こんな記事を読みました。
日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか
何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。(中略)「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。それでも、それでも、それでも、やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。
えーと、この人の言いたいことを簡単にまとめると、
・古文・漢文というのは暗記ゲームであって、伝統や教養以上の実学的な意味はない
・そんな科目を受験の科目に含めるのは不適当ではないのか
ということだと思います。
これは多分、「古文や漢文って何の役に立つの?」という、よくある疑問に還元出来るのだろうなーと考えます。
そもそもの前提として、「役に立つ/立たない」という軸を勉強する意義に求めることは適当か、という話は勿論あります。
知識は、それを身に着けることそれ自体に意義がある、役立つ役立たないなんて関係ない…そういう人はいますし、そういう姿勢は正しい、尊いものだと思います。
ただ、それを承知の上でも、我々は一度は、きちんと「役立つ/役立たない」という土俵に乗ってあげないといけないと思うんですよ。
以前、こんなことを書きました。
「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す
大体において、小中高で勉強する科目なんて、殆どが「実際にめっちゃ役立ちますよ」という科目ばっかりなんですよ。それは、トレーニングとして役立つということでもありますし、実際社会に出てからめっちゃ使う、というものもあります。それをきちんと言葉にして伝えることは、大人の義務でもあると思うんです。
ということでこの記事では、古文漢文の中でも特に漢文に絞って、「何故漢文学習が必要なのか」ということを書ければと思います。
1.漢文学習はどんな役に立つのか
最初に結論から書いてしまうと、漢文というのは
「伝統や教養を身に着けるついでに、論理読解力の経験がめっちゃ積めるという超お得科目」
です。
教養というものはそれ自体確かに重要であって、しかも更なる教養にアクセス出来るスキルを身に着けることはとてもとても重要です。漢文は、それ自体「次の教養へのアクセスポイント」であり得ます。唐詩選とか十八史略とか、教養抜きにしてもめっちゃ面白いですよね。孫子とか韓非子とか原文で読めるんですよ?超面白くないですか?
けどですね、漢文って決して「教養」だけのツールではなくて、実際にドすげえ教育効果を持っているんですよ。
それは、「極めて短いスパンで、物凄い効率的に「言葉の繋がり」を追っていく練習を積めること」。一種の「読解力ドーピングツール」なんです。この点についてだけ言えば、漢文は明らかに現代文よりも効率がいいと思います。
例えばですね、何がいいかな。論語にしましょうか。
不患人之不己知。患不知人也。
すげえシンプルな一文ですよね。人の己を知らざるを患(うれ)えず、人を知らざるを患うるなり、って読むんですけど。
これだけでも、このたった二行だけでも、「どの言葉とどの言葉が繋がっているのか」「どの字がどの字にかかっているのか」をすごーくちゃんと読まないと読めない、ってこと、分かって頂けるでしょうか?
この「不」って字はどの字にかかるんだ?
「患」は動詞っぽいけど、主語は誰なんだ?
不己知ってのはどういう順番で読むんだ?何を知ってるんだ?何を知らないんだ?
これですね、漢文ってすごい情報の密度が高くって、いちいちきちんと「言葉の繋がり」を考えないと、ぜーーったい文章全体の意味を読み解けないようになっているんです。どの言葉がどこにかかっているのか、細かいレベルまで全部必要になる。
その割に中高くらいのレベルだと凄くロジカルで構造的に堅牢な文章しか問題に出ないし、言ってること自体はシンプルで類推が容易なんで、コツさえわかってくればパッパとロジカルに読めるようになる。ちゃんと慣れることが出来れば、冗談抜きで論語なんて白文で全部すらすら読めるようになります。
この学習効果、結構物凄いと思いますよ。「文章の論理構造を読み解く」って、読解の基本じゃないですか?現代文どころか、英語でも、数学でも、社会でも、理科でも、他のどんな分野でも使っていくスキルですよね。それをすごーーく短いスパンで、ものすごい密度で反復練習出来るんです。
当たり前のことですが、難しいことをするには訓練が必要です。ややこしい言葉を読み解くには、論理構造を読み解く経験値を積まなくてはいけません。その点、「言ってることは簡単なのに、ちゃんと論理構造を読み解く訓練にはなる」のが漢文です。
つまり漢文って、「超短期読解力養成ギプス」として使えるんです。漢文が分かるってことは、イコール「言葉と言葉の繋がりについてきちんと理解している」ってことと同義、と言えるんです。
同じ勉強するなら、学習効率がいい科目をどんどん勉強していくべきですよね?
