「星をみるひと」とは何だったのかを、ちょっと考えてみたいと思います。長文ですのでお暇な時にどうぞ。
歴史の話から始めさせてください。といっても、そんなややこしい話ではありません。
以前から何度か書いていますが、ファミコンにおけるRPGの歴史は、1986年に始まりました。
1986年2月21日にゼルダの伝説。3月18日にハイドライド・スペシャル。5月27日にドラゴンクエスト。8月1日にワルキューレの冒険。11月6日に銀河伝承。12月19日にディープダンジョン。1986年は、「コンシューマー市場におけるRPG元年」とでもいうべき年でした。
最初はアクションRPGから始まった一筋の流れが、1987年1月26日の「ドラゴンクエストII」で決定的な「王道RPG」の流れになった、というのはまず論を俟たないでしょう。当時のドラクエIIのお化けゲームっぷりは今さら言うまでもなく、ゲーム業界は否応なく「RPGというジャンルへのアプローチ」を考え始めることになりました。開発陣が「ドラクエの次」「確立された王道RPGの次」を模索し始めたであろうことは想像に難くありません。
RPGを作ろう。しかし、「ゼルダ」や「ドラクエ」そのまんまにするわけにもいかない。そしたらどうするか?
一つのアプローチとして、「既存のアクションゲームにRPG要素を付け足す・取り入れてアクションRPGにする」というものがありました。成長要素、メッセージによる情報収集、アイテム要素、謎解き要素。87年では、例えば「アルゴスの戦士」「ドラキュラII」「グーニーズ2」「ボンバーキング」「奇々怪界 怒涛編」辺りがその代表格といっていいと思います。
もうひとつのアプローチとして、夢幻の心臓・ドラクエ型のRPGに対して、システム面・シナリオ面・バランス面などで様々な差異を取り入れて、「別の王道RPG」を作ろうというものがありました。
87年6月12日の「ヘラクレスの栄光」、6月30日の「未来神話ジャーヴァス」9月5日の「ゾイド中央大陸の戦い」、移植作ですが10月13日の「覇邪の封印」辺りが、(成功失敗はともかく)その一つの試みであることは間違いないでしょう。
つまり、1987年は「ゼルダ・ドラクエじゃないRPG」を皆が模索していた年、とすら言えるのではないかと私は考えているのです。
そして1987年の12月に、ゲーム業界は「ファイナルファンタジー」の登場を見ることになるわけですが、その少し前、1987年の10月に、3つの見過ごせないタイトルが、たった5日間の間に集中して世に送り出されました。
私はこれら3作品を、「ドラクエに対する3種類の回答」として捉えています。
10月23日に、タイトーより「ミネルバトンサーガ」。これは、世界観は「王道RPG」でありながら、数々のシステム的な試みを結実させた傑作でした。
10月26日に、ハドソンより「桃太郎伝説」。これは、システムは「ドラゴンクエスト」に近いものでありながら、世界観・シナリオで全く違ったRPGを完成させた、同じく傑作でした。
そして、これらを背景に、1987年10月27日に発売されたのが、まさに「星をみるひと」だった、という話なのです。
「星をみるひと」。RPG。1987年10月27日、ホット・ビィから発売。ホット・ビィは、他に「ザ・ブラックバス」「バズー!魔法世界」「武田信玄」「鋼鉄帝国」などが著名で、「世界観や、細かいところは非常に優れているのに、バランスや仕様に若干難がある」というのが割とどの作品でも共通しています。タイトーの下で「中華大仙」や「インセクターX」も開発していた様です。
まずはゲームの内容の話をしてみましょう。ネタバレについては遠慮なく飛び交いますのでご注意ください。
○「星をみるひと」に見るシステム的な理不尽カタログについて
「星をみるひと」がシステム面に数々の難点を抱えており、これが現在の視点どころか、当時視点ですら理不尽にゲームを遊びにくくしていた、というのは否定の術がない事実です。まずはここに触れないわけにもいきません。
「星をみるひと」ならではの難点は、大きく分けて「UIが全体的に不親切」「戦闘バランスが非常に不安定」「マップ仕様が異常にわかりにくい」の三点だと言っていいでしょう。
・UIが全体的に不親切
→移動速度が全体的に遅い、戦闘でコマンドをキャンセルすることが出来ない、戦闘シーンでHPが10の位より上しか表示されない(50なら「5」と表示される)、ダメージ床やアイテム取得時の演出が非常にわかりにくい、などなど
・戦闘バランスが非常に不安定
→最序盤から絶対に勝てない敵が出てくる、「逃げる」コマンドが存在しない為出会うとゲームオーバー確定(「てれぽーと」を覚えるまでは戦闘から逃げることは出来ない)、一部の武器を装備すると逆にダメージを与えられなくなる(素手はランダムダメージなのでまだ素手の方が若干マシ)、成長バランスが不自然でHPだけ異常に上がりが速い(最終的に主人公のHPは3万近くまで上がる)、それでも「かりう」などの凶悪な攻撃が存在する為ゲームオーバーとは常に紙一重、などなど
