こんな話を読みました。
これ、ガルパンがSFかどうかということ自体は定義論になっちゃうと思うんでここでは触れないんですが、納得感がある部分はありまして。
つまり、
「かつてはガチガチのSFだったものが、他のジャンルに取り込まれ過ぎてSFとして認識されなくなってしまった現象」
というものは確かに、かなり広範にみられるんじゃねえかと思ったんです。
例えば、時をかける少女、ありますよね。2006年にリメイク版がアニメ化されたヤツ。
あれ、元をたどれば原作筒井康隆先生ですし、正真正銘のSF小説に分類されると思うんですが、2007年にロングラン興行になった時、アレを「SFの復権」って受け取った人、いたかな?って話なんです。
少なくとも私の認識では、アレ全く「SF映画」としては扱われてなかったですよね。もう完全に、ジュヴナイル、青春映画、恋愛映画としてのカテゴライズだった。宣伝にも批評にも、SFのエの字もなかった。原作そのまんまの映画化ではないとはいえ、タイムリープっていうテーマは作品の主軸になってるのにですよ?
勿論、元々「製作者がSFとして見せようとしてない」ということではあると思うんです。ただ、それってつまり「タイムリープ」というネタ自体が、特に「SF」というカテゴリーの元でなくても見せられるくらい「身近」なネタになった、ということですよね。
「SFというカテゴリーでなきゃ使えないネタ」「そのネタをメインテーマにした時点で、勝手にSFになってしまうネタ」というものがある、ないしあった、と思います。
けれどそれが、
A.頻繁に使われることで、ネタとして身近になり過ぎてしまった
B.現実世界でも実現された、ないし実現され得る状況になってしまった
といった事情で、必ずしもSFと不可分でなくなってしまった。
だから、「これよく考えるとSFだよな」という作品でも、SFとして認識されない。
多分、こういうことって結構色んなネタで発生してると思うんです。
例えば、かつて「超能力」「サイキック」というものは、SF小説の代表的な題材の一つでした。超能力というもの自体が、理屈づけはされているものの奇想天外なものであって、物語の題材として「超能力」という言葉をつかうとすれば、それはもうSFでやるしかなかったんです。例えば「虎よ、虎よ!」とか、スランとか、スキャナーズとか、SFの古典には超能力が前面に出てくる作品多いですよね。
けど今、テレパスやサイコキネシスなんてお手軽過ぎてその辺のコンビニでも買えちゃいそうなくらい身近な題材ですし、ごく普通の青春小説やらコメディやら、なんならファンタジ−でも普通に出てきます。
多分、「ミュータント」とか「動物の知性化」とか「並行宇宙」「ナノテクノロジー」といった言葉についても、今では「SFと不可分」ではぜーーんぜんなくなってると思います。それを出せばまあSFだよね、というテーマではなくなってしまった。「人格の置換」なんかもかつてはSFの題材だったと思うんですが、「君の名は。」なんて誰もSFとして考えてないですよね。
これが、「A.頻繁に使われることで、ネタとして身近になり過ぎてしまった」の例の一つだと思います。
例えば、かつて「海底二万哩」は正真正銘のヴェルヌのSF小説でした。それは何故かというと、「潜水艦」とか「海底の旅」といったものが別世界、異次元の話であって、「海底の旅」というテーマ自体SFというカテゴリーでないと扱えなかったからです。
けれど今、例えば「沈黙の艦隊」をSF漫画として認識する人は多くない、というか殆どいないでしょう。潜水艦というものは、実際に実現されて、しかもそれなりに身近なものになってしまった。SFではない、現実世界のリアルな物語として受け入れられるテーマになってしまった。ロボットとか、アンドロイドとか、サイボーグといったテーマもこれに準ずるのではないかと。
これは、「B.現実世界でも実現された、ないし実現され得る状況になってしまった」の代表的な例の一つだと思います。
これって多分、「SFでないと出来ないテーマ」というのは日々縮小され続けている、ということを意味してはいますよね。勿論SFで書いてもいいんだけど、別にSFでなくても出来るよな、という。
今「これをやったらほぼSFになるテーマ」ってどんなのがあるでしょう?星間宇宙旅行?サイバーパンク?ディストピアや、コンピューターの反乱は流石にまだSFでしょうか?異星生命との遭遇はぼちぼち怪しいかも知れないですね。
ただ、これ、別に悪いことじゃなくって、「現実がだんだんSFに追いついてきた」と考えると、結構面白い側面もあると思うんですよ。時代が追いついてきた。多分、かつてのSFの巨匠たちはみんな、「いつかホントにこういう世界になれば面白いのになあ」と思いながら作品を書いていた、と思うんです。
近い将来、ガチで宇宙旅行の話を書いてもSFとして認識されなくなりました、とかなったらすげえなあ、と皆さん思いませんか。多分そういうのが、昔からの「SFの醍醐味」っていうべきものなんだと思うんですよ。
今後の「あれ、これはSFだった筈…」という展開を今から楽しみにしているわけです。いや、コンピューターの反乱とかはちょっとノーサンキューですけど。
今日書きたいことはそれくらいです。
時代がSFに追いつくと、SF小説がSFで無くなるのならば……一種のトートロジーになりますね
この場合のSFはつまりは「アップデートに失敗した」分類に含まれるジャンルになってしまったということになるのでしょうね。
そこまでの流れとか実際どうなのかはともかく、ジャンルが看板価値を失ってしまった結果のように思えます。
カテゴリなんて所詮そんなもんですよ
結局創作って何?ってとこまで踏み込んで行く
曰く、ファンタジーに興味ないという学生に好きな作品を聞いてみたら「……それ、ファンタジーじゃね?」となるという
(読んだ後の楽しみ方で、「コレはこうだったからナニナニだ」とかジャンル分けするというのもあるでしょうが)
「お話のジャンル分け」を突き詰めてしまうと、公に分類・整理する側や売り手以外には、どうでも良いものとなってしまうかと。
たとえばチャイナ・ミエヴィルやケン・リュウのような新進気鋭のSF作家の場合、現実に存在した社会的・政治的状況や技術を使ったフィクションを作っているし、sf界の権威ある賞を既に獲得している。古くはアーシェラ・ルグィンの例もある。
sfは「空想の技術を使ったジャンル」ではなく、「現実(リアル)とは異なる現実的(リアリティのある)世界を、自然科学・社会科学的背景から設定して物語るジャンル」だと考えるべきだと思う。
そして「sfと認識されない」云々について言うと、当時から「時をかける少女」は青春小説として読まれていたし、「海底二万里」はドイルやコンラッドの先駆けとなる19世紀的な探検小説として捉えられていた。
そういった文脈で言えば、「沈黙の艦隊」もsfというジャンル定義はできる。認識は人によるだろうが。
もう一つ言うと、「sfの醍醐味」が宇宙ものだというのは間違いじゃないが、英語sfの宇宙ものは大半がスペースオペラであり、ガチの宇宙探索ものがsfの本流であったという時代は一度もない。このあたりは、英語sfの年間ベストを負うんじゃなく、
このあたりは日本語で訳された英語sfの年間ベストを追うんではなく、ブラッドベリやヴォネガット、ラファティ、ルグィンなど英語文学との連続性という観点で見ていくと分かり易いでしょう。