まず、事の始まりは「むだづかいにっき」のえっけんさんのエントリーである。
「ブログは記事単位で読まれるもの」だからして、その記事内において発言内容が変わるのであれば、確かにこれはちょっと問題でしょう。しかし過去ログでの発言との食い違いがある可能性はあります。それは否定しません。その時に考えた事と、現在の発言内容に食い違いがあることは、別に恥ずかしい事とは思いませんが。
話を整理しよう。上記のエントリーの具体的内容に関しては、よそ様のブログの事件なので細かい踏み込みを避ける。ただ、基本的には
・以前書いたこととくい違うことを書いている、ということに関する批判
という様なコメントとそれに伴う議論があったんだと考えていいだろう。
むだづかいにっき様のコメント欄にも書いたが、何故かネットでは物凄い精度で「思考の一貫性」が求められる様に思う。2ちゃんねるの様な批判のライブラリを眺めると分かりやすいが、「以前言ってたことと違う」という言動はどんなページでも格好の批判の的である。例えば思想系のページが攻撃される際、以前の話が色んな角度からテッテー的に分析され、現在の言動との不整合が見つかった瞬間に攻撃者側がハイペースで勢いづき、しまいにはページが「炎上」に持ち込まれるとか、実によくある話であったりする。
別にネットに限った話でもなく、議論や思考においてはとかく「一貫性」が求められ、「頑固一徹」とか「一本筋の通った」という言葉がもてはやされる傾向が割とあちこちに見られる。日本だけの話なのかどうか知らないが、変節や言動の変化を好まないのは社会の一般的な風潮の様だ。
まず、ここで私が感じた違和感。「思考の変化を伴わない議論や思索に、意味はあるのか?」
以前にブログと議論のエトセトラとかでも書いたかも知れないが、議論の本来の目的は勝ち負けじゃないだろうと私は思う。そもそもやるべきことは、議論を通じて相手や自分の思考を純化・研磨していくことであって、入力する思考と出力する思考が全く同じなら議論の意味は存在しないんではなかろか。これ、私は当然の前提だと考えている。
この前提があった上で冒頭にあげたエントリーを読むと、あれ、と思う。思考や言動の変化は「あって当然」の筈なのに、何故か批判の対象になる。というか、私自身、思考の一貫性は重要だという意識がある。
これって何でだろう。と思ったので、ちょっと頭ん中をひっかきまわしてみた。
以上前置き。
まず、分析。私の頭ン中の話なのだが、この場合の「言動の変化」とか「思考の変化」というものは、おそらく次の2パターンを混同しているんではあるまいか。
A.短いスパン、あるいは同じ議論の中で自分に都合の良い様に見方を変えること
B.議論、あるいは思考を経て、確信的に自分のスタンスを変えること
この場合、通常批判される「変節」とか「ダブルスタンダード」と呼ばれるものは、多分Aのことを意味しているんではないかと私は思う。まあ我田引水とも自分勝手とも言えるし、こちらの「思考の変化」はあまり見てくれの良いものではない。そもそも芯が通った思考がそうころころと変化する訳もないのであって、こちらのパターンでは「表面だけの思考」であることが丸分かりである。Aが嫌われるのは多分その為だ。
一方のBは、私が考えるところの「思考の本来のゴール地点」という奴である。きちんとステップを踏んで考えて、その上で自分の意志で自分の思考を変える。一概に成長とばかりは言えないかも知れないが、これは本来議論にも思想にもつきものである筈だし、またそうであって然るべきだ。
つまり、芯が通った思考が筋道立って変化するのであれば、それは批判される筋合いのモンでもないよね、芯が通ってない思考はかっこ悪いよね、という結論が取り敢えず出せる様だ(政治家の変節とかに関しては、言辞の責任というものが伴って話がややこしくなるのでここでは避ける)。
以上、「思考が変わる」側の整理。考えてみれば当然の話だ。
話はここからだったりする。
まず厄介なことに、意見を聞く人やページの読者にとっては、そもそもAとBの区別をつけること自体が容易でない。
