2008年01月08日

言語という契約。

言語を共有するということ
そうじゃなくて、定義を一度も確認しあったことがないのに、

分かる、って、なんでそんなことができちゃうの?
どういう仕組みでそうなってるの?

なんで伝言ゲーム状態にならないの?

面白い見方だなあ、と思った。思ったけれど、そういえば大学の頃はこういう理屈にばっかり触れていた様な気もする。単位をとったりとらなかったりしていた気もする。

生成文法とかについてはどうせ触れてくれている人がいるので、ちょっと粗っぽく書く。


言語というのは何かというと、契約である。というか、「たくさんの約束事の集合」である。

主語とか述語とか、助詞だ助動詞だSVCだ何だというものは、全て「こういう風に使いましょう」というルールの塊に過ぎない。同じく、あらゆる単語や熟語についても、「この言葉はこういう意味で使いますよ」という数限りないルールが存在する。


ことばを学ぶということは、ルールを学ぶことでもある。ことばを話すということは、ルールを確認し合うということでもある。


そしてこのルールは、生まれた経緯が多分に自然発生的なものであるが故に、結構変動が激しい。新しい言い回しが作られた時、言語というルールはちょっぴり揺れる。その揺れを複数の人が共通知識として認知した時、言語というルールはちょっぴり動く。だから日本語は変化する。

実は我々は、常に「定義を確認しあって」いるのである。


意識していようといまいと、我々は「日本語文法というルールを理解して、それに基づいてお話します」という契約を結び、それに従って生きている。

同じルールに従うものは、同じ土俵に立てる。例えば、野球というゲームが成立する為には、両方のチームが野球のルールに従う必要がある。片方のチームだけボクシングのルールに従っていた場合、そこに「野球」は成立しない。「双方が一つのルールに従って行動すること」が、あるゲームを成立させる為の最低条件となる。

コミュニケーションもこれと同じである。

この辺りは、商法だの刑法だの、HTMLやプログラム言語まで含めて全て同じだ。社会とは何かというと、一番基底になる部分に「言語」というルールをもった、複数のルール体系の集合である。常識とか、礼儀とか、作法とか、そういったものも一つのルール体系だ。同じルールに従う場所に、やり取りが生まれる。


なんかややこしい話になったな。


ちなみに、言語というルールを身につける過程、という話については、Mlas(エムラス)というのが面白い。日本女子大学の須賀教授が研究されていた、「言語を覚える人口知能」である。うちの奥様の話だと、今年退官されるらしい。

コンピューターで言語習得の仕組みを探る
ヴァーチャルインファント―言語獲得の謎を解く

あと、チョムスキーの「言語と認知」は一度読んでみるべきだとは思う。
posted by しんざき at 11:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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