2007年06月06日

ゲームブック半里を往く その1 火吹き山のてっぺんで

ゲームブックって、一言で言うと色んな業界のニッチを狙う人々が寄ってたかって作った変異体だったんではあるまいかと思う。

ファミコンだけではカバー出来なかった、「ストーリー性」というニッチ。
小説だけではカバー出来なかった、「ゲーム性」というニッチ。
テーブルトークをやりたいけれど仲間が見つからない、あるいは仲間を見つけられる環境にいない客層を狙ったニッチ。

ローグやWizargryを遊びたいのにPCが買えない人、サラトマやデゼニを遊びたいのに88を持っていない人、そーいった様々な「満ち足りないヒトビト」が集まって、この不思議な文化を発展させていったんではないかと、私はそんな風に思うのだ。

火吹山の魔法使い。1982年、イギリスにて出版。S・ジャクソンとI・リビングストンによって執筆され、後に様々なゲームブックに強烈な影響を与えた「タイタン」世界観の礎となり、以降連綿と続く「ファイティング・ファンタジー」シリーズの記念すべき第一作となった。

日本での発売は1984年、発売元は社会思想社だった筈である。浅羽莢子氏による訳は名訳と言うべきで、以後日本でも様々出版されるゲームブックの、いわば「文法」を形作った。

一応軽く解説。ゲームブックというのは、要は「小説とゲームとテーブルトークRPGを無理やり混ぜ合わせた様なモノ」である。文章は数行から数十行ごとに番号が割り振られており、「○○をするなら××に進む、△△をするなら□□に進む」という形でお話は展開する。敵が出てくれば剣の代わりにダイスで戦う。

歴史の話は、いつも通りWikipediaを参照して頂ければよかろうと思う。

前回も書いた通り私は専ら創元っ子で、社会思想社のファイティング・ファンタジーシリーズにはそこまで馴染んでいないのだが、まずは第一回ということでこの歴史的作品を取り上げてみたい。


・顔のない主人公と、徹底的な二人称。

このゲームブックが「君」と「私(ゲームマスター)」という形式で書かれていなかったら、ゲームブックって文化は今と根本的に変わっていたと思う。

「火吹き山の魔法使い」のストーリーは実にシンプルだ。主人公は立身出世を夢見る旅の若者で、財宝を手に入れる為に悪の魔法使いのいる火吹き山に乗り込んでいく。

道中は実に実に王道、っつーかどこまでもD&Dで、オークは出るわゴブリンも出るわゾンビも出るわヴァンパイアも出るわ、罠はてんこもりでダンジョンは奥深く、三つの鍵を集めないと最後の最後で泣くことになり、しまいには当然の様な顔をしてドラゴンも出てくる。ドラゴンを撃退する為の「魔法の呪文」が用意されている辺りも実に王道だ。古き良き時代の典型的なファンタジー。

そして、このゲームブックの体裁は完全に「テーブルトーク」だ。本は、「あなた」に対する語りかけで全てが進む。その場にいるのは「作者」という名前のゲームマスターとプレイヤー。いわば「一騎打ち」であるテーブルトークの味を、「火吹き山」は十分に伝えきっていた。

豪速球ストレートという感じの「奇をてらわない」本作が初代であったことが、ゲームブックという文化にとっては物凄く大きかった。本作という「基本」をいじることで、後のあらゆるゲームブックは構成されていったのだ。

ちょっと記憶が曖昧だが、確か本家D&Dの方にも、この「火吹き山の魔法使い」をいわば「逆輸入」したシナリオが存在した様な覚えがある。個人製作のものだったかも知れないが、「王道」の一つの証左になるだろう。


・メリケン生まれゲームブックの特徴。

意外に傾向が違ってて面白い。

全体としてみると、「ファイティングファンタジー」シリーズを代表とする洋モノゲームブックには、主人公に「顔が無い」ケースが圧倒的に多いと思う。つまり、主人公は徹頭徹尾「あなた」であり、主人公が作品中で発言すること自体殆どない。

主人公への「なりきり」感を最優先する、いわば「テーブルトーク寄り」ゲームブックがその大部分を占めている筈だ。(後期には色々例外も出てきたが)

その一方で、創元をはじめとする日本発のゲームブックは、「顔がある」主人公がその大部分を占めている様に思う。

キャラクターもの原作つきのゲームブックの存在を差し引いても、例えば「ゼビウス」のポールジョーンズ、ネバーランドのティルトやウルフヘッド。ワルキューレの無名主人公も結構喋るし、ギャランスハートや「紅蓮の騎士」では主人公のイラストまである。

ドルアーガのサブキャラであるメスロンが主人公となった「パンタクル」や「ティーンズパンタクル」は勿論のこと、吟遊詩人が主人公の「展覧会の絵」辺りには言及するまでもないだろう。

こちらは多分、キャラクターとしての「主人公」への感情移入を優先する、いわば「小説寄り」ゲームブックが多数存在する様に思う。

洋ゲーと和ゲーの違い、みたいなものがゲームブック業界でも現れている様でなかなか興味深い。飽くまで一人称視点であるFPSが隆盛した洋ゲー市場と、小説的RPGが隆盛した日本市場の違いみたいなものが、もしかするとこの時代にも既にあったのかも知れない。



と、長くなったので今回は一旦ここまで。次回は、創元のゲームブックの方に話の軸足を移してみたい。


posted by しんざき at 10:47 | Comment(2) | TrackBack(0) | ゲームブック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
これは懐かしい話題! 確かに、洋モノゲームブックはものすげえテーブルトークの匂いが濃厚でしたなあ。ワタシはまずゲームブックから入ったので、この語りかけ感はかなり不思議なものでした。もう判っているな? そう、14へ進め。

…続きを楽しみにお待ちしますです。
Posted by おやじノ介 at 2007年06月07日 00:32
>おやじノ介さん
ありがとうございます。よーやく書き始めました。
創元シリーズになると更に熱が入ると思うので、気長にお待ちください。

>そう、14へ進め。
実は私に関しては、「4に進む」の方が馴染みが深かったり。
Posted by しんざき at 2007年06月07日 01:33
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