2005年07月13日

「ゼノサイド」を読んだこと、についての話。

いや、実はけっこー前の話なのだが。

最近読んだ本の読書かんそーぶんとか書こうと思ったまま忘れてた。全く畑違いだが、「ミナミノミナミノ」を読み終わった直後に思い出した。再び忘れない内になんとなくまとめて書いちまおうと思う。書評ブログに出来る気など毛頭ないが(無理だし)、まあ気にせず。

まず、先日読了したのがオースン・スコット・カードの「ゼノサイド(上下)」。


これ、同じくカードの「エンダーのゲーム」シリーズの、多分第三作に当たる作品の筈だ。前二作、「エンダーのゲーム」と「死者の代弁者」は、どちらもものすげえ構成力とストーリーでSFマニアの一斉賛辞を浴びた大作なのだが、「ゼノサイド」から先は少々評価が分かれるという話。大体理由が分かった様に思う。多分最終巻の「エンダーの子供たち」を読む前に一括するのはちょっとよろしくないとも思うのだが、まあ所詮はかんそーぶんだ。感じたことを書いてみよう。


・文系SFと理系SFの閾値

SFには、文系SFと理系SFの二種類がある。文系SFは、SF的な設定とか理論とか理屈は飽くまで背景というか世界観として、ストーリー展開や人間模様などで読ませるSF。理系SFは、SF的な設定や理論とかがもっと前面に出ており、話がそれを主軸に展開するSF。海外古典SFでいうと、例えばヴォクトとかアシモフ辺りは理系SF寄りの人だろう。ブラッドベリやアーサー・C・クラークなんかは文系SF寄りの人の筈だ。

まず、「エンダーのゲーム」と「死者の代弁者」は純然たる文系SFであった、と思う。バトルスクールであるとかピギーのいる惑星であるとか、SF的世界を背景にして、破壊的な魅力を持ったキャラクター群とそのかかわり具合は、文字通りカードにしか書けないSFだった。

が、「ゼノサイド」になるとちょっと様相が変わってくる。この作品は多分理系SFだ。

「ゼノサイド」の主要な展開は登場人物同士の議論から成る。デスコラーダウィルスにまつわる議論、光速突破にまつわる議論、「アンシブルに潜む何者か」に関わる議論、まあ色々だ。当然のことながらこれらは全て「SF的」な要素なので、つまり話の中心はSF的な世界観そのものということになる。

だが、ここで前二作の文系要素が多少足を引っ張る形になってしまう。「文系SF」世界で魅力を発揮したキャラクター群は、要は理系議論だけでは収まらないのだ。理系議論の海の中で、どーにかこーにか自分を表現しようとあがく訳だ。この辺がどうしても窮屈な印象を受けてしまう。

ちょっと物語の内容に関わる話なので深くは書かないが、例えばグレゴにせよクァーラにせよ、前作の舞台で動いていればもっと魅力的な活躍を見せてくれていたんではあるまいか。

と、この辺りが好みが分かれるのかなーと思われる点一つ目。


・ストーリーの雰囲気が前二作と大分違うこと。

まあ、暗い、ということもある。これは前作を踏襲する展開として仕方ないっちゃ仕方ないのだが。が、「エンダーのゲーム」にせよ「死者の代弁者」にせよどちらもほぼハッピーエンド、というか全体的には「楽観的」なストーリー展開なので、そちらが好きな人が「ゼノサイド」に鬱屈した印象を感じるのはムリないところではあろう、と思う。

ただ、ストーリーに多少突飛な部分があるなー、という印象はどーにも否めない。いや、SF的な部分には欠片も文句ないんである。光速を突破しようがどうしようが、SFとしての不満は全くない。

問題は、物語の終盤に「え、なんでこーなるの?」的な、ストーリーとしての「こぶ」の様な部分が幾つか見られることだ。これは多分最終巻「エンダーの子供たち」で収束する問題なのあろうとは思うのだが、前二作が100%に近いストーリーのまとまり方をしていただけに、多少必然性がない展開の様に思えることは否定出来ない。というかエンダーが不憫で。


ちょっと歯切れが悪くなった。取り敢えずかんそーぶんは以上なのだが、なんにせよ最終巻を読んでみたいという気持ちはある。あと、「エンダーのゲーム」の方の外伝はさらに出続けている様なので、そちらにも読書意欲がかなりある。読んだことがない方は、「エンダーのゲーム」「死者の代弁者」だけでも読んでみることをオススメしたい。
posted by しんざき at 11:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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