2007年09月13日

宗教は自殺を抑止出来るか、という話。


気になった話題。

自殺と向き合えない仏教

つまり、「宗教は自殺を抑止する背景をそもそももっているのかどうか」という議論に落とし込める話じゃなかろうか。


ちょっとおさらいしてみたい衝動に駆られた。

何百年か昔、宗教と政治が並びたっていた時代には、割と明確な担当分野の区別が存在した。つまり、宗教は「彼岸」つまりは死後の世界、政治は「此岸」つまり生者の世界を担当する、という区分である。


ちょっと極端な書き方になるが、かつての宗教の最大の役割は、死後の世界を定義することだった。今でもそうなのかも知れない。「死んだ後どうなるか」というビジョンを明示することによって、信者の死への恐怖を希釈する。死が怖いのは「その後何があるか」が分からないからだ。宗教は死への恐怖を取り除く。

死後に救われると信じるから貧しい生活にも耐えられる。また「悪いことをすれば地獄に落ちる」と信じるからモラルを維持出来る。そういった点で、宗教と統治は長い間補完関係にあった。少なくとも近世くらいまではずーっと。


要するに、宗派による様々な違いこそあれ、宗教の本来的な仕事は「死んでも怖くないよ」と教えることだったのだ。テンプル騎士団が強かったのも、宗教戦争が熾烈になるのもその為である。まあ、そっちは話からずれるから置いとくけど。


で、話は冒頭のリンクに戻る。


宗教が自殺の抑止力になる為には何が必要か。というか、自殺の抑止力ってそもそも何かというと、

・生への執着
・死への恐怖


の二点しか存在しないと思うのだな。

要するに、「生きているのは楽しいよ」と納得させるか、「死ぬのは怖いよ」と体感させるか、この二つのアプローチしか自殺への抑止力は存在しない筈なのだ。


ここから考えると、それぞれの宗教が自殺に対してどんなスタンスを持ち得るか、ということが明確になる。


「死の怖さ」を強調する、要するに「自殺をしたら地獄に落ちるよ」と分かりやすく定義しているのがキリスト教だ。もっともこれ、教えとしては後付だった筈である。アウグスティヌスだったか。大学のゼミかなんかで、為政者の意図としての自殺禁止という議論を聞いた覚えがあるが、出典は忘れた。

その後ダンテによって、自殺者の地獄における姿が明確に描写されることによって、このスタンスが基底方針になった筈だ(多分)。



一方の仏教に関しては、往生要集とか色々とややこしい話が絡むから一概には言えない(特に原始仏教は)けれど、「死後世界の定義」「死に際してのモラルの維持」という役割に関しては、多くの宗教と同様、あるいはそれ以上の役割を担ってきたと思う。浄土真宗なんてその最たる宗派じゃないだろか。親鸞聖人は決して「念仏さえ唱えていれば極楽にいける」などと唱えた訳ではないのだが、実際の所そう誤解される向きがあったのは確かだ。

つまり、仏教が「死への怖さ」というアプローチをとることは基本的に難しい。


そして厄介なことに、仏教は「生きるのはすばらしいことだよ」とは、少なくとも分かりやすい形では発言しないのである。四苦四諦とか諸行無常とか、一面的に読めばむしろその対極を描写しているととられてもおかしくない。


つまり宗教は、少なくとも仏教は、構造的には自殺を抑止する要素をもっていない。

それをなし得るとしたら、無我とか涅槃とかの思想で悩みを軽減させる(つまり出家させるってことになるんじゃないか)くらいの方法しかないんじゃないか、と思う。僧侶個人がどう対処していくか、というのは各論だろう。

リンク先で語られている、「僧が二の足を踏んでいる」という事情には、そういった背景があるんじゃないかなあ、と思った。やはり「自殺」というのは生者の世界での事情であり、生者の世界の責任者、つまりは為政にしっかりして欲しいという意識はあるんじゃないだろか。


以上、考えてみたこと。アラは後で探してみる。
posted by しんざき at 12:39 | Comment(9) | TrackBack(1) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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この記事へのコメント
ちょいと調べもせずに、感覚で書きますが。
仏教の死後感は輪廻。教義としては苦である輪廻から抜け出すことが目的だと思います。
自殺しても苦である輪廻からは抜け出せないはずで、それならば仏教には自殺を喰い止める機構があるはずです。
しかしながら、日本の仏教は極楽浄土に重きを置いてるので、あまり輪廻が重要視されていない。本来極楽浄土は輪廻から抜け出すことを意味してると思うんですが。
というか、日本の宗教が宗教として機能していない以上、お寺さんが出張ることはできないのかも。
Posted by lastline at 2007年09月13日 15:20
>lastlineさん
あ、輪廻の話に触れてなかったのは片手落ちでした。補足ありがとうございます。

