ほんとーーーーーに理解出来ないことが一点あるので、ちょっと追加で書かせて頂ければと思うんですが。
この記事を読みました。
遺族が実名報道をやめて欲しいと、各報道機関に要望したのに、その要望が殆どの報道機関に黙殺されて、今ガンガン実名報道されてますよ、という話です。ちょっと前、報道機関に対して報道の自粛を要請する張り紙を家の前に貼っていた被害者遺族の話も、何故かきっぱり報道されている、ということが起きていました。
加害容疑者の話は一旦おきましょう。私、本来は加害容疑者の実名報道も不要ではないかと思っているんですけど、まあそれは別の問題なんで一旦置いておきます。
皆さんにお聞きしたい、と思ったんです。
実際のところ、被害者の実名って、知りたいですか?
被害者の実名、生い立ちやら人となりやら学生時代の生活やらって、そんなに情報として、コンテンツとして魅力的なものなんでしょうか?皆が「知りたい」と思うものなんでしょうか?
例えば被害者の感情とか、生活が破壊されるとかどうとか、そういう前提を一切無視したとして、「殺人事件被害者の個人情報」って情報として興味深いものですか?
私には、まずこの部分が根本的に理解出来ないのです。それ、知ってどうするんだ?と。
例えば、「何故その事件が発生したか、という分析に被害者の情報が必要」ということであれば、少なくとも私の感覚では、「それ匿名でも報道出来るやないですか」としか思えないのです。「AさんはTwitterでこれこれこういう発言をしていて」という情報で、特に事件分析が妨げられる訳でもないですよね。
以前、相模原殺傷事件の時に出てきた話では、
「誰が亡くなったのか」という事実確認に障壁を設け、被害者の足跡や遺族の思いなどを世に伝える機会を奪った形だ。さらに、「重要なのは被害者一人一人がどう生きてきたかを知って、社会が悲しみや怒りを共有することだ」と指摘する。
これについても、「匿名だと悲しみや怒りを共有できないんですか?」としか思いませんでしたし。
例えば「実名が報道されないと、知り合いが殺されたのかどうかが分からない」みたいな話であれば、「報道を通してしか殺人被害に遭ったかどうか確認出来ない程度の知り合いの安否情報って、遺族の生活より重要なんですか?」としか思いませんでしたし。
例えば「実名がないと、事件の悲惨さが伝わらない」という話であれば、「事件の悲惨さを描写するのに、何故被害者が鈴木さんか田中さんかという情報が必要なんですか?」としか思いませんでしたし。実名がないと悲惨さが伝えられないとしたら、それは伝える方の能力不足でしょ、とすら思います。
結局のところ、これらについて私は、「それは何故遺族感情や遺族の生活よりも優先されるんですか」ということが、本当に、さっぱり理解出来ないのです。
結局、ここまで何度も何度も、遺族の要請や感情を放っておいての実名報道が繰り返されるということは、その情報を「知りたい」と思う人がそれだけ多いということなのでしょう。その情報にそれだけの、報道機関にとってのコンテンツとしての価値があるということなのでしょう。
私には、まず、その「価値」が分からない。被害者がなんという名前だったのか、全く知りたいと思わない。
バイアスがかかっていることは認めます。私は、心情的にだいぶ殺人事件被害者側に肩入れしているので、何か私が認識していなかった理由が提示されたとして、やっぱり「それは何故遺族感情や遺族の生活よりも優先されるんですか」と思うでしょう。出来れば、「皆思った程被害者の実名になんか興味ないよ」という話になってくれればいいなあ、と思います。
ただ、それはそれとして、ここまで同じことが何度も何度も何度も何度も何度も何度も起こるということは、やはりなんだかんだで「殺人事件被害者の実名報道」には何かしらのニーズがあるのだろう、ということも分かります。
ちょっとこれ、もし「メディアの皆さんが思っている程、皆はこの情報を知りたいと思っていなかった」ということであれば、なにかしら報道姿勢の改善につながる話が出来るかも知れないですし。あるいは、私の方の価値判断というか、興味の傾向が根本的にずれているのなら、それはそれでちょっと問題だなーと思ったので、勢いだけでこの記事を書かせて頂いた次第です。
被害者遺族の皆さんに、一刻も早く平穏な生活が戻ることを、心から祈念してやみません。
今日書きたいことはそれくらいです。
以下は以前書いた記事。
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(追記 11/15)
続きを書きました。
もちろんある。万一でも縁者かも知れないから。
WTCが倒壊してテロリストに殺された人々の名前を「もしや」と思った人は必死にチェックしたでしょう。
それともそういう大規模な事件の時はまた別? どこで線引きするのだろう。今回の九人でも「もしや」と思った人は大勢いる。
○○県で事件事故のニュースがあったら、よもや元カノじゃねぇだろうなって頭をちょっとよぎって被害者の名前見たりもする。
尋ねるまでもない、あたりまえの感覚だと思うけど。なぜそんなことに思い至らないのでしょう?逆にふしぎ。
俺がなにか見落としてるのか?
