ちょっとひとり語りをする。
昨日のエントリーを書いてから、また別の幾つかのエントリーを読んで、色々考えた。
十年来の知人がいる。まあ、「親友」というラベルをぺたりと貼っても、凄く嫌そうな顔をしつつもまあ勘弁はしてくれるかな、という感じの仲である。
私と彼は、多分割と相談事を持ち込まれる、あるいは愚痴を聞かされる方だと思う。
「彼の自己評価」と、「私の彼に対する評価」が一致しているかどうかは分からない。というか、まあ、おそらく違っているだろう。ただ、私自身は、彼と私の相談事の聞き方は結構違っている様な気がしている。私に愚痴を聞かせる人と、彼に相談ごとをする人は、求めているものが大分異なっている様な、そんな気がしている。
昨日のエントリーでも書いたが、「つらそうな人」の言葉を聞く時、私は何も言わない、というか何も言えないことが多い。言ったとしても、一見関係がなさそうで実はありそうで、でもよく考えてみるとやっぱり関係ない様な、その程度の言葉である。
昨日のエントリーで書いたことをもうちょっと明確な言葉にすると、私は「つらそうな人の言葉を聞いて、それに被せて自分の話をすること」があんまり好きではない。そして、自分の話をして相手を励ました気になっている人も、同じくあんまり好きではない。
だが、私はつらそうな人の言葉を聞いて、その上で相手の話をしようとしても言葉が見つからないから、つらそうな言葉に自分の話を被せるのは嫌いだから、黙って聞いていることが多くなるのだ。
私の知人である「彼」は、多分だけど、つらそうな人の言葉を聴いた上で、自分の話ではなく、相手がどうした方がいいと思うか、道を明るくする言葉を投げることが出来る。彼の言葉は照明だ。私の言葉は、まあ、最大限褒めても常夜灯くらいにしかならないだろう。
照明が欲しい人は彼の所に、常夜灯が欲しい人は私の所に、相談事を持ち込む人が多いんじゃないかなあ、と私は曖昧に思っている。
さっきから「多分」とか「思う」とかばかりだが。一つ確かなことは、上記の文章を読んだら彼は苦笑いするだろう、ということだけだ。さっきも書いたが、「彼の自己評価」と「私の彼に対する評価」は、おそらく随分異なる。まあ、彼のことだから多少の勘違いは勘弁してくれるだろう。
話は変わって、Webの話になる。
ここ二、三日、つらそうな人の言葉を読む機会が多い。
私の行動特性は上記の様な感じなので、怒っている人にちょっかいをかけることは結構あるけれども、つらそうな人にちょっかいをかけるのは苦手である。
だから、黙って読む。
私には大した共感能力はない。その人のつらさに共感出来る自信などこれっぽっちもないから、共感すら表明しないし、共感すら表明出来ない。実際、私は「つらさ」というものに対して、それ程共感していない様な気がする。私は元来、あんまり辛さを感じないタチである。
だから、私が一番共感する反応は「沈黙」だ。つらい人の言葉を聞いて、コメントしなかった、ブックマークすらしなかったたくさんの沈黙に、私は共感する。それら沈黙の何%かは、もしかすると私と同じ、つらい人に自分の言葉を被せたくなかった故の沈黙かも知れないから。
一方で、この沈黙が常夜灯としてすら働けないだろうことを、ほんの僅か残念に思う。
沈黙は相手に届かない。Webでの沈黙は、Web以外での沈黙以上に相手に届かない。ある意味、沈黙は届かないことにこそ意味があるのだから、それはそれでいいのだろうと思う。
ただ、つらい人があんまりつらくなくなるといいなあと思いながら、せめてそれ以上に自分の言葉を振り掛けたくないが故の沈黙もあるということが、少しばかり伝わるといいなあと、矛盾する様だけれど、そうも思う。
話は変わるが、昨日の「HP1」の人は、やはり相当落ち込んでいた。鬱病が始まるのって、もしかするとこういう時なのかも知れない、とか思った。
だから私は彼を昼飯に誘った。
彼の愚痴は、やはり私にはピンとこないものではあった。だから黙って聞いた。一通り話が済んだ後で、さっきまで隣のテーブルで飯を食っていた人がアンドレ・ザ・ジャイアントに凄く似ていた、という話をした。いつの間に目が悪くなったんだ、と言われた。私は嘘はついていない、少なくとも髪型と横幅はそっくりだった。
私には、ケアルもホイミもDiosも使えないし、実際の所誠意もあまりない。ただ、彼の自然回復の邪魔をしないで済めばいいと、そう思っているだけだ。
2007年11月08日

この記事へのトラックバック
ネタを吸い、沈黙を吐く
Excerpt: 私が一番共感する反応は「沈黙」だ。つらい人の言葉を聞いて、コメントしなかった、ブックマークすらしなかったたくさんの沈黙に、私は共感する。それら沈黙の何%かは、もしかすると私と同じ、つらい人に自分の言葉..
