この記事で書きたいことをまとめると、以下のような感じになります。
1.漫画や小説、映画などの創作における「リアルな設定」「考証」「リアリティ」といったものは、要するに視聴者を没入させる為の手段であって、目的ではありません
2.リアリティがどこまで気になるか、言い方を変えるとどこから「嘘っぽく」感じてしまうかというのは、ファールラインの問題であって、ジャンルによりますし人によります
3.嘘っぽく感じようが、リアルに感じようが、それは感覚の違いの話なので、お互い否定しない方が平和だと思います
4.自分の「面白い」「つまらない」という感覚を信じるのが大事ですよね
よろしくお願いいたします。
ということで、大体言いたいことはまとめてしまったので、以下は補足です。
まず最初に、リアリティとは何なのか。辞書的にいうと「真実性」とか「迫真性」とかいうことになるんですが、要するに「いかに本当っぽく思えるか」「いかに現実のように思えるか」というのがリアリティの本義である、筈です。
それが実際に現実である必要は全くなく、「視聴者・読者がそこに現実を感じるかどうか」がリアリティなので、ファンタジーものだろうがSFだろうが「リアリティ」のあるなしという話はついてまわります。ドラゴンボールだろうが、ジョジョだろうが、ウルトラマンだろうが、「リアリティ」論はテーマになり得ます。
リアリティがあれば、読者はその作品に没入出来る。リアリティがなければ、視聴者はその作品に没入出来ない。基本的に、創作の受けとり手は「その作品に没入出来れば出来る程」その作品を楽しむことが出来るので、「リアリティが優れている」作品の方が楽しみやすい傾向があるんですね。
要は、「リアリティがあるかないか」というのは、「その作品に没入してもらう為」の手段であり、尺度です。歴史を忠実に再現しようということが目的の作品でもない限り、リアリティそれ自体は「楽しんでもらう」為の手段であって、別に「リアルそのものを描く」ことは目的ではない、という話なんですね。ここまでは、別に一般的に語ってしまっていいと思います。
で。
漫画やゲームの話をしていると、たまーに「リアリティ」について驚く程感覚が違う人がいて、ちょっとびっくりすることがあります。
例えば、設定上の瑕疵について細かく指摘して、「この作品はダメ」と断言する人。
例えば、ちょっとした人物描写の行き違いについて論じて、「描写が嘘っぽい」と批判する人。
これ、別に「それはダメ」って話じゃないんです。ただ、私があんまり細かいアラや瑕疵に気づかないというか、たとえ気づいても全体として没入出来ればあまり気にならない方なので、正直「なんでそんな細かいこと気にすんのかな?」って感じてしまうことが多かったんですね。ここに、妙なすれちがいがある。
最近気づいたんですが、
・「リアリティ」を損なっていると感じるファールラインというのは、場所も感度も人によって物凄く違っていること
・更に、人によっては、ファールラインを越えた時点で、その作品全体を嘘っぽく感じてしまうこともあるということ
・更に更に、わずかでも「嘘っぽさ」を感じた時点で、作品全体を「つまらない」と感じてしまう人もいるということ
この辺が、その「すれちがい」の原因だと思うんです。
ちょっと前、こんな増田を読みました。
正論です。言われてみたら、そりゃそうですよね。って話なんですがどうもこの、リアリティないセンサーが発達してる人が一定数いてそういった人達は、リアリティないセンサーに反応が出てしまうと急激に映像作品がつまんなく見えてしまうように感じ取れました。騙された側は素直に騙されて、よかったよかったと言うので問題ないんですが騙されなかった人達は「みんな騙されるな!言うほど面白くないぞ!目を覚ませ!これはリアリティがないぞ!!」って言ってしまうんですよね。
これ、凄くいろーーーんな作品に同様のことが言えると思っていまして。
私はゲームが好きなので、ゲームにたとえて話すんですが。例えば昔、「エースコンバット」というゲームについて、やはり「リアリティ」を問題にする人たちが実際にいました。
いわく。戦闘機にこんなにたくさんミサイルが積めるわけがない。いわく。戦闘機がこんな飛び方が出来るわけがない。いわくレーダーが云々、速度が云々、通信が云々。
そういったことを一通り指摘して、エースコンバットというゲームを「駄作」と断定するのが、そういった論の着地点でした。最近は流石にあんまり観なくなりましたが、「1」や「2」の頃は割とよく見る論調だったんです。
いやもう、指摘自体は全然間違いじゃないんですよ。「本物の戦闘機」というものをゴールとするならば、そりゃあエースコンバットはゴールを描写してはいないんです。