「報道を通してしか殺人被害に遭ったかどうか確認出来ない程度の知り合いの安否情報って、遺族の生活より重要なんですか?」
つまり被害者実名報道に強く反対する派の認識とはこれか。
毎日「大事な」知り合い全部に安否確認しろってか。
いや小学校の殆ど話した覚えもない同級生レベルでも「殺された」となればそれはなるべく知っときたいわ。
偶然にもそのことを知る契機・チャンネルがあらかじめオフられてるべきとは全く思わない。
そんなの野次馬根性だ、というならばだいぶ認知が歪んでると思う。
知らず、プライバシー原理主義みたいなものに骨がらみになっているのだろう。
いわずもがな犯罪被害者実名報道を手放しに支持するわけではない。
しかしいろんなことの兼ね合いのあるナイーブな問題に、いかなる「原理主義」もお呼びでないのは間違いない。
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と、書き込もうとしたらアホが何か言ってるが期せずして答えてるな。
他人の言に何か批判なり意見を加えるなら再反論なり釈明の担保に必ず間に合わせにでも名前つけろよ。わかったか?わからんだろうけど。
なんでお前の、たかが「なるべく知っときたいわ」程度の要求の為に遺族の生活やプライバシーが犠牲にならないといけないの?
実際に遺族が「実名で報道しないで」って言っていてそれを無視したメディアの為に遺族の生活がぐっちゃぐちゃになってるんだけどそれのどこが「原理主義」なの?
お前は普段付き合いもないし直接連絡がこない程度の知り合いの安否をすぐに報道で確認できないと何が困るの?遺族はすげえ困ってるけど。遺族のことなんぞ知らんわ俺の興味と要求を優先しろ、ってこと?
っていうか30年前ならいざ知らず、今の時代ちょっとしたつながりでもfacebookだSNSだで幾らでも個人的に確認出来るだろ。なんでそんな狭い範囲に伝える為に、全国波で実名報道する必要があるんだよアホか。
で、次のは?また別人?だから意見するならあーでもんーでも名前つけろって。そんなに反論されるのが怖いのか。
さて、遺族がどのくらい困るとか代替手段があるとか諸々は犯罪報道のよりよいあり方をについての「トータルな是非論」に関わる要素であり、「被害者の名前を知りたい理由が存在するのですか」「ええ、存在しますよ」には関係ない。
次段は「しんざき氏の考えは一種の原理主義だ」に対する反論か、ならこちらも答えることがある…と思いきや
よく見ればこいつが言ってるのは「遺族の被る不利益を無視しろというのか!?」ということであり、そんな話はしていない。
やっぱバカとは何も議論にならないな。だから名前も別になくていいわけだ。なるほどね
記者はサラリーマン。
自分たちが自粛しても、他者が報道したら、自分が怒られる。売り上げが落ちる。
自分たちが損してまで守らなければならない人権なんて、彼らにはない。
ジャーナリストなんて威張っていても、欲には勝てない。
本当にやるのなら、誘拐事件みたいな報道協定を結ばせるべき。
お隣韓国なんかは犯罪の加害者の実名報道もないというのを見たことがあります。
もし仮に自分の親を殺されたりしたときに実名出して報道してもらうことは十分利益になると思ってるんだ。
ぼくは口頭で人に伝える力が生まれつき弱いからさ。人前で言葉をうまく話せない人間としては、
例えば自分自身が説明しなくちゃならない場面を作らずに、少なくて済むとか、
もう既に「知って貰えている」ことにすごく嬉しいと思うんだよ。
・・・けど、まだ喪に服している「心穏やかでない親族」だっているのは事実で。
【事件の被害者は実名報道が当たり前】のセカイよりも優しくなれるといいよね。
ほしいわけ無いじゃん
実名報道しないことで被害が拡大することがあるとするなら やむを得ないかも・・・
そんなことってあるかなぁ
しかなく、これらを単独で、あるいは混合して行う
ものです。
1:社会的地位の高い人の不幸・不行状を
あげつらって読者視聴者の劣等感を慰める。
2:社会的弱者についての美談を取り上げて
読者視聴者の優越感を喚起する。
他人の不幸は蜜の味、縁者以外には
”愉快な見世物”
として報道するものです。
火事場見物・野次馬根性、弱者に集る人権詐欺
の臭いが酷いので忌避する人も多いでしょう。
