2008年04月07日
二次創作を「煽る尺度」について。
前回のエントリーが頭の中で発展して、幾つか思いつきが沸いてきたのでちょっと書きとめておく。
テーマは「ある創作が同人に向いているかどうか、の尺度について」。例によって、既出かどうかは気にしないことにする。
・創作には、「それを元にした二次創作が生まれやすいかどうか」という尺度があると思う。
多分、キーワードは「意欲」なんだろう。
それがどの様な形のものであれ、二次創作というものは妄想から発生する。例えば漫画、あるいはゲームや小説、なんでもいい。ある一次創作に触れて、そこをスタート地点にしてもくもくと妄想が沸いてくる時、そこには既に二次創作の種が育っている。
漫画の「まだ見ぬ展開」を妄想することも、ゲームで「もうひとつのエンディング」を妄想することも、広い意味では二次創作の内だ。小説の主人公に自分を準える、進行上で死んだ人物が生きていたらどうなっていたかを想像する、その程度の妄想なら多くの人が経験している筈だ。
妄想がある種の臨界点を突破した時、おそらく人は二次創作への道を本格的に歩み出す。ある人は同人作家への道を歩み、ある人はWebでネタ創作を書き散らすなどという行為に走り、あるいは大成し、あるいは道半ばにして黒歴史へと葬る。
人は誰しも、同人作家としてのある程度の資質を備えているのである。恐ろしいことである。
さて。「妄想がある種の臨界点を突破」するとして、その「臨界点」の位置は一体何の要素で決まるのだろう。
私が考える軸は二本。「容量」と「集積」である。
・創作における「容量」とは何か。
つまり、妄想の自由度。ある創作にどの程度の穴があるか、どの程度の俺様設定をつぎ込む余地があるか、という軸が、まずひとつである様な気がする。
例えば。キャラクターに関する自由度、というものを想定してみる。
ここに、ある創作の主人公、例えばAというキャラクターがいたとする。このAというキャラクターにどれだけの設定が明示されているのか、というのは当然、作品ひとつひとつで大きく異なる。
話し方から考え方、性格、生まれや育ちから好みの異性のタイプまで、何から何まで細かく設定してある創作であれば、当然読者に残された「想像の余地」というものは小さくなる。レトロゲームのRPGの主人公の様に、極端な話名前しか決まっていません、という様な場合には、勿論「想像の余地」というものは大きくなる。
「かゆい所に手が届く」設定であればある程、妄想が育つ余地は小さくなるというのが一般的な傾向だろう。勿論、これを逆手にとった意外性パロディ(デスノートコラみたいな)というものが生まれる場合もあるのだが、それは取り敢えず置く。
あるいは。シナリオに関する自由度、というものを想定してみる。
例えば一本の筋道をもった小説であれば、当然のことながら辿るストーリーも一本である。そこには、無限の「もしこうなったら」というシナリオ上の妄想の余地が残される。キルヒアイスが死なない世界を想像するのも、犬猿の仲の男女をくっつけるのも読者に許された「妄想の自由」である。
一方。マルチエンディングのゲームであれば珍しくないことだが、ゲーム上で辿りうる「シナリオ」が多ければ多い程、当然読者に残された「妄想の余地」も目減りする。当然だ、妄想するまでもなく「その展開」は既にそこにあるのだから。妄想の根源は意欲であり、欲望である。読者の妄想を煽る為には、読者を満腹にさせてはいけないのだ。
キャラクターと同じく、「かゆい所に手が届く」シナリオであればある程、おそらく妄想が育つ余地は小さくなる。「こうなればいいのに」であるとか、「こういう展開が見たいのに」といった欲望を誘う創作の方が、おそらく二次創作を誘発する度合いは高いのだ。
こうして考えてみると、前回エントリーで話に出た「エロ同人」というのは、つまり「シナリオに関する自由度」というゾーンに存在する話題だったことが分かる。エロいシナリオというものが至れりつくせりで存在する創作には、エロいシナリオを妄想する余地は存在しない。エロいシナリオが全く存在しない時、エロいシナリオを妄想する余地は最大化する。ギャップが煽る欲望というのは、つまりここに尽きるのだろう。
じゃあ、設定が少なければ少ない程、つまりは容量が大きければ大きい程二次創作は作られやすいのか?といわれると、必ずしもそうでもない気がする。
そこで出てくるもう一本の軸が、「集積」である。
・妄想は共有することで成長する。
二次創作を創る人というのは、往々にして同じ趣味の人同士で集い、コミュニティを形成する。Webで少しキャラクターの名前を検索すれば、「○○同盟」であるとか、「○○WebRING」といったものが、それこそ星の数程引っかかる筈だ。
二次創作を煽る強力な要因として、「同好の士」というものの存在はどうもかなり大きい様に思える。同じ趣味の友人、同じ妄想を語り合える知人。良きにつけ悪しきにつけ、平安時代の昔から、妄想は「口に出され」「語り合われる」ことによって成長するものの様である。
