プラネテスのお話です。既出話かもしれませんが、まあwebに既出はつきものなので勘弁してやってください。
この記事のお品書きは下記のような感じになります。
1.「プラネテス」の紹介とロックスミスさんの登場
2.ロックスミスさんの特殊性
3.ロックスミスさんの「責任」とは何だったのか
4.ロックスミスさんとクヌート王子の比較論
順番にいきましょう。当然ながらネタバレが含まれますので、未読の方はご注意ください。えらい長文なのでお暇な時にでもどうぞ。
1.「プラネテス」の紹介とロックスミスさんの登場
皆さんよくご存知の通り、現在「ヴィンランド・サガ」をアフタヌーンで連載中の幸村誠先生のデビュー作は、この「プラネテス」でした。
「スペースデブリ(宇宙ごみ)の清掃業者」という主人公の立ち位置は、今までのSFと全く違った、いわば「リアルな庶民生活感のある宇宙SF」とでも言うべき独創的な舞台立てを実現し、プラネテスは当初から人気を博しました。幸村先生の圧倒的な描写力も手伝って、新しい「SF漫画」の可能性を切り開いた一作と言っていいと思います。
プラネテスは4巻構成。大雑把に書きますと、1巻は「自分の宇宙船を手に入れることを夢見つつデブリ回収業者として働く」主人公・ハチマキとその仲間たちの日常が描写されるわけですが、2巻以降は話に明確な方向性が出てきます。1巻では「SFサザエさん」であったところ、「木星往還船」とそれにまつわるお話が、話のメインになってくるのです。
で、ロックスミスさんが出てきます。
木星の有人探査プロジェクトと、木星まで一年半で到達する木星往還船「フォン・ブラウン号」。無限のエネルギー源供給への扉を開くプロジェクトに、船乗りとしての実績を渇望しているハチマキも参加を熱望します。そんな中、話の中核にかかわってくるのが、プロジェクトの責任者であるウェルナー・ロックスミス、以下ロックスミスさんです。
このロックスミスさんが、「プラネテス」における屈指の特異なキャラクターであり、時にハチマキ以上の魅力や存在感を持ち、お話全体を牽引する原動力となっていったことは、恐らく論を俟たないでしょう。正直好みの別れるキャラだとは思いますが、この人のことを「プラネテスの裏の主役」と考える人も多かろうと思います。
2.ロックスミスさんの特殊性
ロックスミスさんがどういう人か、というのは、2巻の序盤でいきなり、誤解の与えようもない形で読者に提示されます。
「だーいじょうぶだって 研究施設の二つ三つふっとばしたところで結局私が更迭されることはないよ なぜだと思う?」
「私が 宇宙船以外なにひとつ愛せないという 逸材だからさ」
ロックスミスさんは、木星探査プロジェクトの責任者であると同時に、木星往還船「フォン・ブラウン号」の設計者、建造責任者でもあります。彼は、エンジンの試験の過程で出力を限界まで上げることを指示し、その結果の爆発事故で、300人以上の技術者が命を落とすという大惨事を招いてしまいます。
被害総額は推定2兆ドル。そんな事態を招いたことについての記者会見での、「どのように責任をとるのか」という質問に対する、彼の言葉がこれです。
この表情、幸村先生描写の真骨頂ですよね。開き直っている訳でもない、かといって痛恨の極みという感じでも全くない。ただただ淡々と。彼にとって、宇宙船の完成こそが重要なことであり、その為に必要な犠牲であればそれは「必要なコスト」なのです。
それに対しての報道陣の反応がこれです。
まあ、ある意味しょうがないですよね。彼らにとっては「辞職して当然」とかんがえられるところ、全くその意図なく「次」に言及すらする。開き直って見えるのも致し方無いところかも知れません。
ここでのセリフ群についても、ちょっと後で触れようと思います。
ハチマキのお父さんのゴローさんは、この放送を気に入って「ああいう悪魔みたいな男はいい仕事するぞ」と評し、木星行に参加することを決めます。
正直なところ、この時点では、私はロックスミスさんのことを単に「マッドサイエンティスト的な立ち位置のキャラクター」だと思っていました。自分の目的、宇宙船の完成こそが彼にとって重要なものであって、それ以外の一切は取るに足らないもの。そういうキャラクターは全然珍しくありません。