ただ、
>自殺しても苦である輪廻からは抜け出せないはずで、それならば仏教には自殺を喰い止める機構があるはずです。

「自殺しても結局解脱は達成出来ない」っていう教義が自殺の抑止力になる為には、輪廻からの解脱を重視する精神的風土が前提として必要なんだろうな、と思います。つまり結局「悟り」の思想の導入が必要なのかなーと。日本の仏教に関しては、おっしゃる通り、ちょっと違うのかも知れないですね。
また調べてみます。

>日本の宗教が宗教として機能していない以上、お寺さんが出張ることはできないのかも。

お神輿がどういう訳かお寺に収納されてる文化ですしねー。

Posted by しんざき at 2007年09月13日 19:41
仏教って本来「宗教」というよりは「哲学」だからな〜、とか言ってみるテスト。

あと、日本で「輪廻」の概念が抜けがちなのは、仏教はその土地の文化背景ごとに教義、というより「教え方」が違っているせいかな、とは直観的に思います。
そもそも、輪廻はバラモンとかヒンドゥーとか、インドの土着宗教の概念だったはずなので。
開祖である釈迦が「輪廻」を持ち出しているのは「一般に広まっている考えと絡めて説明を通り易くした」ということもあるのかな、と思う次第。
(↑「輪廻」でWikiったらそんな説もやっぱりあるらしい)
そういう意味では、日本の仏教も土着信仰であるところの「八百万の神」が仏と結び付いているあたり、仏教の性質をちゃんと受け継いでいるのかな、とか(笑

投げっ放しで終わります(ぉ
Posted by NOBIE at 2007年09月13日 23:25
自分の中での宗教の成り立ちは「どんな理を持ってしても説明できない状況を力技で説明する最終手段」といった整理をされてるので、例えば理不尽に辛い状況を説明して納得させる力が感じられれば信じられると思います。現状は例えば科学といった他の理があまりにいろんなことを説明し過ぎているので宗教の出る幕が少なさそうな。それにしても言及先の主旨がいまいち理解できません。僧侶が自殺抑止のアクションを取るべきなのが前提なのでしょうか?イメージとしては僧侶は教え導く人であるよりも先に、道を求める求道者のその過程にあるという感じな気がします。一神教にはやや規範意識が強いものが多い感じがして、やっぱり多民族の軋轢の中から出てきたのかなあと思いますが、どっちが偉いわけでもないような。

あ、酔った勢いの乱文失礼しました。
Posted by や at 2007年09月14日 00:10
私の個人的な経験上、僧侶や神父を含めて、他人に悩みを相談する様な人はそもそも自殺をしないです。

逆に、自殺をする人は、周りにほとんど悩みを打ち明けてくれません。

私は、だから『駆け込み寺』的な方向性は初めから、あまり意味がないと思います。
それでも、諸外国と比べて日本の自殺率が高いのは間違いがないので、宗教を含めた『文化』が自殺を防ぐ機能があるかどうかというのは、確かに一考に値するのでしょうね。

ただ、宗教を含めた『文化』はこの国の国民性、つまり『日本人』であることそのものを作り出しているので、『変え』ていくことは大変でしょう。

ただ・・・・私自身は、そこまでして自殺率を下げる意味を感じないのですが・・。
まあ、自殺をした周りの人は悲しみますが、
そもそも、自殺をした本人は、『周りの人のこと』なんか考えられなっくらい辛いから自殺をしたわけで・・・・。どうしようもないなあ・・・というのが自分自身の経験から得た個人的な感想です。
Posted by まさき at 2007年09月14日 12:40
皆さん勉強になるコメントありがとうございます。

>NOBIEさん
>あと、日本で「輪廻」の概念が抜けがちなのは、仏教はその土地の文化背景ごとに教義、というより「教え方」が違っているせいかな、とは直観的に思います。

なるほどー。
中国の仏教の広まりとか、日本の仏教とかちらちら調べてみると、その土地にもともとあった思想とどう結びついているか、とかで色んな差異がありそうですね。

・・・昔習った筈なんだけどなあ。

>やさん
>それにしても言及先の主旨がいまいち理解できません。僧侶が自殺抑止のアクションを取るべきなのが前提なのでしょうか?

コメントでも言われてますね。ただ、前提としては多分、自殺を抑止する力をデフォルトとして期待されている側面があるんだと思います。

エントリーからは綺麗さっぱり抜けてますけど、「僧侶が」「非信者に対して」自殺を抑止する、という前提で話が進んでる様に勝手に思ってましたが、よく見るとそういう前提が敷かれてる訳じゃ別にないですね。

>自分の中での宗教の成り立ちは「どんな理を持ってしても説明できない状況を力技で説明する最終手段」といった整理をされてるので、例えば理不尽に辛い状況を説明して納得させる力が感じられれば信じられると思います。

なるほど、シンプルだ。

>まさきさん
>私の個人的な経験上、僧侶や神父を含めて、他人に悩みを相談する様な人はそもそも自殺をしないです。
>逆に、自殺をする人は、周りにほとんど悩みを打ち明けてくれません。

