「読んでくれる人」を信頼すること。
書く時には「読んでくれる人」を気にすること。書き終わったら「読んでくれる人」のことは忘れること。
不倒城を始めて三年経った。
不倒城は、丁度三年前の昨日、第二次だか第三次だか第四次だかのブログブームに乗っかってなんとなく始めた泡沫ブログである。そして、三年経った今でも首尾一貫して泡沫ブログであり続けている。われながら見上げた一貫具合だと思う。誰か褒めてください。
何事も、三年続けば何かにはなるもんだ、と思っている。だから不倒城も、まあ何かにはなっただろう、と思っている。何になったのかはともかくとして。
三年間、書きたいことばっか書いていた様な気がする。言い方を変えると、三年間書きたいことしか書かなかった訳で、このブログに「ネタがないけど義務感で書いた」というエントリーは一つたりともない筈だ。これについては私は自信がある。
とはいえ、他人に読んでもらうつもりで書いてないエントリー、というものは結構ある気がする。これについては反省するべきの様な気もするし、まあそれくらいで丁度いいんじゃないかな、という気もする。内容自体がくだらないエントリーというものもたくさんある気がする。これについてはしんざきの脳構造上避けられない問題なので、別に反省する気はない。
ということで、三年書いてきて、私が思ったこと、私が学んだことを私ワールド的にだらだらと書き綴ってみたいと思う。一人語りで申し訳ありません。長いのでせめて折りたたむ。
・「読んでくれる人」を信頼すること。
昔、ゴーストライターの端くれみたいな仕事をやっていた。今から考えると仕事の内容も仕事の質もひどいもんだったとは思うが、それでも金をもらえる仕事として、私なりに誠実だったつもりである。
その時代、多分「読んでくれる人」は、極端な話、敵だった。もうちょっとオブラートに包むと、お客様であり、超克するべき相手だった。仕事の4割は読者を「騙す」内容。こちらが少しでも弱みを見せると牙をむく突っ込みのお便り。ファンメールなど私の元には届かないから、目に見える反応は殆ど全てが突っ込みである。殺伐とした世界であった。
お金を払わなくてもいいし、お金をもらわなくてもいいブログという場所に引っ越してきて、その意識を完全に払底するまでに三年かかった。総体としての「読んでくれる人」は、凄くドライで、基本的には優しい。
三年書いてつくづく思ったのは、一見さんであれよく来てくれる人であれ、書いている私には予想もつかない様な拾い方をしてくれるもんなんだなあ、ということだった。
これはまあ一般向けじゃないよなあ、と思いながら書いたエントリーが意外にも受けたりとか。多少なりと狙ったエントリーがさらっと流れたりとか。全力で書いたエントリーが全力で空振った後、忘れた頃に思いもよらない人やニュースサイトさんが言及してくれることもある。なんだかんだで、いつも、最終的には「誰か」が読んでくれていた。
書きたいと思って書いたこと、誰かに読ませたいと思って書いたことは、いつか必ず誰かが読んでくれる。 一週間や二週間更新の間が空いたとしても、書きたいことを書けば誰かは読んでくれる、というのは本当にありがたいことだ。これはWebの永続性、ブログの永続性のお陰でもあり、総体としての読者の「優しさ」でもあると思う。一人一人の「読んでくれる人」は、それは当然読んでくれたり離れたりだろうが、それが「Webの誰か」という総体になると、殆ど見逃されることはなくなる。
およそ、反応欲求やブログを書くことへの義務感に悩まされている人というのは、「読んでくれる人」への信頼感がほんの少し足りないんじゃないかと、私はそんな風に思う。
その一方で、ブログを読んでくれる人は凄くドライでもある。泡沫ブログに対する、大多数の読者のスルー力は驚くべきものである。こちらが「うわ、やっちまった」的なエントリーをたとえ書いてしまったとしても、大多数の読者はごくごくドライにスルーしてくれる。これも、当たり前のことの様だけど、実に実にありがたいことだ。時折返ってくる反応も、それがネガティブなものであれ、ポジティブなものであれ、色々な考えのタネになる。
