国語の教科書を読む機会があった。
たまーに思うんだが、教育者ってのはどうしてこう「無欲の人」「自分を顧みず、誰かの為に自分の身を擲った人」が好きなんだろうか。世界共通のことなのか、日本に限るのか知らんが。
「自分の為に頑張って、結果的に幸せになりました」じゃダメなんかなあ、とちょっと思う。別に「みんなが幸せになりました」でも構わない。なんつーか、「自分の為に欲望を持って行動するのはヨクナイコト」みたいな感覚が根付いちゃうと、色々と将来よくない影響が出るんじゃないかと思うんだけどなあ。
生きる力と欲望はニアリイコールである。「何かを実現したい」という欲望が強い人程生命力は強い。金銭欲でも性欲でも社会欲でもいい、世界は欲望で発展するのだ。
「発展」という観点からみた時、勿論欲望にはプラスの作用とマイナスの作用がある。他人の欲望とぶつかり合うと喧嘩が起きる。ルールの枠を踏み越えると犯罪が起きる。多分「無私」の教育にはマイナスの作用を押さえ込もうとする意図があるんだと思うんだが、だからってそこまで欲望ってものを切り離した不健全な題材を前面に押し出さなくてもいいんではあるまいか。無私の人とか無欲の人っていうのは、社会的には立派なのかも知れないが、生き物としてみるとどこまでも異常だ。
「強すぎる欲望は身を滅ぼす」くらいが丁度いいのであって、「欲望をもつのはヨクナイコト」までいっちゃうと、生命力の方を削っちゃうんじゃないかと思うのだが。そもそも「欲望」という言葉にこうまでマイナスイメージが強いこと自体不思議っちゃ不思議だ。
定義一つでころっと変わってしまうニート論にいまさら踏み込む気もないが、「ニートの増加」とか記事を読んでいると、ほんまかいなという思いと同時に上の様な話もちらっと頭をよぎる。「自分の為に頑張る」というプラスの欲望を削ってしまった教育は、「やりたいことは特にない」という人々の存在と何か関係があるんだろうか。プラスの欲望を知らないと、逆にマイナスの欲望に走っちゃったりしないだろうか。
一方で「自分の為でなく、人の為に生きましょう」と教えて、一方で将来の夢を問う。これって致命的な矛盾の様な気がするんだが。
※某教育組合批判とかに触れるつもりはありません。悪しからず。
※全体的に既出だったら勘弁。
2005年11月20日
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面白いのは悪という思想
Excerpt: 楽なのは悪という思想がある。 どうして英語の教科書に訳を載せないのか? 手間ひまかけて、苦労して、努力して訳すのが良い。という風潮だからだ。 どうして現代は面白い・楽が悪??
Weblog: 話は365°変わるが
Tracked: 2005-11-21 22:24
個人的には本音はともかく建前としては自己犠牲と公共心を教えるのは全くのデフォだと思うのだけど。もはや基準の方が逆転したってことですかねえ。
でも、海外はキリスト教とかで普段からそういう考えがあるので無理に学校で教えなくても日常で教育されているのかもとも思ったり。
先生の見えないところで北斗の拳みたいな世界に
安易に突入しちゃうんじゃないかなって気がします。
で、とことんシンプルにしときたいから
無私な逸話がよくでてくると。
人はどうせ欲望にひきずられていきますしね。
ある程度成長・成熟した生徒の多いところでは
放置しても問題ないんでしょうが。
戦前の修身ではそれに加えて立身出世的な内容があったたらしいです。その部分を削ったゆえになんか変かな?って感じなのかもしれませんね。
ちなみに「無私の人」も、仮にその無私っぷりが事実だったとしても、それは「他人に尽くすことが私の幸せ」なわけで、最終的には自分が満足するから滅私奉公するんじゃないかなあと思うんですが。ええっと、意味通じてますでしょうか
そもそも何でこのエントリーを書いたかというと、「やりたいことが特にない」「欲しいものが特にない」人が増えている、という様な話を聞いたことと、ちょっと教科書を読んでみて「何でこんな無欲礼賛なんだろう」という疑問を感じたこと、もしかすると何か関連があるのかなーとか思った内容が起因になっております。まるっきし現状に即してなかったらすいません。
>めあさん
アカイ話に触れるとややこしくなるのがちょっとw
いや、それにしても上記の様な話は不思議なんですが。
>T.Kingさん
コメントありがとうございます。
>「なんで公共心のない拝金・個人主義がはびこってるんだ!」という文句ばっかり見てる(ような気がする)のでむしろ新鮮に感じる。
どうなんでしょう、拝金・個人主義っていうのはどの世代にも共通しての話なんでしょうか。個人的には、なんかある程度の世代から下に関して、拝金主義っていうのがいまいち実感出来ないんですが。
>個人的には本音はともかく建前としては自己犠牲と公共心を教えるのは全くのデフォだと思うのだけど。
そうかも知れないですね。ただ、自己犠牲自己犠牲ばっかりでも希望がもてないんじゃないかなーという気がしないでもないです。
>そういう考えは日本の風習や宗教的観念とも密接に結びついているのかもしれませんね、禅の精神とか。
根っこには宗教があるんでしょうね。
ただ、日本の宗教っていうのはかなり立場的に微妙っていうか、世代間の断絶がもの凄い大きい部分があるので、ある程度教育で補完しないといけないっていうのはあるのかも知れないです。
>名無しさん
コメントありがとうございます。
>「やさしさ」「配慮」といった行為で結果的に雰囲気や居心地がよくなることを強調し、学校の文化としておかないと、
ここは同感です。ただ、
>で、とことんシンプルにしときたいから無私な逸話がよくでてくると。
ここがちょっと現状極端な気がするんですね。なんというか、無私が嵩じて実感レベルで「報われない」までいっちゃうとあんま良くないんじゃないかなあと。
>その部分を削ったゆえになんか変かな?って感じなのかもしれませんね。
それはちょっと思いました。いや、あんま立身出世重視でもアレですけど。
>Zhaoさん
>欲望に関しては教えるまでもなく身につけるから、無私だけ教えとくんでは?
