ちょっと前なんですが、こんな記事を見かけました。
究極超人あ〜る、ご存知ですか?ゆうきまさみ先生が描かれた、いわゆる写真部であるところの「光画部」と、そこに現れたアンドロイド「R・田中一郎」を中心とした高校ドタバタコメディです。サンデーへの掲載が1985年からの3年間なんで、もう30年前の漫画ってことになりますが。
私自身は「究極超人あ〜る」が好きですが、ある作品が面白いかどうかは人それぞれです。そして、「面白くない」と感じたものを無理に面白がる必要はないんじゃねーの、とも私は思います。だから、究極超人あ〜るが面白くない、という話なら全然かまわないと思うんです。
ただ、この方がどうなのかは知りませんが、私の知人でも以前、「究極超人あ〜るの何が面白いのかよくわからん」と言っている人がいたんです。
その人とちょっと話をしまして「あー」と思ったことなんですが、彼、「げんしけんが好きだったらこれも読んどけ」って言われてあ〜るを勧められたらしいんですね。
確かにありましたよね以前。「げんしけん」や「銀の匙」みたいな、緩めのサークルもののルーツとして、究極超人あ〜るが取り上げられた文脈。
それはちょっと「入り方」を間違えたかもな、と私、思ったんです。期待していたものがそこにない、というちょっと不幸な入り方。もしかしたら同じようなルートをたどってしまった人、結構いるんじゃないかと。
確かに、「オタク系サークルの日常をクローズアップした作品」として究極超人あ〜るを考えれば、げんしけんのルーツとして考えてもおかしくはないと思うんです。実際、げんしけんの作中でも、割と最初の方であ〜るのオマージュとおぼしき描写がいくつかありましたよね。
ただ、漫画の立て付けというか、物語の類型としては、げんしけんと究極超人あ〜るって全然違います。正反対に近いと思います。
何故かというと、げんしけんが「日常をクローズアップした群像劇」であるとすれば、究極超人あ〜るは「異邦人ものコメディ」であるからです。
「げんしけん」には勿論様々なキャラクターが登場し、様々な人間模様を繰り広げます。ただ、彼らはほぼ例外なく「作中の日常」にパッケージされた人達、言い方を変えると「(変わったところはあっても)普通の人達」であって、個々に色々なドラマや事情を抱えてはいるものの、それらが作品世界の枠を踏み越えることはありません。「異常」があっても「異質」はない、とでもいうんでしょうか。かつ、げんしけんは「群像劇」であり、だれか一人を中核に一本のストーリーを構成した物語ではありません。途中からはラブコメ的要素もかなり濃くなります。
一方、「究極超人あ〜る」は、R・田中一郎という「異邦人」をクローズアップして、彼が出力する異常性、異質性を物語の中核として話が進む作品です。

1巻におけるあ〜るの登場シーン。学ランの自転車姿で池から飛び出してくる、というのは相当インパクトがある登場の仕方ですよね。
彼は首が抜けますし、首が周りますし、怪力を発揮して鉄格子をあっさり曲げますし、味方コートからバスケのゴールを何十本も連続して決めますし、懐から電源プラグを取り出してお米を炊きます。何故ならアンドロイドだから。
そして、あ〜るの作品中でもそれはきちんと「異常なこと、異質なこと」であり、周囲は(慣れることはあっても)きちんとそれに振り回されます。あ〜るは実にオーソドックスな「異邦人」なのです。
勿論個々のストーリーとしては、さんごやしいちゃん、鳥坂先輩やその他のキャラクターがクローズアップされることもありますし、Rの影が薄いことも勿論あるんですが、基本的なお話の作りは大体Rが何かしらのトラブルの焦点になることを起点に動きますし、Rの産みの親である成原博士は随所随所で滅茶苦茶なトラブルを起こしますし、物語はR・田中一郎が池から登場することに始まり、彼が池から登場するところで終わります。
