雑感なので全然まとまっていませんし特に結論は出ません。読みたい人だけ読んでください。
shinzaki / しんざき
RT @Tanishi_tw: 『閉塞しつつあるはてな村を肴にしてキャッキャウフフする会』、本日20:00開催です。 はてな村最期の灯火を、君のその目に焼き付けろ! #はてな村キャッキャウフフ https://t.co/X2T3G7OybN at 07/02 15:12
私はそもそもはてなでブログ書いてませんし、単に長いことはてブを利用させて頂いているだけではてな村民というのは図々し過ぎるのではないかと思いはしたんですが、たにしさんに誘って頂いたので折角なのでお邪魔させて頂きました。はてなスペースって初めてだったんで色々楽しかったです。
私、以前も書いた通り人の声が全然聴き分けられないので当初ちょっと不安だったんですが、はてなスペースはかなりの精度で喋ってる人の下にフォーカスが出るので、辛うじて「あ、今喋ってるのはphaさんだな」「今のはシロクマ先生だな」とか分かりました。助かりました。けどやっぱ複数の人が同時に喋ったりすると良く分かんなくなるので、webインフラで議論とかは私の特性的にはやっぱりちょっと厳しいなーと思いました。まあしゃあない。
で、そもそもは勿論この辺の話が発端でして、
私信のやり取りに脇から口を出すのも野暮かなーと思ったので特に言及はしなかったんですが、もう昨日スペースで話しちゃったのでここでも書くと、実を言うと私、閉塞感って最初ピンとこなかったんですよ。確かに、かつてあった「はてな村的なるもの」つまり「自分たちのことをはてな村民だと自認している人たちによる、インターネット上の特定の話題に関する濃いコミュニケーション」というものはあまり見かけなくなったけれど、少なくとも書き手としては、それに対してそこまで実感はなかったんです。
ただまあそれは、そもそも私がはてな村の外にいた人間ですし、そこまではてな村のコミュニケーションにがっつり関わっていなかったこともあって、いわば局外者としての意識なのかなーと思っていました。
ただ、シロクマ先生個人の心の動きには(それこそ個人的に)興味があったので、昨日の日中はずーっとシロクマ先生の過去の記事を改めて読み漁って過ごしていました。大体読んでいたつもりだったんですが結構読み逃していた分もあった。
で、幾つか思ったところはあって、
公正に考えるなら、私も「機械のような生き物」の一人になったというべきでしょう。私はブログを何とか書き続けていますが、このブログも、ブロガー同士が意見交換する場ではなくなってしまいました。
こうやって振り返ると、私の一日のなかで「5行以上の長文を読んで意味を取ることができる状態」がいったい何%あるといえるだろうか。時間にして、30分から1時間といったところではないだろうか。
15年もアウトプットしているうちに、私はだんだん情報に鈍感なブロガーになってしまいました。
この辺りを拝読していると、はてな村どうこうということ以上に、
・書き手としてのシロクマ先生は、「特定の誰か」に対して語り掛けることが好きで、しかしここ最近は様々な事情で「特定の誰か」に対してがっつり記事を書くことが減ってしまった
・また、リソースの問題など、様々な事情から入出力の質・量が以前に比べて減ってしまった
という二点が、シロクマ先生が抱えている「閉塞感」の重要な要因の一部なんじゃないかなあ、とか思ったりしました。昨日スペースで(大変失礼だということは自覚しつつも)直接上記のようなことを投げかけてみたのですが、反応を伺う限りは当たらずといえども遠からずというところだったのでしょうか。
そういうことから考えると、別に「書きたいことが書けてない」とかそういうことは特になくって、いや多少はあるのかも知れないですけど、「入出力チャンネルに齟齬が生じている、その原因の一つとしてはてな村における一部「村民」の非アクティブ化が動作している」というのが、今回の一つのテーマであった「シロクマ先生の感じている閉塞感」についての一つの言語化になるのではないかなあ、などと私は勝手に納得していました。勝手に納得してすいません。
いや、実はたにしさんが言われた「ネムルバカ」私も読んだんですけど、これ言う暇なかったんですけど「これ軸としてはちょっと違うんじゃないかなあ?」とちょっと思ったんですよ。言えよって話ですよね。はい。だってシロクマ先生がすぐに反駁し始めちゃうんだもん!!