身につく、のかなあ。なんか性欲とか金銭欲とかはほっといても大丈夫なんでしょうが、社会欲みたいのは教育とかの後天的な部分がかなり大きい様な気がします。
>それは「他人に尽くすことが私の幸せ」なわけで、最終的には自分が満足するから滅私奉公するんじゃないかなあと思うんですが。
いや、当人にとって「自分の為」であることは分かります。ただ、教える段階では「自分の為」の部分はさくっと抜け落ちちゃうみたいなんですが。
先生になって子供を教え導こうという人の方が
人のためにがんばろうっていう傾向が強いのは
まあそりゃそうかなと。
あと、「欲を持ちましょう」っていうのは
教えづらそうかも。そうでもないか。
あと、「やりたいことがある人の割合なんて昔からそんな変わってないんでは?」とちょっと言ってみたい。
「やりたいことがないなあ」という暇が昔より
あるだけなんでは?という。
>あと、「やりたいことがある人の割合なんて昔からそんな変わってないんでは?」とちょっと言ってみたい。
これはおっしゃる通りかも知れないですね。ただ、今はニートやってる余裕があるのとニートって真新しい定義が出来てきたから騒がれてるだけ、という気もします。
>あと、「欲を持ちましょう」っていうのは
教えづらそうかも。
そうかも。
例えば「独裁者」っていうとものすごく聞こえが悪いですが、善政をきちんと敷いて国民が幸せであるのなら独裁者はすばらしい政治家であることになります。
もっとも民主主義では「自分の意見が取り入れられない=悪」になりますから
欲望と言う言葉を「希望」「情熱」「向上心」と入れ替えるだけでずいぶん雰囲気も変わりますからね。
多くの人の幸せを考えて無私の心で働くのと、自分も含めて多くの人の欲望にのために尽くすのでは、後者の方が少なくとも「幸せ」だと思いますけど。
>欲望、と言う言葉が悪い意味を持って聞こえるのが問題かと。
これがいつからか、ですね。
欲望ってのは多分訳語で、なーんとなく明治以降に出来た言葉の様な雰囲気がしないでもないです(全然違うかも)
元々どんな言葉だったのやら。
日本が仏教国か神道国か知りませんが、日本の伝統にのっとってると思いますよ。
そこそこの欲で中流か中流より少し下の生活ができない今の日本がおかしいのだと思います。
悪いことではないと思うんですが、行き過ぎてるとちょっと気持ち悪いなあと。
コメントありがとうございます。
自分をしっかりもたなければ、というのは一般論としておっしゃる通りですね。教育についてはちょっと、一般化するのにためらわれる部分もあったりはするんですが。
「利己的な遺伝子」という本のエッセンスを表すなら上の一文になります。
古典的な名著なのでご存知かもしれません
が、おすすめします。
今の日本では、無私な人間の方が遺伝子を残しやすい理由があるのかもしれませんね。
ただ「こんなに幸せだと身に余って申し訳ない」「みんなつまらなそうなのに自分だけ」と自分が思って、抱え込んで悩んで何もできなくなるようならば、それを色んな人に分けてあげるのがその人自体の生きてる価値になるし、その人自身も気が軽くなるよということなのかもしれないですね。
他人から「自分の事ばっかり考えるなよ!」といわれるのは違う気がしますが、自分の中に考えを持っていて「余裕ができたから分け与えよう」という考えなら無私も納得出来る気がします。