当たり前のことだが、思考は脳みその中で行われる。人に内容を開示出来る様なもんではない。つまり、その思想が実際に筋道立って変化したものなのかどうか、聞き手の側にはそれ相応の読解力が要求されることになる。
ネットの特性というものが加わると、更に話は厄介だ。当然のことながら、あるエントリーとあるエントリーの間に一年の時間的空白があったとしても、読む側から見ると2、3回のクリックだけで容易に二つを比較対照出来る。その間にあった筆者の思考というものはそう簡単に看取出来るものではないし、また読む側に攻撃の意図があったとしたら尚更看取などする訳がない。
つまり、本来「B」の変化であったとしても、読む側にとっては非常に「A」と混同されやすい、あるいは意図的に「A」と断定されやすい、という側面がある様に思うのだ。なにしろAの方の「言動の変化」のイメージは非常に悪い訳で、攻撃のネタにする場合には実に実に都合がいい。数が揃っていることが通例である攻撃者の側から見れば、格好の「弱点」な訳である。
で、これが書き手の側にも影響する。
「A」の変化だととられることを恐れて、たとえ筋道立った思考の変化があったとしても「B」の表現が出来ない。あるいは、書き手自身にもAとBの区別が明確でなかったりする場合、「B」を「負け」などと意識して、頑なに自分の思考を変化させることを拒む、なんて場合もあるかも知れない。これも以前のエントリーで書いた気がするが、思想に絡む議論が不毛な結果に終わることの一因に、もしかするとこれもあるのかも知れない。
一言で言うと、「A」のイメージが悪すぎて「B」の方まで悪影響を受けている。
「攻撃者の視点」が書き手の精神的成長を妨げている様なケースがもしあるのだとしたら、実に不幸としか言い様がない。実際ソースが出せる訳じゃないんだが、これ、ネットではかなりあちこちで見受けられる話なんではないか。
結論として、こんな感じでまとめられそうだ。
・思考や言動は芯が通っているべきである。
・が、芯が通った上で、筋道立った変化が生じるのは当然である。
・当然の変化は、案外他人からは理解されにくい。
・言動や思考の不一致があっても、すぐ攻撃するのは避けた方が。
どんなもんだろう。
私なんぞは一部の内容を除いて割と思考的土台がふにゃふにゃだったりする人なので、言動の不一致もひょっとするとダース単位であったりするかも知れない。一応本人の脳内ではそれなりに考えた結果の筈なので、このブログ内で矛盾を見つけたりしても、あまりいじめないで頂けると幸いである。
ターザン山本!氏はいつも言う事の整合性が取れてないと
言われると「瞬間の真実なんですよぉぉぉぉ!」
と言ってました。
その時俺はそう思って、今俺はこう思ってる。
それだけなんですよぉぉぉ!って。
そのくらい寛大なら良いんですけどねぇ。
詳しくはコチラ↓
http://www.ibjcafe.com/talk/tarzan/
それでは、失礼しました。
むしろ霊占確定状態で狼私一人とか勘弁してください。
「A」から「B」への変化が、他人にも理解できる合理的なものならいいんじゃないかなあ。
なんで人間が話し合って議論する必要があるかといえば、基本的には「生活・現実の中で、自分と関係のある(相互に・直接影響がある)相手とうまくやっていくため」です。
(「うまくやっていく」には自分のために相手を説得したり言いくるめたりってのも含みますが)
自分との関係が深い相手であればあるほど共有する時間も長くなることが多いですから、お互いの「変化」について自他の認識を一致させるための話し合いの時間もあります(持てます)。
でもネットでの(活字での)議論話し合いとなると、議論の"前提"としての自他の認識を一致させるだけで相当な労力と時間要しますし、そもそも実質的な利害関係が殆どないだけに、お互い「この相手とはじっくり時間かけて話し合おう」とする必要性すら、お互いがそう進んで思わない限り生じない訳です。
だから、短い文章での論理矛盾ではなく「おめーの言うこと食い違ってる」ってネットで攻撃するような人は、そもそもその攻撃相手とちゃんと話し合う意志なんかない訳で、自分の変化変節を仔細に説明しなければならないケースはネットでは非常に限られている、つまり「そう気にしなくてもいいじゃん」って結論になってしまうんですが(苦笑)
上のぷえるさんのコメントに無理矢理理屈つけるとこういうことかな・・・
長文失礼致しました。
サンクスですw
後、裏を返せば
こんな「真実」や「確か」な「不変」なモノや事が無くなっている現代社会だからこそ、自分以外の物(者)に無意識にそれを求めてるという所もあるのかもしれない。
「誰か俺に信じるとラクになれる救いをくれよ!」みたいな
そしてそれは自分だけでなく万人が納得出来る真理でなければいけないので、攻撃してみるという審査行為が起こるのかも
適当な嘘偽りが混ざった状態で出てくんじゃねーよって事でもあるけどw
>直接被害の及ばない無責任なネットで他人を攻撃して憂さ晴らししてる人間が増えてるだけじゃねーの?
うーん。どうなんでしょ。ネットで人を攻撃する人は多いですが、それが社会と結びついてるのかどーかはなんとも分かりません。
リアルへの影響の少なさについては、neo_central_dogma108さんもおっしゃってる通りですね。
>攻撃してみるという審査行為が起こるのかも
むむう。攻撃=審査行為ですか。これは考えたことがありませんでした。面白い考え方ですね。
そのうち考察のネタに使わせてください。
>USHIZOさん
>「瞬間の真実なんですよぉぉぉぉ!」と言ってました。
それで済むかは取り敢えずキャラ次第。それで済ませられるブログでありたい。
>Zhaoさん
>人狼やってるとまさに「以前と言っていることが違う」とか攻撃されるんですが、
あー、人狼はシビアですねー。っつーか、あれはまさに「疑うことが前提で、その材料探し」というのが説得の過程に必要になってくるんで、ある程度しょーがねーという感じはします。ただ、村人はまさに、「思考の変化の過程」を明示してないとバリバリ不利になりますね。
ああ、これなんか突き詰めれば攻略法に使えるかも知れないw
>「A」から「B」への変化が、他人にも理解できる合理的なものならいいんじゃないかなあ。
合理性は大事。ただ、その上で、最終的には理解してもらえるかどうかの決定権が相手にあるのが厄介なところで。
>「何を言っても、リアルな場で・実生活で直接影響が出ることが非常に少ない」
そうですね。言ってしまうと、それがネットと実生活の議論の最大の相違点なんだと思います。
どーしようもないんだけど。
>お互い「この相手とはじっくり時間かけて話し合おう」とする必要性すら、お互いがそう進んで思わない限り生じない訳です。
ネット上の議論って、その9割くらいが上の一言で説明出来そうな気が。
>通りすがりさん
>前の思考から変わったことを明確にすれば良いのですよね。
それは、上記の誤解を防ぐ有力な手段の一つですよね。まあ、毎度きちんきちんと記録を残せるかってゆーとそれもなかなか厄介なんですが。
その時過去と現在の論調に大きな隔たりがあり、かつその隔たりがなぜ生まれたかの説明がないと上で通りすがりさんがおっしゃっていらっしゃるように混乱すると思います。
もちろん「うちの記事は全部記事単位で読んでくれ」と閲覧者に言うことは出来ると思いますが、そもそも一つのブログに通う人というのはそこの管理人の人柄とか扱っているテーマや姿勢などに惚れて通うのではないでしょうか。
例えば今不倒城に通っていらっしゃるみなさんはしんざきさんの書かれる記事が好きで読んでらっしゃるのだと思いますが、明日の日記がいきなり「タ●トーは昔からろくでもなかった」とかだったら引きます。しかも何の説明もなく突然そう書かれたら、「裏切り者ー!」と叫ぶかもしれません。
コメントありがとうございます。
>失礼ですが、「ブログは記事単位で読まれるもの」というえっけんさんの前提が少々誤っているのでは?
