このお話は、最初から最後まで、徹頭徹尾「主人公の為の物語」だったなあ、と思うのです。
プレイヤーキャラが自由にキャラメイク出来る、言ってみればPCに「決まった顔」がないゲームでは、シナリオにおいて「主人公が置いてけぼりにされる」ということが割と頻繁にあります。何故かというと当然の話で、キャラ作り、キャラのイメージが全てプレイヤー側に委ねられている以上、かっちりとした展開や、主人公が絡むドラマや会話をシナリオ上で作りこむことは難しいから。
キャラクターのイメージがプレイヤーそれぞれである以上、主人公にあんまり長々台詞を作るわけにもいきませんし、主人公にあまりアクの強い行動をさせる訳にもいきません。「顔がない主人公が絡むストーリー」をかっちり作ることは、元々困難なのです。その為、主人公が大活躍して称えられはするものの、実際に会話やドラマを展開しているのは全然別のキャラクターたちであって、一見すると主人公がなんか傍観してるだけ、みたいなシナリオは非常にしばしばみられます。
これはいいも悪いもない、自由なキャラクターメイクが出来るゲームでシナリオを作り込んだ場合、どうしても付きまとってしまう宿命のようなものだと思います。
FF14でも、その宿命から完全に逃れることは出来ていません。新生でも蒼天でも紅蓮でも、勿論主人公は英雄として大活躍しはするのですが、実際に「シナリオ上の主人公」と言っていいキャラクターは別にいる、みたいな展開はちょくちょくありました。例えば新生魔導城でのシドとか。蒼天編でのアルフィノとか紅蓮編でのヒエンとか、どうしてもそういう「主人公が脇に置かれる」シーンはありましたよね。別に悪いというわけではなく、展開上仕方ないことではあるんですが。
勿論漆黒でも、別に主人公がペラペラ喋るわけではなく、一見するとシナリオ構造は今までと変わらないようにも見えるのですが、遊んでいる内に、実はこのシナリオは「絶対に主人公を置いてけぼりにしない」「全てを主人公に収束させる」という、稀に見る「主人公の為の物語」だったんじゃねえか、と思うようになったのです。
以下、FF14「漆黒のヴィランズ」の核心に近いネタバレを、割と遠慮なく書いてしまうと思うので、未クリアの方には閲覧非推奨とさせて頂きます。面白いのでFF14やってみてください。
折りたたみます。
まず、全体のストーリー上の話です。
以前、イシュガルド編の話を書いた時に、「リアリズムとヒロイズムのバランス」ということを書きました。
英雄が英雄としての働きをして、それによって歴史が変わることは確かにあります。けれど、それだけで世の中の問題が全てが解決出来る訳でも、魔法のようにすべての人間が幸せになるわけでもない。政治的な問題は基本的に政治的にしか解決出来ないし、何万人もの人々の生活を保証する為に必要なのは一人の英雄ではなく経済的な基盤です。勿論、随所随所では適度にディフォルメされてはいますし、アラがないわけでも勿論ないんですが、そういった「英雄の限界」みたいなものを当初からきちんと描いている点については、FF14のストーリーってのは凄いなあと思っていた訳なんです。
この話で言うと、「漆黒のヴィランズ」は極めてヒロイズムに寄った話だったと思います。どこまでもストレートに、主人公が世界を救うまでの物語。
「漆黒のヴィランズ」において、物語は「水晶公に召喚された主人公が、大罪喰いを倒して、地域ごとに夜を取り戻していく」という大枠のもとに進みます。光の氾濫で滅びかけた世界を、元の姿に戻そうとするお話。
本来大罪喰いを倒してしまうと、大罪喰いがもっていた光のエーテルは倒したものに流れ込み、新たな大罪喰いにしてしまいます。唯一主人公(とミンフィリア)だけは、光の加護によってそれを免れることが出来る筈でした。
つまり、まずこの「救世譚」の構造自体が、主人公なしでは成立しない立て付けになっているんですね。大罪喰いを倒せる可能性がある、つまり世界を救える可能性があるのは、唯一主人公のみ。ザ・ヒロイズム。これが、「かつて英雄が堕ちた世界に、再び英雄が現れる」という形で語られるのがまずとても熱いのですが。
新生や蒼天で、勿論主人公は英雄として大活躍するのですが、それ自体は「絶対に主人公でないとなし得ないこと」ではありませんでしたし、主人公自体、主体的に動いているかというとちょっと難しいところもありました。ところが漆黒は、そもそも主人公がいないと物語自体が成立しない。
それともう一つ紐づいているのが、水晶公の動機です。
旅の途中で水晶公自身が語った通り、彼を目覚めさせ、過去に送り込んだ人たちの心にあったのは、原初世界での英雄だった主人公の過去の伝説でした。「あの英雄の為ならば」という、ただそれだけの動機で、自分たち自身は救われないことを承知の上で、水晶公とクリスタルタワーを過去に送り込んだ。そして、水晶公自身、「彼の為ならば」という思いが全ての行動の支えだったのです。
つまり、ストーリーの開始以前から、言ってしまえば全てが「主人公の為」に形作られた物語だった。この舞台立て、まず物凄いと思うんですよ。「絶対に主人公を置き去りにしてなるものか」という、大げさに言えば執念みたいなものを感じる。
さて、光の加護によって大罪喰いのエーテルを免れると思われていた主人公ですが、ヤ=シュトラが気づいたように、実は決して影響を免れているというわけではありませんでした。エーテルは主人公の中に封じられているだけで、許容量を超えてしまえば主人公自身が大罪喰いになってしまう可能性まで出てきてしまいました。
ここで、最後に生きてくるのが、過去の「光の戦士」だったアルバートの存在です。主人公と共に歩み、「英雄なき世界」でも人々が逞しく生きようとしているのを見て、アルバートは「自分たちがやってきたことを、俺はようやく誇れる」と口にします。そして、アーモロートで聴いた話、そしてエメトセルクとの相対の中で、主人公とアルバートはまさに表裏の存在だったことがプレイヤーに知れるのです。
第一世界で起きていたことは、まさに主人公自身の物語だった。そして、最後の最後、「第一世界で歩んでいた自分」であるアルバートが全てを託すことで、主人公は自分を侵食していた光と、エメトセルクという闇両方を祓うことになった。ここの展開がまた熱い、熱すぎるんですが、それは余談になるので省略します。ただ一言、あそこでSHADOWBRINGERSが流れ始めるのズル過ぎる。
このエメトセルクも、この「主人公の為の物語」の重要極まる構成要素でして、彼最初から、主人公と一対一でずっと対話し続けているんですよね。勿論それは、主人公が「あの魂」の持ち主であることを、最初の時点で理解していたから。だから、時にはさらっと重要なことを伝えたし、「思い出すわけもないか…」とつぶやきながらも、かつての「世界」のことを盛んに主人公に伝えていたんです。それもおそらく、「あの魂」の持ち主であるならば、もしかすると共感してくれるかも知れないと思ったから。
今回「置いてけぼり感がない」という理由のもう一つがコレで、勿論随所随所でアルフィノとかアリゼーが前面に出ることはあるんですが、エメトセルクにせよ水晶公にせよフェオにせよ、ストーリーの重要なところでは全部「主人公と対話」しているんです。ストーリー上、主人公の存在が脇に置かれることが、ガチで一度もない。というかぶっちゃけ、重要キャラ全員主人公としか因縁がない。
これ物凄いと思いませんか?
これだけ徹底的に「すべてを主人公に収束させる」シナリオって、プレイヤーキャラを自由にキャラメイク出来るゲームの中では、割と本気で稀なんじゃないか、と思ったりもします。よくここまで振り切ったもんだなー、と感動すら覚えます。
MMORPGにおける「主人公置いてけぼり問題」に対する、一つの回答がここにあるのではないか、とまで言うと大げさかも知れませんが、まあとにかくすげー面白かったなーと。そういう話なのです。
何はともあれ、ここまで素晴らしい物語を、FF14というプラットフォームで堪能できたのは、つくづく幸運なことだったなーと思う次第なのです。今後も期待しつつ遊ばせて頂きます。
末筆になりますが、ユールモアでハイ&ローを遊んでくれるティスタ・バイさんは可愛い、ということを指摘して項を閉じたいと思います。よろしくお願いします。
今日書きたいことはそれくらいです。