2008年03月09日
ブログの加齢を考える。
ちょっとじじむさいことを考えてみたくなったので、考えてみることにする。
一般論として、「年をとる」ということは、人生の総量における「過去分」のパーセンテージがどんどん増加していくということである。
およそ老化に伴うありとあらゆる現象は、上記段落の延長で表現可能だ。体の老化は、身体的な「過去分」アーカイブが蓄積していくことによって発生する。精神的な老化、例えば物事に新鮮味がなくなっていくというのは「人生経験」という過去分の蓄積によるもの、と表現することが可能である。
勿論、この「過去分の蓄積」にはいい面も悪い面もある。過去分のアーカイブがいい感じに溜まって、その人のレベルアップに寄与する加齢を即ち成長と呼ぶ。過去分のアーカイブが量的に澱んで、その人の在り方に様々な制限を加える加齢を即ち老化と呼ぶ。
「経験を活かして次に繋げることが出来る」ことが成長で、「経験に制約されて次に踏み出せなくなる」ことが老化、かも知れない。
ブログも、多分、成長もすれば老化もすると思う。いい感じに過去分のテキストが溜まっていって、読んでくれる人も増え自分の文章にも幅が出る、というのが「成長という加齢」だ。過去分のテキストに縛られてそこから外れたものが書けなくなり、段々ブログを書くのが面白くなくなってしまう、というのはおそらく「老化という加齢」だろう。
ブログを成長させる為にはどうすればいいだろう。
多分、話は「過去ログを活かす方法」「過去ログとの付き合い方」ということになっていくんだろうと思う。既出、既出が気になってキーボードが重くなってくれば、それは老化。過去ログの方向性が気になって、新しい発想が書けなくなってくれば、それは老化。
一般化する気は全然ないけれど、例えばこういうやり方をすればいいのかなあ、という方法はいくつか思いついた。
・過去ログの「続き」を考える。
・過去ログと今の自分の「差分」を検証する。それをネタに思考を発展させる。
・過去ログへのリンクをガンガン貼る。過去ログを根拠にエントリーを書く。
・既出を怖がらない。既出=補強と考えて憚らない。
・「専門性」を求めて来てくれる読者を意識し過ぎない。専門性に幻想を抱かない。読者を信頼する。
なんかあんまり実行してない気もするな。
大体読んだままだが、例えば5番目。一昔前、「ブログを書くコツ」的な話で、「専門性が高ければ高い程受ける」みたいな項目があったと思う。これ自体は間違いじゃないと思うし、自分の強みを持つというのは重要なことだとも思うけれど、これを「初心者の為の言葉」に位置づけてしまった点については、功罪で言うと罪の方が大きかったんじゃないかと私は考える。
専門性は諸刃の剣だ。ブログの専門性が高ければ高い程、そのブログが話題的に煮詰まっていく可能性も上がるし、発想を発展させることも難しくなる。
そして、「専門性が高いから読者が来てくれるんだ」と考えてしまうと、リピーターが離れてしまうことを恐れてますます「外れた」記事を書きにくくなってしまう、という側面も結構あるんじゃあるまいか。
大抵の書き手の専門性なんて、突き詰めたところで高が知れている。大多数の読者は、そのブロガーの専門性ではなく、そのブロガーが発する言葉を読みに来ていると、私はそう思うけれど。心配しなくても、読者は読まない時は読まないし、読む時には多少外れてても読んでくれるさ、と、私はそう思うけれど。
ということで、不倒城的には次の様な方針になる。
・専門性とかあんまり気にしないで、書きたいことをガンガン書く。
・過去ログは、まあ、たまに読み返す。それで何か思いついたら書く。
・気が向いたら過去ログにリンクを貼る。
アレ?上で書いたこと全然実行してなくね?
それはそうと。上の議論とは一度断絶するけれど、そういえば、昔世話になった編集者さんがこんなことを言っていた。
「一週間前の自分は赤の他人」
文章を書く上では、まあそういう考え方もアリなんだろうなあ、と。
この記事へのトラックバック
これ、あまり意識しすぎると何も書けなくならね? と思ったんですが。やり過ぎると典型的老化現象。
>・既出を怖がらない。既出=補強と考えて憚らない。
これは重要でしょうね。「同じ事を考える人間がいっぱいいるぜ」というように主張できますから、既出だからと言って書いてはいけない理由にはならない、むしろ書け、というところでしょう。
補助魔法の重ねがけで敵ボスに対抗。
>・専門性とかあんまり気にしないで、書きたいことをガンガン書く。
>・過去ログは、まあ、たまに読み返す。それで何か思いついたら書く。
>・気が向いたら過去ログにリンクを貼る。
>
>アレ?上で書いたこと全然実行してなくね?
……
…………
…………おや、マジレスはKYでしたか?(w
全力で感動しました。
20年くらい前に出版されたアメリカの生活史の本で
「数あるアメリカの評論本の中に一つ加えただけのことである。」
みたいなことがあとがきに書かれていたのを思い出しました。
例えば不倒城のブログだけ見ている読者さんもいたとしたら、
その人にとってはどんな話題も初耳になるため
既出を怖がらないというのは、やはり合理的だと思います。
>これ、あまり意識しすぎると何も書けなくならね? と思ったんですが。やり過ぎると典型的老化現象。
停滞ではなく発展=成長させるという意味では、自分が昔書いた内容を引っ張ってきて更にその向こうを書く、というのは基本的に良いことなんじゃないかと思います。思考の棚卸も出来るし、新たな突っ込みも期待出来る。
まあ、やり過ぎはよろしくないかなーとは思いますけど。
>…………おや、マジレスはKYでしたか?(w
全然そんなことはないですが、私は基本的にダメ人間なので、考えたことを自分で実行してないことが多々あるのです。
>marmaladeさん
>「数あるアメリカの評論本の中に一つ加えただけのことである。」みたいなことがあとがきに書かれていたのを思い出しました。
ん、あれ、それ何でしたっけ。私も聞き覚えがあるフレーズなんだけど、どこで読んだか思い出せない。
後でちょっとぐぐってみます。
>その人にとってはどんな話題も初耳になるため
書き手にとっての一見さんとリピーターさんの位置づけ、みたいなことは、前考えたことがあります。書き手にとってはリピーターさんの位置の方が高い為、繰り返し読ませるのがイヤで既出を怖がってしまうんじゃないか、とか。推量ですが。
不倒城ではあんまり気にしないことにしてます。
記憶は実に曖昧な物ですねー。
「淋しいアメリカ人」桐島 洋子 昭和46年5月30日
37年前のものでした。
古過ぎる。
あとがきのラストを抜粋すると
「だからアメリカについて書かれた本が何千冊あろうと、
あえてまたこのささやかな一冊を加えることを、
私は一向にためらいはしないのである。」
こういった系統の本の決まり文句なのかも…?
情報ありがとうございますー。
んーーー、なんか、別の本でも同じ様なフレーズ使われてましたかね。なんか記憶がもこもこと。
まあ、もしかするとそこまで珍しくないフレーズなのかも知れないですが。