うーん、そうですね。「記事単位」と限定すれば人によるかも知れません。ただ、私が上記で挙げたA、Bの枠組みは基本的には崩れないだろうと私は考えています。で、えっけんさんにとってはAのひとつの基準が「記事単位での不整合」ということだった、とはいえるんではないでしょうか。いや、人の思考を勝手に解説してどーすんだコラって話もありますが。
>その時過去と現在の論調に大きな隔たりがあり、かつその隔たりがなぜ生まれたかの説明がない
で、おそらくこの「大きな隔たり」っていうものの基準も人によるんでしょう。おっしゃる通り、現在言ってることと180度言動が違ったら、違和感を覚える人の方がそりゃ多かろうと思いますし、そもそもそこまでの隔たりはレアケースじゃねえかという気もします。程度の問題が絡むとちょっとややこしいですね。
>明日の日記がいきなり「タ●トーは昔からろくでもなかった」とかだったら引きます。
それは多分うちのブログが誰かにハッキングされてますので、そちらの心配をして頂けると嬉しいです。私もきっと引きます。
今まで好きだった人をいきなり嫌いになったりするのと同じように、人間は感情の生き物ですので環境によって思考は変化するものだと思います。ただ、理由も無く無節操にコロコロ変化するのはたたかれて当然だと思いますが、世の中には相手を攻撃して自分が優位に立つことで快感を感じる人もいるということなのでしょう。
人は何故、「読むと不快になる文章」をわざわざ読みたがるのか。
を読んでから 何となく ここに居着いております わたくし〜。面白うございます。
昔私が書いたネット議論論でも同じようなことを考えていました。10年くらい前ですけどね。記憶を手繰って共通点をいくつか。
「筋がとおっていないものは文章ではない」
記事の結論で言うと一点目と二点目ですね。
「発言を翻すときは説明する」
リアルでもあたりまえのことですが、ネットだと時系列的に記録が残るので明示する必要があります。しないと読み手が混乱してしまう。これはしんざきさんの結論の三点目と同じようなことですね。
「読み手は好意的な解釈を心がける」揚げ足取りは間違いなく議論が迷走します。しなくてもいい議論や説明を呼び起こしてしまう。にちゃんねるでは、無意識のうちに悪意ある解釈をしてしまい、話が紛糾するというパターンがやたらと多いですね。心の持ち方一つで変わるんですが。これは四点目に近いです。
「悪意ある論客は必ずいる」今回のはどちらかというとこれではないかなと思います。論破したいだけとか叩きたいだけとか。
こう考えると10年前とほとんどかわってないな・・・。まぁリアルでのコミュニケーションですら、ここ10年で社会全体が進歩したとも思えません(というか後退している?)から仕方がないような気もしますが。
で、言動の変化はだめなんてことはもちろんなくて、その変化を説明できるか・したかという点と、叩きたがり屋さんは相手にしないというあたりに落ち着くんじゃないでしょうか。
コメント欄では、説明といっても相手に理解してもらうのが難しいというようなことをしんざきさんはおっしゃっていますが、まぁそういうディベート技術寄りな問題は別の議論に分けたほうがいいでしょうね。
>哲学科出身の人などはなかなか意見が変わりませんね。自分の中で思考じゃなく信念というものを持っている。
うーん。哲学っていうのは割と思考の根っこの方に位置してそうですから、やっぱりそれだけ確固なんでしょうか。思想が柔軟か頑固か、っていうのは普段の思考の方向性にもよりそうですね。
まあ、私の知り合いの哲学畑の人間には、朝に言ってたことを夕方には140度くらい転換する極端なヤツもいましたが。
>世の中には相手を攻撃して自分が優位に立つことで快感を感じる人もいるということなのでしょう。
攻撃欲求とか優位にたつとか、そーゆーものはダレにでもあるものかも知れないです。リアルでは人に迷惑をかけないっていう倫理が大抵それを押さえ込んでますけど、ネットだとまだちょっと倫理が弱い部分はあるでしょうね。
>ようこさん
お褒めの言葉、ありがとうございます。一応レトロゲームの話とかがメインのブログですが、たまにこーゆーのも書いてますので、ごひいき頂けると幸いです。
コメントありがとうございます。
>「悪意ある論客は必ずいる」今回のはどちらかというとこれではないかなと思います。論破したいだけとか叩きたいだけとか。
そうですね。幸いうちは普段のメインがこれ系じゃないんで、そこまでとんがったコメントを頂くことはあんまりないですが、特に議論系のブログをやってらっしゃる方は大変そうです。
Webの記事ってのは、色々批判しやすい要件がそろってるんでしょうね。静的だし文章だし。
>無意識のうちに悪意ある解釈をしてしまい、話が紛糾するというパターンがやたらと多いですね。
ですね。ただ、2ちゃんねるは2ちゃんねるで、ああいう雰囲気が好きな人の居場所になっているというだけでも物凄くネット全体に貢献している様には思います。煽り好きホイホイとゆーか。
>まぁリアルでのコミュニケーションですら、ここ10年で社会全体が進歩したとも思えません(というか後退している?)
うーん。これはちょっとわき道にそれますが。
リアルでのコミュニケーションっていうものは、ある種の過渡期にある様には思っています。ネットですとか携帯ですとか携帯メールですとか、その辺の新たなツールの普及の影響が色々と。後退しているとは私は思いませんが、過渡期ならではの混乱が起こっている様には見えますね。
まあ、そもそもネットでする話かって言われると違う気もしますが。
考えてみれば、これだけ携帯・ネットが当たり前になって、1日程度の短い範囲で見ると、面と向かって話すよりこうして文章でコミュニケーションする回数や時間の方が多いって現象は、意外に多くの人に見受けられるでしょうしね。
その現象が増えることによって、後退か混乱かはともかく少なくとも既に変質はしているのかもしれませんし・・・
1トピックス1エントリーが読み手には歓迎されやすく、発信者もそれを心がけている人が多いでしょう。
しかし議論自体コメント欄やトラックバックなどで行われるのが主でしょうから、変化後にそれを説明するのが冗長になりがちです。
ブログの本体がエントリーであると認識している(されている)間はエントリー間のギャップを生じさせないでおこうとしてしまうんでしょうね。
>ブログの本体がエントリーであると認識している(されている)間はエントリー間のギャップを生じさせないでおこうとしてしまうんでしょうね。
この文章だけで 30分 画面の前で遊べます。
なるほど〜。
お〜。色んな事を考えたんですが いざ 書く となると 何を書いてよいやら。
全然 反対に見える意見(でも どちらも 自分の意見)というのを のせておいて そちらに つらつらぶらさがっていく コメントなり トラックバックなり 群 それを見ていると 面白いだろうなぁ。。。という気がしました。
どんなものが ぶらさがっていくのか どちらのツリー(?と言うのでしょうか? ブログでは?)でも つい耳を傾けたくなる様なコメントが並ぶ様な そんな生き方をしたいなぁ と 何となく 思いました。
>自分の考えてることまとめようと思ってエントリーにしてトラバも送らせて頂いたんですが、
読ませて頂きました。精密ですね。コメントさせて頂こうと思ってるんですが、考える内容が多くてなかなか時間が。すいません。
リアルコミュニケーションについては、ちょっとカテゴリが違うっぽいですね。それはそれで面白そうな問題ですが。
>Piedさん
コメントありがとうございます。
>しかし議論自体コメント欄やトラックバックなどで行われるのが主でしょうから、変化後にそれを説明するのが冗長になりがちです。
>ブログの本体がエントリーであると認識している(されている)間はエントリー間のギャップを生じさせないでおこうとしてしまうんでしょうね。