Weblog: 広告β
Tracked: 2007-11-10 01:07
悩んでいる人には2種類あって、本当にどうすればいいか分からない人と、答えは出ているけど踏み出せない人がいる。
前者にとって沈黙は意味を成さないので、何かアドバイスをしてあげる方がいい。そして気楽にすればいい。責任なんて誰も取る必要はないし、取ることはできないのだから。人生は相手のものだ。
後者は話を聞いてあげるだけで、相手が考えをまとめる助けになる。逆に自分の考えを伝えるとむしろ邪魔になることがあるかもしれない。聞き役に徹すれば、相手は自分で最適の道を選択することができるだろう。
WEBの話。
記述された情報以外は意味を持たない世界では、沈黙は無視と等価になる。それが疎外であり孤独であるならば、沈黙は罪悪でなかったとしても、意図しない攻撃力を持つことがあるかもしれない。
では自分の言葉を示すのが正しいのか。答えはイエスであり、同時にノーでもあると思う。結局のところ、それは現実の場合と差がなく、示すのがいい場合もそうでない場合もあるはずだ。それは状況に応じて適切な選択肢を取ればいいのだが、どちらを選択したとしても、無視よりはマシなように思える。
ならば、沈黙以外のアプローチを取るとして、自分の言葉をかぶせたくないときどうするか。私は声をあげるだけでいいのではないかと思う。例えば当たり障りのないようなメッセージ。コメント欄に並ぶのがそれだけだとしても、全くレスがないよりは救われるのではないだろうか。
いずれにせよ、他人の人生だ。どこまで行っても結果を享受するのは自分ではない。共感は相手のためにならない。相手の意見が必要ならばそれは自分と同じ視点ではなく、離れた場所からの俯瞰のはずだ。
結局のところ、相手の悩みも苦しみも本来自分が味わうことのできない感覚だ。それを分けてくれるというのは貴重な機会なのだから、無理に共感してもっともらしいことを言うより、存分に楽しんで、思うがままを言えばいいと思う。相手は嫌なら見ないか耳をふさぐよ。
知らなかったので「あしあと」っていうのが
けっこう新鮮でした。
おおげさに言えば「沈黙」が伝わる感覚。
なんかとりあえず見られてるな、という。
それがあると埒のないことも
わりと書きやすい気がする。
まあ、日記に対しての
「コメントしづらいわ。」という
無言の圧力に思えることもありますが。
>G3
>本当にどうすればいいか分からない人と、答えは出ているけど踏み出せない人がいる。
多分なんだけど、「答えは出ているけどそれを自覚してない人」というカテゴリーも多いんじゃないかと思う。
「迷っている」と「悩んでいる」も微妙に別なんじゃないかな。今回は「悩んでいる」人の話でした。
>コメント欄に並ぶのがそれだけだとしても、全くレスがないよりは救われるのではないだろうか。
私は、「当たり障りのないメッセージ」に対してむしろ戸惑うというか、どう扱えばいいか迷って結局放置することが多い人間だったりする。まあ人それぞれなんだろうな。
>無理に共感してもっともらしいことを言うより、存分に楽しんで、思うがままを言えばいいと思う。
それはそうだろうと思う。
>ゃさん
>おおげさに言えば「沈黙」が伝わる感覚。
な、る、ほ、ど。そういえばmixiって確かに、それも重要なインフラの一つなんでしょうね。