ネムルバカの作中では、「表現したいこと」と「獲得したいもの」の一つの対立があって、その対立を最後に打ち壊す、という構図があったように思いました。これはこれでちゃんと漫画として成立しているし面白いんですけど、実際のところ「表現したいこと」なんて山のようにあって、表現するチャンネルも死ぬほど種類があって、それと「獲得したいもの」は単純に対立するようなものではないような気がするんですよ。
鯨井ルカにとっては「アイドルのように売り出されていく自分」は「自分が本来表現したいこと」とははっきり対立したものだったようですが、例えば私も不倒城で書いてることとBooks&Appsさんで書いてることってだいぶ傾向違うかも知れないですが、それだってどっちも間違いなく「表現したいこと」ですから。「こっちでこれ書くのはやめとくかな」みたいなことは確かにありますが、ぶっちゃけ私は「表現出来るのであればそのチャンネルはなんでもいい」という人なので、不倒城でもBooks&Appsさんでもねとらぼさんでもtayoriniさんでも、なんなら文章から形を変えてケーナでも楽器演奏でも小説でも、なんか表現出来てればそれで満足なんですよね。
だから、「書きたいことが書けていない」というのは、もちろん人にもよるかも知れないですが、案外「閉塞感」にはつながらないのではないか、と思いました。
それと、上記とは全然別のテーマとして、私には「その記事を「誰が」書いたのか、というのはそこまで重要なのか?」という考えがありまして、実は「インターネットはフラットなものであるべき(≒インターネット上の情報は、「それを誰が書いたか」ということを考慮せずに評価されるべき)という古い古い幻想のようなものを未だに頭のどっかに残していて、そこから考えると「今語り掛ける相手は誰なのか」ということはそんなに重要なのだろうか、という思いもちょっと頭をよぎったんですよ。
いや、分かってはいるんですよ。コミュニケーションをするにあたって、「相手がだれか」というのは不可分な要素です。そもそも私にしてからが、「しんざき」というweb上の人格を長い長い間育ててきた人間ですし、その「しんざき」に対する色んなお引き合いやコミュニケーションを頂いて、それで目いっぱい楽しんでいる者でもあります。今回のスペースだって、シロクマ先生との色々なやり取りだって、「相手がだれか」ということを切り離して成立させられるようなものではありません。
ただ、私は世界の殆どの人たちと同様、自分の中に矛盾したものを抱え込んだままそれを整合させられはしていない人なので、たまに埼玉のおっさんとして振舞うくらいの求道はしてしまう、という話なのです。まあ匿名ダイアリー自体一つの権威なのかも知れないですが…。
で、私は我田引水がとても好きなので、上記の話から「翻って私は」と考えてみるのですが。
私は書き手としてはとても不純でして、どっちかというと「自分の文章超好きだから自分用のコンテンツとしてブログ書く」みたいなところがあるんですよ。あとから自分の記事読み直して「いい…」「完成度…」とか呟くのすごい好き。あと同じこと何度書いても飽きない。
そういう意味で、私の記事の殆どは誰よりも「私に」語り掛けているものでして、しかもそれにそれ程不満や問題点を感じていなかったので、現状書き手としての自分にもそれ程不満を感じていなかったという、割とどうしようもない結論が出てしまうわけなのです。いいのかな。まあいいや。
今日誕生日でして42歳になったんですけど、引き続き書きたいことが思いついた時に適当に書きたいこと書くと思います。よろしくお願いします。
今日書きたいことはそれくらいです。
最後の『自分の文章大好き』といえるっていいなぁ、羨ましいなぁと思いました。