2018年02月12日

レトロゲーム万里を往く その141 ドラゴンクエストIII

少なくとも私にとっては、一番のポイントは「そこに物語がなかったこと」だった、と思うんです。


いや、ちょっと誤解を招きそうな書き方ですね。

ドラクエIII自体に物語性がなかった、という話でなくて、「キャラクターが物語を背負わされていなかった」「だから、そこにちょうどいい「物語許容度」が生まれた」とでもいうんでしょうか。

要するに、ドラクエIIIは妄想の許容度が高かったんです。物語を、ドラマを、自分で作ることが出来た。だから、自分でどんどんお話の細部を想像していける人であれば人である程、ドラクエIIIって魅力的なゲームだったんじゃないか、と思うんです。

例えばドラクエ4は、全キャラクターの造形がちゃんと決まっていたし、個々に色んなストーリーを、人間関係をもっていた。

勿論5は言うまでもない、キャラクターがかなりの細部まで作りこまれた作品だったし、6も事情はそれに近いです。7も8もほぼそれに同様で、唯一9だけはかなり「キャラクターの物語」について想像を膨らませる余地があった。それにしたって、3程「妄想許容度」みたいなものは高くなかった、と思うんです。

3の仲間キャラクターが背負っているものって、唯一主人公である勇者の家族、そしてオルテガの話があるだけで、あとは完全にキャラクター造形が自由でした。名前も変えられるし、主人公の性別だって変えられる。5以降、主人公の性別選べるドラクエって9までないですからね。

勿論、イメージとしてキャラクターの見た目はある程度決まってはいましたが、それにしたってゲーム画面上では全然自由でした。好きなように、「こいつはどんなキャラ」「こいつはどんな背景」という、いわば二次創作的な想像を自分の中で作り上げることが出来たんです。なんだったら、別作品から完全に別のキャラクターの名前をとってきて、そのキャラクターをドラクエ世界で活躍させることだって出来た。

これについては、2だって、勿論1だってかなわない。


つまりドラクエIIIというゲームは、今現在でも、「ドラクエシリーズで最も「自分で物語を作り上げることが出来る」ドラクエだった」ということが言える、と私は思うわけです。




ドラゴンクエストIII。1988年2月10日、エニックスから発売。昨日が、ちょうど発売から30周年ということで、色んな人がドラクエIIIの話をしていました。

正直なところ、ゲーム内容については今更私が付け加えられることなんて何もないと思うので、本記事では「しんざきにとって、ドラクエIIIはなぜ面白かったか」ということだけを書きたいと思います。これにしたって手垢がついた話かもしれないですが、まあそんなこと言ってたら何も書けないし別にいいや、ということにしましょう。

ポイントは主に二つです。

・物語に詰め込むことの出来る、「プレイヤーの想像/創造」の許容度
・世界が広がっていく感覚、ペースの絶妙さ

順番にいきます。



〇物語に詰め込むことの出来る、「プレイヤーの想像/創造」の許容度

今更いちいち言うまでもなく、ドラクエ3にはルイーダの酒場があり、キャラクターメイクが出来ます。主人公も、最低限の設定やビジュアルイメージこそあるものの、ゲーム中では徹頭徹尾「はい/いいえ」しか喋らない、言ってみれば「顔も中身も決められていない」主人公でした。

つまり、ドラクエIIIって「二人称のRPG」だったんです。例えばWizardryとか、あるいはD&Dとかと同様、システムが「あなた」「あなたたち」に対して語りかけるゲーム。主人公は飽くまで「あなた」であって、他の誰かではない。主人公の仲間は「あなたの仲間たち」であって、決まったキャラクターではない。

しかし、ドラクエIIIの世界観、ビジュアルは飽くまで具体的であり、可視的でした。プレイヤーは、主人公と仲間たちが世界を旅して、戦って、探索して、人々と会話して、成長することを自分の目で見ることが出来ました。


この、「見える部分」と「見えない部分」の隙間が、ドラクエIIIってものすごい絶妙だったんですよね。例えばWizardry程「ゼロからすべてを頭の中でくみ上げる」必要はなかった。いやそれだって十分楽しいんですけど、そこまでの広さではなくって、ある程度はゲーム側で補完してくれていた。それに対して、いわば「プラスアルファ」の部分を自分で想像して、補うことが出来た。


