2015年11月12日

レトロゲーム万里を往く その127 聖剣伝説 LEGEND OF MANA


さあ、歌おう。声の限りに、Song of manaを。


以下、かなりの長文ですので、忙しい人は画面をスクロールして最後の3行だけ読んでください。デカい字で書いてあるので目立つ筈です。


プレイステーションというハードが1994年に世に出てから、もう21年が過ぎました。ファミコンが出たのが83年ですので、実は「ファミコン→プレイステーション」の時間的距離よりも、「プレイステーション→現在」の時間的距離の方が倍近く長い、ということになります。

かつて、プレイステーション・セガサターン・PC-FX・ニンテンドー64辺りの、いわゆる「次世代機戦争」を間近で経験した私にとっては、今でもプレイステーションは次世代機ではあります。とはいえ、流石にぼちぼち、レトロゲームネタとしてプレステゲームを取り上げても良い頃かと思いました。皆さまにとって、プレステやサターンにおける「レトロゲーム」はどんなゲームでしょうか。


ちょっと、「プレステ時代のスクウェア」を振り返ってみたいと思います。


プレイステーションというハードにおいて、スクウェアとエニックスという二つのメーカーは、いわば最強のキラーソフトメーカーとして認知されていました。当時、この二大メーカーがソニー産ゲーム機にタイトルを供給するという、ただそれだけのことが各雑誌で連日トップニュースになったことを記憶しています。

96年8月2日のトバルNo.1を皮切りに、キラーソフト中のキラーソフトだったFF7が発売されたのが1997年1月31日。その後、ブシドーブレードやゼノギアス、アインハンダーといったプレステの独自タイトル・独自シリーズの傍ら、ファイナルファンタジータクティクスやサガフロンティアなど、SFC時代からの看板を生かしたタイトルも、スクウェアは縦横無尽にリリースしていきました。

プレステ時代のスクウェアは、今の印象以上に「RPGのスクウェア」として認知されていた、ような気がします。しかし、実際にプレステのスクウェアタイトルを見ていると、ジャンルは意外な程多様性に富んでいます。トバル、牌神、ブシブレ、アインハンダー、パワーステークス、フロントミッション、双界儀。もちろんエアガイツも、武蔵伝だってスクウェアです。この中には結構な実験作も含まれています。

恐らくスーファミ時代よりもずっと、「プレステ時代のスクウェア」は冒険的だったのではないでしょうか。そこには、かつて「半熟英雄」や「アップルタウン物語」や「磁界少年メットマグ」を世に送り出した、いわばスクウェアの挑戦的なDNAの存在があったような、そんな気がします。


そんな中。レーシングラグーンの少しあと、デュープリズムの少し前に、プレステで初めて「聖剣伝説」のシリーズタイトルを冠したゲームが生まれました。


「聖剣伝説 LEGEND OF MANA」。RPG。1999年7月15日、スクウェアから発売。ゲームボーイに誕生し、SFCで人気を不動のものとした聖剣伝説シリーズの、待望を一身に集めた続編でありながら、その凄まじいまでの詰め込み具合と新機軸は、シリーズファンの度肝を抜くに十分過ぎる程でした。


ゲームの詳細については、Wikipediaをご参照ください。

Wikipedia:聖剣伝説 LEGEND OF MANA

こちらでは、ゲームのオープニングを参照することが出来ます。プレイシーンもちょっと出てきますが、なによりパステル調の美しい、美しすぎる背景グラフィックが一見の価値ありです。




さて、ゲームの話をしましょう。


そこにあったのは、ただひたすらの「ものすごい詰め込み」

およそありとあらゆるスクウェアのゲームの中でも、「詰め込み過ぎ」という点ではトップクラス、いや下手すると現在でもトップに君臨しているゲームなんじゃないかと思います。正直好みも分かれます。


かつて、「聖剣伝説2」や「聖剣伝説3」は、キャラクターが織りなすドラマと、若干のアクション性と、遊びやすさを絶妙に融合させた文句なしの名作タイトルでした。時折バグこそあるものの、FFとはまた違った味わいのその完成度は、今でも見劣りのするものではありません。

一方、聖剣伝説 LEGEND OF MANA(以下LOM)は、決して遊びやすいタイトルではありません。というか率直に言って、ライトゲーマーの方には攻略本なしだと結構わけわかんねえというレベルの内容だと思います。その意味で、このゲームは聖剣というよりはむしろサガシリーズに近いです。


一つには、このゲームがあまりにも「広過ぎる」という点があると思います。


LOMは、一人の青年(ないし少女)が、マイホームのベッドで夢から覚めるところから始まります。暖かく居心地のよさそうな(またこのグラフィックが素晴らしいの一言)家を出ると、マイホームの前にたたずんでいる、植物と人の間の生き物のような不思議な存在、「草人」。その草人から手渡される、「積み木の町」という「アーティファクト」。


「世界は、みるひとのイメージでかわるんだって。知ってた?」


まず、このゲームの第一の要素が「ランドメイク」システムです。白地図のような何もない世界に、自分で町やダンジョンを配置していく。そして、その町やダンジョンで起きるイベントを探しまわって、様々な条件を満たして、新しいアーティファクト(町やダンジョンを作る為のアイテム)を手に入れる。この繰り返しで、徐々に地図とイベント記録が埋まっていく。その感覚は、まるでイベントの宝探しです。

このゲームにおいて、プレイヤーは「能動的にいろんな場所を探し回って、いろんな条件を満たして自分でイベントを発掘する」という行動を求められるのですが、まずはここがノーヒントだと結構厳しい。最初の内こそ、町中で人に話しかけていれば勝手にイベントが始まるのですが、中盤以降世界が広くなるにつれて、どこの町に行って誰に話しかければ新しい展開が発生するのか、結構根をつめて探し回らないといけなくなってきます(わかりやすい奴もあるのですが)。


一方、このゲームの戦闘は、11種の武器ごとに操作性が変わる、ベルトスクロールのようなアクションです。ボタンとキーの組み合わせで様々な連続技が出来たり、ヒット&アウェイを狙ったり、逆に一気にラッシュをかけて相手を気絶させたりと、格闘ゲームのような要素を意識しているように見受けられる部分も結構あります。慣れてくると爽快感があるのですが、コツがつかめるまでは右往左往することになるかもしれません。

ダンジョン攻略やボス戦も決して難易度が低くはなく、後述する武器作成に手を出していない場合には、かなり苦労する場面もあります。特によくあがる名前が凶悪ボスの一角ラ・バン、ダンジョンとしては難関焔城。ダンジョンについていえば、テレポートのような手段が基本存在しない(固有の仕掛けとしてテレポート手段が存在するマップもある)為、行ったりきたりが面倒くさいという声もありました。


武器作成や必殺技を覚えるシステム(特定の特技をつけてひたすら戦闘回数をこなす)、ペット育成や楽器作成、ロボット作成のような寄り道も含めて、このゲーム、「深過ぎて面倒くさい」要素はかなり多いんですよね。この辺り、攻略的にはかなりシンプルだった旧聖剣シリーズファンの中で、LOMに対する好みがわかれる理由にもなっていると思います。


ここで、ある程度LOMの雰囲気や世界観が好みでないと、先を進めるのが苦しくなってしまったという人もいたでしょう。


が。「雰囲気や世界観」という部分がポイントになった時、LOMは、一部のゲーマーにとって凶悪無比な魅力を発揮し始めます。



あなたが、ボクらを好きな時、ボクらもあなたが好き。


真珠姫かわいい。(真顔で)


LOMには、三本の「シナリオの柱」とでもいうべきメインストーリーがあります。

一つは、宝石が人の姿をとった「珠魅(じゅみ)」という種族、その中の二人「瑠璃」と「真珠姫」を中心として織りなされる、「宝石泥棒編」。

一つは、エスカデ・ダナエ・マチルダ・アーウィンの、4人の幼馴染のちょっとした人間関係が、世界を揺るがす大事件に発展していく「エスカデ編」。

一つは、巨竜ティアマットと白竜ヴァディスに使える二人のドラグーン、ラルクとシエラを中心に進む、「ドラゴンキラー編」。


このメインストーリー、どれを進めても最終イベントまでたどり着けるのですが、これ意外にも山ほどのサブストーリー、そしてそれらを彩るキャラクター達がいます。

まずは、これら数々のストーリー群に出てくるキャラクター達と、彼ら・彼女らのセリフが、ツボにはまるともう底なし沼のように魅力的なのです。


例えば、月夜の町ロアで年中飲んだくれているアナグマの面々。

「ぐま!」


例えば、セイウチのバーンズが率いる海賊船バルドと、ダジャレ好きの海賊ペンギンたち。

「風がなければ船は進まん。 しかし、風の無い時こそ風に感謝する。 これが本当の海の男だ。」


例えば、世界全体のバックボーンストーリーの中核にいる、「マナの七賢人」の面々。

「見るのは未来だけでいい。罪の意識は、君を記憶の檻に閉ざし、鍵を開ける。鍵を開けて。自分自身を許せない人が、誰を許せると言うの?」


例えば、あちらこちらの町でぶらぶらしているだけのように見えて、実はメインストーリーの一番重要なところに鎮座している草人たち。

「ほしのかずをね かぞえてるのもね すきだな」「けっこうね、ほしってね たくさんあるっぽいよね」


例えば、相変わらずろくなことをしないろくでなしだけど妙に憎めない、シリーズ恒例の猫商人ニキータ。

「よき出会い! よきわかれ! 人生エンジョイするにゃ!」


例えば、当初世界征服を狙って町の一角にカボチャを繁殖させる、双子のちびっこ魔導士バドとコロナ、そして彼らが出身とする魔法都市ジオの面々。

「たいへんなのです!」「困ってるのです!」「とんでもないことです!」「一大事です!」


例えば、普段はマイホームの植木鉢に入ってじっとしているだけだけど、時には主人公の土産話を日記に書き綴ったり、時にはバドのほうきを探して大冒険する、いわば主人公の相棒「サボテン」。

「かかわっても かかわっても かやのそと」


その他その他その他その他、とにかくキャラクターは多すぎて到底書ききれないのですが、それら魅力的なキャラクター群が、時にはお互い関わり、時には一人で勝手なことをしている様は、群像劇などという一言では括れない光景です。


個人的に特に気に入っているのは、勿論メインストーリーの中でも最も完成度が高いといわれる宝石泥棒編の珠魅の面々と、魔法都市ジオの学生連中。ジオの学生を授業ボイコットから引き戻す「ギルバート・愛の出席簿」なんかでは、バドやコロナを連れてジオをうろついて、いろんな学生と話しているだけでも十分楽しいです。

一方、七賢人の言葉はどれも含蓄にあふれていてすごいのですが、特に「語り部のポキール」の言葉なんかは印象的なものが非常に多いです。

「つまるところキミは、闇を憎まなくていい。それだけがわかればいい。」
「人の愚かさばかり見る、キミの生き様に光明はあったかい?」
「キミに全てをまかせる。 しいて言うならば、それがボクの力だ。」


一方、七賢人は割とギャグもこなす人たちなのであって、鍛冶屋のワッツとのエピソードやガイアと真珠姫の会話なんかもなかなか楽しいです。オールボンの「シリアスも行き過ぎればギャグになるぞ」は、エスカデ相手ということもあって名言中の名言。


そして、それらキャラクターたちを隙なく彩っているのが、水彩画のような素晴らしいグラフィック群と、言葉を失う程に完成度の高いBGMの数々。私、数あるスクウェアRPGの中でも聖剣シリーズの曲は群を抜いて大好きなのですが、その一角で大きな存在感を占めているのがLOMです。

いうまでもないドミナの町や、オープニングの尋常じゃない清涼感を皮切りに、リュオン街道、月夜の町ロア、魔法都市ジオ、港町ポルポタや各ボス戦に至るまで、聞きごたえのない曲が一曲たりとも混ざっていないことは断言します。

特に、珠魅たちの都市である「煌きの都市」なんかは、一応ストーリー上ラストダンジョンにあたる筈なのに、ピアノを基調とした余りにも静かで寂寞感のあるBGMで、静かに聴きいっているだけで胸にじわっとくる名曲です。


そして、なんといっても、エンディングで流れる最後のボーカル曲「Song of mana」。町々をめぐるニキータと、草人たちの台詞をバックに流れ始めるSong of manaの晴れやかさは、何をおいても一聴の価値があると言っていいと思います。




ところでディオールチャートが長すぎるんですが。

話は変わりますが、このゲームの「武器作成」という仕組みは凶悪の一言ですべてを言い表せるものでして、とんでもなく奥が深いんですがとんでもなく大変だしとんでもなく面倒くさいです。

このゲーム、普段「使う」対象としてのアイテムが実はほとんど出てきませんで、武器防具以外のアイテムはほぼ全部が合成素材という、RPG全体を見ても割と珍しい陣容になっています。

もとになる素材に対して、順番に合成素材を使っていくことで、様々な特殊効果が発現したり、どんどん武器が強くなっていったりするのですが、とにかくこれが下準備から実行から、滅茶苦茶深くて滅茶苦茶時間を食います。