以前も書きましたが、「異邦人もの漫画」というのはいわゆる異人類型の物語構成を使った漫画でして、勿論いろんな名作があります。オバQしかり、うる星やつらしかり、レベルEしかり、ワッハマンしかり。
定義はというと多分
・ある世界観や文化から隔絶された「異邦人」が主人公、あるいは準主人公といったメインキャラである
・異邦人が生み出す軋轢が、周囲または異邦人自身の戸惑いを生み、それが頻繁に物語の主軸になる
という辺りになるかと思います。特に初期の究極超人あ〜るはピッタリここに当てはまるんですね。中盤以降はあ〜るの影が薄いこともありますが、それでも随所随所で彼は異質性を前面に出しますし、物語の起点になります。
あ〜るは、「自分の異質性で周囲を戸惑わせる」タイプの異邦人です。彼が「周囲との軋轢に戸惑う」描写は、多分作中で1回もない筈です。あ〜るの異質性で周囲がドタバタするのを見て、読者は楽しむ。

ことあるごとに首を引っこ抜かれるあ〜る。関係ないですが、「でかい頭だな君は」のコマは、遠く「機動警察パトレイバー」で、後藤隊長と太田さんの最初の会話としてセルフオマージュされます。
また、基軸がコメディだから当然と言えば当然なんですが、究極超人あ〜るの人間関係の描写はかなりさらっとしてるんですよね。光画部の面々は仲は良いんですが、個々で仲が深まったり逆に仲違いしたり、という描写は滅多にありません。唯一それっぽいのは3巻のしいちゃん光画部離脱の辺りくらいでしょうが、それもすぐ元の鞘に収まります。あ〜るが何を考えてるのかは終始よくわかりませんし、ラブコメ展開も(全くという訳ではないのですが)殆どありません。
その点も、例えばげんしけんが「緩いながらも段々と変遷していく人間関係、人間模様」を一つの重要なエッセンスにしているのとは大きく異なるところで、げんしけん好きな人にあ〜るをお勧めしにくい理由の一つでもあります。
そこから考えると、「げんしけんが好きな人」よりも「オバケのQ太郎が好きな人」の方が、究極超人あ〜るという漫画を楽しめる確率は遥かに高いのではないか、と私は考えるわけなのです。いや、私はどっちも好きですが。
最初に書いた通り、私自身は「究極超人あ〜る」が好きなんですが、内容自体は結構ベタなコメディなんで、好き嫌いは人によって分かれそうな気はします。ベタな学園ドタバタものが好きな人であれば、結構読んで損はしないんじゃないかと思いますので、未読な方はいかがでしょうか。7巻でしたっけ、京都・奈良への修学旅行編とか好きです。
あと大戸島さんごさんは可愛いと思います。
長々書いて参りました。1ミリグラムも新年っぽさがないエントリーでしたが、今更のことなので気にしないことにします。
今日書きたいことはそれくらい。
げんしけんの1巻が出た頃だったか、大学入学の決まった姪に現視研にだけは入るなと差出口の記憶が。マニアぽくても流石受験生、其処迄の情報は入って無かったらしく当惑されましたが。
で、若し勧めるなら、逆に文系硬派の今井哲也のハックス!なんかが良いのではと。(とめはねっ!は好きだけどタッチ成分が濃くて) 然う云えば月スピで映像圏研には手を出すな!って今連載中。 文系サークル物だと何うしても”!”を付け度く成るのかも。
これが、「鳥坂先輩」の悪印象につながってしまい面白さを見いだせなかったそうです。
この意見は、目から鱗だったのですが、そういう風に受け取ってしまう人だと、この作品に限らずこの時代の学園物は受け入れられないかもな、と思いました。
あと、作中でも話題にしてましたが、時事ネタがぼちぼちあるので、この当時を知ってる人と知らない人では根本的に作品に対する理解度が変わってくるのではとも思っています。