「星をみるひと」だ。
もう一度言うぞ。「星をみるひと」だ。
いいか、これはガチでいってるんだぞ。少なくとも家庭用ゲームで、かつSF史という観点で言えば、「星をみるひと」よりも重要なタイトルというのは数えるほどしか存在しない。
なぜかというと、コンシューマーゲームに初めて「ハードSFの文法」というものを持ち込んだのが、この「星をみるひと」だからだ。
いいか?「星をみるひと」が発売されたのは1987年10月27日だ。
ゼルダが出たのが86年の2月。ドラクエが出たのが86年の5月で、ドラクエIIが出たのが87年の1月。女神転生が87年の9月で、ミネルバトンサーガが出たのが87年の10月だ。つまり、86年から87年末という、「家庭用RPGの黎明期」に出たタイトルだ、とまでは言っていいだろう。
まあこの時期、PCでは既に「ジーザス」とか「レリクス」とかが出てるんだがそれは一旦置いておいてくれ。家庭用ゲームの話だ。え、レリクスはファミコンでも出てた?知らないぞ、何かの勘違いじゃないのか?
もちろん、「星をみるひと」以前にSFゲーがなかったかというと、そんなことはない。デッドゾーンとか、ガルフォースとか、水晶の龍とか、未来神話ジャーヴァスとか、SFといっていい世界観のゲームはすでに色々とあった。メトロイドだって銀河伝承だってSFだ。単に設定だけの話で言えば、ヴォルガードIIとかマグマックス辺りだって相当ハードな設定だったしな。
あ?水晶の龍は野球拳しか記憶にないだと?馬鹿野郎、あれちゃんと遊ぶとびっくりするくらいちゃんとSFやってるんだよ。アニメーションだってすげえんだぞ。あとユージンがかわいい。
じゃあなんで「星をみるひと」がわざわざSF史に残すべきゲームなのかって?
それは単純だ。星をみるひとは、全てがSFだったからだ。それまでのSFゲーと違って、システム、世界観、ストーリー、バランスから個々のメッセージに至るまで、「星をみるひと」は全てが混じりっけなしのハードSFだった。
例えば、ヴォルガードIIはストーリーや世界設定だけから言えばハードSFと言っていいが、ゲームをやっている間にそれを実感できるタイミングはほぼないだろう?ズィガム・ボルドは超かっこいいし戦っていて燃えるが、ゲーム全てが隈なくSFだ、という訳ではない。
その点で言えばゼビウスもマグマックスもそうだ。ゼビウスは紛れもなくSFだったが、あれはゲームだけでは完結しないんだ。ファードラウトを読んで初めて完全なSFになるんだ。
デッドゾーンはSFだ。だが、あのゲームのシステムは、基本的にはポートピア連続殺人事件と変わらない。なんか知らんが仙人がいきなりおにぎり投げてくるしな。なんなんだろうなアレ。
銀河伝承もゾイドも同じことなんだが、当時のSFゲーというものは、まだまだ「SFのフレーバーを既存のシステムに被せただけ」というものが多かった。そういう意味では、今でもそのレベルのSF度しかないゲームは数多い。別にそれが悪いってわけじゃないし、それだって立派なSFなんだけどな。
「星をみるひと」は違った。星をみるひとは、「ハードSF」という「システム」だった。
「星をみるひと」は、要は「1984年」や「すばらしい新世界」のようなディストピアSFを、本当にファミコンで実現しようとした、いや、「実現してしまった」ゲームだった。
「星をみるひと」のストーリーは、こうだ。
未来のある場所に、「みなみ」という少年がいた。彼には、そこがどこかも自分が誰なのかも分からなかった。しかし、彼を目のかたきにおそいかかるものたちがいる。メカニックなロボット・軍隊であるガードフォース・攻撃本能しかない異様な生物・超能力者狩りをするデスサイキックたちが、彼を見つけるといきなり攻撃してくるのだった。なぜなら彼は超能力者であるから。…………彼らのいる巨大都市“アークシティ”では、その都市の管理を“クルーIII”と呼ばれるコンピュータが行っていた。“クルーIII”は、より完全な都市管理のため居住者の心の中まで干渉していて、わずかでも、都市に有害な心がめばえた居住者に対して絶えず矯正を行っていた。このシステムをマインドコントロールといい、その効力は“クルーIII”自身の存在も忘れさすほど強かった。しかし、ごく一部の人々にはマインドコントロールがきかないのがわかった。そこで“クルーIII”は、その人達を“サイキック”となづけてサイキック狩りをはじめた。サイキックは、捕らえられアークシティに連れ去られた。そこに、取り残された4人の子供がこのゲームの主人公である。