・マップ仕様が異常にわかりにくい
→あるマップに入った時と出る時の接続が一致しておらずワープしまくる(基本的にはエリアのスタート地点に戻される)、IDカードで開ける扉ではカードが2枚必要であり1枚しかないとハマる、一部のマップでは不可視のジャンプポイントがあちこちにあり避けないと進めない、マップ上のオブジェクトが一部カモフラージュされていて見えない(有名なのは最初の村だが、他にも色々ある)、ぶれいくで壊せる壁が明示されていない、などなど
上記は難点のごく一部であって、他にも正直色々あります。
特に戦闘バランスについては情け容赦がないレベルでして、最序盤でも安定して勝てる敵は「じゃんく」「ふらっか」のせいぜい二種類くらいで、この二種類以外にエンカウントしたら生き残れるかどうかは運次第、「ふっかつしゃ」や「くらっしゃ」にエンカウントした日には即ゲームオーバー確定、リセット押した方が早いという状態でした。なにせ逃げるコマンドが存在しないので。
最序盤をなんとか切り抜け、ある程度のHPと幾つかのESPを確保した後でも、「かりう」によるびょうき状態など、いついかなる時でもパーティ崩壊の危機はつきまといます。
みさを仲間にする時の複雑怪奇なルート、酸素ぱいぷを見つける場所のわかりにくさ、上述したマップ仕様のわかりにくさなど、厳しいところは枚挙に暇がありません。
ファミマガの「ファミコンロムカセットオールカタログ」ですら「ゲームを進めていくのが非常に辛いゲーム」と評されてしまっているこれらの難点が、後にこのゲームをおもしろおかしくバカにする向きを産んでしまったことは、ある程度やむを得ないこととも言えます。正直、テストプレイによるバランス調整が行われたのかどうかが疑われるレベルです。
「ファミコンロムカセットオールカタログ」の記載。この採点、音楽・オリジナリティは低すぎるし逆に操作性は高すぎる、と思わないでもないんですが、点数が出ているだけでも良しとしましょう。
勿論、これらの難点の中には説明書で説明されているものもありますが、説明されていればいいというものでもなく、コンシューマRPGというジャンル自体の黎明期であったことを考慮に入れても苦しい点は多いです。
ただ、「理不尽さ」という点については、分からないでもないんです。
○ゲームにおける理不尽さと、「PARANOIA」的ディストピアとの関係
「星をみるひと」のストーリーを、説明書から引用してみましょう。
未来のある場所に、「みなみ」という少年がいた。彼には、そこがどこかも自分が誰なのかも分からなかった。しかし、彼を目のかたきにおそいかかるものたちがいる。メカニックなロボット・軍隊であるガードフォース・攻撃本能しかない異様な生物・超能力者狩りをするデスサイキックたちが、彼を見つけるといきなり攻撃してくるのだった。なぜなら彼は超能力者であるから。…………彼らのいる巨大都市“アークシティ”では、その都市の管理を“クルーIII”と呼ばれるコンピュータが行っていた。“クルーIII”は、より完全な都市管理のため居住者の心の中まで干渉していて、わずかでも、都市に有害な心がめばえた居住者に対して絶えず矯正を行っていた。このシステムをマインドコントロールといい、その効力は“クルーIII”自身の存在も忘れさすほど強かった。しかし、ごく一部の人々にはマインドコントロールがきかないのがわかった。そこで“クルーIII”は、その人達を“サイキック”となづけてサイキック狩りをはじめた。サイキックは、捕らえられアークシティに連れ去られた。そこに、取り残された4人の子供がこのゲームの主人公である。
早い話、これ「1984年」とか「すばらしい新世界」、あるいは「PARANOIA」などのディストピアものSFの世界なんですよね。特に「PARANOIA」の影響があるんじゃないかと、私は勝手に思ってるんですが。
ご存知の方も多いと思いますが、「PARANOIA」は1984年に生まれたSFものTRPGの傑作でして、「マザーコンピューターに管理された社会」「コンピューターによる反逆者狩り」などの要素は「星をみるひと」の世界観と共通しています。
「星をみる人」の「クルーIII」の目的は、蓋を開けてみると結局人類の管理・統制ではなかったので、その点PARANOIAとは異なる点も勿論あるんですが。この「PARANOIA」的なディストピアの世界観や理不尽感を、「非ドラクエ化」の手段の一つとしてスタッフが取り入れようとしたんじゃないか、という推測は、時期を考えるとあながち無理筋でもないんじゃないかと考えています。