それは確かに。現実的なレベルでは、僧侶が対処する以前の問題なのかなー、という感じではあります。

>ただ・・・・私自身は、そこまでして自殺率を下げる意味を感じないのですが・・。

ここはまた考えてみたい欲求に駆られました。
自殺率を下げる下げないっていうのは、基本的には政治の話なんですよね。多分。
Posted by しんざき at 2007年09月15日 00:57
おひさしぶり、かつ遅コメント失礼します。

私個人としては、自殺は止めるべきだという考えを持ってます。
で、これは、倫理的にどうとか、社会的に自殺率がどうとか、そういうことではなかったりします。

私の経験や知識上、自殺を望んでいる人は「正常な判断能力がかなり失われている」人がすごく多いです。
多くの自殺論は「その人がちゃんと考えた結論であって…」という視点で語られる事が多いですが、自殺願望者が「一過性の状態で『トチ狂ってしまっていて』、マトモに物を考えられる状態にない」という可能性が忘れられている事が多いと思います。

お恥ずかしながら、私も過去(自殺じゃないけど)問題行動を起こした時期などもありますが、後で振り返ると「あれは何だったんだろう…?」と思う事が多いです。
人間の意志や論理ってそれほど磐石でもなく、結構不安定なファクターに左右される事が多いです。

ですから、その人を不安定にさせている原因(医学的/社会的/他)を取り除いた状態にして、それでも生きる事に意義を見出せないという場合は、これはもう哲学的問題ですので容易に引き止める術も理由もないと思います。
ただ、その状態になってなお死を望む人がどれだけいるやら。元々、自然にしていれば「生きてしまう」ものを捻じ曲げる理由がある人は、正直そうそう居るとは思えないのですね。

だから、自殺論って、私は哲学的問題というよりは、まずはテクニック・手法のレベルの問題になると思っています。
「生き死には正気になってからゆっくり考えればいいから、今は問題要素を取り除くのが先でしょ」ってことです。
だから、近年自殺防止のために「福祉」と「うつ病対策」が重視されていますが、これは大賛成です。

うつの治療に用いる医学的メソッドで「認知療法」ってのがあります。
適当な説明になりますが…、
例えば「死にたい」って思ったりしたら、何でそう思うのかをノートに記させて、それが正しい可能性と、それが間違っている可能性を色々併記させてみる、なんてことをやります。
(実際はもうちょっと違いますが)
そうすると、「あれ、書き出してみたら、俺の考えてる事ヘンだぞ…」ということが段々わかってきたりします。状況や自分に対する理解・認識(認知)が変になっているから、それを補正していく、というメソッドですね。
だから、この療法においては「自殺は悪い」じゃなくて、「そもそも自殺しよう、ってのはヘンな状態だから、それを正せば自ずと結論は出る」ってスタンスです。

さっぱり、宗教・哲学に話が及びませんでしたね。
失礼しました。
Posted by さいとう7 at 2007年09月30日 19:11
>さいとう7さん
自殺論に関しては、おっしゃる通りでいろいろと難しいですね。

>ですから、その人を不安定にさせている原因(医学的/社会的/他)を取り除いた状態にして、それでも生きる事に意義を見出せないという場合は、これはもう哲学的問題ですので容易に引き止める術も理由もないと思います。

宗教に関して言えば、そういった不安定な人に基盤を与える(信者になるという意味になりますが)という働き方をすれば、自殺の歯止めになるのかも知れないですね。
まあ、今回の文脈だと「宗教者が自殺にどう対処するか」という話になっていましたが。

>例えば「死にたい」って思ったりしたら、何でそう思うのかをノートに記させて、それが正しい可能性と、それが間違っている可能性を色々併記させてみる、なんてことをやります。
(実際はもうちょっと違いますが)

む、なるほど。
うちの奥様は臨床系なんですが、多分その辺も知ってるんじゃないかと思うのでまた聞いてみます。
Posted by しんざき at 2007年10月02日 19:37
大学のレポート作成中立ち寄ったのでコメントしてみます。
大学で社会学を学んでいるのですが、デュルケームという社会学者の自殺論の中に宗教と自殺に関する記述があるんですが、キリスト教においてカトリックとプロテスタントではプロテスタントの方が自殺率が高いそうです。その理由として挙げられているのが

意義の自由検討の余地

だそうです。つまりは教義のガチガチな宗教ってのは社会の凝集力があり、社会の凝集力が高いほど反比例して自殺が少ないそうです。イスラム教とかは自殺率少ないみたいですね。
大抵の宗教には自殺がダメと書いてあります、そして自殺しちゃうのは宗教に疑問を持つから…ってことですね。

その中で仏教ってのは比較的自由な気がします。そもそも意義とかをひたすらに考えていくような内省的なイメージですね。凝集力として考えると確かに抑止としてはあまり働かない気がします。

長文失礼しました。
Posted by アントニオ at 2009年01月21日 02:42
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