まず最初に、言いたいことをまとめます。
・子どもの声が、「うるさい」と感じる人にとっては騒音になってしまうのは当然のことです
・中には子どもの声を「うるさい」と感じない人もいるかも知れませんが、それは特殊ケースだと考えるべきです
・その上で、子どもの声が公共の場で発生し得るというのもある程度仕方がないことです
・親としては、出来る限り子どもが騒がしくしてしまうことをセーブしたいと思って、そう努力しています
・例外もあるかも知れませんが、大体の親はそうだと思います
・ただ、どうしても限界というものが出てきてしまうケースもありまして、多少のお目こぼしを頂けると大変ありがたいです
・というか大体の方は、多少うるさくても我慢してお目こぼし頂いているように思います。大変ありがとうございます
・極論もあるけれど、皆結構優しいですよ
・世の中「子どもの声を受け入れろ、受け入れないのはおかしい」と言っている騒音許容過激派やら、子どもの声なんか公共の場から一切排除しろという子ども排除過激派ばかりではなく、というかそういう人は本当にごくごく一部なので、あまり議論を突き詰めて極論にしない方がいいと思うんですよ
言いたいことは以上です。よろしくお願いします。
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さて、書きたいことは書き切ってしまったので、あとはざっくばらんにいきます。
インターネット上では、時折育児、特に「子育て世帯が周囲に及ぼす迷惑と、それに対するスタンス」という話がめっちゃ盛り上がることがあります。そのパターンにも色々ありまして、例えばベビーカーを電車の中で使うことの是非とか、定期的に観測出来ますよね。
で、そんな時、割と決まって見られる論法が、「お互いに極端な方向に振った仮想敵を設定すること」でして。
例えば、育児世帯側は、「子どもや育児親の行動を一切許容しない排除論者」を仮想敵にして、その不寛容さを責めたり、不寛容社会を嘆いたり、であるとか。
例えば、非育児世帯側は、「子どもの迷惑行動を一切顧みない馬鹿親」「一方的に寛容さを求める身勝手な育児世帯」を仮想敵にして、育児世帯を断罪したりであるとか。
いや、極端な人、いますよ。確かにいます。そこまで極論に振らんでも、という人もいます。子どもを騒ぎっぱなしにさせて、全く周りの迷惑を顧みない親というのも、私はあんまり観測してませんけどいるこたぁいるんでしょう。
ただですね、サイレントマジョリティじゃないですけど、実際のところ、「極端なケース」というのは全体を見ればごくわずかだからこそ極端なケースだと思うんですよ。
当たり前のことですが、子どもの声というのは高いし通るし、非常にうるさいです。そりゃ勿論、「子どもの声大好き」という人も中にはいますし、子どもがいくら騒いでても気にならないという人もいるんでしょうが、そんなのは一般ケースとして考えるべきケースでは全くありません。
実際に育児を行っている、一人の親として凄く思うのは、「社会の殆どの人達は結構寛容だ」ということです。
親として、勿論なるべく子どもが静かにしていられるように、周りに迷惑をかけないようにと考えて、なるべく注意してはいますけれど、もっと子供が小さな頃とか、やはり電車の中で子どもが大泣きしちゃったり、大きな声を出しちゃったりといったことはありました。子どもを年中引きこもらせるわけにもいきませんから、公共の場での子どもの声を完全に防止、というのはやっぱり難しいんですよ。
ただ、そういう場合も、勿論内心五月蠅いなあと思われる方も多かったと思うんですが、殆どのケースでは皆さんにこやかに対応してくださり、中には子どもに優しい声をかけてくださったり、席を譲ってくださったりということもそりゃもう何度もありました。ありがたい限りとしか言いようがありません。
ただ、これは勿論「そういう風に寛容にあるべきだ」という話ではなく、寛容でいてくれることに感謝しつつそれに甘えないようにしよう、という個人レベルでの気持ちである訳なのですが。実際にご迷惑をかけてしまっている方には、申し訳ないという思いしかありませんし、なるべく改善に向けようと努力は続けていくつもりです。
で、同じように、なるべく頑張っているし、かつ周囲の寛容さに感謝している親って、結構たくさんいると思うんですよ。というかそれが大部分だと思います。
実際、育児世帯として色々と助けて頂いている側としては、「もっと寛容であるべき」だなんてとても言えません。「いや、皆現時点で結構寛容ですよ?」という一言です。
要は、「結局社会を回していくためには、皆がちょっとずつ歩み寄るしか現実的な解答ってないよね」ということでもあるし、「特に突き詰めなくても、社会って結構歩み寄りで回ってると思いますよ?」ということでもあるんですよ。
こういう問題って、突き詰めれば突き詰める程色々と相いれないところが出てきてしまう話であって、基本的には「突き詰めても誰も幸せにならない」案件になることが多い気がしているんですよ。
結局みんな「極端な仮想敵」を設定して議論するけれど、その議論には一体どれだけの意味があるのかな、と。その極端な仮想敵は議論が届くところには存在しないし、流れ弾がばしばし極端じゃない人たちにあたりまくるだけなんですよね。
私としては、育児世帯にしても非育児世帯にしても、極論がバンバン飛び交って、普通に頑張っている子育て世帯のハードルだけがむやみやたらに上がりまくったり、普段から寛容にしてくださっている非子育て世帯の方々が無意味に責められたような気になるのは誰も幸せにならないし、出来たら避けた方がいいんじゃないかなあと思うんです。特に、ネットだと極論ばっかりがむやみに可視化されやすいんで。
端的に言うと、育児関係であんま極端な仮想敵設定するのやめませんか、と。皆結構頑張ってるし、我慢してくれてますよ、と。
勿論、個別に見れば、各論として解決しなくてはいけない問題も色々あるとは思うんですが。こと育児とか子どもの迷惑という話については、総体的には「結局日和った意見が最適解」というケースは結構多いと思いますし、育児日和見主義者として、今後とも日和った意見を積極的に発信していきたいと思う次第なのです。
今日書きたいことはそれくらいです。
子どもが五月蝿いのは当然です。
個人的には子どもが五月蝿いときに、「なぜ静かにしなければいけないか」を説明せず、子どもに物理的な力で圧力をかけたり、キツイ言葉で人格を否定するような親をよく観測するので、そっちの方が心配です
これとは直接的には関係しませんが、少数派のクレームの結果、それに対応してしまうということも実際に起きていますが、これも正解がなく難しい問題です。ただ、それを受けてしまった子供たちはほとんどが理不尽に感じてしまうことだとは思います。