2025年05月03日

「メダリスト」9巻の光と司先生の会話シーンについて思ったこと

※注意:この記事には「メダリスト」の展開のネタバレが含まれます。特にコミックス9巻以降を読んでいない方には、この記事を読むことをお勧めしません。

「メダリスト」を未読の人はもちろん、アニメからメダリストに触れてまだコミックスを読んでいない方も、是非コミックスをお読みいただくのが良いのではないかと考える次第です。よろしくお願いします。

ということで、この先は「メダリスト」9巻をお読みであることを前提で書きます。折りたたみます。





この記事で書きたいことは、大体下記のようなことです。

・メダリストの9巻、光と司先生が言い争うシーンがめちゃ面白いです
・「主人公のライバル(光)」と「主人公の師匠(司)」というポジションのキャラが、同じ目線、同じ立ち位置で言い争うというのは、なかなか他の作品で見ないシーンだと思います
・このシーンが成立する要因1:司先生が、常に選手と同じ目線に立つ、「大人」らしからぬキャラであること
・このシーンが成立する要因2:夜鷹純の強さやあり方について、光が夜鷹純以上に言語化に成功していること
・このシーンが成立する要因3:司先生と光が、どちらも夜鷹純のフォロワーであり、夜鷹純をコピーするポテンシャルを持っていること
・こういうシーンが描かれることも、「メダリスト」の重要な魅力の一つだと思うのです

以上です。よろしくお願いします。

ということで、ノービスAの大会の後、土手で光と司先生が言い争う例のシーンについての初刊を書きたくなったのでまとめます。

まず思ったこととして、「このシーン、普通のスポーツ漫画なら描かないよな」ということなんです。もっというと、「何故このシーンは、夜鷹純×司先生、ないし光×いのりさんではなかったのか?」という話です。

このシーンで司先生と光が議論しているのは、要は「強くなるために犠牲が必要か否か」ということです。

光は、当然の前提として「強くなるためには何かを犠牲にしないといけない」と主張していて、その上で司先生に対して、「いのりが何かを犠牲にすることを止めるな」と言っている。いのりが強くなる上で、司先生が一種のブレーキになっていて、そのためにいのりは自分に勝てなかったのだ、と批判しているわけです。

それに対して司先生が反論しているのは、「強くなるために犠牲は必須ではない」「価値を計れない人間ほど、がむしゃらに犠牲を払えば報われると考える」ということです。司先生自身が、かつて「強くなるために全てを犠牲にして、しかし報われなかった」という経験の持ち主であるだけに、この言葉は非常に重いです。

これ、要は「強くなるためのスタンス、方法論の違い」という話ですよね。スポ根や格闘ものでは一番重要な要素、「主人公の生き様、生きるテーマの違い」というテーマ。

まずこれ、大抵の作劇では「主人公同士の議論」あるいは「戦う選手同士の議論」になると思うんですよね。

ここで、全然違う漫画から一つ場面を例示させていただきたいんですが、「幽遊白書」という漫画で、主人公である幽助と敵ボスである戸愚呂(弟)が、暗黒武闘会の決勝でちょうど同じような会話をしているんです。

戸愚呂「何かひとつを極めるということは、他の全てを捨てること。それが出来ぬお前は結局はんぱ者なのだ」
幽助「捨てたのかよ?逃げたんだろ?」「俺は捨てねえ しがみついてでも守る」(※←の台詞はそれぞれ違う場面で言っていますが、便宜上並記します)

盛り上がりましたよね。暗黒武闘会という作品中の一大イベント、その決勝というクライマックスでの「生き様のぶつかり合い」。これがあるからこそ、あの決着シーンがあんなに印象的になった。超好き。

これ、言い方は違いますけど、会話の内容はほぼ同じことだと思うんですよ。つまり、戸愚呂は「何かを極めるためには他を犠牲にしないといけない(=強くなるために犠牲が必要なのは当然)」と言っていて、幽助は「他を捨てれば強くなれるというのは安易な逃げだ(=犠牲は必須なものではない、むしろ安易な犠牲はただの逃げ)」だと言っている。この場合、戸愚呂=光で、幽助=司先生です。つまり光は戸愚呂弟だった。

