2008年03月25日
「真ん中」を探すこと。
私の思考法の基本は、「真ん中探し」だと思った。
以下、当たり前のことなのかも知れないけれど、ブログに何かを書く時の自分のスタンスについて、ふと考えてみた内容。
二人の人が激しく言い争っているとする。私は、自分の立場や心情は取り敢えずぶん投げておいて、まず「真ん中はどこか」を考えたくなる。一方の立場に立って考えるより、双方の立ち位置を確認して、双方にとって妥当な地点というのは存在するのか、存在するとすればそれはどこなのか、ということを考えたくなる。
あるテーマについて、皆の意見が激しく一方に偏っているとする。私は、それに同調したり反対するよりも先に、やはり「真ん中はどこか」を考えたくなる。皆の立ち位置の正反対を仮定して、双方にとって妥当な位置と、何故皆の立ち位置がこうも偏っているのか、突き詰めたくなる。
実効的か、と言われると、正直あんまり実効的ではない。役に立つか、と言われると、正直あんまり役に立たない。中庸と言えば聞こえはいいが、多くの場合、真ん中探しは議論の収束に寄与しない。
ただ。世の中に、「絶対評価」ですぱっと解答が出せる問題は、多分凄く少ないと思う。殆どの問題は、小学校の通信簿の様に、飽くまで「相対的に」1から5までを採点するのがせいぜいであって、だから基準としての「3」を誰かが探すことには、それなりの意味があると私は思う。自分が1をつけるか5をつけるか、というのはまた別な話。
だから、真ん中を探している。皆普通にしている思考なのかも知れない、とも思うけど。
で。
思考として「真ん中」であろうとする時、その過程には多分二つある、と思う。
一つは、「ある立場」と「ある立場」を結んだ線分の真ん中の地点を探そうとする、言ってみれば一次元の真ん中。もう一つは、視点をメタに引いて話の構造自体を分析しようとする、言ってみれば二次元の真ん中。
あるテーマについて、「この答えは1だ」と言っている人と「この答えは10だ」と言っている人がいて、「じゃあ5くらいが妥当なんじゃないかなあ」と考えて検証するのが一次元。「そもそもその問題は足し算なのか掛け算なのか、実は割り算だったりするんじゃないか」という疑問を提起するのが二次元。私の中ではそういうことになっている。
どっちが役に立つか、というと、多分どっちも微妙である気はする。ただ、思考として面白いのは後者だと思う。議論をしている当事者にとってよりどうでもいいのも後者だと思う。まあ、どんな議論でも外野の声なんか多かれ少なかれ邪魔だと思うから、こればっかりは仕方ない。
私は哲学に関する知識がぜーんぜんないので、上にうだうだと書いた様な方向性を何とラベリングすればいいのかよく分からない。相対主義、というものともちょっと違う様な気がするが、多分何か名前はあるんだろう。気が向いたらもうちょっと調べてみる。
今日も「真ん中」を探しつつ、特に結論の出ない話。

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といまいちバランスのとりにくい私は思うのでした。少し心がけてみるかなあ。
最近ネットと集団心理について考える事が多いのですが、極端な考えが突出しやすいネットにおいて
その考え方は結構大事なんじゃないかと思います。
リアルでもネットでも流されやすい自分としてはバランスとる事は難しいかもですが少し見習いたいです。
真ん中探しは感覚的に受け入れやすい解に近づいていくのだと思います
まあ初めの2項が離れすぎてると落し所も難しいですけど