2020年03月13日

秋葉原通り魔事件の母親の話から「察して」批判、ツイフェミ批判にまでつなげるのはさすがに無理筋では

どうも、切り分けちゃうぞおじさんです。

こんなTogetterまとめを読みました。


で、このまとめでは大筋幾つかの問題がいっしょくたに語られていて、ちょっとヒートアップし過ぎじゃないかなーと思ったので、問題の切り分けを試みてみたくなりました。

結論から先に申し上げると、私は上記のまとめについて、下記のように考えています。

・考えていることを言葉にするのは確かに大事だし、「察して欲しい」というスタンスは特に日常生活において弊害が大きい
・しかし、それを即「虐待」とか「教育虐待」と紐づけて語るのは行きすぎ、やり過ぎ
・秋葉原通り魔事件の母親がやっていることは「察して」以前に純然たる虐待
・子どもの夢や行動に過剰な規制を加えることと上記の話は全く別の問題
・もちろんフェミニストがどうとかも完全に別の問題
・それら全てをいっしょくたにまとめているのはあんまり肯定的に受け取れない
・「察して欲しい」という言葉に必要以上に悪いイメージを植え付けるのは反対

以上です。よろしくお願いします。

さて、書きたいことは最初に全部書いてしまいましたので、あとはざっくばらんに行きましょう。

まず、上記セルフまとめについてなんですが、全体を概観すると、「察して欲しい」という言葉を秋葉原通り魔事件と紐づけて教育虐待にまで紐づけ、更に情報遮断教育についての批判からファミニスト批判にまで繋げようとする構成になっているように思います。

まず重要な前提として認識しておきたいことなのですが、加藤智大氏の母がやっていたことは察して欲しい」以前に純然たる虐待であって、「察して」などという言葉で表現出来るのはそのほんの僅かな一側面にすぎない、ということです。

秋葉原事件の記録については様々な記事・記録が公になっています。私が個人的に読んだのは中島岳志氏の「秋葉原事件 加藤智大の軌跡」でして、詳しくまとまっていてわかりやすいのでご興味ある方には一読をお勧めしたいのですが。


加藤氏の母親が加藤氏に対して虐待や教育遮断に近いことを行っていたのは事実のようですが、例えば「泣くと口にタオルを詰める」だとか、「10回泣くと屋根裏部屋に閉じ込める」だとか「質問に答えられないとビンタ」などというのは、「察しろ」などということ以前の問題です。「理由を説明しないで罰だけを加える」というのはもちろん子どもにとって理不尽な思いを残しやすい話ではありますが、これらはたとえ「理由を懇切丁寧に説明した上でもやってはいけないこと」です。というか、加藤氏の母親がやっていたことは殆どがそうです。

そして、これらの行為が「察して欲しい」という感情に立脚しているかどうか、などという検証はまだ誰もやっていません。虐待が行われているからといって、イコール「それは、自分がして欲しいことを言葉にして伝えられないからだ」などと短絡することは出来ません。

また、(これについては上記まとめでも&でくくって表現されてはいますが)加藤氏が「アニメ」「漫画」といった様々なコンテンツを遮断されて育ったこと、またことあるごとに人格否定をされていたことも話には挙がっています。当たり前ですが、これについては完全に「察して欲しい」とは別の問題であって、いっしょくたに語るのは適切ではありません。

更にいうと、加藤氏におけるコンテンツ遮断は記録を見る限り相当極端なレベルであって、「情報遮断」「コンテンツ遮断」の類例として考えるのもあまり適切ではないと考えます。

一方で、加藤氏の人格形成に母親の虐待が大きく影を落とした形跡は確かに見受けられますが、加藤氏の凶行は決してそれだけが原因とは言えず、それ以外にもさまざま複雑な原因がある、ということは上記書籍でも語られているところです。

それを一概に「察して母」などという言葉でくるんで即凶行と紐づけるような書き方をするのは、ちょっと話の持って行き方として乱暴すぎます。

要は、「察して」という言葉と紐づけて語るには、加藤氏の母親の例は適切ではないということ。それが最初に言うべきことです。「そういうレベルの問題じゃないよ」って話です。



これはこのまとめだけの話ではないのですが、「察してちゃん」といった言葉に代表される通り、「言葉にはしないまま相手に理解を求める」というスタンスは、現在特にweb上で、かなり悪いイメージをまといつつあるようです。

これについても、私はちょっとだけ懸念をもっています。

「察して欲しい」というスタンスが日常生活でコミュニケーションに齟齬をきたし得ること、またそれが子どもの情操教育に悪影響を与える可能性がある(飽くまで可能性の話であって、そういう方向での統計だった研究があるのかどうか確認出来ていませんが)ことについては私も賛同する立場ですが、だからといってそれが即子どもの人格を決めるわけでもありません。

子どもの成長、家庭の在り方というのは千差万別であって、一言で概括することは出来ません。中には、言葉でのコミュニケーションを苦手としている親だって子どもだっているでしょう。時には「お互いに察する」というコミュニケーションが、その人間関係では最適だった、ということもあり得るかも知れません。

これは何でもそうなんですが、あるスタンスのイメージを悪くし過ぎて、本来殴られる必要がない人まで殴りつけてしまうのはちょっと避けたいよなーと。

個人のレベルとしては「なるべく言葉にしよう」というスタンスですし、自分の子どもにもそうやって教えてはいますが、だからといって「言葉を介しないコミュニケーション」を一概にレッテル付けするのもあんまりよくないよなー、と私などは考えるのです。



で、その後、まとめ主さんはフェミニスト批判、ツイフェミ非難のツイートを積極的にピックアップされているわけですが、これはいくら何でも公平性を欠くんじゃないかなーと思うところはあります。




当たり前のことですが、いわゆる「ツイフェミ」と呼ばれる人たちにもさまざまな主張のグラデーションがあり、それらはいっしょくたに批判出来るものでもありません。

私も、子どもに対するコンテンツ遮断や、多少でも性的要素を持ったコンテンツに対するクレームといった事象には反対の立場です。だからといって、それらの事象を秋葉原通り魔事件と紐づけて、「察して妻」だ「察して母」だといったレッテリングと関連づけた上で批判することが妥当とはとても思えません。関連情報をちょっと読めば分かる話ですが、加藤氏の母がやったコンテンツ遮断は、たとえば宇崎ちゃん問題のような議論とは全くレベルが異なるものです。

極端な例と紐づけて相手のイメージを貶めて、それを持って非難して溜飲を下げるというのは、それこそ宮崎勤を例にとってオタク批判するのとどう違うの?という気がします。まあそういう議論をやっている人がいるのはお互い様なんでしょうけど、同じレベルに落ちることもないよなーと思う次第です。

色々書きましたが、書きたいことは最初に全部まとめてあるのでそれ以降のは補足です。よろしくお願いします。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 12:03 | Comment(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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