それがどんな反応であれ、書き手の損になることなど何もないのだ。
実際のところ、この辺の「読んでくれる人の反応」に対する態度というものも、ゴーストライター時代の頃とは真逆に近いと思う。ゴーストライターの頃の仕事の傾斜というのは、書く途中もさることながら、むしろ「書いた後」が勝負、という側面が結構あった。細かいことはあまり書けないが、色々とピリピリしたものだ。
今ではその「ピリピリ」はない。これは精神衛生上、大変ありがたいことだと思う。
書く時には、読む人を意識して全力で書く。書いた内容をブログに放流した後は、読んでくれる人に全てを任せる。そういう信頼。これは気付いたというか、むしろ環境適応というべきかも知れない。
読んでくれる人は、味方だ。そして、味方に言葉を届ける時、焦ったり気負ったりする必要はない。それに気付けたことは、ブログを書き続けた三年間で、もっとも大きな収穫だったと、そう思う。
「読んでくれる人」を信頼しよう。届いて欲しい言葉は、彼らに届く。
三年間ブログを書いてこれたのは、「こんなブログでも読んでくれる誰か」のお蔭です。ありがとうございました。これからも、なんとなくよろしくお願いします。
2007年11月12日
この記事へのトラックバック
これからも好き勝手に頑張らないで書き続けてくださいませ!(笑)
っと、はじめまして、いつも楽しく拝見してます。
レトロゲームで辿り着きました。
どうぞご無理なさらず、ご自分が楽しめるブログで
あるようお祈りしてます。
どもですー。考えてみれば、3年前はまだしょうたさんを知らなかったんだなあ。とか。
また飲みましょう。
>けんちさん
ありがとうございますー。
しんざきは無理をしようにも無理を出来ない体質だったりもします。今後ともよろしくです。
レトロゲーム一筋で3年。すごいです。
確かに忘れた頃に過去記事が〜ってのはありますよね。
そういうところにコメントをいただいたりすると、
私は嬉しかったりします。
しんざきさんのブログは超シンプルなテンプレで
好きなのですが、3周年を記に8ビットっぽい
テンプレにするのも面白いかもしれませんね、と
思いましたf(^^;)
これからも楽しみに拝見させてもらいます。
それでは、失礼しました。
ここ半年ぐらいサイレントにROMってた読者です。
三周年おめでとうございます。
これだけ面白い記事を三年間。すごいです。
>総体としての「読んでくれる人」は、凄くドライで、基本的には優しい。
私は書き手と読み手とコメントスタイルはある程度呼応すると感じています。
キラキラしたハートの絵文字が飛び散る場所にはそういう人が集まり
そういうスタイルでそういう内容の言葉が交わされるし、
理屈好きでテキストびっしりで他の人にはどーでもいーようなことを
大真面目に語る人のところには、やっぱりそういう人が集まる、という。
何が言いたいかというと、総体としての「読んでくれる人」がドライで優しいなら
それは「書いてくれる人」としてのしんざきさんがドライで優しいってことじゃ
ないかな、ということです。うむ、それだけ。
いつも新しいエントリを楽しみにしています。
古いエントリも面白く読み返しています。
これからも、楽しく気持ちよく続けていただけると嬉しいです。
>レトロゲーム一筋で3年。すごいです。
はっはっは。いや、お褒め頂いて嬉しいのですが、割とわき道にそれる傾向はあります。
私個人としては、カレーひとすじ三年、の方が私よりだいぶ凄いのではないか、とか思うんですがいかがでしょうか。
>しんざきさんのブログは超シンプルなテンプレで
好きなのですが、3周年を記に8ビットっぽい
テンプレにするのも面白いかもしれませんね、と
思いましたf(^^;)
うぐ。4月1日とかに検討してみます。
>三月うさぎさん
コメントありがとうございます。
えーと。まあ、これからもお気楽に頑張るので、お気楽にお読みください。