2巻までの描写だけであれば、ロックスミスさんは「そういうキャラクター」だったかも知れません。ここまでで語られているのは、「いい悪いは別として、ワガママに目標に向かって突っ走るヤツはものすごい」という描写です。
ただ、そうではないんですね。そういう側面がないわけでは勿論ないんですが、少なくともそれだけではない。4巻でのロックスミスさんの描写が、その一例です。
これも同じく、幸村先生の描写がものすごいと思うんですが。エンジン事故の犠牲者の慰霊のあと、遺族の男性が彼に向けて生卵を投げつけるところです。
これ、ロックスミスさんの目は完全に、飛んでくる生卵を捉えているんですよね。けれど避けない。反射的に目を細めながらも、最後まで表情を変えずに生卵を受ける。
その後の台詞がこれです。
「ハハ 今さら私が世間の評判を気にしたって始まらんさ」「それよりも死んだ仲間に船が完成した事を報告できてよかった」
この後の、別の部下(ヤマガタ)の墓参りのシーンもまた色々と味わい深い、作中屈指の名シーンなんですが、とにかく彼が「自分が遺族から憎まれることを当然のこととして、全くそこから逃げようとしていない」「ごく当然に自分の部下たちの死を受け入れ、悼んでいる」ということは間違いありません。
遺族からの非難を一身に受け止めつつも、プロジェクトの責任者でありつづける。その態度は、ある意味非難を自ら集めようとしている風ですらあります。
ここで、彼が考える「責任」とは何だったのか、という話になります。
3.ロックスミスさんの「責任」とは何だったのか
ここでもう一度、記者会見のシーンを見てもらいたいんですが。
「責任とるって言ったら辞職だろうが」
これ、凄く示唆的な台詞だと思うんですよね。
いちいちくだくだ書くまでもなく、でかい失敗に「辞任」「辞職」はつきものです。
責任をとって、降りる。
けど、それって「正しい責任の取り方」なのか?というのは、恐らく幸村先生が提示したかったテーマの一つだと思うんです。
別に「辞職」が「責任の取り方」として間違った選択肢だと、そういうわけではないと思うんです。
実際、失敗が「資質の欠如」の結果としてのものである場合、「じゃあ別の人間が代わりにその職務を」という選択はありなのかも知れません。換えがきく場合であれば、それでも良い。それは自分が遂行する筈だったタスクを放棄することかも知れませんが、同時に自分が得られる筈だった成果、評価を手放すことでもあります。そして勿論、自分が表舞台にたって、遺族の感情を刺激し続けることを避ける選択肢でもある。もちろん「逃げ」ではあるのですが、その「責任の取り方」が間違っているわけでは、多分ない。
ただ、少なくとも、ロックスミスさんにとって、それは「責任の取り方」ではなかった。彼は、「木星往還船を作り、プロジェクトを完遂出来るのは自分だけ」と評価していたし、恐らく周囲や上層部からもそう認識されていた。だから、「事故からも批判からも逃げずに、ただひたすらプロジェクトを完遂する」という道を選んだ。「しなくてはいけないことから逃げない」という選択をした。
敢えて批判を一身に受けている、という側面は間違いなくあるのでしょう。もしかすると、「自分一人が矢面に立つことによって、プロジェクト自体が世間からの批判を受けて潰されることを避ける」という意図すらあったのかも知れません。
彼は、最後までただひたすら、「プロジェクトの責任者」でありつづけるのですね。
そしてロックスミスさんは、実際に「フォン・ブラウン号」を木星に送り届けるのです。
多分「プラネテス」は、ここで、「責任の取り方には二種類ある」ということを提示しているんだと思います。
つまり、「引き下がる責任の取り方」と、「引き下がらない責任の取り方」。放棄する責任の取り方と、掌握し続ける責任の取り方。
どちらが適している、どちらが正しい、間違っているという話ではありません。ただ、両方ある。そして、どちらの道を選ぶことにも大きな困難がある。
少なくとも、ロックスミスさんが何のためらいもなく後者を選択するキャラクターであり、しかも恐らく組織の上層部もそれを容認しており、最終的に全てから逃げずに成果を出した、というところには、我々はロックスミスさんの凄みを感じざるを得ないのだと、私は思うわけです。
