ちょっと一人語りをする。
昔住んでいた家の近所に、「キャビン」という名前のゲーセンがあった。
キャビンは、私がいた当時、既に「ちょっと古びた」ゲーセンだった。体育館をミニチュアサイズにした様な、屋根の鉄骨が剥き出しになっているボロい建物で、中には1ゲーム50円のゲーム筐体がずらっと並んでおり、プライズゲームなど一台も置いておらず、妙に高い天井には飛行機の模型が幾つもぶら下がっていた。そんなゲーセンだった。
私がその頃住んでいたのは坂が多い町で、原付に乗れる年になると皆こぞってバイトで金を貯め始める様な土地柄だった。
私はそんな中でも終始一貫して自転車乗りで、あちらこちらのゲーセンを自転車で渡り歩く内、脚力だけは無闇についた。私が「上半身はガリガリだけど、足だけ妙にゴツい」という奇天烈な体型をしているのは、専ら長距離走とこの頃の坂道自転車行のせいである。
自宅の駐車場から自転車で走り始めて、角を二回曲がって、坂道を4分くらい転がり落ちていくと、左側にキャビンがあった。
キャビンにいつから通い始めたのかは、もう良く覚えていない。といっても、私が通い始めの頃にはもう対戦台がデカい図体を見せ始めていた記憶があるので、既にストIIダッシュの時代だったろう。当時の風潮としてはあまり褒められた話でもないが、私はガキの頃から随分とそこに通い詰めていた。最初は縁者にくっついておそるおそる。慣れてくるとそのゲーセンのオヤジと仲良くなり、一袋50円で売っているスナック菓子をおごってもらったりした。その頃には大手を振って一人でキャビンに通っていた。
私が初めてスコアアタックにはまったのは「中華大仙」というタイトーの横シューであり、これはそのオヤジの影響である。オヤジは店が空いている時は自分でもゲームを遊んだが、やるのは脱衣麻雀とテトリスと中華大仙くらいだった。
中華大仙は「西遊記」の孫悟空の様なキャラが主人公の横シューで、サングラスをかけたエキセントリックな大仏がボスだったり、ショップの店員の頭部が「ナルト」であったりすることを除けばごくシンプルな内容だった。私はすぐにオヤジよりも上手くなり、初めての1コインクリアにも成功した。スコアが80万点を越えた時には、「ゲーメスト」のハイスコアコーナーに送ってくれたりもした。煙草くさかったり、頭の形だけブルース・ウィリスに似ていたり、ゲーセンに女を連れ込んでいたりすることもあったが、オヤジは基本的にいい人だった。多分当時40過ぎというところだったろうと思う。独身なのか、離婚していたのかは知らないが、奥さんはいないようだった。
私の目の前で、キャビンのゲームのラインナップはめまぐるしく変わっていった。スパIIが入り、ストIIXが入り、やがてKOF94やサムスピが入ってきた。バーチャが入った時は対戦台の周りが人で埋まり、一方風雲黙示録は私くらいしかやってなかった。
ゲーセンの一角にはシブいレトロゲームもたくさん置いてあり、私はそこで随分色んなゲームを遊んだ。ニューマンアスレチックがあり、スプラッターハウスがあり、戦場の狼があり、エスケープキッズがあり、いつも変わらず中華大仙があった。
私は、時にはストライカーズ1945にはまったり、時にはダライアス外伝で見知らぬ誰かと熾烈なスコア争いを繰り広げたりしていた。そんな中でも、時折思い出した様に中華大仙をやった。私が中華大仙をやっていると、オヤジは横に座って、格ゲーの入れ替わるペースが速くて参る、みたいなことを愚痴っていた。煙草やめなよ、と私は答えた。
通い始めて6,7年は経っていたと思う。ヴァンパイアセイヴァーの対戦台が入ってきた頃、私はどういう訳か大学に受かり、東京に引っ越すことになった。
オヤジと話すと、おめでとう、と言われた。私は、ありがとう、と答えた。
常連さんが一人いなくなっちまうなー、と言われた。私は、また来るよ、と答えた。
最後に遊んだゲームはファンタジーゾーンだったと思う。私はスマートボムを抱えたまま、クラブンガーの直前で死んだ。
多分、当時はもう、私以外の「常連さん」はあんまり残っていなかったんだろう、と思う。私がいる時間に対戦が成立すること自体あまり見なかった。過疎という程でもないが、大型筐体の一台もない「街のゲーセン」は、その頃既に下火だった。多くのゲーセンは「アミューズメントスポット」か、あるいはメーカーの直営のゲーセンに移り変わっていた。
4年が過ぎた。
ちょっとした用事でその辺りに足を運ぶことになった私は、以前住んでいた家を外から眺めた後、キャビンにも足を運んでみた。というよりは、足が勝手にキャビンの方へ向いた。以前は自転車で転がり落ちていた坂道をてくてく歩いた。
薄水色のボロゲーセンには、シャッターが降りていた。