うわー、なんだかコメント欄で次々楽しそうなネタが出てきますね。ちょっと消化に時間がかかりそうな雰囲気です。
ブログの本体、という話はエラい興味深いです。そーゆー構造論とかが結構好みなので、その内また書かせて頂くかも知れません。
>ようこさん
>全然 反対に見える意見(でも どちらも 自分の意見)というのを のせておいて そちらに つらつらぶらさがっていく コメントなり トラックバックなり 群 それを見ていると 面白いだろうなぁ。。。
昔、ディスカッションの練習というのでそーゆーことをやりました。賛成反対両方の意見を自分で構成する、とゆー。アレもなかなか面白かったなあ。
いえいえ、たらたらした長文を最後まで読んで頂けたのであれば、それだけで書いた甲斐があるというもので(笑)
何かしんざきさんが思いついたのであれば、のんびりコメント書きにいらして下さい。
リアルな場でのコミュニケーションの話は、あのエントリーでは勿論ネットとの比較において書いてるんですけれども。
とても面白い内容の記事でした。ある人の話によると、人間の一貫性というのは他者が求めるものと言っています。それは「(他者が)理解しやすいから」それのみに尽きるのではないかと思います。
次に、人間の社会性を考えると「一貫性」がある程度あったほうが付き合いやすいということはあるでしょう。Aの部分とBの部分はうまい具合に合わせて誤魔化すこともできるのでやはり、判別は難しいですね。
いろいろ考えますが、一貫性がなくても攻撃されない所もあるので、なんらかの感情が何かのキーワードで高ぶっているものと、高ぶらせてしまうという関係がお互いにあるという見方もできるかもしれません。
私が見ている限りでは、書き手が「思考の変化を楽しんでいない、または言葉だけで思考は変化するもの」と書いていると、細かいところにそれがウソというか、言葉だけだとわかってしまうことがあるんだと思います。
自分の思考の変化を楽しむのであれば、相手の嗜好の変化も受け止めることができるはずだと思うのですが、それがないとやはりしんざきさんの書く、
「この場合、通常批判される「変節」とか「ダブルスタンダード」と呼ばれるものは、多分Aのことを意味しているんではないかと私は思う。まあ我田引水とも自分勝手とも言えるし、こちらの「思考の変化」はあまり見てくれの良いものではない。そもそも芯が通った思考がそうころころと変化する訳もないのであって、こちらのパターンでは「表面だけの思考」であることが丸分かりである。Aが嫌われるのは多分その為だ。」
この部分に捉えられやすいと思いますね。
特に、私が勝手に感じているのは「人は変わらないもの」という考えが知らないうちに、書き手に身についていてそこから抜け出せないのにもかかわらず「思考の変化はあって当然」というようなことを書き綴っている書き手のサイトは荒れやすいように思うんですね。
前にも書きましたが、この場合荒らす方も「変わらない、変えられない」人たちが多いような気もします。
長くなりました、すいませんでした。
>「人は変わらないもの」という考えが知らないうちに、書き手に身についていてそこから抜け出せないのにもかかわらず「思考の変化はあって当然」というようなことを書き綴っている書き手のサイトは荒れやすいように思うんですね。
「変わらない」ことが是とされている風潮の要因は、なにかもーちょっと違うところにもある様な気がしています。まだあんまりはっきりしていないですが。
>それは「(他者が)理解しやすいから」それのみに尽きるのではないかと思います。
これは間違いなくあるでしょうね。
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多大なスペース、ありがとうございます。
不適切であればお手数ですが削除よろしくお願いします。