マッドサイエンティスト的なキャラクターでありながら、「プロジェクトの責任者」としても特異なキャラクター性を示し続けた。そこが、「プラネテス」という漫画の、ロックスミスさんというキャラクターのすごいところだと。
そんな風に思います。
4.ロックスミスさんとクヌート王子の比較論
ところで。
全然余談になりますが、ロックスミスさんは、「ヴィンランド・サガ」のキャラクターであるクヌート王子と、いくつかの点で通底しています。
クヌート王子は、デーン人の王子であり、当初は全く覇気がなく無口なキャラクターとして描写されていたのですが、あることをきっかけに覚醒し、王となるべく動き始めます。彼もまた、非常に味のあるキャラクターであり、イングランド編では主役級の活躍をします。
ここから先は、完全に「ヴィンランド・サガ」を読んでいらっしゃる方向けのお話なんでご了承ください。
ロックスミスさんとクヌート王子の共通点は、私が考える限り下記のような感じです。
・作品中の指導者的立ち位置である
・目的達成の為に犠牲を出すことを躊躇しない
・批判から逃げようとしない(ヴィンランド・サガ14巻のエルナルの批判など)
・「神」「愛」というものに対して特異なスタンスをもっている
この辺かと思うんですが、特に四点目です。
ロックスミスさんは、「愛」について次のように言っています。
「神が愛だというならば 我々は神になるべきだ さもなくば我々人間はこれから先も永久に…真の愛を知らないままだ」(「プラネテス」4巻)
一方、クヌート王子にはこんな台詞があります。
「神はきっと私を愛で(めで) 御下へ召そうとするだろう その時私は神にこういうのだ 『もはや天の国も試練も要らぬ 我々の楽園は地上にある』とな」(「ヴィンランド・サガ」7巻)
「この地上に楽土を築くというのは神の定めた条理に逆らうということ 神への叛逆だ 奴の定めにしたがっていては人間は幸福になれぬ 愛を失った生き物は苦しむように定められているからだ」(同14巻)
二人とも、「人間はそのままでは愛を手に入れることは出来ないから、神に逆らってでも愛を手に入れるべきだ」という主張をしているんですね。クヌート王子の行動の基本原理にはその主張があります。そして、おそらくロックスミスさんの基本原理にも。
この辺、キャラクターの立ち位置も含めて、まるで引き写しのようなものを感じます。
これは単なる私の推測ですが、恐らく幸村先生の中で、クヌート王子は「ロックスミスの再来」的な位置づけになっているんじゃないかなー、と思ったりします。もしかするとロックスミスさんにも、クヌート王子と同じように、手に入らない「愛」というものに絶望をした経験があったのかも知れません。
そして、クヌート王子はトルフィンとの会話によって若干ながら「救済」されますが、ロックスミスさんは「プラネテス」の作中では最後まで同じ立ち位置、同じ主張のままです。ハチマキは、ロックスミスさんにとっての「トルフィン」になることは出来ませんでした。
もしかすると、クヌート王子、あるいは「ヴィンランド・サガ」には、「形を変えたロックスミスさんの救済」という側面もあるのかも知れません。
と、長々と書いて参りました。
私が書きたいことを一言でまとめると、
「ロックスミスさん超いい味出してるし、プラネテスもヴィンランドサガも超面白いからみんな読もうぜ!」
ということになりますし、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。
今日書きたいことはこれくらいです。
私が印象に残っているのは、事故で亡くなった兄を共同墓地に埋葬しなかった妹との会話です。
最後に「君の愛が彼をとらえたことは一度も無いんだよ」と言い放つ。
あの局面で、それを言うのか?
彼には、事実しかない。情愛が入り込む余地がまるでない。
ここまで徹底すると、逆に清々しさえ感じます。
そう考えると、トルフィンはそれを探し求めているんだろうなと、オルマルは一つ答えを見つけたんだろうと。
二人とも大好きなキャラです。新刊たのしみー。
プラネテスは、アニメの方も面白いですね。