2007年10月04日
「真実」の値段。
なんかここんとこちょっと首を傾げることが多いので、以下、当たり前のことを書く。
事実と真実は全くの別モノである。
過去にある事件が起きたとして、我々にはタイムマシンも透視能力も備わっていない訳であるから、「その時起きたこと」という「事実」を100%解き明かすことは、往々にして難しい。というか、大体の場合は不可能である。
といっても、「何が起きたか全然分かりません」というのでは物事色々と上手くいかないから、ある程度蓋然性をもった、「こういうことが起きたんじゃないかな」という共通認識を事実の代わりに用いる。これを真実と呼ぶ。歴史は事実ではなく真実から出来ている。
「真実」は当然追究をする作業を経なければ浮かび上がってこない。この作業には大抵の場合複数の人間が関わることになり、これは分野によって多少性格が変わってくる作業になる。例えば歴史、あるいは過去の事件や犯罪、こういった分野で真実を追い求めることを、取材といったり調査といったり捜査といったりする。
事実には手が届かない。
真実は人の手を経る。
故にと言うべきなのかどうか、真実は往々にして力関係の所産となる。シュリーマンは遺跡という強大な力を手に入れて、非常に蓋然性の高い真実を形成することに成功した。解き明かされなかった冤罪というのは、冤罪を吹っかけられた人が司法の力に負けて、新たに出来た「真実」に服すことになった結果である。
歴史というのも同じ様なもので、「実際に何があったか」という「事実」を知ることが出来る人間など存在しないのだから、結局の所「真実」の蓋然性をどう評価するか、という問題でしかない(当たり前だが、人間の記憶というのは単なる真実であって、事実ではない)。そこに色んなオトナの事情が絡む。
過去に起こったことに関する議論というのは、つまり都合の良い真実と真実の押し付け合いだ。これは良いも悪いもない、「しょうがないこと」である。だから我々は、共通認識としての真実をどう受け止めるか、あるいは自分にとって蓋然性のある「真実」を周囲に認識させる為に何をすればいいか、それに腐心することになる。
事実にはどうせ手が届かない、ということから目を背けるから苦労することになるのだ。真実の語り手になりたいのなら、それにふさわしい腕力を身につけるべく、筋トレの一つもすればいい。
真実なんてその程度のもの。もっと気楽にやればいいのに。

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