例えば、この仲間の武闘家はこういうヤツで、こういう性格。

僧侶はこういうキャラで、こいつと仲がいい。

魔法使いは普段あんまり話さないけれど、打ち解けてくると話が止まらなくなる。


いや、当時は本当に、そういうキャラクターがモニターの中に「いた」んです。会話にしてもイベントにしても、勿論物語にしても、ドラクエIIIは適度に「描かれない部分」「語られない部分」を残しておいてくれて。当時、プレイヤーは、そういう「空白」部分を自分で補いながらゲームを進めることが出来た。

だから、本当にプレイヤーごとに物語があって、仲間同士の会話があって、死闘をくぐった末の絆があったと思うんです。

こういう「自分であれこれ妄想しながら遊ぶ」って、好きな人と、そうでもない人がいます。どちらかというと、ある程度決まったストーリー、物語があって、それを読み解きながら遊ぶ方が好き、という人もいます。

例えばのちの5,6程のドラマではないものの、ドラクエIIIは、そういう人に対する楽しみもちゃんと用意してくれていた。例えばカンダタとか、ヤマタノオロチとか、サマンオサとか。要所要所で、そういう「視聴型」としても楽しめるRPGになっていたんです。

ただ、物語を自分から補いながら遊ぶのが好きな人にとっては、ドラクエIIIって本当にどこまでも深い楽しみ方を提供してくれるゲームだったと思うんですよね。

私にとってのドラクエIIIと、皆さんにとってのドラクエIIIはおそらく全く違うゲームで、けれど全員がドラクエIIIを楽しむことが出来た。だからこそ、ドラクエIIIって、今でも色んな人にとって特別なタイトルであり続けているんじゃないかなあ、と、そんな風に思うわけです。




〇世界が広がっていく感覚、ペースの絶妙さ

これについては以前も書いたんですけど。

ドラクエIIIって、「制約と解放」というバランスの作り方、ペース配分が本当に絶妙でして。「そろそろちょっと窮屈だなー」と思う瞬間に、本当にぶわーーーっと世界が、あるいは行動の余地が広がるんですよ。

例えば、丁度アリアハンを踏破して、ゲームに慣れた頃に現れる誘いの洞窟と、そこを抜けた先にあるロマリア。

ロマリアで手に入る「はがねのつるぎ」と、その時上がる攻撃力の高揚感。

まるで世界が広がったエクスキューズのようなタイミングで習得出来るルーラの便利さ。

ピラミッドで手に入る瞬間、行ける範囲が激増するまほうのかぎ。

苦労に苦労を重ねて手に入れた黒コショウと、ようやく入手できた船。

世界にちりばめられた旅の扉を自由に使うことが出来るようになる、さいごのかぎ。

世界中を巡りに巡って、ついに手に入ったラーミア。


それぞれ、色々大変な思いをして、その直後にその大変さが報われて、そこで世界がいきなり広がるという。ただのレベルデザインの話を始めた、「世界デザイン」「ペースデザイン」とでもいうべきこの展開配分の絶妙さは、おそらくドラクエシリーズ全体を見ても最高峰の部類だと思います。


私自身は、やはりなんといってもファミコン版に馴染んでいるので、その後のゲームボーイ版、SFC版やらのリメイクなんかは、正直ちょっとしっくりこないところもあります。ロマリアからはがねのつるぎなくなっちゃったりしましたしね。

とはいえ、やはり随所随所で世界が広がるペース配分はやっぱり不朽のものでして、その後のドラクエもその路線はずーっと引き継いでいると思うんですよね。これが、私が考える限り、「ドラクエ普遍の味」とでもいうものであって、それが完成したのが多分ドラクエIIIだったんじゃないかなあ、と、そんな風に思うわけなんです。



ということで、ちょっと「私にとってのドラクエIII」について書いてみました。今更の話ではありましたが、皆さんにとってのドラクエIIIはどんなゲームだったでしょうか。


最後に、これももうご存知の方が多いと思うんですが、ちょっと私が好きなサイトの紹介をさせてください。




私が一番好きなのは、勿論私自身のドラクエIII世界なのですが、その次に好きなのがこの方のドラクエIII世界です。「百万ゴールドの男」はこれはこれで、よくこのお話完結させたなーすげーなーと思わずうなってしまう程、また読後感もとても気持ちがいいお話なのですが、掲示板の方でちょくちょく展開されている、ライオットたちの話も好きです。

二次創作がお好きな人はぜひ読んでみていただければ。


ということで、今日書きたいことはそれくらいです。






posted by しんざき at 00:10 | Comment(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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