シロクマ先生から言及頂いていました。
不倒城は基本的にぼっちブログであって、他ブロガーさんと交流させて頂く機会が極めて少ないのですが、お声がけいただけると喜びます。折角なのでお返事を書こうかと思います。
ただ、シロクマ先生もこうおっしゃっている通り、
ここまで書いてみて、ゲームについての一般論をしんざきさんから演繹するのは意味がないような気がしてきた。それよりも、しんざきさんという一人のゲームプレイヤーのゲーム観やゲームモチベーションをもっと伺いたいとか、その異質性の成り立ちを知ってみたい気持ちが湧いてきてしようがない。
おそらく私自身の例はそこそこ特殊例かも知れず、いわゆる「ゲーマー」の中でも一般化しにくいケースかも知れません。それはご承知の上で読んで頂ければと思います。
さて。
前回、この記事では私は、単に「他人のプレイを楽しむというチャネルが自分の中にない」「ゲームは自分にとって「遊び」に近い」「人の遊びを見ても、自分が遊びたくなるだけ」と書きました。これはこれで私の中では正しいのですが、「何故そうなったのか」ということについては、そこまで掘り下げなかったつもりではあります。「楽しめる」理由を掘り下げるのは好きなのですが、「楽しめない」理由を掘り下げてもあまり面白い話にはならなそうな気がした為でもあります。
私には、「自分で遊ぶの楽しいぜ!」「みんなも遊ぼうぜ!」と呼びかける意図はあるのですが、とはいえ「ゲームを観る」楽しさを否定する意図は全くないのです。私に楽しめないとしても、それは飽くまで私だけの話であって、私以外のたくさんの人たちがゲームプレイ動画を楽しむのであれば、それは良いことだと思っています。楽しんでいる人に水をぶっかける意図は全くありません。
その前提の上で敢えて、私個人が「楽しめない理由」を敢えてもうちょっと掘り起こしてみますと、大きく二つの理由があるような気がしてきました。
その内一つは、シロクマ先生もこう書いて頂いている、
この記事にもあるように、しんざきさんは『ダライアス外伝』に心臓を捧げていた時期があり、ハイスコア目指してPDCAサイクルをガンガン回していたという。その最中において、ゲームは自分でやるもの・自分で戦うものという意識が強まっていたことに疑問はない。
それでも、『ダライアス外伝』とそこまで向き合う前後の時期に、ゲーセンなり駄菓子屋なりで仲間やプレイを観戦したり、年上のプレイヤーに憧れたりした時期はなかったのだろうか?
まさにこの話に関係しています。
「スパる」っていう言葉、皆さまご存知でしょうか?かつて、ゲーセンではごく一般的な用語だったのですが、最近はあまり聞かなくなっているような気がします。
要は「他人のプレイをこっそりと観察して、稼ぎや攻略テクニックを学習する(=スパイする)こと」なんですけど、スパイなんて言葉が使われてる通り、昔はこれ、「良くないこと」「道義にもとること」として扱われていたんですよ。つまり、他人からテクニックを盗んで、ライバルを出し抜こうとする行為だと思われていたんですね。
恐らく地域差もあれば店舗ごとの意識の差もあったのだろうとは思うのですが、少なくとも私が認識する限り、私が住んでいた地域って、この「スパる」行為についての警戒感、拒否感がかなり強い地域だったんです。
なるべく人が少ない、「スパられる」心配が少ない時間にプレイする、だとか。スパイ防止の為、店員と仲良くなって閉店後にプレイするだとか、仲間に視線を塞ぐ壁になってもらう、ギャラリーを排除してもらうなんて話すら、全然珍しくない文化圏でした。
時には、スパったスパらなかったで喧嘩が起きた、ゲーセン出入り禁止になったなんて話も聞いたことがあります。実際目撃した訳じゃないんで、ホントかどうかは知らないですけどね。
「得点稼ぎくらいでアホらしい」と思う人も、恐らくいるのではないでしょうか?ただ、少なくとも昔のスコアラー界隈では、それは全然アホらしいことでもなんでもない、真剣な、熾烈な情報戦だったんですよ。
当たり前ですが、youtubeもなければ、スーパープレイのビデオが簡単にみられるわけでもなかった時代の話です。
正直に書いてしまえば、私もあの手この手で他人のプレイを「スパった」ことはあります。わざわざ普段とは違うゲーセンに遠征して、見てない振りをしてこっそりと他人のプレイを観察したこともあれば、重要な稼ぎのヒントをその過程で見つけ出したこともありました。
ただ、それは少なくとも私にとっては、どこまでも「後ろめたい」行為であったし、道義にもとることをやっているなーという自覚もあったのです。
それは、何をどうひっくり返しても「楽しい」行為ではなかった。本来ならやってはいけないことを、勝つために必要だから仕方なくやっている。そういう意識でした。