解説してくださっているページから、一部を引用してみます。略語がたくさん使われてますが、余り気にせず「そーゆーものだ」と思ってください。

引用元:M.T.R.聖剣伝説LEGEND OF MANA様

A : 0-0-9-0-0-0-0-0
  ・ 輝きx5>イオウx2>輝きx2
B : 0-0-9-6-0-0-0-0
  ・ >輝き>アウラx2>輝きx2
C : 0-0-9-6-7-0-0-0
  ・ >サラマx2>イオウ>輝き>イオウ>火マナ
D : 0-6-9-6-7-0-0-0
  ・ >輝きx2>シェイドx2>輝きx2
E : 6-6-9-6-7-0-0-0
  ・ >ウィスプx2>輝きx2
F : 6-6-9-6-7-0-8-0
  ・ >ジンx2>水銀>輝き>水銀>風マナ
G : 6-6-9-6-7-6-8-0
  ・ >輝き>カオス>ノームx2>イオウ>輝き
H : 6-6-9-6-7-6-8-6
  ・ >カオス>ウンディx2>水銀>輝き
これ、「輝き」とか「イオウ」とか書いてあるのが一回一回使う合成素材なんですが、一回使うごとに「カン、カン、カン」と金槌をたたいて10秒くらいはかかります。で、これ、基本というか、チャートの途中です。まだこれでも全然最強武器の部類には届きません。これだけのアイテムをそろえるだけでも偉い手間なのに、アイテム揃えてからある程度鍛えるまで数時間かかります。
 
今でこそ、MMORPGなんかで強力武器を手に入れるまでに手間がかかることは珍しくありませんが、PS時代当時、一人用のRPGでこれをやってしまうスクウェアには正直絶句する他ありません。

「アルティマニア」なんか読みながらやると楽しいことは凄く楽しいので、ついつい時間を使ってしまう武器作成なんですが、余りにも理論が複雑過ぎてとてもライトゲーマーがついていけるようなシステムではありません。詳細は是非上記リンク先様などで参照してみてください。



さて、大概長くなりました。

この記事を一言でまとめると、内容は

LOMはとんでもなく面白いし音楽超いいので遊んだことない人は是非遊んでみてください(あと真珠姫かわいい)

ということだけであって、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておきます。

今日はこの辺で。

posted by しんざき at 00:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月23日

レトロゲーム万里を往く その126 ミネルバトンサーガ


ファミコンにおける「RPG」って何だったんでしょう、という、結構大きな話から始まるわけです。



もちろん、コンピューターゲームにおける「RPG」とは、当初は「D&Dをコンピューターの世界に持ち込んだもの」でした。最初、メインフレームで動いていた幾つかのダンジョン型ゲームは、やがて「Ultima」や「Wizardry」「Rogue」になって世界中のパソコンユーザーたちに知れ渡るようになりました。

そして、それらのゲームは海を越えて、日本では「ダンジョン」や「ぱのらま島」、「ドラゴンスレイヤー」、あるいは「ハイドライド」、「ザ・ブラックオニキス」「夢幻の心臓」といった、数々の国産パソコンゲームタイトル名作群に姿を変えました。


この頃、こういったパソコンRPGの流れを熟知していたであろうファミコンゲームの開発者たちが、RPGをファミコンの世界に持ち込む時、どういうことを考えていたのかなあ、などと私は想像します。


一番最初にきたのは、「ちびっこも含めたファミコンユーザーに分かり易い形で、RPGという新しい世界を知ってもらおう!」というものだった筈です。そこから考えると、アクションゲーム花盛りだった1986年、最初に出現したのが「パソコンのRPGを下敷きにした、アクション寄りRPG」だったのは当然のことと言えるでしょう。ゼルダの伝説はある程度「ハイドライド」や「ザナドゥ」を意識していた筈ですし、ハイドライド・スペシャルは「ハイドライド」を若干マイルドにした移植作です。数か月遅れた「ワルキューレの冒険」は、そこにぐっと「奥行」というか、色んな要素を加えたタイトルになっていました。


そして、おそらくは「夢幻の心臓II」を意識していたであろう「ドラゴンクエスト」と、その半年余り後に発売された「ドラゴンクエストII」が、ファミコン業界における「物語を語るRPG」のスタンダードになったことは疑いないでしょう。この後しばらく、ファミコンにおけるRPGの世界は、言ってみれば「どこまでドラクエで、どこからドラクエでないか」という視線と戦うことになりました。

1987年に発売されたRPGが、「ドラクエとどう差別化するか」ということを考えながらデザインされたことは想像に難くありません。例えばヘラクレスの栄光。例えばゾイド。例えばインドラの光。例えば桃太郎伝説。どれもこれもそれぞれに、「ここがドラクエと違うんだ!!」というアピールポイントを持ったタイトルたちでした。

私が考える「ファミコンRPGのキーワード」は、「試みの歴史」です。

スタート地点にあった数々の名作を、どんな試みで超克し、どんな試みを後につなげるか。RPGという物凄く広いフィールドに、限られたハードウェア性能を使って、一対何を埋め尽くすのか。そんな「試み」が繰り返し繰り返しユーザーに提示されたのが、ファミコンRPGの歴史だったのではないかと、私は思うのです。



そんな中そのゲームは、「未来神話ジャーヴァス」で微妙にRPGの潮流に乗り遅れた感があった、アーケードの雄タイトーから発売されました。


それは、数あるファミコンRPGの中でも有数の、「出会いと別れ」の物語。



ミネルバトンサーガ。RPG。1987年10月23日、タイトーから発売。

ジャーヴァスに続くバッテリーバックアップシステムを始め、数々の新機軸をファミコンRPGに持ち込み、その高い完成度は当時から一部ファミコンゲーマーの定評を受けていました。当時、ドラクエシリーズや桃太郎伝説などの影に隠れてしまった感は正直否めませんが、米田仁士先生の溜息が出るほど美しいパッケージイラストを始め、新旧RPGゲーマーにアピールする魅力を、そのタイトルは十分に発していました。



ゲームの背景など、詳細はWikipediaに記載されています。

Wikipedia:ミネルバトンサーガ ラゴンの復活

「ゲームのせつめいしょ」様では、説明書の内容をそのまま参照出来ます。

ゲームのせつめいしょ:ミネルバトンサーガ ラゴンの復活


動画はyoutubeから参照出来ます。後述しますが、BGMほんとーーーーに素晴らしいので、フィールドの曲だけでも聴いてみてください。



さて、ゲームの話をしましょう。


・そこにあったのは、度胆をぬく程の「新機軸」の数々。

まず特筆すべきなのは、ミネルバトンサーガの「オーパーツ」と称してもまったく違和感のない、凄まじいまでの新機軸の数々です。


ミネルバトンサーガは、ゲームの種類としては、ドラクエなどと同じ「2D見下ろし型RPG」ということになります。ゲームを初めてすぐの印象としては、ドラクエやFFとそれ程異なるところがないでしょう。

が、プレイヤーはすぐに、ミネルバトンサーガに込められた「工夫」の圧倒的な物量に気付かされることになります。


・魔法・飛び道具などの戦術次第で格上の敵も倒すことが出来る、シンプルでありながら奥が深い2Dアクション型の戦闘シーン(ここだけハイドライドっぽい)
・ラスボスを含め、どんな敵からでも100%逃げることが出来るという大胆なバランス設定
・個別にストーリーを持ち、くるくると出会い・別れを繰り返しながら入れ替わる仲間たち
・仲間たちは、ドラクエのような大名行列形式ではなく、フィールド上を自然に歩く(障害物は勝手に避ける)
・街道の上を歩くと敵が出てこない(例外もある)
・育成ゲームとしての楽しみも見せてくれる傭兵システムと、傭兵たちの階級
・傭兵は、この時期に既にオートAIを実装しており勝手に動く
・ゲームの進行具合に応じて、細かく変化する街の人々のセリフ
・当時はまだ数少なかったバッテリーバックアップ方式
・何故か敵とも会話が出来る戦闘中会話システム(それ程意味はない)
・船のグラフィックが大きい



繰り返しますが、このゲームが出たの、1987年の10月です。ドラクエIIのわずか8か月後。まだファミコンRPG全体の歴史としても黎明期というべき時期に、ここまでの工夫を詰め込んだタイトルは他にちょっと見当たりません。


個人的に、特に印象深いのは傭兵システムです。このゲーム、ストーリー上の仲間のレべルは基本的に上がらないので、育てることが出来るのは基本傭兵のみです。そして、傭兵一人一人にも「ルトナ」とか「キース」とか名前がありまして、育ってきて称号も上がると結構愛着がわくんですよね。

しかし。傭兵はある程度かしこいとはいえ、当然自分では操作出来ないので、油断すると案外さくっと死にます。そして死ぬと復活出来ず、「ユラトぉぉぉぉっ!!」とか絶叫することになる訳です。手塩にかけて育てた傭兵が、ひかせ際を誤ってあえなく敵に敗れた時の喪失感は、Wizardryのロストにも匹敵するものがあります。

一方、戦闘バランスは結構独特で、弾数制限がある(弾は街で購入できる)飛び道具を上手く駆使すれば、序盤でもかなり格上のキャラに勝つことが出来ます。これを利用した稼ぎテクなども存在しまして、序盤に戦えるシープヘッドを倒しまくると大量に経験値が稼げたりするんですが、そうしなくてもレベルは割とさくさく上がる親切仕様です。これで経験値稼ぎの楽しさを覚えたちびっこたちもいたのではないかと。

とはいえ、どれだけレベルを上げても、最終ダンジョンは割と地獄仕様でして、かなりの苦労を強いられることになります。機会があれば是非攻略をば。


くるくると入れ替わる仲間たちにも一人一人きちんとドラマがあり、台詞があり、出会いと別れがあります。この辺の見せ方、プレイヤーに対する「別れ」の提示というものが、このゲームはほんとーーーに真に迫っており、新たなキャラクターと出会った喜び、前のキャラクターと別れる寂しさを、非常に丁寧にプレイヤーに提示してくれます。私が、ミネルバトンサーガを「出会いと別れのRPG」と呼ぶ所以です。

街の人達を含め、ちょこちょこと変化しながらプレイヤーに提示されるメッセージの数々は、「自分は本当にこの世界を旅しているんだ」という臨場感を感じさせてくれること大でした。個人的にはジノーとかいい味出してたと思います。



・美麗なグラフィックと、神曲以外存在しないBGM。

ところで、上でも書きましたが、ミネルバトンサーガには神曲以外存在しません。断言します。

私が特に好きなのはフィールドのBGMとED・スタッフロールのBGMでして、とりわけスタッフロールのBGMについては、ラスボスを倒して平和な世界を廻った時のメロディラインそのままに、軽快さと透明感と重層な展開という、一見矛盾しているように見える要素を見事に並び立てている素晴らしい名曲です。

出来れば、ご自分でラゴンをしばき倒してからどっぷり聴かれるのをお勧めしたいところなのですが、忙しい方はyoutubeで検索してでも一聴されるとよろしいのではないかと思います。


ともあれ、ミネルバトンサーガのもう一つの凄さは、やはりなんといっても「世界の見せ方」なんですよね。

例えば、ストーリーの進み具合によって、同じ街でも聞ける噂話が変わったり。

例えば、色んな街の吟遊詩人から、その地に伝わる伝承を聞くことが出来たり。

例えば、説明書にアイテムの原料やの作り方が細かく書いてあったり。

例えば、製品への添付で世界地図を観ることが出来たり。


上記の美しいBGMや、細かく書きこまれたグラフィックも含めて、ミネルバトンサーガの世界観演出はとにかく徹底しています。ゲームの中にも外にも、南オフェーリアという世界がどんな場所なのか、プレイヤーに伝えようとする要素が山積みです。この辺りは、後のTAITOシューの世界観の組み立てにも通ずる部分があるような気がします。


と。長々書いて参りましたが、私の中では「メタルマックス」「サンサーラ・ナーガ」と並ぶ、ファミコンRPGの中でも屈指の名作が「ミネルバトン・サーガ」です。どうもまだバーチャルコンソールでも配信されていないようなのですが、機会あれば是非とも遊んでみることをお勧め致します。


今日書きたいことはこれくらいです。


posted by しんざき at 19:34 | Comment(1) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月14日

レトロゲーム万里を往く その125 バルーンファイト


ファミコンで「ドッグファイト」を表現した、最初のゲームなんじゃないか、と私は思うのです。




1983年〜1985年あたりのファミコン市場は、一言で言ってしまうと「任天堂と愉快な仲間たち」が形成していました。ファミコン最初期の任天堂タイトルが、一から十まで一作も漏らさず佳作・名作揃いだったこと。それ抜きで、後のファミコンの隆盛はありませんでした。

前にも書いたことがありますが、1984年後期から1985年初めくらいのファミコンゲーム発売タイトルをざっと見た時、「当時の任天堂のスタッフが全員妖怪だった」という以外の結論を導出することは極めて困難です。

1984年11月2日 F1レース、同11月2日4人打ち麻雀、11月14日アーバンチャンピオン、11月22日クルクルランド、11月30日エキサイトバイク、85年に入って1月22日バルーンファイト、1月30日アイスクライマー。一本のゲームが数人、場合によっては一人で開発される時代だった、ということを考慮に入れても、一体どんな加速装置を使えばこうなるのかとしか言えない凄まじい過密スケジュールであることは議論を俟たないでしょう。当時の任天堂にはドラえもんでも実装されていたんでしょうか。


この傍ら開発がすすめられていたと考えられる、「ファミリーベーシックV3」は2月21日に発売されています。その後の、4月9日サッカー、6月18日レッキングクルー、6月21日スパルタンX、というスケジュールも今から見れば十二分に頭おかしいのですが、それでも1984年11月の妖怪スケジュールに比べれば、まだなんぼか納得感があると言っていいと思います。


強調しておきたいのは、ここで挙げたタイトルの中に、「面白くないゲーム」というものが一本たりとも含まれていないことです。F1レースは当時の基準からすれば常識外れのド迫力でしたし、4人打ち麻雀はお父さんたちの腰をファミコン前に落ち着けるのに一役買いました。アーバンチャンピオンは「対戦格闘」というもののルーツの一端を担っていますし、クルクルランドの宝探し感は鮮烈でした。「横スクロールジャンプアクション」に近いゲームを実現したエキサイトバイクは爽快感に溢れていましたし、アイスクライマーのポポとナナのジャンプ力は「お前らなんでオリンピック出ないの?」というレベルでした。