ゲームをやった人ならわかると思うが、「星をみるひと」では、ここで書かれていることが全て再現されている。ガチで全てだ。
・スタート地点直後から情け容赦なく出現する超強力なサイキック狩り(基本的に遭遇すると即ゲームオーバー)
・実際にクルーIIIから隠れている為、プレイヤーからもマップ上で所在が確認出来ないのが最初の村
・どんなに強くなってもハマりがあり得る戦闘バランス
・テレパシーを使っているとわかる、人々の本音とマインドコントロールされている人たち
「星をみるひと」はよくクソバランスといわれる。それ自体を否定はしないが、そのクソバランスのうちの少なくとも2,3割は、開発者が狙って用意したものだと俺は思う。星をみるひとの世界がどこなのかということを考えれば、「スタート地点周辺に弱い敵しかいない」などという状態は不自然極まりない。いつどこでサイキック狩りに遭遇するかわからないし、捕まったら即死につながるのは当然のことだ。
ハードSFというのは、そもそも世界として優しくないんだ。ファンタジーや、フレーバーとしてのSFにしか触れていなかった当時のファミっ子が、「星をみるひと」の世界に目を白黒させるしかなかったのは、当然といえば当然のことだ。まあ、目を白黒させる理由はSF要素以外にも色々あったんだが。
あなたがSF好きで、しかもTRPGに触れている人なら、おそらく「PARANOIA」を知っていることだろう。1984年に出版されたハードSFTRPGだ。PARANOIAは、偏執狂のコンピューターに支配された世界で、コンピューターの理不尽な要求をどうにかこうにか掻い潜らないといけない、というゲームだ。ミッションの目的などは二の次で、プレイヤーは生き残ることに集中しなくてはいけない。というか、ミッションが目的通り解決出来ることは滅多にない。
そして、「PARANOIA」の世界観は、「星をみるひと」にかなり近い。サイキック狩りやマインドコントロール、サイキックが実はミュータントだという設定なんかを併せて考えれば、当時「星をみるひと」が「PARANOIA」を意識していた可能性はかなり高いと俺は思う。勿論、「星をみるひと」のストーリーはそこで終わってはいないわけだが、それは一旦おく。
そして、「PARANOIA」は、単純にゲームとして考えれば理不尽極まりない。プレイヤーは反逆者であり、ミュータントでありながら、それを隠し、仲間たちをコンピューターに売ることによって生き残らなくてはならない。ちょっとでもミスれば「ZAP!ZAP!ZAP!」だ。
そう、「星をみるひと」は、RPGといえば「ドラクエ」や「ゼルダ」だった家庭用ゲーム業界に、いきなり突っ込まれた「PARANOIA」だったんだ。それまで「ぐりとぐら」や「エルマーとりゅう」を読んでいた読者たちに、なんの事前警告もなく伊藤計劃を投げつけるようなものだ。家庭用ゲーム業界に超新星のように現れたハードSFだ。
これが「SF史に残すべきタイトル」でなくてなんなんだ?
誠に残念なことに、「星をみるひと」はちょっと理不尽に振り過ぎた。あるいは、理不尽さをカバーして、ゲームとしても楽しめる程度のマイルドさにチューニングする手順を踏まれていなかった。もちろん、それ以前の問題として色々な側面が粗削り過ぎたのは百も承知だ。
だが、それでも。
「ラスボスを倒して、世界に平和を取り戻す」でもない、「大切な人の仇をとって、故郷に凱旋する」でもない。それまでのRPGの常識を破ったあの最後の展開は、パスワード入力画面のあの余りにも透明感のあるBGMは、間違いなく誰かがどこかに記憶しておくべきものだと。
俺はそう思ったんだ。
4200円返せ
テコ入れか、全MAPが雑誌に掲載されてたので、
試しにやってみっかと。
30分も続けられなかった。
クソゲーと言うか、内容やシステムの評価以前に、
総プレイ時間の幾割かがディスクアクセスという苦行に耐えられなかった。
当時、X1でテープ版のXANADUやる根気があっても、
アレは無理だった。