極端な話、殺された人は発表のあったAさんではない、と言うような情報が報道を見た人から寄せられる事を想定していると言う事らしいです。
今まで聞いた中では一番合理的な理由かとおもいます。
ただ、私自身は警察から報道機関への発表は必要だけど、それを一般に報道する必要は全くないと思います。
亡くなったことが親族や知人関係から、または警察からの知らせ、もしくは近所の噂などで、自然と伝わって来ないレベルの関係性しかない人の生死は知っても意味ないでしょ。
その人の死に付いて疑わしいことがあるなら(警察が宛にならない時)近しい人や報道機関が調べれば良いし。
どうもこんにちは。
>トータルな是非論はおいといて、知りたい理由が何かあるのか?との問いに一点で答えるなら
もちろんある。万一でも縁者かも知れないから。
「縁者の可能性があるので実名を知っておきたい」というニーズがあるのは理解出来ました。ありがとうございます。
その上で、下記について伺ってみたいのですが、
1.知らせる必要のある縁者がどの程度の人数いるかはケースバイケースだと思いますが、一般的には数十人から数百人というレベルだと思います。
その数十人から数百人に「縁者だと知らせる」為に、数十万人から下手すると数百万人に知らせる可能性のある「報道」という手段をとるのは、聊かならずオーバースペックであり、必然性が薄い気がするのですがその点いかがでしょうか?
また、報道以外のなんらかのクローズな手段で、知人や縁者がなくなったということを知る手段があったとしたら、報道で実名を発表する必要はないということになりますか?
あらゆる事故や事件の被害者一切が匿名の世界って、すごくディストピアでしょ。
事故や被害のことを調べようとしても糸口が無く、検証、調査しようとしても、個人について非常に遠くなる……
全ての被害が記号でしか語られれない世界。
もちろん、被害者のプライバシーを過剰に露わにすることは、責められるべきだが。
ざっと見た感じコメント欄にもなるほどとなる意見もある。
まあこちらはケースごとに判断すべき話かなと。
ただそれ以上の情報、たとえば遺族が公開していない顔写真、卒業文集の内容、事件の本筋に絡まない趣味やSNSの細かい話その他諸々、そういったものは触れる必要がないと思うし、触れちゃいけない部分だろうなと私は思う。
せっかくの蜜が匿名じゃ薄味だ。
…だけじゃなんなので。
捜査機関等が実名を公表するか、それをマスメディアが報道するか、報道するとしてどのように報道するか、はそれぞれ別のこと。
捜査機関が公表することは、そもそも日本では裁判が公開を原則とする以上、マスメディアの問題ではない。
そして公開裁判ということの公益性から考えれば、それをマスメディアが報道することの公益性も全否定は難しい…
…という類の事情を盾にとって理論武装して、嫌がる遺族にマイク突きつけてるわけですな。
報道するにしても遺族の生活と被害者の尊厳を最大限尊重するべきなんだが…(冒頭に戻る)
nrtzさま
>事故や被害のことを調べようとしても糸口が無く、
まあ、これが唯一の公益性でしょうね。
ディストピア云々というか、検証不能となると冤罪が蔓延しかねない、そして冤罪について報道しようとしてもプライバシーが枷になりかねない。
再審無罪になった冤罪事件とか考えると「被害者の実名が報道できない世界」ではおそらく再審請求までも行き着けなかったのではないか。
今回の場合、殺害したという証拠が、犯人の自白しかない。しかも、9人だけではなく、他にも殺害しているのではないかと言われている。まだ謎が多く被害者もいるかもしれず、物的証拠が乏しく、下手すると死刑にもできない状態だからこそ、遺族の希望など無視して、被害者の情報も流し、「その人が歩いてるのを見た」でもなんでもいいが、なんらかの情報が振ってくるかも知れないから、なんだと思ってた
まー卒業文集とか趣味は関係ないと思うので、やっぱりマスコミはゲスとは思うが
○○市在住の14歳の女の子、だけだと同一地域に住む該当する失踪者のいる家が、「あの家の子なんじゃないの」と言われて、ネットなどで勝手に晒される気がする
私がとりあえず是とするような受益に対して既存の「報道」という仕組みが誰かに負わすコストはアンバランスに高すぎるのではないか?