そして、そんな中に、佳作軍団の中でもひときわ輝く一作として、バルーンファイトがありました。



バルーンファイト。アクションゲーム。1985年1月22日、今日から数えて11131日前に、任天堂からファミコンで発売。元々はアタリの「ジャウスト」を移植しようとしていたところ、権利関係の問題でお蔵入りになり、坂本賀勇氏、横井軍平氏、岩田聡氏、田中宏和氏の4人で大幅なアレンジを加えて本作が誕生した、という逸話が知られています。私はファミコン版、アーケード版、それぞれの「ジャウスト」も遊んだことがあるのですが、後述する複数の理由から、「元ネタを遥かに超えたアレンジ作」になっていると言っていいのではないかと私は思います。



さて、ゲームの話をしましょう。


・何故なら、そこに「Aボタン」と「Bボタン」があったから。


ゲームシステムというのは、開発者の思想です。とりわけ「操作系」というのは、「このゲームをどう遊んで欲しいか」という、開発者の思想が如実に現れる部分です。

バルーンファイトに現れている開発者の思想というのは、私が考える限り、多分「メリハリ」だと思います。


キーワードは二つあります。「操作のメリハリ」と、「上下のメリハリ」


上記動画を見ていただければ一目瞭然ではありますが、バルーンファイトは、空を飛んで敵の風船を割っていくゲームです。プレイヤーは、風船を担いだ主人公キャラクターを縦横無尽に操って、あちこちを飛び回る敵の上をとり、敵の風船を割っていきます。


元ねたの「ジャウスト」と違って、バルーンファイトには二つのボタン操作があります。

Aボタンが、ゆっくりとしたパタパタ羽ばたき。Aボタンを押すと、プレイヤーは一瞬手を動かしてちょっとだけ浮き上がり、その後すぐ下降を始めます。

Bボタンが、高速のバタバタ羽ばたき。Bボタンを押していると、プレイヤーは水面下の白鳥かよって勢いで物凄くバタバタと手を動かし、上方向に高速のベクトルを持ちます。


まず、この二つのボタンが生み出している「操作のメリハリ」こそが、バルーンファイトというゲームのひとつの重要なエッセンスなのです。


バルーンファイトは、要所要所でかなり細かい操作を必要とされます。細かい地形を交わしたりとか。雷と敵に挟まれたところから脱出したりとか。バルーントリップでは何をかいわんやです。

一方、バルーンファイトでは要所要所で非常にすばやい動きを必要とされます。高い位置を急いで確保して、敵の頭上を取ったりだとか。逆に、敵に頭上をとられた場面から急いで逃げ出したりであるとか。


この時、単に「飛ぶボタンを押したり離したりして調節してね!」ではなく、「AボタンとBボタンを使い分けて、上手いことプレイヤーをコントロールしてね!」というのが、ひっじょーーーーーに明確な「プレイヤーへのメッセージ」でした。

バルーンファイトのキャラクターは、ふわふわとした非常に独特な浮遊感をプレイヤーに提供してくれます。羽ばたけばふわっと上に上がるし、ボタンを離せばすーっと下に落ちていく。その浮遊感に、上記の「メリハリのきいたボタン操作」が合わさった時、何が起きたかというと。


バルーンファイトは、プレイヤーに「俺上手くなってる感」を物凄いクオリティで提供してくれたのです。


AボタンとBボタンの使い分け。微妙な速度操作と浮遊感の制御に慣れた時、プレイヤーは縦横無尽に画面内を駆け回る自分の操作キャラクターの姿に気がつきます。次から次へと、思い通りにばちんばちん敵の風船を割っていく姿は、まさにエースパイロット。2P対戦(本来は協力プレイなわけですが)という要素も合わさり、戦闘機ごっこもかくや、といわんばかりの空中戦がそこにはありました。

この、「ボタンを使い分けて、上手く操作してる感」というものを味わうには、ボタン一つではそれなりの高さの壁があります。ボタン二つだからこそ実現できた楽しさが、そこにはあったのです。

プレイヤーキャラクターに風船が二つあって、風船が一つ割れてもまだ飛び続けることが出来る、という点で、学習機会が多かったという点もあるのでしょう。プレイヤーは、「今、自分の飛び方のどこが悪かったのか」というのを頻繁に学習しつつ、独特な浮遊感を我が物にしていくことになります。


一方。バルーンファイトには、「上下のメリハリ」というものもありました。


バルーンファイトの敵のアルゴリズムはひっじょーーによく出来ていて、三段階のレベルに分かれた敵キャラクターが、それぞれ実に自由に画面を飛び回ります。レベル1の敵キャラはまだもたもたとしているのですが、レベル3ともなると非常にすばやい動きでこちらの上空をとろうとしてきます。

敵に上を取られた状況というのは非常に危険なので、プレイヤーは出来る限り画面の上方を確保しなくてはいけません。ですが、Bボタンを押しっぱなしだと画面の天井でがくんがくん跳ね返されて却って危険ですし、雷が飛んでくる危険もあります。

そこで、プレイヤーは様々な手段を使って、「自分の上」を守りつつ、「自分の下」に敵を位置づけようとするわけです。例えば、地形を使って敵をおびきよせようとしたり、であるとか。例えば、Aボタンを駆使してはじかれない程度に天井に張り付いたりであるとか。

「ボタンを離すとどんどん下に落ちる」という要素もあり、Aボタン、Bボタンと密接に結びついた「上下の取り合い」は、擬似的な「敵との駆け引き」とでもいうべき要素をバルーンファイトに導入しました。2P対戦ともなれば一層その要素が顕著になり、プレイヤーは「一人のエースパイロット」として、対戦相手と熾烈な格闘戦を繰り広げることになります。私が、バルーンファイトを「ファミコン史上初のドッグファイト」と考える所以です。


AボタンとBボタン。一見ほんの小さなことですが、絶妙な操作感とあいまって、この要素がバルーンファイトを名作にしている、と私は思います。



・お魚さんの超絶食欲について。

敵をパラシュートのまま放置して海に落っことす、という遊びは当時誰しもがやったのではないかと思うわけですが。

上記、敵とのドッグファイトをメインとするAモード・Bモードの他に、バルーンファイトにはもう一つ遊び方がありました。そう、「Cモード」こと「バルーントリップ」です。



「バルーントリップ」では、敵キャラクターが出てきません。軽快なBGMの中、プレイヤーは一面の雷雲をもぐりぬけて、風船を割りつつひたすら進み続けることになります。固定画面型アクションゲームであるバルーンファイトで、唯一画面がスクロールするゲームモードです。

こちらも、上記の「AボタンとBボタン」を縦横無尽に使い分けながら、時にはすばやく、時には繊細な操作で障害物を交わしていくのがメインのゲームなわけですが、プレイヤーは基本雷に接触するか海に落っこちるか以外にゲームを終える選択肢がないわけで、冷静に考えるとすっげえ悲壮な状況だと思います。未帰還ミッションですよ未帰還ミッション。気分はエリア88のファイナルフライト。かなしい。


これ以外にも、プレイヤーが海すれすれを飛んでいるとたまに魚がぐわっと下から出てくるところ、ギリギリのところで捕食を免れる「川のぬし釣り」であるとか、パラシュートの敵に基本とどめをさしてはならず、全て海におっことして魚に食べさせなくてはいけない「アクアノートの休日」であるとか、通のバルーンファイターの中では様々な特殊プレイ形態が認定されています。嘘ですが。「プレイヤーの工夫次第で色々な遊び方が出来る」というのも、バルーンファイトというゲームの懐の深さを示す一端であるといえるでしょう。


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皆さんよくご存知の通り。

「バルーンファイト」が世に送り出されてから30年後の今年、バルーンファイトを作った一人の巨匠が世を去りました。

バルーンファイトを遊びながら、開発者の意図をあれこれ妄想する程度しか能がない私ではありますが、岩田氏が作った数々のゲームを、またそれ以外の膨大なゲームを、これからも変わらず遊び続けることで、ささやかな哀悼の意に換えたい、と、そんな風に考えるわけなのです。




以下は関連エントリー。
今まで一度も「ファミコン」を遊んだことがない人に、今だからこそ薦める10作
以下は関連してるんだかしてないんだかよく分からないエントリー。
撃墜王の一夜
posted by しんざき at 00:10 | Comment(1) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月08日

今まで一度も「ファミコン」を遊んだことがない人に、今だからこそ薦める10作


ちょっとTwitterで話題になったので書いてみました。

対象となる人:PS3やWiiUくらいから家庭用ゲームに入った人、あるいはブラウザゲーム畑の人で、バーチャルコンソール含めファミコンのゲームやレトロアーケードゲームに触ったことがない人

選考基準1:俺の趣味
選考基準2:特にファミコンの作法や背景を知らなくても楽しめる
選考基準3:最近のハードで直系の続編、ないしシリーズ作が発売されていない(長寿シリーズ化していない)
選考基準4:1メーカーにつき一タイトル
選考基準5:最近のハードで出ていないものなら別に移植ものでも良い


上記くらいを条件とします。

なるべく「ファミコン時代ならでは」で「色んなメーカー」のタイトルを選ぶのが楽しそうだなー、と思う訳です。一方、最近でもシリーズが現役なゲームは、当然昔のタイトルが知られる機会も多かろう、ということで基本外しております。

その為、例えばFFとかマリオとかDQとかゼルダとかFEとか悪魔城とか、現在でも一線級のシリーズタイトルは外れます。好きだけど。当然女神転生も外れますし、くにおくんもPS3で出てるんで外れますし、悲しいことにメタルマックスまで外れます。

ただし、第一条件は飽くまで俺の趣味なのでそこまで深くは考えてません。

そんなもんリストアップしてもどうやって遊ぶん?と言われると困りますが、秋葉原にダッシュしてスーパーポテト辺りでニューファミコンと中古ソフト買うなり、バーチャルコンソールで遊ぶなりするのが良いのではないかと思います。


ということで、以下はしんざきセレクション、「初めてのファミコンゲーマーにおすすめのタイトル10選」。


以下、一作一作の解説に移ります。長文です。


○迷宮組曲(1986/11/13・ハドソン)

恐らく、ファミコンの数あるタイトルの中でも、トップレベルの「今でも遊べる名作アクションゲーム」だと私は考えています。スーパーマリオブラザーズ3と並ぶ、と言ってしまうと言い過ぎでしょうか。



名作アクションゲームの要件って、

・操作が直感的で敷居が低いこと
・操作していて楽しい、気持ちがいいと感じられること
・上達を実感しやすいこと

辺りかなーと思うんですけれど、迷宮組曲はこの三要件を完全に満たしています。Aボタン、Bボタン、それぞれを押した時のレスポンスで即座に操作方法が理解出来、ブロックを壊した時の効果音は気持ちよく、ジャンプの浮遊感はただそれだけで楽しく、階層が進むにつれて敵が強くなっていく度合はリーズナブルです。

それに加えて、「様々な宝探し的要素」「アイテムを集めて出来ることが増えていく楽しさ」「24時間聴いていても飽きないBGM」が無暗やたらとわくわく感を助長します。最近のアクションゲームに慣れた人であっても、アクションゲーム自体と縁遠い人であっても、迷宮組曲は自信を持ってお勧め出来るタイトルです。


○バトルシティー(ナムコ)

ナムコには勿論星の数程の名作ファミコンタイトルがある訳なんですが、敢えて「ファミコンならでは」を選ぶのならこれかなーと思いました。

何故かというとこのゲームは、ただの「名作」というだけではなく、「アーケード版のグラフィックを向上させて、数々の要素を追加した」移植作、言ってみればコンシューマーにおける「リメイク」の源流の一つだからです。(注:リメイク自体はロードランナーとかの方が早い)



バトルシティー、及びその原作であるタンクバタリアンは、ゲームとしては「インベーダー」や「ギャラクシアン」のような固定画面型STGの進化形として位置づけられるタイトルです。

インベーダーのような旧来型固定画面STGに対して、「守らなくてはいけない「基地」の存在」「自機は戦車であって、迷路上の画面内を上下左右に動きまわれる」「地形自体も破壊の対象となる」という要素を付け加えたのがタンクバタリアン。さらにパワーアップアイテムや2Pの協力・対戦要素、マップエディットまで付け加えられたのがファミコン版バトルシティーです。

当時、例えば「ゼビウス」にせよ「グラディウス」にせよ、アーケードからの移植作というものは、基本「限られた性能であるファミコンのカートリッジに、如何に演出や要素を節約してゲームを移植するか」という戦いを強いられていました。そんな中、「アーケードよりも明らかに進化している」というタイトルは、当時としてはかなりの少数派でした。

ナムコの数ある名移植作の中でも、一つのランドマークとなるタイトルと言えるでしょう。



○ハイドライドスペシャル(1986 東芝EMI・移植元はT&E SOFT)

「ゼルダの伝説」と並んでファミコンにおけるアクションRPGの源流の一つであり、ひいてはコンシューマー畑におけるRPGのルーツの一本として数えられるタイトルです。このちょっと後に「ドラゴンクエスト」や「ワルキューレの冒険」が発売されています。



ぷちぷちとスライムを潰してレベルを上げるという、いわば「経験値稼ぎ」という遊びの楽しさを、初めてファミコン小僧達に教えたタイトル、とも言えると思います。

ゲームとしても、勿論解かなくてはいけない謎、クリアしなくてはいけない障壁は幾つもあるのですが、操作も謎解きも比較的直観的であり、「レトロアクションRPG」の入口としては理想的なゲームの一つと言っていいかと思います。


○バルーンファイト(1985/01/22 任天堂)