いつの時代も、革命は妄想に始まり、集積によって現実となるものであり、日本でいうと幕末の志士達はこぞって同人作家であった。一次創作が幕府の秩序であり、そこから「こうであったらいいのに」という妄想が結実した結果が討幕である。
で。上の段にあった「容量」が大きければそれだけでいい、訳ではない理由として、この「共有」というものが絡んでくる。何故かというに、「共有」する為には核となるものが必要だからだ。
以前書いたが、例えばWizardryは、上記「容量」については無限の広さをもったハコである。TRPGが丸々一個ゲームカートリッジの中に納まっていると考えていい。文字と数字だけで形成されたキャラクターが、ゲームを介して自分の脳内で生き生きと動き出す楽しさというのは、そんじょそこらのゲームで味わえるものではない。
ところが。勿論「友の会」やアンソロジー、様々な創作小説が存在するとはいえ、その裾野の世界的な広さ程には、Wizardryの二次創作は広範ではない。というか、単一では様々な創作が存在するのだが、それらをまたいだ「共有物」というものがあまり目立たない、という言い方になるのかも知れない。
その理由が、「自由度が高過ぎる為に、妄想が拡散する傾向がある」ということなんじゃないかと私は思うのだ。妄想に核がない、という言い方になるんだろうか。個人個人のイメージが自由過ぎる為、ユーザーをまたいだ妄想が育たない。
一方で、同じRPGでも最低限のビジュアル・設定がある作品では、時として物凄い規模での集積が行われることがある様だ。例えばドラクエIIIであるとか、ちょっとWebを漁ればあるわあるわ、各職業の男女のリストと創作の山。試みに「Wizardry 創作」「ドラクエIII 創作」でぐぐってみるだけでもざっくりとした規模差は分かる。機種依存文字を排除し、シリーズの壁をとっぱらってもこの検索数である。
多分、「丁度いい設定量」「程良いビジュアル量」という軸があるのだろう、と思う。ある程度統一されたビジュアルと設定があれば、妄想は集積されることによって、それ自体を核にして成長する。
「二次創作の素材」として優れているかどうか、という観点では、例えば「世界樹の迷宮」の方がWizardryより上なのかも知れない、ということが言えるだろう。
と、メモ書きのつもりだったのにエラい長くなったのでちょっとまとめてみる。
・二次創作の創られやすさには、「妄想の自由度」と「妄想の核があるかどうか」という、二つの軸がある様な気がする。
・妄想の自由度の中にも色々な種類がありそうな気がする。
・ドラクエIIIのWebRINGの範囲の充実っぷりは異常。というか、「戦士×魔法使い」で1ジャンルとか、私の想像の範囲外の出来事なんですけど。
・Webはある意味黒歴史の集積である様な気がする。
最後あんまりまとめと関係ないな。まあこのブログもところどころ黒歴史な気もするが、私は今日も気にせずに書きたいことを書く訳である。
二次創作についてなんとなく思ったこと、以上。

この記事へのトラックバック
「公式設定が細か過ぎると、こちらが自由に描き難い」というようなことを書いていた記憶があります。
描きやすさに関係なくアンケート上位を描いてるんじゃないかと
それ以前は「メモ用紙」という名の白紙ページがある本にさえアンケートはなかったので
作家さんが自身の妄想の赴くまま自由に描かいているのは嬉しいことです
そこが同人の面白いところですから
あれよりも詳しいと、推測したりする余地が無くなり、大雑把だと発散してまとまらなくなるのだとか。
ところで、ダライアス外伝ですが、1コインで鯨を拝めるかどうかというところです。
ピラニアとシャコで白玉つきに調整できるかが勝負となっております。
ピラニアは直前で自爆して、シャコはごり押しになっていますが。
>Wizardryは公式イラストに萌えが足りないから広がらないんじゃあ…
多分それも含めて、コアとなるビジュアルがないってことなんじゃないかなあ、と思います。
>名無しさん
>「公式設定が細か過ぎると、こちらが自由に描き難い」
創作する人は誰しも思うことなのかも知れないdすねー。
>十六夜達也さん
おお、捕鯨目指して頑張られてますね。シャコは最初の内はゴリ押しで何の問題もないと思います。
ピラニアは、ステージ道中で一発ボム使ってしまってもいいんじゃないかな、とか。バラ撒き弾でもう一発使っても、確かボム足りる筈です。
十分に感動して満足し、ここがよかったなとなる作品に妄想は生まれないですね。
「妄想の核」の重要性の説明として、「共有」、「集積」を挙げられている点が特にすごいと思います。
妄想の核を私は、空白に書き込める内容をある程度規定する「枠線」と呼んでいますが、それがなぜ創造力を煽るのか、把握しきれていない部分がありました。
「共有」、「集積」というアプローチは、とても重要な所を突いていると思います。
その他の部分も興味深く、参考にさせていただきます。
(私のブログでもこの問題について、「創造の余地」という名前を付けて追求しているので、もし興味がありましたら見てやってください)