ソーセージを炙ったら、光の道が見えて長女次女が大喜びした。
何の話をしているかというと朝ごはんの話で、朝起きて二番目か三番目くらいにやることとして子どもたちの朝食の準備があって、私は子どもたちの為にソーセージを炙っていた。
うちの子どもたち、特に長女と次女はソーセージが好きで、しかも炙り方にこだわりがあるらしい。普通のフライパンで焼くのではなく、わざわざ鉄串に刺して、その鉄串を直接こんろの上にかざす炙り方を求める。これの方がずっと美味しいというのだ。
実際味が変わるかというと難しい問題で、自分でやった限りフライパンを使った場合とそれ程違いはないのだが、とはいえ食べる時に気分の問題というのは重要だ。「焚き火で焼いたワイルド料理」のような感覚があって美味しい、という感じ方は私にも理解出来る。
なんにせよ私は朝ごはんにソーセージを炙って、ちょっと焦げ目をつけて欲しいというリクエストに従って、少々念入りに焼いたら煙が出た。
けむい。朝から失敗したー、換気扇つけないとと思った。
そしたら窓から光の道が見えた。光のカーテンと言うのかも知れない、とにかく差し込んでくる光が可視化されて、まるでそこだけ光が溢れているように見える現象だ。
当然、煙の微粒子が光に照らされて可視化されているからというだけの話なのだが、長女と次女は大喜びした。
「なにあれーーーー!?」
「光ーー!光が見えてるーーー!!」
ときゃっきゃして、全くごはんに手がつかず危うく遅刻しそうな時間になったので、速く食べようとせかす羽目になった。
「ねえなんで!?パパあれなんで!?」
と聞かれた。
こういう時はちゃんと教える主義なのだが、少しだけ迷った。それは、私の感じ方と、長女次女の感じ方に、知識による差を感じたからだ。
私は、光の道の正体が、空気中の微粒子によるものだと知っている。長女次女は知らない。知っている私は、すぐに光の道の存在に納得してしまって、特段驚くということはなかった。知らない長女次女はびっくりして、次いで大喜びした。
これは「知識があることによって感動出来なくなってしまう」という現象ではないか、と一瞬思った。すぐに答えを教えないで、考えてもらった方がいいのかもなあ、とも思った。
けれど、すぐ考え直した。「感動する」ことに、「知っている」「知らない」は必ずしも必要な要件ではない。オーロラの発生機序を知っていても、オーロラの綺麗さに感動することは出来る。そこにあるのはどちらかというと感性の差だ。つまり、子どもたちの感性の方が私よりずっと瑞々しいという、それは当たり前の話だ。
「朝起きたばっかりの時と今で、この部屋に何か違うところがありますー。なんでしょう」
問題を出した。長女次女はうんうん考えた。
「ゴミ捨てた?」
「正解だけど関係ない」
「ベーグルの匂いがする?」
「うーん、ちょっと違うけど関係ある」
「朝ごはん作った?」
「惜しい」
「煙がある!」
「正解―。煙のちっちゃな粒粒が光に照らされて、普段は見えない光がああいう風に見えるんだよ」
そんな感じで説明すると、長女次女はほへーーと感心して光の道を眺めていた。せかしてサラダを食べさせて、ランドセルを背負わせて学校に送りだした。
それから窓を開けて、掃除機をかけて、空気を入れ替えながら、私はもう一度光の道を眺めた。空気の流れでゆらゆら揺らめいて、案外綺麗だな、と思った。