任天堂のファミコンタイトルから一本を選ぶ」ということ自体がどう考えても無理ゲーなので自分の好みだけで決めてしまいます。言わずと知れた、バルーンファイトです。



空中を縦横無尽に飛び回れる浮遊感、敵の風船を割る爽快感に加えて、相手に上空をとられた時のスリル、雷や障害物などを絡めた上達曲線等、その良質なアクションゲームとしての出来は、元ネタとなった「ジャウスト」を凌駕していると思います。Cモードの「バルーントリップ」もハマリゲーです。

「アーバンチャンピオン」「クルクルランド」「アイスクライマー」辺りの同期組と並んで、「二人同時プレイでの協力・対戦」という要素を積極的に取り入れ始めた時代の作品でもあるでしょう。


○イー・アル・カンフー(1985/04/22 コナミ)

コナミからはイーアルカンフー。これもアーケード版からの移植作なんですが、ゼビウスのような性能縮退移植かと思ったら実は違った、という点を含め、これも色々な点で歴史的なタイトルだと思います。



アーケード版のイー・アル・カンフーは、勿論名作ではあるのですが、多彩な技や難易度を含め、「とっつきやすさ」という点では決して優れたゲームではなく、むしろ結構人を選ぶゲームでした。

それに対して、ファミコン版イー・アル・カンフーは、敵の数は少なければ技も少ないですが、それが逆に敷居を大幅に下げ、極めてとっつきやすいスルメゲーに大変身していました。

上記動画を見て頂けば分かる通り、ストIIのような「対戦格闘ゲーム」のフォーマットのかなりの部分がこの時点で完成していたこともあり、歴史的にも決して軽く扱っていいゲームではありません。このゲームの結実は、遠く「ファイティング武術」という形で3D格ゲー時代に還ってくることになります。

ちなみにしんざきは、どういう訳か今でも週に一回は必ずイーアルカンフーをやっています。殆ど習慣です。


○ジーザス 恐怖のバイオモンスター(1989/03/17 キングレコード・開発・移植元はエニックス)

アドベンチャーゲームから一つを挙げるとしたら、ということでSFAVGの金字塔、ジーザスをチョイス。



アドベンチャーゲームは、かつて「色んな単語をフリー入力して、正解単語を探す」というゲームから、「用意されたコマンドを色々試して展開を探る」というゲームに遷移した時代がありました。この「ジーザス」は、その「切り替わり」が完全に終わった後に産まれたゲーム、PC-88版の時点で既にコマンド選択型AVGだったタイトルです。

宇宙船という閉鎖空間を舞台に、サブタイトルにもなっている「モンスター」との戦いが繰り広げられるエイリアン型のストーリー。といってしまうと紋切型のシナリオのようですが、この頃顕著に上がってきていたグラフィック性能の影響もあり、魅力的なヒーロー・ヒロインが様々に活躍する、SFAVGの佳作が本タイトルです。

このゲームの試みは、遠く「メタルスレイダー・グローリー」で一つの到達点を見ることになります。



○ザナック(1986/11/28 コンパイル、元はMSX)

ファミコンからSTGを一作だけ挙げるとしたらほぼこれ以外の選択肢が存在しません。一択です。(三作なら、烈火とかオーバーホライゾンとかあるんですが・・・)



7種類の使い分けが可能で、しかもそれぞれに成長するパワーアップシステム。それに基づいた戦略性。スクロールの速さの緩急。処理落ちなど知ったことか、と言わんばかりの弾幕と弾避け、ボタン押しっぱなしでのソフト連射と撃ち込みの爽快感。それでいて、それら全ての要素を「ディスクの片面」という限定されまくった容量に圧縮している本作は、紛れもなく「奇跡のSTG」と断言してしまって問題ないでしょう。

BGMも爽快感が溢れており、その懐の深さは初心者から上級者までにそれぞれ違った楽しさを提供します。最近のシューティングゲームに慣れた方の審美眼にも、十分耐えるタイトルだと言えるでしょう。



○SDガンダム2 カプセル戦記(1989/03/03 バンダイ、開発元はヒューマン)

ファミコンにおけるバンダイの最高傑作、と言ってしまっていいと思います。



「SDガンダム」という素材を得ての、ガンダム版「大戦略」。しかし、「戦闘シーンをアクションゲームにした」という一点が、このゲームをFCバンダイの金字塔にしました。ゲームの基本的な部分はディスクシステムの「スクランブルウォーズ」で既に出来上がっていましたが、このゲームを「完成」させたのは間違いなくカプセル戦記でしょう。

様々なモビルスーツが縦横無尽に暴れまわるアクションシーンの、問答無用の説得力。このゲームで初めて「ガンダム」を知った、というファミコン小僧も多くいた筈です。ダブルゼータやνガンダムがいかに強力か、一方ザクやグフで大物食いを狙うのがいかに楽しいか、そんな「ガンダム」ならではの遊び方を教えてくれた本作は、コンシューマーのガンダムゲー全般を見渡しても一つの金字塔と言っていいと思います。

最近アクション系のSDガンダムゲーあまり見なくてさびしい。いや、Gジェネもいいんですけれど。


○ミネルバトンサーガ(1987/10/23 タイトー)

タイトーからはバブルボブルと散々迷いましたが、FCから正統派RPGを一つ上げるとしたら、という点を合わせてミネルバトンサーガです。



半アクションゲームとなる戦闘シーンだとか、既にAIが導入されている傭兵システムだとか、フィールドで地形に合わせて勝手に移動してくれる仲間たちだとか、当時の基準でこのゲームが革新的だった点は枚挙に暇がないのですが、やはり個人的には、何よりもそのBGMの素晴らしい透明感の印象が鮮烈です。フィールドBGM、オープニング、戦闘、ED、どれをとっても超絶完成度という他ありません。

後の「シルヴァ・サーガ」と併せて、その一種独特な世界観やストーリー展開についても一見の価値があります。


○キャプテン翼(1988/04/28 テクモ)

同じく「ソロモンの鍵」と散々迷ったのですが、「ファミコンならでは」というコンセプトでキャプ翼です。



ゲームとして完成しているのは「2」なのですが、初代キャプテン翼の衝撃度、「サッカーをこんな形で遊ばせるのか…!」というその新鮮過ぎた戦慄は、多くのファミコン小僧たちの共通体験になっているかと思います。

サッカーという題材を、「シミュレーションRPG」とでもいうべきシステムに落とし込み、必殺シュートに様々なビジュアルをくっつけた、当時のテクモの選択にはもはや感嘆する他ありません。「キャプテン翼」という題材を縦横無尽に使い切った、そのタイトルは今でも十二分に遊ぶ価値があります。



ということで、偉い長文になりました。

上記に挙げたタイトルに限らず、ファミコンには今でも楽しめるタイトルが山のようにあります。「まだファミコンを遊んだことがない」という皆さまは、一見チープなグラフィックを忌避せず、是非ともファミコンワールドに足を踏み入れて頂ければと思います。


posted by しんざき at 20:30 | Comment(23) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月25日

皆はもっと赤勲章の恩義を忘れずに大切に扱ってあげるべき


何を言っているかよく、というかさっぱり分からないと思いますが、「ダライアス外伝」、通称ダラ外の話です。比較的どうでもいい話なのでそのつもりで読んでください。


ダライアス外伝は、タイトーから発売された、魚介類がボスであることが特徴である超名作横シューです。

敵を撃った時の爽快感、弾除けの歯ごたえ、画面の美麗さ、上達による達成感、素晴らしいBGM、パターン化の奥深さ、得点稼ぎの満足感と、およそありとあらゆるSTGの「面白さ」を凝縮した宝石のような名タイトルだと私は考えておりまして、STGが嫌いでない人でまだダラ外をやったことがない人は、今すぐサターン版辺りをハードごと買ってきて泣きながらやり込むべきだと思います。後悔はさせません。

お暇な方はこちらもどうぞ。

不倒城:1コインクリアの為のダライアス外伝講座
レトロゲーム万里を往く その35 〜ダライアス外伝〜

ところで、皆さんよくご存じの通り、ダライアス外伝のパワーアップシステムはちょっと特殊です。

パワーアップアイテムである「赤勲章」をとると、段階的にショットがパワーアップしていくのですが、「各段階の最強状態よりも、その一段階前の方がずっと攻撃力が高い」というのがその特徴でして、

ウェーブ → ウェーブ + 白弾 → ウェーブ + 小ウェーブ

とパワーアップしていく中で、白弾の攻撃力が高い為、ウェーブ + 小ウェーブになると攻撃力が激減してしまう、というのがその要因です。この攻撃力の差分が結構な感じでして、例えば赤ウェーブ + 白弾だと最強ラスボスの一角である「ストームコーザー」に瞬殺が効くところ、赤ウェーブ + 小ウェーブだとなかなか倒せず、発狂攻撃が始まって阿鼻叫喚の地獄絵図になる、というようなことがゲームのあちらこちらで観測されます。

この為、ダライアス外伝の中盤以降において、プレイヤーは「計画的な赤勲章取得」という新たな課題をつきつけられることになります。早い話、ウェーブ + 白弾の段階を保つ為、赤勲章から逃げ回らなくてはいけないという状況が発生する訳です。


地形。

敵弾。

それに加えて、新たに避けなくてはいけない対象として立ちふさがるのが、かつてのパワーアップアイテムだった「赤勲章」。なにこの状況。

特に、ゲーム終盤のゾーンでは、敵の攻撃も激しいし地形も複雑で、ただでさえ必死に弾避けをしなくてはいけない中、どんなに撃ちこんでも倒せない赤勲章から逃げ続けるのはそれこそ偉い苦労です。Z'ゾーンのラスト、炎地帯での赤勲章など、一部のダラ外ダーからは「赤い悪魔」呼ばわりされて畏れられる始末です。


そんなこんなで、ダラ外プレイヤーにとっては「ラスボス = 赤勲章」というのは一つの共通認識となっており、「赤勲章が最大の敵」で検索すると256,000 件のページにヒットするくらいです。


ですが。

ですが、です。

これ、赤勲章の立場になってみれば、これまた相当理不尽な話なのではないか、と私は思うのです。

白弾やレーザーの時は、赤勲章とみるや血道をあげて突っ込んできてくれたシルバーホーク(除くCゾーンのボス前)。

大ウェーブ白弾付きになるまでは、こつこつシルバーホークの攻撃力を育ててきてくれた赤勲章。いわばコーチです。トレーナーです。シッショーです。

それが、白弾付きになった瞬間、手のひらを高速回転させたかのごとく最強の敵呼ばわりです。なんですかこれは。まるで、合コンで最初はちやほやされるけど、盛り上がってきて趣味の話になった辺りで何となく空気がおかしくなって避けられるタイプの残念イケメン。食べ放題で奪い合いになるけれど、みんなの腹に一通りいきわたると「そろそろコロッケとか食べたいよね…」という感じで見向きもされなくなる蟹のごとしではありませんか。


私たちは、赤ウェーブ白弾付きになった時も、「ここまで育ててくれたのは飽くまで赤勲章さんなんだ」という感謝の念、尊敬の念を忘れるべきではないと思うんです。私たちは、赤勲章なしでここまでくることは出来なかった。そう考えれば、Yゾーンのラスト、丁度敵の攻撃が激しくなってきた時にふらっと現れる赤勲章に対して、殺意のこもった視線を向けることなんて出来ないと思うんです。そうではありませんか?ありませんか。そうですか。


取り敢えず、Z'ゾーンの最後で、赤勲章が「あ、シルバーホークが釣り天井でピンチだ!今助けにいくからな!」とか言いながらこちらに近づいてきている、とか想像すると、ちょっと赤勲章に対して優しい気持ちが湧いてきませんか?え?憎悪しか湧かない?そうですよね。


まあ何はともあれ、何の遠慮会釈もなく赤勲章がとれるようになったという一点だけでも、Gダライアスやダライアスバーストには惜しみない拍手を送らなくてはならない、と私は思うわけです。


あ、上記とはそれ程関係なく、ダライアス外伝が超絶面白いSTGであることは保証しますので、まだやってない人は今すぐやってくださいすぐやってください。明日辺りからスコアアタックに挑戦し始めるのがスケジュール的にもいいんじゃないかと思います。


更に全然関係ありませんが、「STGにおけるパワーアップアイテム」というものは、それだけでも万里が3つくらい書けそうな非常に深いテーマでして、ウルトラ警備隊のアイテムキャリアはプレイヤー機を殺す気満々で超強かったですよね。あいつこっちをパワーアップさせる意思全くなかったと思います。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 21:24 | Comment(5) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月19日

レトロゲーム万里を往く その124 ファイナルファンタジーUSA ミスティッククエスト


素で感動しました。

ファイナルファンタジーUSA(ミスティッククエスト)についてのWikipediaの記載が優しいです。日本的優しさに満ち溢れています。満ち溢れまくっているのです。

我々は、ミスティッククエストにおけるWikipedia的記載を今後のインターネット生活のテキストとするべきではないでしょうか。

wikipedia:ファイナルファンタジーUSA ミスティッククエスト

知らない人もいるかも知れませんので簡単に説明しますと、ミスティッククエストはSFCでスクウェアが出したRPGでして、別名の「ファイナルファンタジーUSA」の名の通りメリケン発祥です。

既に聖剣2が発売されている時期、「スクウェアから新作RPGが!しかもファイナルファンタジーシリーズ!!?」と色めきだった当時のゲーマー小僧たちは、ファミマガのおまけ漫画(おちよしひこ先生作。なお面白い)などを読みつつ、グラフィック面での若干の肩すかし感に首をひねったといいます。(要出典)

