以前も似たようなこと書いたんですが。
この論法、観る度に新鮮な不快感に包まれますし本当によくわからないんですが、
相模原市緑区の障害者施設「津久井やまゆり園」で入居者19人が刺殺された事件をめぐり、神奈川県警は障害者への配慮などを理由に被害者の実名公表を拒んだ。戦後最大級の犠牲者を出した殺人事件にもかかわらず、「誰が亡くなったのか」という事実確認に障壁を設け、被害者の足跡や遺族の思いなどを世に伝える機会を奪った形だ。さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。「メディアが実名を報道するかどうかは、警察ではなくメディアが責任を持って判断することだ。当局による恣意(しい)的な情報選別は、都合の悪い情報の隠蔽(いんぺい)にもつながりかねない。『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」と批判している。
遺族が公表を希望しているならともかく、「公表されないことを強く希望」しているわけですよね。
糾弾されるべき対象の情報ですらなく、何の罪もない殺人事件の「被害者」の情報なんですよね。
「『遺族感情』などを理由に、安易に匿名にすることは許されない」なんて言葉がさらっと出てきてますけど、遺族感情以上に優先されなくてはいけないことって一体なんなんでしょうか。「実名報道がされない」ことによって失われるものって、そんな重要なものなんでしょうか。
「社会が悲しみや怒りを共有」って、それ自体何がどう重要なのかよくわからないいい加減なマジックワードですけれど、単に「無抵抗な被害者がこれこれこういう経緯で殺されました」では怒りや悲しみが共有されないんですか。そこに実名が付け加えられることによって、いったい何が新たに共有されるんでしょうか。
今回の件なんて、もし被害者の実名情報が公開されでもしたら、被害者遺族にこころない誹謗中傷がわんさか寄せられるなんてこと、いつも以上に明白なのに、そんな被害者遺族の事情なんてどうでもいいってことなんでしょうか。被害者遺族の生活が破壊されることよりも、実名報道によって共有されるものの方が重要ですか。
この手の「被害者実名報道の是非」の話が出る度に、上記に列挙したような疑問が沸いてきますし、それについて納得できる回答に出会ったことがありません。
今回の事件が、規模的にも戦後最大の事件ということでもあり、非常に痛ましい事件であることについては何の疑いもありません。
ただ、そうであればこそ、せめて「そっとしておいて欲しい」と願う被害者遺族のプライバシーくらい守られるべきなんじゃないかと。
今回のような事件を「防止」するような施策を考えることは非常に難しい気もしますが、仮に「今後の対策」を考えるにしても、そこに被害者の実名情報が一体なぜ必要なのかと。
結局のところ、被害者の実名情報や個々のプライバシー情報が「コンテンツ」として扱われている、というのが現在の実情であって、それが被害者遺族のプライバシーよりも重要だとは私にはどうしても思われない、というのが私の考えなわけです。
今回の事件、事件が発生したのが障害者施設だったということで、普段の報道とだいぶ雰囲気が異なることは間違いないように思います。
それが「障害者差別」だと言われればそうなのかも知れないですが、それならば「他の殺人事件についても被害者や被害者遺族のプライバシーが守られる」という方向で平等にするべきですし、是非今後そのような方向に動いて欲しいと強く願っています。
手前みそですが、以前似たようなテーマで書いた記事は下記の通りです。
今日書きたいことはそれくらいです。
地雷踏んだというか逆鱗に触れたらすみませんが。
ただ、提示論法については、見かける度に「なんでやねん」と思うことは確かです。
まあ、その背後には下世話な読者がいるわけですから、せめて自分はそうならないようにしないといけませんね。
必要なのは被害者の情報ではなく、加害者の情報ではないですか。
非難すべきは被害者を誹謗中傷する奴らであって
それをせずマスコミを規制するのは本末転倒