会話の内容はともかく、この「強くなるためのスタンス」に関する議論というのは、本来「主人公vs主人公」がぶつけ合うような、作品の根幹に関わる非常に重要なテーマだ、ということは言えるでしょう。様々な作品で、主人公級のキャラクターがラスボス級のキャラクターと、こういう「強くなるためのスタンス」についての議論を交わしています。

けれど「メダリスト」では、「立ち位置的にはいのりさんの師匠ポジションである司先生」と、「立ち位置的には主人公のライバルである光」が、真っ向から「根幹となるスタンスの違い」を論じていて、全然違和感がない。「いのりvs光」の構造じゃないし、「司先生vs夜鷹純」の構造ですらない。これがとても面白い。

もちろん、そもそも「メダリスト」という作品自体、いのりと司先生のダブル主人公の作品である、ということはあると思います。司先生は、「教え導く」という立場の師匠ポジションではなく、むしろいのりと一緒に成長していくキャラです。当初は自己評価メタメタ、コーチとしても全く自信をもてていなかったのに、「いのりを世界一の選手にする」という目的だけのために自分の能力を活かそうとする。いのりの成長と同等かそれ以上に、「司先生の成長」というものもメダリストの主要テーマになっています。

かつ、司先生が「子どもとの間に全く立ち位置の差を作らないキャラ」である、ということも言えると思います。彼はいのりのことを「いのりさん」と呼びますし、小学生〜中学生のいのりさんを「この子」ではなく「この人」と言います。いのり以外についても、誰でも「○○さん」とさん付けで呼んで、相手を軽んじるということがない。だからこそ、「光との議論」が「子どもから受けた罵倒」ではなく、「対等の相手から受けた論難」になっていて、真っ向から反論しているし、対等の立場の議論になっている。

司先生、光の「あなたが夢を叶えられなかったのは、まだ捧げられる犠牲があったのにそれを手放す勇気がなかったからじゃないですか」
という言葉に対して、「叱る」でもなく「諭す」でもなく、対等な立ち位置としてごく真っ当にキレてるんですよね。「他者の大事なものを自分の勝手な感覚で測るな」というのは実に真っ当な反駁ですし、でもそこでちゃんと「ひどいことを言われて傷ついた」という開示もしている。これ、「大人と子ども」という立場では絶対発生しない反駁だと思うんですよ。選手とこういうやり取りが出来る司先生、独特なキャラクター過ぎる。

それとは別に、「光が夜鷹純以上に夜鷹純とそのスタンスを言語化できている」キャラである、という事情もあると思っています。

夜鷹純って、そもそもあまり「言語化」をするキャラではありません。光に対しても、基本的には「自分の演技を見せる」という形でしか指導をしていませんし、光が勝つ理由についても「自分が出来たから光も出来るはず」という程度の言語化しか(今のところは)していません。

一方、光は夜鷹純以上に「夜鷹純」を言語化できています。「夜鷹純は、金メダリストとしては誇りをもっているけれど、自分自身が無個性でつまらないと思っている」というのも光による言語化ですし、その上で「夜鷹純と似ているのは自分ではなくいのり」だと言っています。夜鷹純が見る世界の一切を見逃さないと言っていますし、夜鷹純をリンクに連れ戻したのも光です。

もちろん実力的に他の選手たちと隔絶しているということもあるんですが、光って「夜鷹純のフォロワー」という点で司先生と同じ立ち位置にあるんですよね。司先生がスケートを始めたのは夜鷹純がきっかけですし、夜鷹純のジャンプを見て自分自身のジャンプを進化させることも出来た。この辺、夜鷹純のスケートを見て自分のスケートを進化させている光と完全に共通していますし、だから光自身も「司先生が自分に似ている」と言っています。

「夜鷹純」という基準を通すと、光と司先生の立ち位置は同じ。その上で、光が夜鷹純を完全に言語化できているからこそ、「夜鷹純のありかた」と「司先生のありかた」の議論が、光を通して成立するのではないか、と。

このあたり、「主人公」と「そのライバル」を描くにしても、独特な立ち位置を作劇に活かしていて、メダリストは本当に面白いなーと。

そういう話でした。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 23:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 書籍・漫画関連 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック