2016年09月27日

大人になるってことは、思ったほど「大人になる」ってことじゃなかった

ちょっととりとめもない話になるかも知れません。


私は子どもの頃、「大人になる」ということについて、「出来上がる」ということなのかな、というイメージをなんとなく持っていました。少なくとも、「積み上げてきたものが、一通り積み上がる」ということではあるんだろう、というイメージを持っていました。


私の周囲にいた大人たちは、皆ある程度以上きちんとしていて、自分を制御出来ていて、自信に満ちていて、私に話す内容も説得力がある。少なくとも、子どもの頃の私にはそう見えていました。彼らは、少なからず「出来上がった」人間に見えました。

私が、かなり幸運な環境にいたということは確かなんでしょう。私の目から見ても、「反面教師」と言えるような大人は殆ど観測出来ませんでした。私はそこまで抑圧されることもありませんでしたし、倫理的におかしいんじゃないか?と思うような行為を見ることも殆どありませんでした。

だから私は、「大人」というもののイメージを、「なんだかすごくしっかりしたものだ」という形で持ち続けることが出来ました。

私は子どもの頃から、要らないことをあれこれ考え、たまには思い悩み、ただ大体はいい加減で、これ以上ないくらい自分に甘く、基本的に怠け者でした。必死だったこともあったような気はしますが、大体の場合、なんだかんだゆるゆると切り抜けてきたように、今となっては思います。


20歳になり、30歳になりました。私は独立して、結婚して、1回転職して、3人の子どもを持って、今では自分が家族を支えなくてはいけない身になりました。


当たり前のことなのかも知れないですが、私の精神は子どもの頃からの地続きで、大きく変わったという気は全くしていません。「大人になった」ということが「出来上がる」ということなのだとしたら、少なくとも主観的には、私は全く「出来上がって」いません。

私は相変わらず、要らないことをあれこれ考え、たまには思い悩み、ただ大体はいい加減で、これ以上ないくらい自分に甘く、基本的に怠け者のままであり続けています。私が、「大人になったなあ」と自分で思えたことは、これまで一度もありません。


ただ、ひとつ、なんとなく分かったのは、多分昔私の周囲にいた大人たちも、程度の差こそあれ、今の私とそんなに違いはしなかったんだろうなあ、ということです。

私の「大人フィルター」とでもいうべきものが強くって、しばらくの間忘れていたけれど、そういえば時には、彼らがしょーもないことを愚痴っていたこともあったような気がする。妙にテンションが低いなーと思ったことも、疲れてるなーと思ったこともあったような気がする。それでも、子どもの目から見れば、彼ら大人は十分以上に大人だったわけですが。


おそらく彼らも、あれこれ思い悩み、時にはいい加減で、怠け者で、会社に行きたくない日もあって、それでも頑張って「子どもの前での大人」をやり続けていたんだろうなあ、と、今となっては思うのです。


大人というのは、「出来上がった人」「積み上がった人」では、多分なかった。いや、中にはそういう大人もいるのかも知れないのですが、どうやらそういう大人ばかりではなかった。


とすると、大人になるというのは結局どういうことだったんだろう。


今でも答えは出ていません。ただ、自分が大人であろうとそうでなかろうと、自分に出来ることだけを真剣にやろう、ということだけは決めています。


子どもに対して真剣に接しよう。
自分で生きる力を身に着けられるように、自分で考える力を身に着けられるように、過干渉でなく、不干渉でなく、出来る接し方をしよう。
出来る範囲で健康に気を付けよう。
家族が食べられる程度に収入を確保し続けよう。


幸いなことに、私の人生の方向性は、守るものを持つ以前よりはずっと単純になりました。今の私は、自分がどっちに進んで行きたいのか、何の疑いもなく確信出来ています。

だから私は、自分が進んで行きたい方向に進み続けようと思っています。

怠け者でありながら、あれこれ思い悩みながら、それでも自分が信じた方向になんとか進んでいく内に、いつか「大人になった」と思えるかも知れない。


そんな風に思う次第なのです。
posted by しんざき at 19:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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