ここで、ちょっとWikipediaの記述を引用してみましょう。
メッセージのテキスト量の少なさはFFシリーズ随一であり、会話よりもキャラクターの動作で感情を表すなど、多言語移植を前提としているような作りも見られる。最大パーティ人数が2人(主人公と仲間1人)と少なく、仲間がころころと入れ替わる。苦悩などのシーンは殆どなく、みな決断力と理解力に優れている。
凄い。凄いですよこの記述。間違ったこと何も書いてない。それでいてゲーム自体は全然落としてない。声に出して読みたい日本語。

特に強調したいのが「苦悩などのシーンは殆どなく、みな決断力と理解力に優れている。」という記述です。

ミスティッククエストのオープニングの展開はこんな感じです。

・地震で村が沈む
・雲に乗った謎の老人ホワイト、唐突に登場。
・「あれが黒幕ダークキングの居城じゃ!」「お前にはやつを倒す素質がある!」みたいなこと説明される
・主人公、「えっオレに!?」みたいなこと言う。その後出てきたモンスターを倒す
・ホワイト、「わしのカンは当たったようじゃな」とか言う。勘かよ。
・主人公、一応突っ込むが、「とにかくオレにはゆうしゃのそしつがあってダークキングをたおせるんだな!?」超話早い。
・その後、「よーし!おれがダークキングをたおすぜ!」的なノリでオープニング終了。

このゲーム全編こんな感じで、皆さん凄く話が早く、面倒くさい状況説明とか理由付けとかを求める頻度がものすげー低いです。ゲームもサクサク進みますが、ストーリーも超サクサクです。ストーリー構成の省エネ化。

それを、「ああ、シナリオ作成の人面倒くさかったんだね」とか言うのではなく、「苦悩などのシーンは殆どなく、みな決断力と理解力に優れている。」などというプラス志向の言葉を使う辺り、このWikipediaを書いた人は只者ではない、と私は思うわけです。

同じ事象を、マイナス面ではなくプラス面から照らし出す。私もこうありたい。

こんな記載もあります。ヒロインの一人「フェイ」についての記載なんですが、
無鉄砲に飛び出したかと思えば物事をひどく絶望的に考えたり、感情の浮き沈みが激しい。FFシリーズの女性キャラの中ではかなり変わった性格。
これ、フェイのセリフが

「もうだめだわ ぜつぼうてきよ!
まちが ぜんぶ こおってしまって……
まちのひとは びょうきになるし おじいちゃんは
とじこめられちゃうし…… 」

といったいきなりの状況説明から始まり(この間主人公のセリフ一切無し)、その後もたまに「ぜつぼうてきよ!」という言葉が出てくるというところからの記載なんですが、単に台詞設定と英語訳が微妙なだけなんじゃないかな、といった感想を感じることなく、「FFシリーズの女性キャラの中ではかなり変わった性格」といったオブラートに包んだ表現をするのがつくづく素晴らしいと思います。

あ、関係ないですがフェイはかわいいです。あと魔法が超強力です。このゲーム結構仲間がころころ入れ替わるんですが、最終ダンジョンのお供も彼女です。

仲間のレベルや装備品は新規加入時ごとにそれなりに強い能力で固定されており、経験値を得てレベルアップが行われるのも主人公のみのため、場合によっては常に仲間キャラクターの方が強いという事態も起こり得る。
はい。

ここでは「〜という事態も起こり得る」という記載になっていますが、起こり得るというか普通にプレイしてると、最初に仲間になる森の少女「カレン」から始まり、ロック、フェイ、レッドに至るまで、殆ど全て仲間キャラの方が強いです。オート操作で、どかすか敵キャラを駆逐してくれます。うっかりすると主人公何もしなくてもあんまり苦戦しない。

流石にボス戦は多少手こずることもありますが、このゲーム、敵に負けてもノーペナルティでその場復活することが可能な上、仲間キャラが最初からそのダンジョンを攻略するのに十分な強さで設定されているので、「詰む」という機会はほぼ皆無と考えていいです。今、RPGは優しさの時代へ。

ストーリー展開に負けず劣らずの、ゲーム展開のさくさくっぷり。この辺もミスティッククエストの味の一つです。

ラストバトルでは4段階に変身する。しかしケアルの回復量がオーバーフローしてしまうバグがあるため、アンデッドではないにも関わらず、主人公がケアルを連発するだけで数万のダメージを与えてあっさり倒すことが可能となってしまっている。
そうですね。

何回かケアルをかけるとラスボスが倒せる、というのもミスティッククエストの味のひとつです。これは多分、ダークキングが「優しい言葉をかけられると逆に卑屈な気分になっていたたまれなくなる」的な繊細さの持ち主か、主人公が「一見優しい言葉だけど実はぐさぐさ相手の心を抉る言霊の使い手なのか、どちらかなんだと思います。


とまあ、好き勝手書いてきましたが、二点確実に言えることは、

・ミスティッククエストの音楽は超ガチ。
・私はミスティッククエスト大好きですけどそこまで積極的にはお勧めしません。


ということのみで、他に言いたいことは特にない、ということは申し添えておきます。音楽いいです。マジいいです。

今日書きたいことはそれくらいです。
posted by しんざき at 20:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年08月02日

レトロゲーム万里を往く その123 ロマンシング・サ・ガ


ミンサガのアイシャの恰好は、あれはなんなの?裸エプロンなの?


ゲームについて語る上で役目を終えた言葉、というものが幾つかある。


私が考える、「ゲーム関連死語」の最右翼は「移植度」という言葉だ。かつて、パソコンやアーケードゲームと家庭用ゲーム機の間に、圧倒的な性能差があった頃の花形だった言葉。ファンタジーゾーンの、グラディウスIIの、アフターバーナーIIの、ストリートファイターIIの話をする時に欠かせなかった言葉。今では、ごく一部のリメイクゲームの話で時折思い出した様に口にされるだけの、廃坑のような言葉になってしまった。


例えば、「隠れキャラ」。例えば、「大容量」。例えば、「裏ワザ」。例えば、「連射の速さ」。例えば、「臨場感」。それぞれ、完全に聞かなくなってしまった言葉もあれば、復活したり廃れたり、ということを繰り返している言葉もある。

ゲームが変わり、時代が変わる内に、ゲームに関する言葉も、流行り、廃れ、生まれ、死ぬ。ゲームが変化し、言葉は生き物である以上、これ自体は当然のことだ。

さて。そんな中に、「自由度」という言葉がある。


最近、「自由度」というものについての議論がめっきり減った、と思う。というか、「自由度」という言葉を観測する機会自体、全くなくなった訳ではないが、とにかく少なくなった。


これは多分、ゲーム業界がもう、「自由度」云々について話す様なシーンではなくなった、ということを意味しているのだろう。今のオープンフィールド型のゲームは、大体がこれ以上ない程に「自由」な行動が出来るゲームばかりだし、ブラウザ基調のソーシャルゲームに自由度を求める人などどこにもいはしない。


かつて、特にRPG界隈において、「自由度」なるものが評価の軸の一つとして大威張りで鎮座している時代があった。どの程度、シナリオ上のプレイヤーの裁量が確保されているか。どの程度、プレイヤーの「好きなこと」が出来るか。展開が一本道でないかどうか。クリア目標が複数あるかどうか。まあ、ざっくりそんな尺度だったろう。

正直なところ、この「自由度」という言葉が、一時期単なるマジックワードとして、定義不明瞭のまま「ただ気に入らないゲームを叩くだけの為のツール」として使われていた側面は否定できない、と思う。さしたる根拠もゲームごとの考察もなく、「自由度が低い」というレッテルだけ貼られたRPG評論、というのは当時よく観た光景だ。


が。元を正せば、この自由度という言葉は、RPGの発展期、演出やゲーム自体のボリュームが充実し、より「色々なことが出来そう」「もっと色々なことがしたい」という、RPGというジャンル自体に対する期待度が結晶したような言葉だった。「この世界は凄く広いんだ」ということを遊び手が感じ始めた、それを表した言葉だった。


「こんなに広い世界なら、こんなことだってできていいだろう!こんな進め方をしたっていいだろう!」と。つまり、自由度とは、そんな思いを込めた言葉だったのだ。


純粋に、「プレイヤーの選択肢が多彩なRPG」としては、古くは勿論ウルティマやバーズテイルから話をはじめないといけないし、時代を下れば例えばルナティックドーン辺りのタイトルが議論の遡上に上がるべきなのだろう。場合によっては、サンサーラナーガなんかも挙がることがあるかも知れない。

が、コンシューマーゲーム市場における「自由度というものの議論の高まり」と、それに伴うプレイヤーの意識の変化、という点では、私はSFCのこのタイトルを外して語ることは出来ない、と思う。


そう。そのタイトルは、ロマンシング・サ・ガ。


ロマンシング・サ・ガ。1992年1月28日、スクウェアよりSFCで発売。当時4まで発売されていた「ファイナルファンタジー」シリーズ、1993年に2が発売される「聖剣伝説」と並んで、スクウェアの代表的なRPGシリーズの一角となるタイトルである。ずっと時代を下ってた2001年、ワンダースワンカラーにも移植されている他、2005年にはPS2で「ミンストレル・ソング」としてリメイクされた。

元々、ゲームボーイのシリーズであった「魔界塔士Sa・Ga」の系譜だった本作だが、このタイトルから「ロマサガ」というシリーズとして独立した、と捉えた方がいいかも知れない。恐らくスクウェア自身が、「FFとの違いをどう出すか」ということを意識しながら開発したゲームだったのだろう。数々の新機軸、多彩なゲームシステムは、粗削りな部分もあり、時には大きなバグもあったが、それでも多くのRPGファンを惹きつけ、多数のコアなファンを獲得した。後の「ロマサガ2」「ロマサガ3」、更にスピンアウトしては「サガ・フロンティア」シリーズまで含めて、今でも続編を期待されている向きは大きい。

ゲーム自体については、Wikipediaに情報がサマリーされている。

Wikipedia:ロマンシング・サ・ガ


さて、ゲームの話をしよう。


・ロマンシング・サ・ガの圧倒的な「広さ」と「散らかり方」について。

ロマンシング・サ・ガというゲームを、一言で表現するのは難しい。それは、単に「ゲームが広い」というだけの話ではなく、敢えて言うなら「まとまっていない」からだ。

例えば、同じスクウェアのファイナルファンタジー4や5は、非常に「まとまった」ゲームだった。勿論様々な、シリーズの中での新機軸というものはあったが、基本的にはシステムは完成しており、完成度は極めて高く、統一感があった。


だが、この時点のロマサガは、言ってみれば「新機軸のごった煮」というような状況だった。一つ一つのシステムは非常によく出来ているのだが、それぞれがまとまり切っていない様な印象は強かった。恐らく、ロマサガシリーズが「まとまった」のはロマサガ2での出来事だったのではないかと思うのだが、それについては項を改めよう。

私がロマサガに初めて触った時、私はまだ小学生だった。その時感じたロマサガの特徴を箇条書きで挙げるとすれば、

・利き手や両親の職業まで選択させる、変わったキャラクターメイク
・腕力や体力はともかく、「愛」とか「魅力」といった訳のわからんステータス
・台詞に漢字が出る、しかもでかい
・レベルがなく、ステータスや武器熟練が育っていく成長システム
・ひとつの武器を使い込んでいくと技が増え、どんどん攻撃力が上がっていく、「武器を育てる」という独特な感覚
・フィールドで最初から見えている敵と、「どっちから接触するか」という向きまで考えなくてはいけない隊列システム
・というか後列になっちゃった時いちいち前に出るのが面倒
・地図を入手すれば一足飛びで移動できる、簡略化された移動システム
・圧倒的なシナリオの自由度
・死ぬほどかっこいいBGMの数々


特にこの辺りが衝撃的だった。

「フリーシナリオシステム」というものは、当時まだパソコンゲームやテーブルトークを知らなかった小学生の身としては、確かにとんでもない新機軸に思えた。

「次は何をするべきか」「次はどこにいくべきか」が、決まっていない。いった場所によって、進んだ道によって、選んだキャラクターによって展開が違う。ひたすら敵を狩っていてもいいし、逆に敵をがんがんスルーしてもいい。

「正解」が存在しないゲームシステム。そう、私にとって、確かにこれは衝撃だったのだ。

家庭用のゲーム雑誌に「自由度」という言葉が頻出し始めたのも、私の記憶が間違っていなければこの頃だった様に思う。それが、後々「ムービーゲー」みたいな妙な批判と結び付いてしまうのも因果な話ではあるが、家庭用業界において、ゲームファンに「自由度」という言葉を教えた、その一端には確かにロマサガがあったのだ。

ジュエルの貯め方であるとか、隊列の融通の利かなさであるとか、一部のバグであるとか、正直粗削りな部分が多々あったことも否定はできないが、その辺はシリーズ第一作ということで、こなれていないところがあったのは仕方ないともいえる。

BGMについても、ダンジョンから、通常戦闘から、イベントシーンから、ボス戦から、どの曲をとっても素晴らしい曲揃いである。伊藤賢治先生はこのころ戦闘BGMを苦手としていたという話なのだが、ロマサガの通常戦闘の曲やバトル2、サルーイン戦の曲などを聴いているととても信じられない。スクウェアの全タイトルを並べても、相当上位にランクインする名曲ばかりだと私は思う。



・戦闘シーンのクローデイア可愛い(真顔で)

ところで私はホーク使いだった。

ロマサガシリーズに共通の特徴として、「独特な世界観」「独特な台詞回し」「独特なキャラクターデザイン」というものがあるのも、恐らくファンの共通認識だと思う。FFとは全く違った説明不足なシナリオ、時にはプレイヤーを突き放すかのような展開も、間違いなくロマサガの「味」だったのだ。

今でもweb上で著名な「ねんがんのアイスソードをてにいれたぞ!」などは言うに及ばず、「ぎゃートカゲだーさよなら」であるとか、「なにお! ゆるさーん!!」であるとか、妙に頭に残るセリフ・展開が目白押しである。

