2008年02月07日

努力という免罪符

世の中には二種類の努力がある。成功した人の努力と、失敗した人の努力である。

そして、これら二種類の努力は、ベクトルこそ違え、どちらも「免罪符」という共通した機能を果たしていると思う。一方は失敗したという罪、一方は成功したという罪に対しての。


はてなブックマーク > 痛いニュース(ノ∀`):【論説】「頑張れば夢はかなう」は幻想
ここのコメントを見てちょっと思ったこと。テーマ:「常識を疑ってみる」。あまりポジティブな話ではないし、結論が出る様な話でもないが。


「努力したからといって成功するとは限らないが、成功した人は皆努力している」。いい言葉だ。いい言葉なんだが、これ、本当だろうか。


世の中、「努力しないで失敗した人」、というのは多分星の数程いる。ただ、その一方、「努力しないで成功した人」「努力しないで結果を出した人」というのもそれなりにはいるんじゃないか、と私は思っている。ただ、その存在が妙に可視化されていない様な、社会的に隠蔽されている様な、なんだかもやもやした感じが私には気にかかるのだ。


敢えて無根拠に一般化するが、社会には「努力しないで成果を挙げる」ことを嫌う、あるいは隠蔽する傾向がある様な気がする


Aさんという人物を仮定してみよう。彼は、運なり天賦の才能に恵まれて、それ程努力をすることもなく何だか成功してしまった。成功の内容はなんでもいい、「大会社の重役になった」でも「Webサービスを立ち上げてみたら覿面大成功して大金持ちになった」でも「東大・京大に受かった」でもいい。

例えばこの人が、「全然勉強しないでも京大に受かりましたよー」と周囲に言うコストを考えてみるといい。反感を買うか嫉視を買うか、まあとにかく人間関係にいい影響は与えないだろう、という見当はつく。


人は、成功者の「苦労話」を聞きたがる。伝記に「苦労話」を読みたがる。先ほどのAさんも、「受験前は一日○○時間勉強しました」みたいなことを適当に言っておけば波風は立たないのだ。


何故だ。


理由は幾つも想定出来る。「成功者の努力を参考にして、自分も成功に向かって努力する為」というのが一番綺麗な答えなんだろう、と思う。思うけれど、勿論もうちょっとひねくれた見方も成立する。


・「成功者がかけたコストを自分はかけていない」という、公平感、ないしは優越感を得る為。


つまり、「あれだけコストをかければ自分でも出来るかも知れない」という公平感と、あるいはそれ以上に「自分はあんな苦労はせずに済んだ、済んでいる」という優越感が、「成功者の苦労話」を聞く裏にはあるんじゃないか、と私は思うのだ。世の成功者は、ある種の優越感というコンテンツを自分以外の人に差し出すことによって、嫉視や反感をある程度免れている。これが「成功者の努力」という名の免罪符である。そんな気がする。


「成功者の苦労話」と同じかそれ以上に、「苦労せずに成果を挙げたものの失敗話」は好まれる。例えば、会社の無能な三代目社長。金持ちのボンボンが財産を食いつぶす話。こういった話がコンテンツとして好まれるというのは、2ちゃんなりその辺の界隈なりを見ていれば分かる。つまりそれは、「成功したこと」という罪に対するコストを、別の方向から求められているという心理の表れなんじゃないか、と私は考える。


この心理を起点に、何だか世の中、色々な詐術がまかり通っている様な気がするのだ。


少なくとも私が考える限り、努力は単にコストであり、人によって適量から向いてるベクトルまで違うものでもあり、またそれ自体が美化される様な対象でもない、と思う。努力するのはいいことだけれど、努力は成果の必要十分条件じゃあない、とも思う。


努力は美徳だ。ただ、努力は何故美徳なのだろうか。

その辺が、私にはまだいまいち分からない。


参照:「個人的な問題でも一般化したい病」について

posted by しんざき at 19:29 | Comment(7) | TrackBack(0) | 雑文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
このエントリーをはてなブックマークに追加
この記事へのコメント
他者の評価あって努力は努力たりうると思うのですが。
Posted by めあ2 at 2008年02月07日 19:44
マジレスすると、努力は美徳じゃあないと思うんだ。
なんでかって? それは「世間一般では努力=美徳とされているから」だよ(ん?

とりあえず、「間違った努力」と「無理な努力」は世の中から排除すべきだと思うんですがマジデウットォシィノデ。
Posted by NOBIE at 2008年02月07日 20:20
ほぼ同意。免罪符という位置付けは日本人の謙遜に似ている。
自信があっても出来ない風を装うような。

ただ、努力は行動であるので、結果である成功とは基本的に別のベクトルにあると思う。双方を媒介変数化して正の相関関係が導ければ、努力が成功に結びつくかもしれないが、知る限りそんな検証結果はないし。

そもそも、努力も成功も定義が極めて不明瞭な気がするのだろうがどうだろう。結局概念やイメージに過ぎないなら、いくら言及しても有意な議論ではなく、当て推量や誹謗に終わる気がするけど。
Posted by g3 at 2008年02月07日 23:21
「努力は美徳」って割と日本人的な考え方のような気がします。なんでだろう。農耕民族だからでしょうか。
そういえば、プログラマー的には最大限の努力より最小限の努力を良しとする風潮がありますよね。
Posted by niizato at 2008年02月09日 03:40
「悪銭身につかず」なんかも似たようなものでしょうか。
悪事を抑える教育的配慮もあるのでしょうが、
不労所得を得た者への妬みもあるかもしれません。
Posted by at 2008年02月10日 03:11
ファミリーベーシックつながりで、素人の憶測ながら真面目に考えてみた
自分の作ったゲームを他の人にも遊んでもらいたい。しかし、プログラムはぐちゃぐちゃで無駄が多くて人様にお見せするのは少し恥ずかしい(/_\;)苦労の後が伺えるプログラムは、趣味であれば微笑ましくもあるけど、コンピュータの能力を無駄遣い(MT初心者ドライバー)している
 プロの書いたプログラム。それを読んでも苦労の後など発見できないし、それが出来たら手抜きの仕事をしていることになるのかも‥免罪符どころか、悪評価につながる?分、他の職業とは感覚が違ってくるような気がする
プログラマーは、自他ともにヘタないい訳が効かないので、努力や苦労は大きくなるはず
Posted by ROM君 at 2008年02月10日 21:13
皆さんコメントありがとうございます。
すいません、このエントリー自体ちょっと消化不良の状態で書いたものでして、頂いたコメントの議論が私の中でなかなか咀嚼できていません。

また、改めてどこかで書こうかと思います。
Posted by しんざき at 2008年02月13日 16:05
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック