こんな増田を読みました。
「命からがら逃げだす」を落としどころにできない所なんじゃないかと最近思った。
ナルニア国物語とか指輪物語とか、あれ行く先々で中ボス張り倒して回ったりしないだろ。
あさびらき丸のベルン領みたいな例外はあるけど、基本的に、旅の目的が最優先だから、
「やばい奴の縄張りに入ってる事に気づいたら、安全圏まで脱出する」が基本なんだよね。
スレイヤーズとかなろうとかのファンタジーは、何か知らんが、水戸黄門的というか、RPG的というか、ジャンプ的というか、
いちいち事件に首突っ込んで解決するまで先に進まないって、お前はコナン君かって展開ばっかなんだよね。
なろう系のことは良く知らないのでラノベ論に立ち入る気はないんですが、これはジャンルがどうこうというより「カタルシスを得られるスパンをどう設定するか」の話ではないかなあ、と思いました。
物語上で目的達成の効果を考えてみると、それって要は「カタルシスの配置」なんですよね。
目的達成までの間、例えばピンチがあったり、地道な努力や情報収集があったり、それこそ一時的に敵から逃げたりしてストレスがかかる。その上で、それらの努力が実って敵に勝利したり、ゴールにたどり着いたりする。そうすると読者はとても気持ちいい。
「ストレスとカタルシスをどう配置するか」というのは、どんな創作にもついて回る問題です。
基本的に、週刊連載の漫画なんかは、たとえ大目的がどーんとあったとしても、中途中途で細かく「目的達成」のカタルシスを配置する傾向がある、と思います。それはある意味当然で、カタルシスがなかなか得られない漫画だと、読者が読み続けてくれないから。増田上で出てくるコナンでも、短いと1,2話、長くても3〜4話くらいで大体一つの事件は解決しますよね。スポーツ漫画なんかも、例えば「甲子園優勝」みたいな大目的はあっても、中途中途で細かく「練習→試合」の展開を挟みますよね。
そういう点で、「細かくカタルシスを配置する展開」というのはよくあると思います。
一方、「どーんと大目的までの道のりが長く、途中でカタルシスがなかなか得られない」物語も勿論あって、それは長編小説に多いというのも確かだと思います。途中のストレスが長く大きいからこそ、最後にどーんと目的達成して感動する、という傾向もあるかも知れません。指輪物語は確かにそれに該当しそうですね。あとゲド戦記なんかも割とそうかな。
これはどっちがいい・悪いという話ではなく、物語をどう構築するか、誰にどのように訴えるか、という技術論です。細かいカタルシスがないと読んでくれない人もいれば、途中のストレス長めで最後にどーんと大目的がある展開を好む人もいる、ということです。
前者の展開に一点問題があるとすれば、「細かく目的達成のカタルシスを配置していくと、大筋の軸がブレ勝ちになる」ということかも知れません。他のことを色々やってる間に、大目的がほっぽりだしになったり、読者に大目的を忘れられてしまうというリスクです。これによって、肝心の大目的を達成することによるカタルシスが薄れてしまう可能性もあり、中途の展開で上手い感じにカバーすることが求められます。
一方、後者の問題は当然、「ストレスが長すぎると途中で読むのをやめてしまう読者が出る」ということですね。これをカバーし得るのが長編小説な訳ですが、恐らく「連載」という形式だとこれを払拭するのは難しいでしょう。もしライトノベルの展開が前者に偏っているとしたら、そういうことが原因なのかも知れません。(実際には後者の展開のラノベもそこそこありそうな気もしますが)
個人的な所感としては、この「細かい目的達成によるカタルシスと、大目的に対する軸」の描写に物凄く長けている漫画家さんとして藤田和日郎先生が思い浮かぶんですが、まあそれについてはまた別途書きたいと思います。
ということで、今日書きたいことはそれくらいです。
作者に書きたいシーンやシチュエーションがあって、
それを書くための設定やストーリーなだけでしょう。
だから、ストーリーも登場人物すらも添え物になってしまう。
実際、主人公には様々な角度から光を当てるのですが、
それ以外の登場人物には、主要なものでさえキャラクターが与えられず、
その他大勢と同様、ロール(役割)のみがある。
人気作にあってすら、そういう話は多いです。
でも、読みたいシーンと書きたいシーンという、需要と供給がマッチしたところに
『なろう系』の盛り上がりがあると思われます。
ただ、いわゆる『なろう系』って、昔から需要があったんです。
我々の親や祖父の世代の剣客ものなんかが典型的ですが、
剣が強くて女にモテモテ、悪者たちをバッタバッタと倒して……、
今日においては、筆者や読者のリテラシーが変わり、忍術や妖術が魔法に、
舞台が時代劇から中世騎士物語(というよりドラクエ)風になっただけ。
物語の構造も、人物の掘り下げが無いことも、ほとんど同じなんですね。
すぐに消費されて(飽きられて)次の世代に残らないから、
知られていないだけで。
大きく異なるとすれば、
・今日では、誰もがかけてしまうことと、
・公開までに、編集という第三者の目が介在しないこと。
・そして、時代物の場合はそれなりに考証が必要で、
かつ当時はその過程で文章力や表現力も増したのですが、今日ではそれがあまりないこと。
この辺が『なろう系』という揶揄がうまれた背景かな? と。
昔も今も、娯楽のレベルはあまり変わらないんです。
ただ、消費するだけでない層の裾野が拡がりましたから、
その分、将来は頂も高くなっていくかもしれません。
例:永遠に天竺にたどり着かなくてありがたいお経を持って帰れなくてもたぶん誰も気にしない
体裁上は大目的として置いてあるやつが作者や多くの読者に実際に重要だと思われているのか、増田さんの認識とズレがありそう。
「身近に接する流行り物はダメ」という結論ありきの評価になりがち