本ゲームの中核がフリーシナリオシステムであり、一つ一つのイベント・シナリオを自分で見つけ出す、という形式であったことも関連していると思うのだが、個別のシナリオが非常に印象に残りやすかったことも、ロマサガの味の一つとして挙げられると思う。四天王のおつかい、騎士団イベント、最終試練、ジュエルビースト、フロンティア襲撃といった言葉を、深く印象に残している方もいらっしゃるだろう。

正直本作の戦闘バランスは結構極端(だと私は思うのだが)で、育て方をよく理解しないで進めるとちょっとした中ボスにも相当苦戦する一方、術法の活用をはじめとして、強い武器・強い術法をきちんと鍛え、活用しながら進むと、サルーインでもあっさり倒せたりする。これも、「方向性を意識したキャラクター育成」を誘導しようとする、スクウェアの意図の一つだったかもしれない。


それはそうと、私はロマサガのドット絵信奉者の一人である。

ロマサガ1から2,3,サガフロに至るまで、ロマサガシリーズの戦闘シーンのドット絵は超絶よく出来たドット絵揃いだと私は思うし、そんな中でも本作のクローディアの戦闘シーンのドット絵くらい美しいドット絵はなかなかないと私は割と真剣に思っているのだが、皆様のご意見はいかがであろうか。

ホークやアイシャ、グレイのようなメインキャラ一同、ゲラハやガラハドやミリアム、シルベンブラウ辺りも全部ひっくるめて、構え・攻撃・呪文・レベルアップ、何からなにまで本作戦闘シーンのドット絵は素晴らしい。よろしければyoutubeなどでご検索頂きたい。

本作における小林智美先生のデザインも大変に素晴らしく、どのキャラも特徴的であり、キャラクター紹介を見ているだけでも全く飽きがこない。しかもドット絵のような細かいところでもきちんとそれが再現されている。2,3まで含めて、ロマサガシリーズのグラフィックデザインというのは、スクウェアの各シリーズの中でも一種異彩を放っていると思う。


と、ロマサガ1のドット絵原理主義者の私は、当然のことながらミンサガのデザイン変更についてはいまひとついい印象をもっていない。勿論これは好みの問題なので、ミンサガのデザインの方が好きという人も当然いるだろうが、アイシャの奇抜な恰好やホークのキャラ変はいうに及ばず、クローディアなんかもあの服装で迷いの森設定なんかはちょっとどうなのかと思わないでもない。

まあ、それは余談。ミンサガはミンサガで、展開の補完とか素晴らしいBGMとか、勿論好きなところは山ほどあるし。


と、まあ、長々と語ってきた。取りあえず私が言いたいことは、「ロマサガの下水道の曲は下水道の曲としては世界一かっこいい曲なのではないか」という一点のみであり、他に言いたいことは特にない、ということを最後に申し添えておく。

今日書きたいことはそれくらい。

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2014年04月05日

レトロゲーム万里を往く その122 「良いキャラゲー」とは、「そのキャラクターでやる必然性があるキャラゲー」のことである。


主にファミコン時代の話ですが、一言でまとめると、良いキャラゲーってのはキャプテン翼のことなんだよこの野郎って話です。

以下常態。


今更いちいち言うまでもなく、キャラゲーというのは、オバケのQ太郎ワンワンパニックであり、ゲゲゲの太郎妖怪大魔境であり、わんぱくダックの夢冒険であり、名門!多古西応援団である。

で、他のあらゆるジャンルのゲームと同じく、キャラゲーにも「当たり・外れ」がある。超面白く、しかも大人気であったキャラゲーもあるし、売れた割に出来はショボーンな感じであった為にダメゲーとしてみんなの記憶に残ってしまったキャラゲーもあるし、そもそも全然売れなかったキャラゲーも勿論ある。

少なくともファミコン時代において、キャラゲーとは「元々人気があるキャラクターが下敷きであった為、原作ファンへのアピールがし易く」「同じ理由で、原作ファンからのハードルも高い」ハイリスク・ハイリターンのジャンルだったと言えるだろう。


で。


とかく毀誉褒貶の激しいキャラゲーというジャンルだが、「どんなキャラゲーが「名作」と呼ばれているか」ということを考えると、ある程度「良いキャラゲーとは何なのか」ということを一般化出来るような気がする。


私が考える限り、「名作キャラゲー」の要件はたった一つ。「ゲームシステムに、その作品を使う必然性がある」こと、だ。


必然性という言葉には、この場合幾つか意味がある。

1.原作を再現する(つまり、原作ファンに、原作みたいな気分になってもらう)為に、そのゲームシステムが適している、という意味。

2.原作という題材によって、そのゲームシステムの特徴が引き立つ、という意味。

3.ゲームシステム自体に、原作の特徴的なテーマや題材が組み込まれている、という意味。


色々だ。


例えば私は、上の「必然性」をあらわすゲームの一つに、SFC版の「幽遊白書(1993/ナムコ)」を挙げたい。上の三つで言うと1,2に当てはまる。

Wikipedia:幽☆遊☆白書 (スーパーファミコン)

SFC版の「幽遊白書」は、私が考える限り、「能力バトルもの漫画」をゲームにする際、考え得るゲームシステムの一つの到達点だった(面白さについては賛否両論あるだろうが)。

幽遊白書は、それまでのジャンプ漫画のゲーム化であれば一般的であった、格闘系アクションゲームや、開き直ったアドベンチャーゲームといった方式をとらなかった。ナムコが採用したのは「ビジュアルバトル」。バストアップのアニメーションを中心として、「使う技」を状況状況で選択していき、ゲームの中核を「シンプルな技選択の読み合い」という点に集約した。

能力バトル漫画というのは、突き詰めてしまえば「能力のぶつかり合いと駆け引き」の漫画だ。それをゲーム化する際、「アクション性を切り捨てて、ビジュアルと駆け引きに全てをつぎ込んだ」というのは、漫画をゲーム化する際の一つの解答だった、と思う。幽遊白書以降、このシステムへのフォロワーがあまり多くないのは個人的には本当に不思議だ。(勿論、メガドライブ版の「幽遊白書」も、あれはあれで素晴らしいキャラゲーだったと思う)


上記と対照的なのが、SFC版の「ジョジョの奇妙な冒険」だと私は思っているのだが、まあそれはここでは置いておく。



一方、以前書いたが、私の中では「SDガンダムスクランブルウォーズ」や「カプセル戦記」も最強に近いキャラゲーの一つだ。

レトロゲーム万里を往く その72 SDガンダム ガチャポン戦士2 カプセル戦記

繰り返しになるのもアレなので、手前味噌だが引用させて頂こう。
ファミコンウォーズがそのまま踏襲した、「プレイヤーの手は介在しない数値戦闘」という手法を、ガチャポン戦士はとらなかった。ガチャポン戦士が取り入れたのはアクションゲーム。戦略要素など知ったことかと言わんばかりの、モビルスーツ同士の一騎打ちアクションが、SDガンダムシリーズのまさに中核となったのだ。

このシステムと「SDガンダム」という舞台が、神がかり的な好相性だった。

各モビルスーツの差別化の材料として、「持っている武器が強いかどうか」「実際に動かしてみて速いかどうか」という以上のものはなかった。戦闘フィールドを縦横無尽に暴れ回ることは、実際にプラモを動かして戦わせている様な「おもちゃ感覚」を実現し、一方でパイロットとしての気分を味わえるゲーム素材として絶好だった。
「SDガンダム」という題材に、スクランブルウォーズのシステムがベストマッチしていたことは今更言うまでもないだろう。あのゲームを作れたバンダイがいいゲームメーカーでない訳がない、とわたしは思うのだが、まあそれはまた別の機会に。


で。


私が考える、「(必然性という意味での)究極のキャラゲー」は何かというと、それはテクモの「キャプテン翼」であり「キャプテン翼2」だ。

レトロゲーム万里を往く その5 〜キャプテン翼〜

幽遊白書とある程度似た話になるが、キャプテン翼の本当に凄かったところは、任天堂の「サッカー」と同じシステムにしなかったことだと思う。

任天堂のサッカーは、「サッカーをゲームで再現するシステム」として、既に一つの完成形だった。アクションゲームとしてサッカーを作るのであれば、多かれ少なかれ任天堂の「サッカー」を下敷きにしない訳にはいかない。

それに対して、「アクションゲーム」「スポーツゲーム」としてではなく、「リアルタイムシミュレーションゲーム」に近い形で「キャプテン翼」という素材を料理したのがテクモの凄みだった。

テクモは、「リアルなサッカー漫画」としてのキャプテン翼ではなく、「なんかすごい必殺技が飛び交うバトル漫画」としてのキャプテン翼をクローズアップすることを選択したのだ。いわば、「能力バトルとしてのキャプテン翼ゲーを作った」と言って良い。

そして、これが、少なくとも当時の小学生ファン達にとってはベストな選択だったと言って良かった。ドライブシュートが、オーバーヘッドキックが、イーグルショットが、タイガーショットがゴールに突き刺さる。若林くんが、若島津くんがゴールを守り、森崎くんが吹っ飛ばされる。

これが、これこそが、当時のキャプテン翼ファンが求めていたものだったのだ。

この点で、キャプテン翼は、上記の3つの条件の全てを備えていたと言ってよい。

つまり、

・原作の、必殺技が飛び交うバトル漫画としての側面を再現する為に、ビジュアルシミュレーションゲームというシステムが適しており、

・トンデモな側面(スカイラブハリケーンとか)も内包していた原作が、必殺シュートなどのシステムを更に際立たせ、

・「ガッツ」や「心臓病」といった様々な原作の特徴的な描写がごく自然にゲームシステムに組み込まれていた。


まさに三拍子そろった、「キャラゲーとしての完成形」であったのである。


勿論、現在は更に様々なゲームシステムが出揃っており、同じサッカー漫画を再現するにも色々な方法論が考えられるだろう。

それでも、1980年代にこの「解答」にたどり着いていたテクモは本当に凄いメーカーだったと思うし、現コーエーテクモにもそれを受け継いで欲しいものだと、大航海時代5をやりながら、私は切に考える訳である。


今日書きたいことはそれくらい。


posted by しんざき at 23:56 | Comment(2) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年01月26日

レトロゲーム万里を往く その121 クルクルランドと、ドットイートゲームの「工夫」の変遷


「レトロゲーム五大「丸に手足がついた系」キャラクターがメインのゲーム!」
「いえー!!」
「カービィ!!」
「ナッツ&ミルク!」
「ドアドア!」
「エッガーランド!」
「バボちゃん!」
「いや、それ多分パチ夫くんと勘違いしてる」
「マジで!?じゃあ建ちゃん
「それは多分ロックマンのメットールと勘違いしてる」



まず最初に、「ドットイートゲーム」について考えてみよう。

ドットイートゲームとは、端的に言うと「パックマンみたいなゲーム」である。

1.迷路上のマップを、
2.(基本的には)倒せない敵キャラクターを避けながら探索し、
3.所定の目標上を全て通過するとステージクリア


ドットイートゲームの特徴は、大雑把にいうと上の3つにまとめることが出来る。恐らく元祖は1979年、セガの「ヘッドオン」である筈だ。


ハングオンと間違えてはいけない。

で、ヘッドオンよりも展開がマイルドで、キャラクター性と敵の撃退要素が加わった上で、世界中でメガヒットを飛ばしたドットイートゲームが、言わずと知れた「パックマン(1980 ナムコ)」だ。


大ヒットゲームの例にもれず、パックマンも種々様々なフォロワーを生み出し、一つのジャンルを形成してのけた。例えばルート16、例えばシティコネクション、例えばクラッシュローラー。質量ともに充実したフォロワー群によって、ドットイートゲームは「ブロックくずし型ゲーム」「インベーダー型ゲーム」に続く、恐らくは「第三のスタンダード」と呼べるゲームジャンルになった、と言ってしまっていいだろう。


この「ドットイートゲーム」というものの初期の変遷を見てみると、「ゲームの進化」というものを凄く分かり易く追っかけることが出来て大変興味深い。ちょっと、ヘッドオン・パックマンから始まった色々な「工夫」を追っかけていってみよう。

例えばラリーX(1980 ナムコ)。このゲームの「工夫」ポイントは、「迷路上の目標が、迷路に敷き詰められたドットではなく、要所要所に配置されたフラッグになった」ということだろう。「迷路を塗りつぶす」という形式だったクラッシュローラーなどと同様、「目標」の要素を工夫したゲームである、と解釈することが出来る、と思う。

これを更に推し進めると、例えばマッピー(1983 ナムコ)やボンジャック(1984 テーカン)になる。マッピーは、「倒せない敵と追いかけっこ」「所定のポイント通過」という要素はそのままに、重力とトランポリンという「工夫」を付け加えたことで、横スクロールアクションに近い形にたどり着いた。ボンジャックは、「ジャンプ」という操作をどんどん発展させていくことによって、鬼ごっこ要素を更に奥深いものに発展させた。

迷路状のマップで、敵をかわしながら所定のポイントを通過する」というゲーム要素は、言ってみれば後のアクションゲームの基点だ。「迷路状のマップ」という要素はそのままに、目標をもっとシンプルにしたり、敵の撃退要素をより強化することで、例えばドンキーコングが生まれたり、ナッツ&ミルクが生まれたりする。パズル要素をより強化するとロードランナーが生まれたりもする。


一方。84年、ファミコン時代の初期に任天堂から送り出されたソフトの中で、ドットイートゲームと結び付けて語るべきソフトが二本ある。一本が「デビルワールド」、一本が「クルクルランド」である