そりゃそうでしょう。その「誰か」が自分になるときを思えば身震いします。勝手なものです。
しかし。これはもう個人の社会観とか人間観とかの範囲の話だと思うので、意を達するまで説明を尽くす気もないんですが…
「知られたくない権利」はそんなに自明か。あるていど強制的に、あるいはうっかり、偶々、社会の情報網に日々自分を暴露され、そこからの悪意や善意の輻射を受けて自分自身が変化させられていくのが人間として生きるってことだと思う。
社会への自分の「露出度」を自分が全て管理できたとして、それは本当によいことなのか?
そして現行の報道を代替するクローズドな伝達手段の可能性、例えば予め登録してある相手にだけ俺の死亡を一斉メールするシステムは、単純にイヤですね。
まあ普通に病院で死んだならそれでもいい。というか誰にも伝わらなくても別にいい。
しかし何かの事故だとかテロだとか、妙な仕方で頓死した場合など、先にも挙げた元同級生とか元カノみたいな微妙な範囲に、伝わるかもしれないし伝わらないかもしれない位が「いい塩梅」と思っています。いわずもがな「だからその方式だけが正しい」ではないが。
情報をとどけたい範囲にばらまくためのいわば副作用でまったく縁もゆかりもない人に知られることはうれしくはないが甘受する。全く関係ないからこそまあいいやと。
いま話題のものに関連する手に入った情報ぜんぶを「とりあえず」垂れ流しているのだろう。
「何かを報じる」事は少なくとも「その情報を取材で獲得する能力」の証明になるけど
「報じない」事が自分たちへの評価や収益につながるとは考えられないので、
被害者の実名とか将棋上手い中学生の昼飯とかを必死になって「とりあえず」報じてる。
中学の文集や昼飯の献立を垂れ流すことは全然別問題だが、そこが混乱した議論になりがち。
本人や家族の痛みは殆どが後者にまつわるものだろう。
名前を伏せる伏せないと、名前を糸口にしたプライバシー曝しを許す許さないということは切り分けられる。
このエントリーの「実名知ってどうする?」というのも前者を入り口として後者の問題にヌルっと続いてるように見える。
「名前は報道するが、文集さらしとかは論外」その間でコンセンサスを探るべきなんじゃないか。
じゃあなんで罪もない人が「社会的制裁」にもなる報道を受けなければいけないのか>遺族。
夫婦別姓、親子別姓がいきわたったうえならまだしもこれじゃ被害者も加害者も否応なしの連座制。コードならマイナンバーで十分のはずだ。
苗字と住所ですべてバレバレなら事件に巻き込まれやすい子供なんか最初からいないほうがよいと子供を産まない、結婚もしない人もいよいよ増えるだろう。マスコミという怖い憲兵がいると家族は親子の聖域ではなくしがらみになる。
マスコミは勝手に私罰を執行している意識があるのかなあ。マスコミの掲げる知る自由、報道の自由ってのは常にプライバシーと衝突する運命だが、プライバシーが軽視されすぎている。
自分は卒業してまもなく同級生がなくなったことを遺族に伏せられ10年ほども知らされなかったけど、いずれにせよ間に合わなかったのならそれでよかった、と思う。
この認識が実名報道反対派とは違うと思う。
犯罪被害者が被っている被害でより防ぎたいのは、やたらと実行力のある野次馬お見舞い攻撃。
悲しみと犯人への怒りで神経が疲弊している時に、善意面してお見舞いと称して会いにくる・電話してくる客の応対。
相手の心理や状況を慮る感覚が欠如している人間だからこそそういう時にやってくるし、そういう手合いだから話しかける内容も相手を労わるより事件内容を根掘り葉掘り聞きたがる内容で更に怒りと悲しみが深くなり身体の具合まで悪くなる
。
そういう連中に知られたくない為の防御策として匿名報道に期待したいのだと思う。
容疑者が「A」だろうが「山田太郎」だろうが「假屋崎竜之進」だろうが第三者には何の影響もないわ
ぶっちゃけ実名報道は覗き趣味以外の何者でもない
思考停止と同調圧力によって日本のコミュニティは不健全にできている、と思うことが度々あります。
質問のフリをした自説開陳にして結論っていうね。ヤフー知恵なんとかあたりによくいるタイプw
ただ殺人の場合は報道回数が多いだけに何度も公表され安すぎるな。