だから、科目としては本来すごーく重要だと思いますよ、漢文。教養にもなるし読解力のドーピングも出来る。超お得セットだと思いません?
漢文勉強することの直接的なメリットって他にもありまして、
・中国語がかなりの精度で普通に読めるようになる
・熟語の構造が分かって、難しい熟語の意味が推測しやすくなったり、類語や対義語が覚えやすくなる
・日本の古めの言語もある程度スムーズに理解できるようになる
この辺はかなり大きなメリットだと思います。特に3点目とか、法学部なら普通に昔の判例とか、法律文書読むのに使ったりするんじゃないですかね?法律文書なんてただでさえややこしい文章多いし、他の学部ならともかく、法学部だったら普通に漢文馴染むと思うんですが…。
あと、例えば「将来」みたいな熟語について、ああ、これは将に来らんとすの意味だな、みたいなことがナチュラルに分かって内心ドヤァ出来ます。
2.漢文学習の不幸な誤解
ただですね、冒頭増田も不幸な誤解をしてると思うんですけど、世の中、漢文のことを「暗記科目」って思ってる人って何故かすごい多いんですよね。これ、不幸なことだなーと。
確かに、漢文って読めるようになるまでに覚えたほうがいいことってありますよ。句法とか句形とか、不読文字とか特定語彙の解釈とか、まあある程度はですね。
悪いことに、中高程度の漢文だったら、暗記だけでかなりのレベルまで点とれちゃうんですよね。だから、学校教育も、「受験対策としての暗記漢文」みたいな感じになりがちなんだと思うんですけど。
レ点がどうとか一二点がどうとか、本来些末なことっていうか、漢文それ自体に必要なルールじゃないんですけどね。本来は、例えば簡単な白文から見ていって、「なんとなくこういう意味」「なんとなくこういう繋がり」みたいなところから、漢文っていう言語体系、漢文を読む楽しさを徐々に学んでいく、みたいなやり方の方がいいと思うんです。
実際、私が塾で「漢文さっぱり分からん」っていう子を相手する時は、「一回今まで授業でやってたルールは全部忘れよう」って言って、「なんとなく言葉のつながりを想像しながら白文を見ていく」ところから始めていました。それでしばらくすると「あ、漢文って案外難しくないじゃん」ってわかってくれた生徒も割といるんで、時間さえあればそっちの方がいいと思うんですよ。まあ、実際のカリキュラムではそうもいかないんだということは分かるんですが。
あと、「これ三国志に実際出てくる文章だよ!!正史だけど!!!」みたいな授業も、三国志好きな子には結構盛り上がりましたねえ。楽しみながら勉強できるといいんですけどね。
おそらく、冒頭の増田も、「ひたすら暗記する漢文勉強」しかさせてもらえなかったんじゃないかなー、と勝手に想像します。そういう教育自体には、改善の余地なしとは言いません。
ただ、「漢文は不要か必要か」って話に限っていえば、私は「明らかに必要」だと思います。だって効率いいもん。教養にもなるし。
まあ、なにはともあれ、私が言いたいことを簡単にまとめると
・漢文は教養になるうえに読解力のドーピングが出来るお得ツール
・読解力は全科目で重要なので、漢文の学習価値も割とハイレベルだと思う
・その他のメリットも割とある
・けど学校での学習形態には改善の余地もあるかもね
くらいになります。よろしくお願いします。
あ、古文についても色々似たようなことは言えるんですが、まああまりに長くなるので今回はこれくらいにしておきます。
今日書きたいことはそれくらいです。
「必須の受験科目としての要否」
ですがそのへんどうでしょうか
得意な人が選択で得点源にすればいいくらいではないかと思いますが
「文章の論理構造を読み解く」ためには
たとえば因数分解とかの考え方のほうが重要じゃないかと思いますね。抽象化して考えるという。
あげられているメリットに辿り着くまでの前提知識と労力が他の分野に比べると効率が悪い気がします
俺は無勉で現国満点取れてたからやっぱ受験に漢文はいらん
漢文を学んで得られるのは漢文に特化した読解力でしょ。
>・そんな科目を受験の科目に含めるのは不適当ではないのか
違いますよ。元記事よく読んで下さい。「実学的な意味はない」なんて書いてませんよ。
「古文・漢文は役に立つかもしれないけど、それ、受験科目に入れる必要あるの?」って高校生からの質問ですよ。
古典ギリシャ語は役に立ちますけど、古典ギリシャ語は受験科目になってないですよね。
役に立つかどうかと、受験科目にする必要があるかどうかは、全然別の問題ですよ。
古典・漢文の前に、現代文を勉強されたほうが良いのでは。
・政経や日本史世界史、倫理などの社会科目
・化学や物理、生物などの理科科目
これらが選択制になっていますが、古文漢文はほぼ必修となっていて、それに対する反発が元記事なわけです。
(そして逆方向の例として、学ぶ対象として存在するが、試験として扱わないものとして、元記事は家庭科を挙げています)
なので古文漢文の素晴らしさをいかにアピールしようと他の科目との比較の上で優先すべきという論拠が必要なわけです。
「焼きそばパンよりコロッケパンのが売れるだろうからそっちを入荷してほしい」という要望に対して「だってなあ!焼きそばパンは美味しいだろ!焼きそばがあってさ!ソースの味がさあ!」とか主張しても正当性がないと思うのですが。
> 「古文・漢文」を教えるな、とは言わない。ただ、それなら道徳とか家庭科の授業と同じ括りにしろ。「古文・漢文」に学生の人生を左右させるな。
・学校ではそういう教えられ方をしていないということ
・試験で問われるのもそういう能力じゃないということ
ここに尽きるんじゃないかと。
受験勉強程度なら、抽象的、演繹的に考える力が無くても、
暗記のごり押しで何とかなってしまう。
これが知的だろうか?