ただ、少なくとも私は、別に「本物の戦闘機」なんて求めてないんですよね。ただ、「戦闘機に乗ってる気分」「敵を撃墜している気分」になれればいい。もっといえば面白ければいい。その点、エースコンバットというゲームは、私にとって物凄く「リアリティ」がある作品だったんです。
要は、見ている部分も、求めているものも、問題としている部分も全然違ったんですね。まあ、なかには単に「戦闘機についての知識」を誇示したいだけの人もいたのかも知れませんが、そういった人たちにしても、エースコンバットが「not for me」だったことは間違いない事実でしょう。
これはちょっと極端な例なんですが、漫画でもゲームでもアニメでも映画でも、いろーーーんなジャンルで同じことが起きてるんじゃないかなあ、と。
例えば細かい科学考証なんて気にならない人もいて、けれど気になる人には気になって気になって、気づいた瞬間「こんなことも考証できてないのか、駄作だな」って思ってしまう。細かい人物の設定や感情描写に気づかない人もいて、けれど気になる人には気になって気になって、気づいた瞬間「これ矛盾してるじゃないか、つまんねー」って思ってしまう。
こればっかりは、要はファールラインの問題、「not for me」になってしまうかどうかのしきい値の問題であって、いい、悪いの話ではないんじゃないかと。
ただ、上の増田でも書いてあるんですが、時には「気になる人」が「目を覚ませ!これはリアリティがないぞ!!」と周りに呼びかけ始めてしまって、そこで「気にならない人」との間で衝突や軋轢が発生してしまうこともあるようなんですね。ジャンルによっては戦争になることもありますし、まああまりリアリティのあるなしで喧嘩してもしょーもないと私は思うんです。
「この作品にはリアリティがない!!」と感じて、そう主張するのは、全然問題ないと思うんです。ただ、他の人が感じている「リアリティ」までぶっ壊しにかかるのは、ちょっとどうかと思わないでもないです。別に、「自分が気になることが気になっていない人」にまで、水をぶっかけて回る必要はないんじゃないかな、と。
大事なことは、「自分の感覚を信じること」「けれど他人の感覚は否定しないこと」なのではないか、と。
私自身は、正直いって「細かいことはあまり気にならない人」ですし、それで損をした記憶があまりないので、今後も細かいことは気にしないで作品を享受しようと思っています。そして、「面白い」と思ったら細かいことを気にしないままに「これ面白いぞ!!」と主張します。「つまらない」と思ったらそう主張するかも知れませんが。
けれど、「細かいことが気になる」人の感じ方を否定はしませんし、それはそれで尊重します。ただし、自分が「面白い」と感じたことについては妥協しませんし、たとえ「これはリアリティがないぞ!!」という意見に接しても、それを受けて評価を翻したりもしません。
そういうことも含めて、みんな「自分の感じ方」を主張出来る場所としてブログやってるといいんじゃないかなーとも思うんですが、まあそれは余談。
大体の人はそうしているんじゃないかなあ、と思いもするんですが。水をぶっかけあってプライベート・ライアンの世界になるよりは、そういったスタンスの方が世の中平和なんじゃないかなあ、と思った次第なわけです。
皆が幸せになれることを願ってやみません。
ということで、今日書きたいことはそれくらい。
と思ったのは
白土三平著「サスケ」の忍術解説でした
リアルタイムではなく後追いですが
実際には、乗った時にはリアリティとかどうでもイイんですけどね。
Gガンダムはアリ。
ガンダムSEEDはダメ。
ガルパンは許す。
GATEは殺す。
「シン・ゴジラ」には瞠目。
「君の名は。」は、頑張って脳内補完して、補完出来そうにない多少のアラは、文句付けないから円盤で直そうね、とw
食虫植物の消化液など → メルテッディングパルム
硬質化した角など → リスキニハーデンセイバー
実現可能かとなると難しいが、それでも超進化した生物ならギリギリ実現可能に見えそうな生物的な能力を考えてるそうな。
生物でも「両手から電撃」ならありだけど、「目からビーム」「口から火を噴く」はいくらなんでもない。
某映画の彗星の軌道については、彗星って言っちゃってる時点で太陽の周りをまわる以外の選択肢は無い。太陽無視して方向転換したら、そっちの方が人類史上に残る大ニュースだわ。
それって自然の天体には絶対にありえない動きだもん。おそらくは彗星に偽装した、宇宙人の宇宙船だよ。宇宙戦艦ヤマトに出てたあれだ。
「ズキューン」なんてのは、俺のようなガソリンの味を知っている男から言わせてみれば、てんで笑わせるぜ。