでもポックル星を助けないと!」という雰囲気を感じ取れていないわけがありません。
それでも。空気を読みながらも、「おいちょっと待てお前ら」とばかりに、場の空気に対するアンチテーゼを提出できる。いってみれば「弱音ぢから」とでもいうべきこのスネ夫の能力を、我々はもう少し評価するべきなのではないかと私は思うのです。
劇の配役や演出的に考えても、「弱音枠」で弱音を吐けるキャラクターは、ほぼスネ夫一人しか存在しません。なにせ、劇の中盤以降、のび太は「適切な弱音を吐ける」キャラクターではなくなってしまいます。ジャイアンはいうに及ばず、しずかちゃんすら劇場版では「その場の空気に逆行する冷静な発言」をしない傾向があります。
それ以外のキャラクターを引き立てるという、演出上の問題だけでも、スネ夫は絶対に必要なキャラクターだと思うのです。我々はスネ夫の重要さをもっと認識するべきなのではないでしょうか。
まあ結果的には、ドラえもんのひみつ道具がチート能力を発揮して事態を打開してしまうケースが殆どなのですが。仕方ないですね。
一応まとめておくと、
・劇場版の定番パターンとして、「みんなが盛り上がる中弱音を吐くスネ夫」というのがあります
・「周りが盛り上がっている中弱音を吐ける」というのは結構勇気がいることです
・弱音を吐ける配役、というもの自体も意外と重要です
・我々はスネ夫を再評価すべき
・けどファミコン版ドラえもんのSTG面のスネ夫は正直あんまり使えないです
・全然関係ないけど日本誕生のしずかちゃんの原始人服は基本的にエロいと思います(二回目)
というどうでもいい感じの結論になるわけです。よかったですね。
今日書きたいことはそれくらい。