ディストピア世界観において、人命は時として紙よりも軽いものですし、視聴者はその理不尽さに容赦なく打ちのめされるものです。そこに親切さなどというものは存在せず、主人公は生き残る為に全てを賭けなくてはならないことが専らです。
その上、星をみるひとのシナリオは、「超能力者狩りが行われている世界である」ということを最初から明示しています。当初の戦闘バランスも、「メカニックなロボット・軍隊であるガードフォース・攻撃本能しかない異様な生物・超能力者狩りをするデスサイキックたちが、彼を見つけるといきなり攻撃してくる」というシナリオ通りには違いないんです。(シナリオ通りならいい、という話ではありませんが。。。)
つまり、「星をみるひと」の理不尽さの内2割くらいは、「ディストピアもの」としての「狙った」表現の一環なのではないかと私は考えるのです。(あと8割はテストプレイと調整不足)
上記したとおり、1987年って家庭用RPGの歴史からすれば初期も初期ですからね。そんなド初期に、いきなり「ディストピアものSF」とかいうとんでもないブラックな題材をもってくる、ホット・ビィの企画者がただものでなかったことは間違いないと思います。
ファミコンにおけるSFRPGという試み。この試みは、この数年後、「ラグランジュ・ポイント」という形で一つの到達点を見ることになります。
○「星をみるひと」のBGMの素晴らしさはガチ
上記の理不尽さを考慮した上でも、「世界観・シナリオの独創性」と「BGMの素晴らしさ」という少なくとも二点については、我々は「星をみるひと」をはっきりと評価しなくてはいけません。
「世界が実は巨大な宇宙船の中だった」という設定は、「宇宙の孤児」や「第二の太陽へ」なんかでSF小説では定番のテーマになりかけていましたが、当然ファミコンでやろうとしていたひとなどこの頃誰もいませんでした。
クルーIIIの正体が「イルカとシャチ」という海洋生物であること、彼らとテレパシーで交信することで判明する意外な目的、そして待っているマルチエンディング、とこれらの要素についても、当時基準で言えば「数年早い」と言うべき革新的な内容です。
このゲームの大きな要素として、「テレパシーを使うことによって、普段の台詞とは異なる思考の中身を覗くことが出来る」というものもありまして、それも情報から小ネタに至るまでかなり芸コマです。中には、自分がテレパシーで考えを読まれていることを悟っている人なんかもいるんですよね。ゲーム上必要な情報が明かされることは滅多にないんですが。
そして、あーくCITYで「この世界が巨大な宇宙船の中である」ことが明かされた後の、唐突な宇宙マップに出会った時の衝撃。あーくCITYのコクピットにたどり着いた後の怒涛の展開は、「世界観の見せ方」としては当時十分以上に衝撃的なものだったと思います。
シナリオが独創的であっただけに、上述したようなゲームシステム的なアラが数々あったことは残念という他ありません。同じようなことを考えた人は他にも多いらしく、フリーソフトで「星をみるひと」を遊びやすくした「STAR GAZER」といったリメイク版も存在します。バランスなども十分に改善されていますので、ご興味ある方は是非こちらを触ってみることをお勧めします。私もプレイしましたが、戦闘のテンポの良さ、謎解きの理不尽感改善、展開のサクサク感など、こちらは手放しでお勧め出来る出来です。
一方。「クソゲーの要件は「BGMだけは良い」と言われること」などという言葉もありますが、それを承知の上で断言しますと、「星をみるひと」のBGMの素晴らしさはガチです。
ひとつ動画を挙げさせていただきます。タイトルBGMからパスワード入力BGMだけでも聴いてみてください。
(タイトルBGMは0:11くらいから、パスワード入力BGMは0:54くらいから始まります)
タイトルBGMの、神秘的でありながらどこか不安を煽る印象的なメロディ。パスワードBGMの、透明感のある流麗な雰囲気から、一気に軽快なメロディにジャンプアップする展開などは、今の目から観ても十分「名曲」といっていいBGMなのではないかと思います。
と、ながながと語って参りました。
最後に書きたかったことをまとめておくと、
・星をみるひとには数々のシステム的な難点がある
・が、ファミコンRPG黎明期のこの時期に、「ディストピアものSF」などというダークなテーマを実現しようとしたことは評価されるべきである
・ただ、マップ仕様の意味不明さだけは勘弁して欲しい
・BGMの素晴らしさはガチ
・説明書のあいねは可愛いと思います。
大体これくらいになります。よろしくお願い致します。
今日書きたいことはこれくらいです。
パスワード入力画面の音楽は本当に良かったなあ、文字の判別がつき辛くて入力失敗しやすいから、音楽の良さが救いだった