一時期、ダライアス外伝は本当に、私の生活の全てといっても差し支えがないくらいのゲームタイトルでした。ただ、それだけに、この時期ダライアス外伝に絡んでおこなった行為、努力、工夫は、いい面も悪い面も含めて、その後もずっと尾を引くくらいの影響を私の中に残しているようなのです。
あれ以来、「他人のゲームプレイを観る」という行為が「楽しい」カテゴリーから外れてしまった、ある意味では「後ろめたい」行為にすら直結してしまった、という側面は、よくよく考えてみるとそこそこありそうな気がします。少なくとも、スーパープレイの動画を見る時に、私がどこかで「あー昔ダラ外でスパったなー」という記憶を思い出してしまうことは間違いのない事実です。一種のトラウマかも知れません。
もしかすると確かに、スコアのことなど何も気にしなかった子どもの頃、他人のプレイを目を輝かせて見ていた時期が私にもあったかも知れません。ただ、その感覚を塗りつぶすくらい、ダラ外に血道を上げた時期が自分の中で強烈だった、ということも本当なのだろうと思います。
そういう点では、例えば私が子どものゲームプレイを眺めることを「ゲーム観戦というよりは子ども観察」というのも、ある意味では自分をごまかしているのかも知れません。私は長男とゲームの話をするのが好きですし、時には長男のゲームプレイ内容を興味深く追いかけることもありますが、それを「子ども観察」とわざわざ換言するというのは、「ゲーム観戦ということにしたくないから」と無意識で思っているから、という可能性もあります。まあ、自分ではそこまで大げさな話ではないつもりではありますが…
で、シロクマ先生の個別の疑問にお答えすると、
上掲リンク先を読む限り、しんざきさんが『ダライアス外伝』をやり込んでいたゲーセンは、ハイスコア狙いがそれほど盛んではなかったけれども絶無でもないように読めた。絶無でないなら、ゲーセンで仲間ができた可能性や、巧いプレイヤーのプレイに見惚れる可能性はあったかもしれない。
上記のような次第でして、「ゲーセンにはハイスコア仲間もいればライバルもいたが、お互いのプレイを観るのはマナーとして意図的に避けていた」というのが正解です。お互いのスコアは、ランキング画面でスコアネームだけで確認することが常でした。それはそれで結構楽しい人間関係ではありました。
それとも、しんざきさんは他者に全く見向きもせず、非常にストイックにゲームをプレイしていたのかもしれないし、そこまでストイックになれなければ、有名店でない場所で『ダライアス外伝』で全一を獲ることなど、不可能だったのだろうか?
他人のプレイには非常に興味がありましたし、情報収集はむしろ積極的に行っていました。有名店でない店で、有名スコアラーに人脈がある訳でもない身としては、そうでもしなければ全一なんて無理だったろうなあ、と思います。
ただ、上記とはまた全然違うレベルの話として、私がただただ単純にゲームが好きであること、そして特に「自分が遊ぶ」ということにこそゲームの楽しさを強く強く見出していること、そこは先日の記事に書いた通りでして、それ以上の話ではありません。私は単に、ゲームを遊ぶのが好きなのです。動画を見る時間があったらゲームを遊びたくなるのです。
シロクマ先生がおっしゃるところの、「ゲームはプレイしてナンボ」精神は今後とも強く強く保持していきたい、出来れば回りにもそれを広めていきたいと。そう考える次第です。
ところで。
上の方で私は、「大きく二つの理由がある」と書きました。これ以降はもう完全に、ゲームすらあんまり関係ない個人的な事情なんですが、私コンテンツとしての「声」が実は苦手なんです。。。
これはなんでなのかよく分からないんですが、動画だろうがテレビ番組だろうがアニメだろうが劇だろうが、「声が出る視聴コンテンツ」ってそれだけでちょっと苦手で、例えばゲームでもオフに出来るボイスは必ずオフにしちゃうんですよ。アニメがあんまり楽しめない理由も大部分がそれです。
得意か苦手かっていうと苦手、っていうだけで、摂取出来ないって程じゃないので、例えば子どもたちを連れてアニメ映画観に行ったりすることもあるんですが。「実況動画」というカテゴリについて言うと多分それも楽しめない原因の一つで、撮影主さんの声が全く入っていないプレイ動画でないとそもそもあんまり観れなかったりします。
この原因は本当に謎なんですが、もしかすると下記のような話が関係してるのかも知れないなーとはなんとなく思います。
ただまあ、これは余談です。
ということで、今日書きたいことはそれくらいです。
音ゲーだと譜面を予習するという意味で他人のプレーや動画を観ることにあまり抵抗がないように一音ゲーマーは感じます。
もっと言うと曲を聴くためだったり譜面の難しさをネタに楽しむのが目当てだったりすることもありますが……
むしろギャラリー背負うのは上級プレイヤーの名誉でしたね。
全国的にはどうなんでしょう?