事件自体は昨晩知った。一言もなく、黙祷するのみである。
ただ。
6/9;非日常的な光景の中、私がしたこと
秋葉原刺殺事件に遭遇して
これはただの報道ごっこであり、そんなの撮るんじゃない。不謹慎だ。とか思われるだろうし、警官の人にも「人の不幸を撮って楽しいか?」とか言われました。メディアが行えば報道だけれど、一般人が行えば不謹慎な野次馬。そんな思考が、多分私自身、どこかに残っている気がする。
二つの境目はどこにあるんでしょうね。
職業だろうか。技術だろうか。倫理だろうか。それとも気概なんだろうか?
どれをとっても十分ではない。「それ」をもっていない職業人もいるだろうし、「それ」をもっている一般人もいるかも知れない。考え得るテーマは幾つもあると思う。
確実にいえることは、たった一つ。文句を言われない立場にある人は、文句を言われないことに対する責任を負わなくちゃいけない、ということ。
Webにはメディア批判が尽きないが、拠って立つところは多分それだけだと思う。



「文句を言われないことに対する責任」
というのは面白い概念だ。それはうちらにはないな。
>覚悟。
だとすると、「自分が情報を流したことによって何が起きても、それは自分が責任をとる」という覚悟をもっている素人がもしいたとすれば、その人と報道機関の間に差はないんだろうか。
>まほろさん
その辺は人それぞれなんでしょうね。
今回を例に取れば、現場からの「ニュース」は一般人のほうが早いし、メディアに提供された画像もそう。写真を撮ったりブログに乗せた人に意識があろうが無かろうがそれは立派な報道だろう。
ただ、現場の絵と話があればニュースになるわけじゃない。客観的なデータ、各地から上がってくる情報、その他をまとめた上で、金を払う対象となるようなパッケージングされた「ニュース」。これを出来るような一般の人はまずいない。
第一、大量の一般の人が情報発信を行っても、同じく大量の一般の読者は有為な情報を得ることは困難過ぎる。そもそも真贋の鑑定すら不可能だ。だから、一般の人はいかに嫌っていようと、メディアの流す情報を選ぶ。
結論。瞬間的、または特異な状況下に置かれた素人は報道機関になり得る。ただし代替品になることは現実的では無いと思う。
解説ありがとう。
情報のレベルの話だな。そして、感情論を除けば確かに評価は情報のレベルの側面からするべきだ。
この場合の「境目」がそれにあたるのかどうかはよく分からないけど。
けど、事件現場に向かって一斉にケータイを向ける姿は異様というか、不快感を覚えます。
同じように、献花台の周りに群がる報道陣にも不快感を覚えます。
プロだから何をやっても許されるということはあり得なく、一般人だけでなく報道に関わるプロも倫理観を失っていると感じます。