ここしばらく感じていた違和感をようやく言葉に出来たので、ちょっと書いてみようかと思います。
私は、ブログが主で、ブロガーが従だと思っていました。今でもそう思っています。
一般的なものであれば、「人があって、創作がある」のかもしれないですが、少なくともブログにおいては、「ブログがあって、ブロガーはそのおまけ」だと思っています。
何故ならインターネットだから。
すいません、この「何故ならインターネットだから」という言葉、私にとっては「これだけで説明が済む」っていうくらい大きな力を持ったマジックワードなんですが、普通の人にとってはそうでないことが予想されるので、もうちょっと補足します。
私は11年「不倒城」を書き続けており、不倒城にそれなりに思い入れを持っています。一番重要なのは「書きたいこと書く」ですが、結果としていろんな人に不倒城を読んでもらえれば嬉しいなーと思っていますし、不倒城の知名度が上がれば嬉しいなーと思っています。(注:この場合不倒城は「レトロゲームブログである不倒城」のことを指しますが、一旦それは置いておきます)
ただ、別にそこに、このブログを書いている「しんざき」という名前がくっついている必要はないのです。このブログを書いているのがしんざきだというのはどうでもいいことであって、何ならしんざさでもシソザキでもなんら問題はなく、極論しんざきと不倒城を結びつけるものが何ひとつなくたって構わないと思っています。
しんざきというネット上の人格は確かに存在しており、それはそれで色んな活動をしていますが、それはケーナ吹きであり、人狼プレイヤーであり、一レトロゲーマーであり、キャベツ太郎ソムリエの名前であって、「不倒城」の筆者である必要は全くない、とでもいうのでしょうか。
言ってみれば、私には間違いなく承認欲求がありますが、その承認欲求は「しんざき」ではなく徹頭徹尾「不倒城」を向いているのです。不倒城には有名であって欲しいですが、「しんざき」が有名になる必要はビタイチないのです。
何故ならインターネットだから。
私が知っているインターネットは、かつて「顔がない世界」でした。
顔がない人たちが、いろんな面白いことを書いて、書いて、書いて、それで私が好きなインターネットが出来上がっていました。そこに書かれたものを誰が書いたのかはさっぱりわかりませんでしたが、けれどそこに書いてある数々の「面白いもの」が、私は好きでした。
インターネット上のテキストは、そのテキスト自体が重要なものであって、そのテキストを「書いた人」が問題になるのは、そのずっとずっとずっと後でした。「え、○○を書いてたのってあなただったの!?」ということが驚きになることはあっても、「××さんが書いた○○」なんて看板が重要になることは稀有なことでした。
それがあまりに自然なことだったから、ブログがあったとして、「ブロガー」が露出する必要なんて全くないんじゃないか、とすら私は思っているのです(現実問題、流石にそれではいろいろと不便過ぎるので、最低限の繋がりは保っていますし、ブログ内でもしんざきを名乗ってはいますが)
「ブロガーのブランドイメージ」という言葉を、私がさっぱり理解出来なかったのは、つまりそういうことなのです。
ブロガーはブログを有名にしたいものなんじゃないの?と私は思っていたのです。ブロガーが、ブログではなく、自分の「イメージ」を作る必要がどこにあるの?と。
ブロガーが、ブログを離れて、ブロガー単品として活動しはじめるに至っては、完全に私の認識と主客が逆転してしまって、漫画全く描かないのに何故か言論人として有名になってる漫画家、みたいなイメージを抱いてしまっていました。すいません誰とは言いませんが。
ただこれ、いい悪いの話ではなく、単に文化の違いなんだと思います。私がかつて「顔がない」インターネットに余りにも馴染みすぎていたのと同じように、「まず顔があって、そしてブログがある」という文化に馴染んでいる人も多いんだろう、とは想像が出来ます。
文化の違いを無理にすり合わせる必要はありませんし、スタンスを無理に変える必要もありません。そういう意味では、「あ、これ文化の違いだ」と気づけたので、私は随分気楽になりました。
私はこれからも不倒城でレトロゲーム記事とそれ以外の記事を書き続けますが、皆様もしよろしければ、それらは「しんざきの記事」ではなくあくまで「不倒城の記事」だと認識頂ければ幸いです。
そして、ずっとずっと未来、いつかどこかで、「え、あれ書いてたのお前だったの!?」という言葉を少しでも聞くことができれば、それは私にとって本望というしかないなあ、とそんな風に思うのです。