ゲームで言えば、プレイヤーのウデではなく、
レベルやアイテムで何とかしてしまえる(し、むしろその方が効率的な)ゲームって、
おもしろいか? ってこと。
「教養だから〜」なんて言葉で片付けられるのが勿体ない
実技だけで十分が元記事
漢文役立つよが不倒城
必要だよがあたしの意見
漢文 古文 60超えて、もっとまじめにやっておけばと思います。
やりたくないやつは、結局 怠けであるが、努力した結果(果実)はほしいという へたれですね。
反省、三省して 勉強されたし。
世の中 わからないことだらけの中を模索するのが人生。即断 まさかり人生は破綻の可能性が高いです。
広く3万冊読むと世の中が少しわかると聞いたことがありますが
そうかもしれないと思う次第です。
僕が接した大学教授は、文化勲章賞級の方もいましたが
専門知識ばかりで全くバカでどうしようもなかったです。
自分のバカをよく認識されている尊敬すべき学者も多かったですが。
もともと人格的に優れた方はおり、勉強量の有無とは無関係。
人格的に劣る方は、多いに勉強すべきです。
自分が何も知らないことを悟り、日々 謙虚に生きて行けそうです。
もっとも、こんなもの必要あるか?とすぐ鉞投げつける愚かなネット右翼は、資質的に駄目かもしれません。
人生 反省 三省 謙虚と思いますが。
教養としては必要かもしれませんが、複素数平面内で回転させたり、人工衛星を無限遠に飛ばすための初速度を計算できるようになったり、原子のエネルギー準位について考えることが医学にどう結びつくのか、という思いはあります。
親族の医師も、医者はどっちかというと文系的な学問であり、医者の適性と数学力はあまり関係ないと言ってますし....
論理的な思考力は身につくかもしれませんが。
漢文をラテン語と同じ日本人のルーツを再確認するものだと思っていましたが、留学して現地の白人と話をして考え方が変わりました。
そもそもラテン語は現在義務教育で教えていません。
完全に選択科目になっており、聖書を読むアメリカ人の
中では人気になっております。
そこで漢文ですが、日本の社会に浸透していますか?
読解力を磨けるとおっしゃっておりますが、では
何故読解力が高いはずの日本でKYや早とちりをする
日本の大人が次々生まれているんでしょうか。
漢文を勧めるのであれば、それこそ日本人が漢字を
中国から学んだルーツとして教える方が無難です。
ただしラテン語と違うのはラテン語は聖書としても
使われていますが、日本には漢文で書かれた経典は
ありませんし、茶道や書道でも漢文は教えていません。
つまり完全に「昔から漢文は国語で教えるから」と
伝統の部分が強いです。伝統は確かに大事だと思いますが、
それに明確な理由やメリットがなければただ時間を
無駄に過ごすことです。
それこそ漢文の授業をなくして北京語を教えるのはどうでしょうか。ビジネスや外交にも役に立ちますし、
日本は将来中国の存在を無視してやっていけない時代になります。
中国人留学生も漢詩という漢文に似たものを習いますが
あれも大学で専攻科目になっております。
つまり日本人はとんでもなく見当違いの教育をしているのです。
例えるなら基礎の算数を教えないで、いきなり因数分解を小学校で教えるようなモンですね。