こんな記事を読みました。
今は中学生の息子が、なんというか、小物キャラというか卑怯者みたいな感じで辛い
昨年中学の合唱コンクールの後にクラスメイトがファミレスで打ち上げ会をやったみたいで息子とあと何人かが知らされずにハブられたらしいんだけど、いやもうこの時点で悲しいというかアレなんだけど息子はどこからか情報を手に入れて担任に注進して、打ち上げ会を台無しにさせたみたいであと学校にスマホを持ち込んでる生徒を一々教師に密告していたらしい
クラスではちょっと浮いている。クラスの輪にはなかなか入れていないが先生がいるところでは杓子定規な意見を率先して述べてアピールしたがる。誰が掃除をサボっていたとか学校の備品を乱暴に扱う遊びをしていたとかの告げ口をする。なのでクラスの輪からはますます蚊帳の外にされる。
二つ目の記事は、恐らく一つ目の記事を受けての内容なんだと思います。
大筋、どちらの記事も、
「なんらかのルールを杓子定規にとらえて、それに反する行為を先生に伝える」
ことを「告げ口」とか「密告」という言い方で表現して、それを「小物感」という言葉でまとめている、という構成になっていると思います。まあ、後者の記事のボーイスカウトにおける「借りる/借りない」の話は、記事の通りに読んでもあんまり大物/小物関係ないような気はするんですけど。
まあ、「先生に言いつける」という行為が、子どもたちの人間関係の中で忌避されがち、というのは分かるんですよ。友達付き合いとかその後の空気とか、あるいは友人間での印象とかを考えれば、そういうことをしないで流す方がなんだかんだでいい結果を生む場合が多い、というのも分かる。
ただ、自分の中でちょっとあんまり納得いかないなあと思ったのは、
・「自分の基準で納得できない行為について先生に報告する」というのを「告げ口」とか「チクリ」とかってラベリングするのっていじめっ子の論理じゃないの?
・報告/連絡/相談/共有って基本的にいいことだし必要なことじゃないの?
・それをマイナスの方向にラベリングする「小物」という言葉に大人が、あるいは親が賛同しちゃうの?
という点なんです。
だって社会人としての我々は、ことあるごとに「きちんと上司に報告・相談しましょう」「リーガル違反を見逃すのは良くないことです」って教えるし、教えられるし、そういう合意を形成しているわけじゃないですか?
「ちょっとくらいのルール違反は、空気の為に見逃しましょう」というロジックって、例えば内部告発を抑圧する組織側の論理であって、要は権力者側の言い方じゃありませんでしたか?
仮にルール自体、あるいはルールに対する認識がおかしいのであれば、そのルールや認識の在り方について議論をするべきで、むしろ報告/共有すること自体は正しいことなんだよ、と言わないといけないじゃないですか?
なのに、例えばせめて「君のスタンスは正しい。けれど、そのルール自体ちょっとおかしいし、人間関係のことを考えてもそれは言わない方がいいかも」と言い聞かせるわけじゃなくて、「小物感」という言葉になっちゃうのかなあ、と。更にその論調にたくさんの人が同意しちゃうのかなあ、って思ったんです。
いやまあ、現実問題として友人たちから浮いているし生きにくそうということであれば、「こういう選択肢もあるんだよ」ということは伝えてあげた方がいいだろうし、書かれていない範囲では元増田(冒頭の記事を書いた人)もそれをやっているのかも知れませんが、
にしても「小物」という言葉はちょっと違うんじゃないかなあ、と。
そんな風に思った次第なんです。
今日書きたいことはそれくらいです。