「閉店のお知らせ」の張り紙もなく、以前はあったボロい看板もなく、まあ、そんなもんだろうな、と思った。隣に建っていた真新しいビデオ屋を横目に、近所を散歩して帰った。
この前、自宅からだいぶ歩いた辺りに、潰れたゲーセンがあることに気付いた。その姿がキャビンとダブって見えて、急に上の様な話を思い出した。
「街のゲーセン」は、多分、近年ゆっくりと消えつつある。個人経営のゲーセンなんか、もう数年前から絶滅危惧種である。ゲーセンが「不良の溜り場」だった時代は遥か昔に終わりを告げ、格ゲーの新作が出る度に中高生が集まっていた時代も過ぎ、私のゲーセン通いの日々も今は昔だ。
だから、今の内に書き残しておこう。これは、かつてはどこの街にでもあった、ごく当たり前のゲーセンの記憶だ。キャビンで私とスコア争いをやっていた連中は今はもうゲームをやっていないかも知れないが、せめて誰かに拾ってもらえればなあ、と、そう思う。
ちなみに、中華大仙はしばらく前に新宿で見かけた。数年振りの中華大仙は4ボス止まりだったが、妙に嬉しかった。わざわざスコアネームを入れた。私のスコアネームは、SSI、という。数年振りに入れる三文字が、奇妙に感慨深く、また奇妙に懐かしくて、私はデモ画面を眺めて何度かスコア欄を見直した。オヤジに見せたくなった。
キャビンのオヤジが今何をやっているかは勿論知らない。ただ、相変わらずどこかのゲーセンで、禁煙パイプをくわえつつ、脱衣麻雀でもやってくれているといいな、と思うのみである。
2007年06月28日
この記事へのトラックバック
4軒目が潰れた頃に何か日記に書いたよなあと読み返してみたら、「ゲーセンってのは街頭テレビだったんだよな。先進の技術を提供する街角娯楽。ま、客層はかなり違うけれど。家庭にその技術が浸透することによって衰退していった…っちうことか」とありました。
今はそんなに単純なものでもないのでしょうけどねえ。一種の感傷ということで。
ゲームセンターに毎日通い詰めた中学高校時代を思い出して、胸が熱くなりました。
そうですよね、ゲーセン下火ですよね><。
バーチャの大会の1回戦でボロ負けしたり、スト?Uで50人抜きしたり、色んな思い出が詰まってる場所だったのに・・・年月とともに消えていってしまうんでしょうね。。。
関係ないですが、僕自身はゲームブックの復興を目指して同人活動してます☆
こちらでもチラリとゲームブック関連記事をお見かけしました^^
また時代を呼ぶつもりで、がんばって参ります!
自分の故郷である福岡の小倉にもそういった系統のゲーセンがありましたね。
店長がいつもパソコンのエロゲばっかりやってる親父で、なぜか猫が辺りをうろちょろしていたのが印象的なゲーセンでした。
ゲーメストのハイスコア申請もやったことがあります。自分の場合はライデンファイターズに鎬を削っておりました(下手でしたが)。
そのゲーセンは福岡から東京に移住した後にプリクラ店になっていて、今では小洒落たケーキ売り場になっています。
こういった個人経営のゲーセンというものは今ではもう希少になっているものなのでしょうか。
小倉の街並みも随分と変わったもので…
またお邪魔します。
>ゲーセンってのは街頭テレビだったんだよな。先進の技術を提供する街角娯楽。
なるほど、と思いました。昔の街頭テレビも人だかりでにぎわってたんでしょうか。
>杉本ヨハネさん
ページ拝見しました。エラい本格的で、圧巻ですね。
私はSAGBっ子でしたが、ゲームブックの記事はまた書こうかと思っています。復興活動頑張ってください。
>K-HEXさん
>こういった個人経営のゲーセンというものは今ではもう希少になっているものなのでしょうか。
マニアが趣味でやってる店くらいしか残っていないとか。遠くなりにけり、という感じでしょうか。
この記事を読んでゲームセンターに行くということが、少し後ろ暗いことのように感じるイベントだった時代のことを少し思い出してしまいました。
明るくて綺麗な場所が増えることは時代なんでしょうが、記憶の中に残るゲームセンターのイメージは今でも薄暗く、少しタバコ臭い空間だったりします。
今日、地元のよく行っていたゲーセンが閉店するという話を聞いたところの巡回でこのエントリ読んじゃったい。
これで故郷のなじみの店がすべてなくなってしまつた。
…唐突に中古のテーブル筐体でも買おうかしらと思いました。
私の利用する駅(JR青梅線拝島駅)の前には、
いまだに個人経営のゲーセンがあります。しかも2軒。
駅としては大きいものの、駅前は閑散として寂れた街ですが、
何か「店が残るちょっとしたポイント」があるのかも知れませんね。
ご存知かもしれませんが念のため。
http://www.s-f.co.jp/soft/wii/newchuka/index.htm
物凄いところ選ぶなあ。
タイトーじゃないのが若干複雑な気分ですが・・・