デビルワールドは、パックマンに対して「迷路が動く」「パワーアップ(十字架の取得)」「展開の変化(バイブル面の存在)」といった「工夫」を導入して生まれたゲームだ、と解釈することが出来る。2P同時プレイの導入と合わせて、かわいらしいキャラクターとゲーム展開を並立しつつ、「パックマンの亜流」に留まらない佳作に仕上げる手際は流石任天堂と言うべきだろう。


一方。ここでようやく題意に戻ってくる訳なのだが、「クルクルランド」で起きたことは一体なんなのだろう、というのが今回の記事の残りのテーマな訳である。


クルクルランド。1984年11月22日、ファミコンにて任天堂より発売。球に手足が生えた系キャラクターである「グルッピー」が主人公で、軽快な音楽の中、固定画面の中を跳ねまわって隠れた金塊を見つけていく、固定画面型アクションゲームの佳作である。

グルッピーは、基本的には「一度走り出すと止まれない」というキャラクター特性に支配された生き物である。その為、敷き詰められた柱を使って方向転換することで画面内を探索し、敵キャラクター「ウニラ」を時にはかわし、時には撃退しながら画面内に隠された金塊を探し出していく。

ゲーム内容とゲーム展開については、百聞は一見に如かずということで、youtubeの動画を参照させて頂く。


ついでにWikipediaのリンクも貼っておく。「ゼルダの伝説と同じ世界観なのでは」という説はこれを読んで初めて知った。ホントかよ。
Wikipedia:クルクルランド

さて、ゲームの話をしよう。


・そこにあったのは、「マップを作る」要素の淵源。

実際のところ、話は単純だ。クルクルランドの最大の「工夫」は、一言でまとめることが出来る、と思う。つまり、


「目標が不可視になったことによる宝探し要素」


である。

まず、冒頭に挙げた「ドットイートゲームの三つの特徴」をもう一度振り返ってみよう。

1.迷路上のマップを、
2.(基本的には)倒せない敵キャラクターを避けながら探索し、
3.所定の目標上を全て通過するとステージクリア


これらをクルクルランドについて考えると、

・マップの形状に多少バリエーションはあるが、「迷路」と言える程の複雑さはない
・「目標」が最初は見えない。グルッピーを通過させることで、「発見された金塊」として画面上に表示される
・「発見された金塊」は、ハートマーク、家の形など、様々な図形を構成する


といった点が特徴的だと言えるだろう。

つまり、クルクルランドにおいては、「迷路状のマップ」と「目標通過」という、ドットイートゲームの二大要素が直接結びついているということになる。

この要素を、グルッピーを操作する際の独特な操作感・操作方式がサポートする。

プレイヤーは、ウニラを痺れさせる衝撃波の発射以外には、基本的には「ひたすら進み続けるグルッピーの進行方向を変える」という操作しか出来ない。この点は「ルートを選択することしか出来ない」ヘッドオンに似ているが、「段々見えてくるマップから、残りの金塊の位置を推測する」「金塊がある筈の位置になんとかグルッピーを誘導する」「あちこちに「アイテム」が隠れている」という三つの「宝探し」要素が、クルクルランドをただのドットイートゲームでは無くしている。


そこにある筈の金塊に、なかなかたどり着けないもどかしさ。

邪魔なブラックホールと、突如として牙を向くゴムのトラップ(時々ハマる)。

マップが出来上がった時の、「ああ、こういう構成だったのか!」という純粋な驚きと感動。



言ってしまえば、これらがクルクルランドの全てだ。

「フラッグを通過し、消していく」のではなく、「マップを創り上げていく」ドットイートゲーム。これは、丁度「マップを削っていく」のではなく「マップを作り出していく」パズルアクションだった、「ソロモンの鍵」の立ち位置と相似している。「ソロモンの鍵」の画期性には及ばないかも知れないが、クルクルランドも、「ドットイートゲーム」というジャンルの中にあって、特異な立ち位置を占めているタイトルなのである。



・「丸に手足」系のキャラクターは何故レトロゲームに多いのか。

上記のお話とは、全然、全く、1ミリグラムも関係ないのだが、グルッピーは某バレーボール大会のマスコットキャラクターに大変似ている。

やはり、初期のレトロゲームにおいて「キャラクターの描画」というのは最大の障壁、かつ最大の重要ポイントであり、制限されたグラフィック能力の中で、最も描写しやすい形の一つが「丸に手足」ではあったのだろう。それについては、例えばナッツ&ミルクのミルク、エッガーランドのロロ、ドアドアのチュン君などを見てもよくわかる。(カービィはだいぶ後期なのでちょっと事情が別かも知れないが) パックマンにしても、キャラクター造形の基本にあったのはシンプルな「円」である。

私としては、パックランドで魅せたパックマンの進化から、エサとパワーエサといじけもんすたーをたくさん食べるとパックマンに手足が生えるという可能性、パックマン進化論の提唱をしたいのだが、クルクルランドとは何の関係もないので深くは立ち入らないでおく。

ここでは、「ステージクリア時にグルッピーがやっている乾布摩擦っぽい行為は一体なんなのか」「何故グルッピーは乾布摩擦の後に欠かさずキメ顔をするのか」という疑問を呈するにとどめたい。なんなんでしょうね。



何はともあれ。大概長くなったので、「一見そこまで派手には見えないが、実は十分特筆すべき工夫を秘めている」というのは、初期任天堂のファミコンソフトに共通する特徴だと思うが、「クルクルランド」も、その例に漏れない佳作である、という点を結論として、本項を閉じたいと思う。今日はこの辺で。


次回は多分またタイトルものです。
posted by しんざき at 14:13 | Comment(2) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年12月04日

レトロゲーム万里を往く その120 サンサーラ・ナーガ2


ファミコンオリジナルのRPGを三作、完全に自分の好みで選ぶとする。


一本目にはメタルマックスを選ぶ。これに議論の余地は全くなく、異論・反論の入り込む隙もない。どうしようもないことも世の中にはある。

二本目は、数秒の思考時間の後、ミネルバトンサーガを選ぶ。これについても、私の中での立ち位置というのはほぼ固まっているので、結果的には余り紛れがないだろう。

三本目で、私は多分、しばし考え込むだろう。最初にラグランジュポイントを手に取るか?だが、その下に転がっているマザーやじゅうべえくえすとを放置することも出来ない。あるいはドラクエIIかIIIか?FF3だって大本命といっていい。桃太郎伝説?あるな、大いにある。しかし、ヘラクレスの栄光やがんばれゴエモン外伝を考慮外にしていいのか?


大体において、何かを選ぶには「3」という数字は少なすぎる。本来挙がるべきタイトルもまだまだ山ほど漏れているだろうし、完全なアクションRPG、移植ものRPGまで入れると更に訳が分からないことになるだろう。この辺入れると取り敢えずWizardryとゼルダとイースが物凄い勢いで上位に踊り込んでくるし。


ただ、最初に書いた通り、「客観的に考えて面白いかどうか」ではなく、本当に単純に「自分の好み」で選ぶとすると、私はなんだかんだで「サンサーラ・ナーガ」を選ぶと思う


サンサーラ・ナーガは、1990年3月、ビクター音楽産業から発売された、一言で言えば「独特なRPG」だ。万人受けするゲームでは決してなく、アラも多ければ情報量が少なくって不親切でもあったが、私は「主人公ではなく竜を育てる」というそのコンセプトと独特なシステム、そして苦労の末に辿っていったシナリオと世界観に魅せられた。


とはいえ、実は今回取り上げるタイトルは、「サンサーラ・ナーガ」それ自体ではない。その「独特な味わい」を見事に継承した、SFC時代の「2代目サンサーラ・ナーガ」の話である。



それは、竜と、人と、竜使いと、立ち食い蕎麦屋の物語。



サンサーラ・ナーガ2。RPG。1994年、SFCにてビクターエンタテインメントより発売。前作サンサーラ・ナーガと同じく、監修・シナリオを押井守氏・伊藤和則氏が、音楽を川井憲次氏が、キャラクターデザインを桜玉吉氏が担当という、ゲーム畑とはかなり毛色の違ったスタッフの豪華さで話題を博した。まるで映画の予告のようなPVアニメがつけられ、特典として配布されるなど、様々な点で「ゲーム離れ」した展開をされたことが記憶に新しい。後、ゲームボーイアドバンスで、1と2がカップリングされた「サンサーラナーガ1×2」が発売されている。

まずは参照URLを挙げておく。

ゲーム自体については、例によってWikipediaにサマリーされている。あまり情報量がないが。

Wikipedia:サンサーラ・ナーガ2

こちらの攻略ページでは、フローチャートなども参照することが出来る。

サンサーラ・ナーガ2


では、ゲームの話をしよう。


○徹底的にとんがった初代「1」と、多少丸くなった二代目「2」。


サンサーラ・ナーガとはどんなゲームか?一言で言うと、「竜を育てるゲーム」である。そして、もう一言付け加えるなら、「決して万人受けはしないゲーム」ともいえるだろう。


サンサーラ・ナーガ1及び2において、主人公は「竜使い」であり、お供の竜と共に冒険をすることになる。プレイヤーは、敵を倒し、時には「獲物」にしてうっぱらうことでお金を稼ぎ、時には「エサ」としてお供の竜に与えることで竜を育てる。

特筆すべきは、「主人公は、基本的にはステータスが成長しない」ということだろう(2では、階層が進むごとに一部のステータスのみは上がったりするが、レベルという概念はない)。人間は、武器や装備を整えなければ、そう簡単に強くならない。しかし、竜は食べれば食べる程もりもり強くなる。

戦闘バランス的にも、多くの場合において主戦力はあくまで「竜」であって、人間である主人公は基本サブ戦力、後半においてはお荷物である。

竜の為に全てがあり、竜を強くするために体を張る。この辺り、「戦車を強化する為に全てをつぎ込むゲーム」であるメタルマックスと通じるものがある。

その結果、1だろうが2だろうが、プレイヤーは「竜を育てる父親的ポジション」として、様々な苦労や愛情を背負い込んでいくことになる訳である。

子育てないし「竜育て」の要素はこれまたなかなか深くなっており、例えば多少情操教育をしてあげないと戦闘中言うことを聞かなくなったり、食べさせる物によって能力が変わってきたり、とにかく色々工夫がいる。特に1では、この辺の苦労が直接的な「竜に対する愛着」としてプレイヤーに浸透していた、と思う。


ちなみに、1では終始一貫してパートナーである竜は一匹だけだったが、2では重要なポジションを担う「白竜」の他、赤竜、緑竜、蒼竜の三匹の中から二匹、合計三匹がプレイヤーのパーティーに加わることになり、戦闘バランスは1よりも多少丸くなっている感はある。竜を育てる過程にしても、いちいち「獲物」を厳選しなくてはいけなかった1に比べれば、2は若干丸くなってはいる。

これら以外にも、サンサーラ・ナーガ1が徹底的にとんがっていた部分というのは多々あって、

・序盤でもちょっとフィールドを外れると激強い敵と遭遇していた
・誰とでも戦闘することが出来た
・メーザーほうという最強の武器が中盤で店売り
・ゲーム開始直後、殆どの地域に歩いていくことが可能


などなど様々、普通のRPGではなかなか見られない要素てんこもりであった。そこから比べると、2はかなりの部分「遊びやすく」なったとは言えるだろう。全ての装備に耐久度がついて壊れるようになっていたりなど、却ってキツくなっている点もなくはないが。



○その独特過ぎる「味」と、突拍子もない展開。

ただ「竜を育てる」だけでは、それはサンサーラ・ナーガではない。我々はそこに、「独特過ぎる世界観」というエッセンスを加えなくてはならない。

ヒンズー教の世界観をベースに、20%の見た目上のかわいらしさと、10%の見た目上の毒と、25%の理不尽さと、15%の末世感と、10%のすべり気味のギャグと、15%のシリアスさと、5%の立ち食い蕎麦屋を投入すると、そこにサンサーラ・ナーガ2の世界観が出来上がる。

ちょっと箇条書きで、その特徴を書いていってみよう。

・舞台は、8階層に分かれた世界であるカーラチャクラ。次の階層に進むと、二度と元の階層には戻れない
・割と悲壮感のある舞台設定である割に、最終ゾーンまで含めて計64箇所の立ち食いそば屋「はらたま」があり、しかも割と重要な情報を仕入れることが出来る
・全体として、主人公の姉、ないし恋人のような立場である「アムリタ」を追うことを主軸として話が進む
・しかし、完全シリアスなキャラクターはほぼアムリタ一人であり、あとは主人公の師匠であるアル・シンハを始め、玉吉先生画のキャラクターが割りと突拍子のないノリで話を推し進める
・男主人公は完全に「おまえ」であり女主人公は完全に「べるの」(注:「しあわせのかたち」参照)
・女主人公かわいい
・悪徳商人に話しかけると問答無用でガラクタを押し売りされる
・ところが、ガラクタは悪徳商人に売りつけられた値段より高く売れる
・子竜の登録を行う役所は、まさにお役所仕事という他ないたらい回し具合
・「空中庭園」では、ハーレムのような幻想境のような、訳の分からない展開がプレイヤーの眼前で繰り広げられる
・何の前触れもなく、ショップの店主が主人公と立場を交代し、主人公が店番をするハメになったりする
・しかし、空中庭園のBGMはゲーム中屈指、問答無用の名曲
・というか、BGMは全体的に問答無用の名曲
・「言葉を話せる竜」である、主人公のパートナーである白竜が、全編を通して主人公のパートナーとなる
・ただ、白竜は割と脱力ノリで話をするのが常であり、敵と戦う時の共通メッセージの関係上、アムリタ相手に「はっきり言ってザコです」とか言う
・けど、最後の最後、「あなたに、かんしゃします。」は泣ける
・町民が貧乏生活とか財テク失敗についてとか良く分からない愚痴を延々プレイヤーに垂れ流す
・しかし、全体を通して、上の層に進めば進む程竜使いギルドの影響力が弱まり、竜使いの立場が弱くなるなど、全体を通してみればかなり考えられた構成をしている
・で、結局ばらもんうみぼうずってなんなん?
・立ち食いそば屋「はらたま」のメニューがやたら凝っている
・公式ガイドブックの5分の1程のページを、写真つきの「はらたま」蕎麦メニューが占めている
・先の層に進んで往くにしたがって、段々と衝撃の事実が明らかになっていく
・ただ、どんな重たい話をした後でも、「はらたま」の店主は律儀にスタンプカードにスタンプを押す
・恐怖感と悲哀が完全に融合した最終戦
・ただ、どんなにシリアスな展開になっても行く先々に立ち食い蕎麦屋「はらたま」があり、主人公は金粉そばを食べると喜ぶ


