例えば私は、かつて、「ある情報の価値は、「誰が発信したか」ではなく、その内容と信頼性で評価されるべきだ」と思っていた。
「情報の評価に際して、発信者の権威なんてものを勘案するべきではない」と思っていた。「だから、発信者の属性情報なしで様々な情報を発信出来るwebは、情報を公平に評価できる場所として理想的だ」と思っていた。「情報を評価するに当たって、発信者の属性情報なんて邪魔なだけだ」とすら思っていたのだ。
他にも色々ある。例えば私は、「webでは、様々な一次ソースに直接アクセスできる人たちが、直接情報を発信することが出来る」「だから、メディアの編集プロセスなしで情報を受発信できるwebは、既存メディア以上の信頼性を獲得出来る筈だ」と信じていた。
こうして考えると、私はそこそこ純粋な「web理想主義者」だったんだ、と思う。かつて、私のような「理想」を単純に信じていた人は、web界隈だけではなくたくさんいたと思う。正直なところ、今でも多少は、上記のような理想を頭のどこかに残している部分はある。
理想と現実は常にぶつかり合うものだし、どこかで妥協点が生まれるものだ。現実が理想と背反したからといって、理想を捨てるべきだ、ということにはならない。理想を保持しつつ中庸を歩く、という選択肢だってある筈だ。
ただ、現時点での話をすれば、私にとっての「web理想主義」はだいぶ揺らいでいる。ともすれば「いや、これは現実性のかけらもない理想だったんじゃないか?」と思ってしまいそうになる程だ。
今の私は、「誰が発信したか」は結局、情報の信頼性を判断する上で不可欠な要素なんじゃないか、と思い始めている。
信頼性の高い情報を流し続けた結果、その人自身の信頼性が上がるとしたら、それは結局権威とそれ程変わらないんじゃないか、と思い始めている。
なんだかんだで、たとえ編集を経たとしても、また時に誤報があったとしても、メディアの編集を経ることによる情報の信頼性向上はwebの比ではないな、と思い始めている。
去年一年間は、かつてない程に、「webにおける理想」と「webにおける現実」がぶつかりあった年だった、と思う。いや、ぶつかり合っていたのはもうずっと前からの話だが、去年程それが強く感じられた年は、少なくとも私にはなかった。
PV目当てに炎上狙いの誤報を流し続けるまとめサイトは一向に淘汰されず、コピペまじりの薄っぺらい情報が大量生産され、しばらく見なかった炎上芸人がいつの間にやらひょっこり復活している。
情報が玉石混交なのは当然だが、程度というものはある。川原が見渡す限り石ばかりでは、玉を見つけるにもなにかしら緊急手段が必要というものではないか?
いや、勿論、その一方で「理想」を体現してくれるような情報に触れなかったわけではないのだ。既存メディアではとても見れないような論証、新聞やテレビでは読めないようなソースに触れることが出来て、これぞweb、という気分になったこともないわけではなかった。ただ、機会としてはそれはどこまでも少数派だ。
抱え込んでいる理想が削れていく過程は、水を持たずに砂漠でじりじりと灼かれる感覚に近い。正直、去年一年間はwebの情報に触れるのがつらかった。個人的な好き嫌いもあり、「ゲーム系迷惑まとめサイト消滅しないかなー」と思いながらwebをやっている時間がかなりあった。別にゲーム系に限らないが。
実際のところ、今の私はまだ、「web理想主義者」でなくなったわけではない。理想を完全に捨ててはいない。
「ある情報の価値は、「誰が発信したか」ではなく、その内容と信頼性で評価されるべきだ」
「情報の評価に際して、発信者の権威なんてものを勘案するべきではない」
「メディアの編集プロセスなしで情報を受発信できるwebは、既存メディア以上の信頼性を獲得出来る筈だ」
その通りだ。その通りであって欲しい。
理想を捨てずに、けれど現実的な道を行こうと思う。そうすることで、少しでも理想に近づくことが出来ればいいなあ、と思っている。
『発信者が誰であるか』が情報の価値を全く担保しない(あるいは価値の担保に占める割合が極めて少ない)のでない限り、この論理は成り立たないのでは?
そして実際に蓋を開けてみれば『情報の価値の担保において、発信者の占める割合が予想以上に大きかった』どころか『情報の価値の大半は発信者によってしか担保されえない』という悲惨な現実が明らかになったという事でしょう。
「これは信頼できる」「できない
を見極めるのは難しいですね
人は自分が信じたいと思ったことを信じる
と云う言葉もありますし
ところで
>しばらく見なかった炎上芸人が
>いつの間にやらひょっこり復活している。
ってだれですかね??
私は論について全く同じことを考えてました。正しい意見は権威ではなくその正しさによって評価されるべきだ。大学教授より中学生が論が正しければそれは認められる、そういう可能性がWebにはあるのではないのか。
しかし私が直面したのは「工作員乙」「お前はどこそこの社員だろう」「なになに信者」あくまで「発信者が誰であるか」に固執して、それが否定する根拠に足り得ると信じて疑わない皆の姿でした。
発信者が誰であるか分からなければ、発言の中身で判断するのではなく、発信者が誰であるか決めつけて仕舞えばいい、という方法論。
よくよく考えればマスコミ批判を始めとする批判のロジックは、発信者が誰であるか、そしてその人物は悪である、だからその話は間違いである、という三段論法です。
芸能人の意見に対して否定する時にまず意見とは関係ないその芸能人の素行を批判したりします。つまり、誰が発信したか、この芸能人、そしてこの芸能人は悪い奴、だからこの意見は正しくない、そう言いたいのでしょう。
私はWebより前、パソコン通信の時代に、社会的肩書をわざわざ名乗るオッサンユーザーがテキトーなことを言う一方で、素晴らしく冷静な論を展開していたユーザーが実は天才的な中学生だったというのを目の当たりにして、「これこそが世界を正しく変えるメディアだ!」と夢見ました。
そして、既存権威の肩書に惑わされずに意見の中身だけで評価されるためには、実名の名乗り禁止・完全匿名制がいいとさえ思っていました。
しかしながら、匿名を許され何も背負わない人間達は非常に醜悪な姿を晒すばかりで、デビルマンばりに「これが!これが人間の正体か!」と絶望しそうになりました。
まあそこまで大袈裟な話でなく単に「ネットは思ったほど社会を変えなかった」だけなのかもしれません・・・