こちらの記事を読んで思ったことというか、私の理解をそのまんま書きます。特に反論とかではないです。
「画一的である事はいけない事だってよく言われてるけど、いったい何が悪いの?もの凄く便利じゃない?」この発言は多様性を尊ぶ人たちからかなりウケが悪かったと記憶している。が、反論する人たちは「画一性悪・多様性善」というような事をトートロジーするだけで、一切合切合理的に反論できていなかった。
多分なんですけど、「完全にマジョリティ」という人にとってはそもそも「多様性」なんて不要なんですよ。
人間、自分に近いもの程理解しやすい、自分に近い人と程気持ち良く過ごせるのはまあ一般的な話でして。「自分と全然違う」誰かと過ごす為にしなくてはいけない気遣い、許容しなくてはいけない慣習の違い、しなくてはいけない調整なんて、もしやらずに済むなら誰もやりたくない訳です。
同じような属性、同じような考え方の人たちしかいなくって、ずっとその人たちと暮らしていけばいいのであれば、そこに「多様性」なんて必要ありません。画一的で何が悪いの、別に誰も困らないしいいじゃんね、という話ですよね。それは当然のことです。
多様性って要は「マイノリティの存在を尊重し、許容する」ということですから、マジョリティの立ち位置にある人にとっては、基本的には何の得にもならないんですよ。
ただ、実際のところ、人間の価値観とか属性とかってそんなシンプルに割り切れるものじゃないんですよね。「自分はマジョリティ」と思っている人だって、ある側面から見れば思いもよらないマイノリティかも知れないし、あるいは何かのきっかけであっという間にマイノリティになるかも知れない訳です。
例えば、ずっと田舎に住んでいた人が、仕事の都合でいきなり都会に引っ越したら、その人はその場におけるマイノリティになります。
例えば、ごく一般的な趣味しか知らなかった人が、突如あるマイナーな創作にハマり込んでその創作の熱狂的な信奉者になったら、その人は趣味というフィールドにおけるマイノリティになります。
例えば、ごく一般的なサラリーマンが、いきなりリストラに合ってホームレスになってしまったら、その人は経済的なマイノリティになります。
自分が、いつ、どんな状況でマイノリティになるか分からない。あるいは、現時点で既に、マイノリティである一部分を持っているかも知れない。
それを認識している人たちにとっては、多様性に対する寛容は一種の「安全保障」になります。自分のマイノリティとしての側面を許容して欲しいから、自分もマイノリティを許容するよ、尊重するよ、みんなも尊重しようよってことですよね。
つまり、多様性って、「みんなを幸せにすることが出来る社会的なメリット」ではなくって、「誰かを不幸にしない為の社会的なコスト」なんです。ある種の安全保障税みたいなもんです。
そういう意味で、
だから「多様性」は必ずしも幸福をもたらさない。
というのは当然なんですよね。
私は、自分の中にはマイノリティな部分も結構あると思っていますし、またいつ何がきっかけでどんなマイノリティになるか分かったもんじゃない、と思っています。
だから多様性を尊重しますし、多様性を許容する社会の方が望ましいと思っています。
一方、「多様性なんて不要」という考え方や、「俺に都合の良い多様性だけ認める」と考える人がいることも理解出来ますし、まあそういう考え方はそういう考え方で仕方ないと思っています。それだって多様性の内ではありますしね。
ただ、自分がマイノリティになった時の為に、多様性の重要さについては折に触れて言っていきたいし、出来ればみんながそれを理解してくれればいいなあと思っている。
そんな程度です。
今日書きたいことはそれくらいです。
多様性を排除した世界と言うのは、究極的には全てに違いが無くなるため、感動が生まれない世界になるという事で、感動の無い世界に不幸が無くなる代わりに幸福も無かろうと思います。つまり、多様性はコストではあるのだけど、その分のリターンがちゃんとあるんだと思います。
なお、多様性の結果として得られる幸福というのは嗜好品というか贅沢品みたいなもので、余裕の無い環境ではこういった事は望めないと思います。
一方で、ちょっと古典ですけどオルダス ハクスリーの「すばらしい新世界」というデストピアものでは、多様性を排除し極力効率化した世界がSFとして書かれています。こちらもあまり歓迎したい世界観ではないので、それらを踏まえて、ここら辺はバランスなんだろうなかと思います。しらんけど。
もう一点、多様性のある集団や多様性に対処してきた個人は変化に対して強くなる、というのもあると思います。
ご存じだったら恐縮なのですが、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」という在英日本人版の岳物語みたいな書籍に、「多様性は面倒だが無知を減らす」というやりとりがあります。
マジョリティが容易にマイノリティになるというお話とも被るのですが、変化が激しい現代において、多様性の受容は生存に必要なスキルになりつつあるのかなと思います。
ちなみに書籍の方は読みやすいのに深い内容で、息子さんにもおすすめです。
「俺はいままでワクチンなしでも問題なく生活して来れた。なんで「ワクチンなんて無駄なもの」に金出さなきゃならないんだい?」
問題が起きない限りはワクチンは不要。しかし今のその安全は、多くの人がワクチン接種することにより得られた結果であり、あなたはそのフリーライダーでしかない。
ワクチンを多様性に置き換えても同じこと。
バカには結果だけは教授しても、そこに至るまでの経過が見えてない。n
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もう一つは多様性を排除した世界も、均質では無いということ。
たとえば黒人と白人を排除しても、色黒な人もいれば色白な人もいる。背が高い人もいれば低い人もいる。そして肌の色で差別する人は色黒だ色白だという理由でも差別する。それもなくなれば次のスケープゴートを探すだけ。実際にイジメなんてそんなものだ。
多様性の排除は、生き残りが最後の一人になるまで続くのだ。
よくわかんないけど多様性のためにはバカと低レベルな議論は不要だとか言いたいのかな。
そういう態度がまさに多様性を受任するのが難しい人に見えるけど。
世の中にはバカが当たり前にいるわけだし、
あなたがバカではないという保証も自認以外は特にないし、
多様性を語るならまず言葉を選べるようになったほうがいいんじゃないかな