なんというべきか。私の言語能力は、どうも「サンサーラ・ナーガ」の世界を描写するには貧弱過ぎるようだ。

端的に言って、RPGとしてみれば基本的に展開が理不尽であり、プレイヤー置いてけぼりな展開になることも一再ではないのだが、それでも全編を通してみれば極めてシリアスであり深いストーリーが展開されており、特に第7層〜第8層のシナリオ展開は必見といって良い。

アムリタは、何故竜使いギルドに反旗を翻したのか?アムリタの旅の行く先には何があるのか?プレイヤーは、知らず知らずの内に理不尽展開の中に隠されたそのシナリオに引き込まれていく。

おちゃらけた世界観に隠された、独特の奥深いテーマ。脱力ノリのようで、考えつくされているようで、やっぱり脱力ノリのようなその世界観が、他に類を見ないものであることは間違いない。


○問答無用、疾風怒涛の名曲の数々

なんか、オリジナルサントラにプレミアがついてるらしいですが。

これは断言してしまっていいと思うのだが、サンサーラ・ナーガ2の曲は、数あるSFCRPGの中でも屈指の名曲揃いであり、聴き応えのない曲は一曲たりともない。


重厚・荘厳なオープニングの曲に始まり、寂漠としたフィールド曲、素晴らしいベースラインに支えられたメロディラインである「遊泳」、タイトルそのままに軽妙な「飛行」、穏やかな村のBGM、悲壮感の権化「アムリタ」から、言うまでもないピアノソロ「空中庭園」に至るまで、頭の先からつま先まで超完成度のBGMばかりである。

幸いにして私はオリジナルサントラを所持しているのだが、特に水路のBGM「遊泳」のピアノソロについては、とてもSFCのソロ曲がアレンジ元になっているとは思えない素晴らしい一曲である。機会があれば是非聴いてみていただきたい。

一方、セーブデータ選択画面のBGM「サブメニュー」は、軽妙なパーカッションとストリングスが入り混じった超名曲だと思うのだが、どういう訳かオリジナルサントラに収録されていない。ここだけは残念なところである。


ところで宣伝になってしまうのだが、2013年12/14「ゲー音部」のustライブでは、竜を育てるゲーム2の中でも屈指の名曲であるフィールド曲を演奏するようである。ケーナも参加するので、お時間あればお聴き頂ければ幸い。

参照URLは以下になる。

【演奏告知】12月14日、ゲー音部でUstライブやります



ということで、大概長くなった。

一言でまとめると、「サンサーラ・ナーガは、1・2とも大変なポテンシャルを秘めた名作だが、正直万人にお勧めすることは難易度高いという言葉になるのではないかと思う。

まだプレイしたことがない人で、上記の紹介を読んで興味が出た人は、是非触ってみて欲しい。あなたがサンサーラ適性を持った人であれば知らず知らずの内にアムリタの影を追いかけ続け、エンディングで涙腺を決壊させること請け合いである。

ただし、悪いことは言わないので、セーブデータについてはクリア前にコピーを取っておくことをお勧めする。


今日書きたいこと、以上。
posted by しんざき at 23:50 | Comment(6) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年08月29日

レトロゲーム万里を往く その119 バベルの塔

ウル「考古学者とか探検家とかいう連中はみんなあんなマッチョで丈夫なの…?」
チャレンジャー「せやな」
スペランカー「いやそのりくつはおかしい」
(「レトロゲーム箴言集「ジ・エンド・オブ・ピットフォール」(民明書房刊)」より一部抜粋)



ジャンルの話になる。


「固定画面型アクション」というジャンルについて書いたことが、確か何度かある。1画面から3画面程度の広さで固定された画面の中で展開されるアクションゲームのことだ。

スクロールアクションが一般的になるまでは、アクションゲームといえば固定画面型だった。つまり、昔はわざわざ「固定画面型」などと冠につける必要はなかった。

以前、「バブルボブル」について書いた時、この話を書いた。手前味噌だが、繰り返すのもなんなので引用させて頂く。
「固定画面アクションゲーム」というジャンルが、ゲーム界の主要なシーンとして隆盛した時代が、多分あったと思う。1970年代末から、まあ大体1980年代の中盤くらいまで、だろう。

古くは「シェリフ」の様なSTGの発展形や、「ヘッドオン」やパックマン、ラリーXなどのドットイートゲームを祖として、ペンゴやドンキーコング、マリオブラザーズやロードランナー、あるいはディグダグやボンジャックなどを輩出する内、そのジャンルはパズル的な方向とアクション的な方向の二つに分かれていった。

その一方の到達点に「ソロモンの鍵」が君臨している。「削る」のではなく「創る」パズルアクション。パズル要素とアクション性の完全な融合。パズルアクションという土俵でソロモンの鍵と勝負し得るタイトルは、そうそう多くはないと思う。

もう一方。アクションとしての楽しさを追求していった固定画面アクションゲームの、一つの究極の形が「バブルボブル」だったのではないかと私は思うのだ。
レトロゲーム万里を往く その64 バブルボブル

実際の所、固定画面型アクションゲームを「パズル寄り」と「アクション寄り」に分類するのが一般的なのかどうかは、私はよく知らない。個人的に好きな分類方法なので使っているが。

で、その「固定画面型アクションパズル」について、更に「思考系難易度」と「操作系難易度」という二つの軸で評価できる、ような気がしている。

思考系難易度というのは、純粋に「パズルとして」どれだけ難しいか、パズルにどれだけ傾斜しているか、という話。どれだけ考えないといけないか。どれだけパズル的読解を要求されるか。

操作系難易度というのは、「アクションゲームとして」どれだけ難しいか、アクションにどれだけ傾斜しているか、という話。敵は出てくるか?その敵をかわす為の操作はどれだけ必要とされるか?ジャンプで敵を回避することは出来るか?敵を倒すことは出来るか?


前者に傾斜していればいる程、そのゲームは純粋な「パズルゲーム」に近づいていく。例えば「倉庫番」や「上海」「四川省」辺りは、形式として固定画面型アクションゲームに近い部分こそあるが、内容はほぼ純粋なパズルゲームだ。

後者にポイントが注がれていくと、そのゲームはだんだんアクションゲームに近くなっていく。例えばロードランナー、チャンピオンシップロードランナー。例えばフラッピー。例えばドアドア。例えばバナナ。例えばエッガーランド。例えばペンゴ。といっても、まだこの辺りまではだいぶ「パズルゲーム寄り」のゲームが多い。


で。「思考系難易度」と「操作系難易度」が物凄い高度なバランスを保っていると、私が勝手に思っているゲームが、ファミコンに4タイトルある。


一つはソロモンの鍵。私はこのゲームを、固定画面型アクションパズルの到達点、究極の一作だと思っている。

一つはキャッスルエクセレント。ソロモンの鍵以上にアクション要素が強いが、そのパズル的完成度はソロモンの鍵に勝るとも劣らない、と私は思っている。

一つは迷宮島。ソロモンの鍵よりはパズルゲーム寄りだが、考え抜かれた面配置とパズル的ギミックは、この後、スーファミ時代の様々なタイトルに影響を与えていると思う。


そして、最後の一つ。正直愛憎半ばという部分もないではないのだが、「極まったパズルアクションゲーム」として、やはり「バベルの塔」は外せないな、と私は思う訳である。


バベルの塔。パズルアクションゲーム。1986年7月、ナムコより発売。この二週間後にはワルキューレの冒険が、更にその三週間後にはスカイキッドが発売されている。当時のファミコンタイトル発売のハイペースっぷりは今更言うまでもないが、限られたお小遣いをどこに使うか、というのがかつてのファミコン少年たちの主要な悩みの一つであった、と言ってしまっても問題はあるまい。

主人公の「インディー・ボーグナイン」は、古代バビロニアの人々が建築した「バベルの塔」に挑み、頂上にある筈の空中庭園を目指す。その過程で、彼は自分の慎重くらいあるL字型ブロックを持ち上げたり、下ろしたり、積み上げたり、ウル(番人の霊)をぶっ潰したりする。インディー超マッチョ。

ゲーム内容については、いちいち解説するより、下記リンクを参照して頂いた方が早いだろう。「げーむのせつめいしょ」様にリンクさせて頂く。

バベルの塔 〜げーむのせつめいしょ(仮)

動画もご参照頂ければ。youtubeにリンクする。




さて、ゲームの話をしよう。


・バベルの塔の恐ろしさ。

最初に断言してしまうが、バベルの塔はものすげー難しい。64面をクリアした後に進める裏バベルは言うまでもなく、表バベルの段階でも、その難易度は小学生が頑張ってクリア出来る水準を余裕で越えていたと思う。

上記リンクを参照していただければ一目瞭然だが、バベルの塔のパズル要素の中心を占めるのは「L字型ブロック」である。足場にも、武器にも、障害物にもなるこのブロックを、主人公のインディーはあっちへ運びこっちへ叩き落とし、なんとか目的地への道を作る為に奔走する。

中心がL字型ブロックであるが故に、プレイヤーは、ブロックを使う他の多くのパズルゲームでは考える必要がない、ある要素についての熟考を余儀なくされる。


そう、「ブロックの向き」である。


L字型ブロックは、同じ向きで積んでいくと階段状になり、上へ上へと登っていくことが出来る。出来る、というか、殆どのステージでは「どういう順番で、どのブロックを、どうやって運んで、どういう階段を作るか」ということがパズルの中心となり、それを解決しないと、扉にたどり着くどころか扉を開くことすら出来ない。ただブロックを持ってくるだけでなく、時には上から落っことして、時には既存の階段を崩して、プレイヤーは「正しい階段」を構築しなくてはいけない。

しかも、流石のマッチョのインディといえど体力は有限であるらしく、回数制限を越えてブロックを持ち上げてしまうと、インディーはいきなりブロックの下敷きになってしまう。いや、お前そこは無理するなよ、「もう無理」と思ったらそう言えよ、と思ってしまう場面である。


つまりプレイヤーは、「限られた回数制限の中で、どうやってブロックの「向きを整えて」目的地まで到達するか」を考えなくてはいけない。

この、「ブロックの向きを考え、変更する」という要素が、ただブロックを運んだり、壊したりするだけのゲームに比べて、バベルの塔を二段階くらい深く、複雑にしている。これが、パズルゲームとしての「バベルの塔」の中核であり、深さである。

多くの面において、ブロックの数とパワーは結構ぎりぎりめに調整されており、ブロックを無駄遣いすることはほぼ許されないし、試行錯誤出来る回数はそれ程多くない。はまる面ではあっという間に手詰まりになる。プレイヤーは、かなり綿密に「手順」を考えないといけない。

それに対し、敵キャラとなる「ウル」やコウモリが、面によってはお前ちょっとおとなしくしてろよというプレイヤーの声を全く気にせず、絶好調に甘えにきてくれる為、プレイヤーは並々ならぬ苦労を強いられる訳である。


軽やかなBGMを背景に、牙を向くナムコ難易度。当時、このゲームを素でクリア出来た小学生は、それ程多数派ではなかった筈である。


・バベルの塔の恐ろしさ・その2。

ところで、ワルキューレのクジラやドルアーガの宝箱、極端なところではマインドシーカーなどの例を出すまでもなく、ファミコン時代のナムコが、時折理不尽な謎解き要素をゲームに忍ばせていたことは著名である。

バベルの塔にもそれがある。

上記のパズル要素は、高難易度とはいえ、まだ頭をゆだらせれば解決出来ない水準ではなかったと思うのだが、「壁画の間」だけはどうしようもなかった。絶望的だった。

8面ごとにある「壁画の間」で、ある操作をすることで得られる「ビッグパスワード」をそろえていないと、最後の最後で空中庭園にたどり着くことは出来ないのだが、この解法がなかなかにひどい。例えば「キーを右上に暫く押し続ける」であるとか「石を持った状態でキーを下に押し続ける」であるとか、通常の面では全く必要とされない操作が解になっている上、これ基本的にはノーヒントである。

当時、一部の攻略本では、直接の解ではなく「詩」という形でヒントが載っていたりしたが、これについても訳が分からない内容だったのでそれ程大勢に影響はなかった。「キーを右上に押し続ける」という解である、8面の分がニコニコ大百科に載っていたので引用する。
FLOOR 8
戦士たちの間

聖なる騎士は、右目を傷つけた。
上方より落つ銀のおの。
それはたましいの叫びよ。
きつつきの矢のあいずにしたがい、とけいの針は右に回る。
いや、これ単に「右」と「上」っていう文字が出てくるっていうだけですやん…


高い完成度のパズルの中に、理不尽要素もきちんと織り交ぜてくる辺りがナムコの恐ろしさである、気もするが気のせいかも知れない。


超絶難易度の中で、タイトル・通常面・壁画の間からエンディングに至るまで、BGMの清涼感がどれも素晴らしいことにも触れておきたい。ナムコゲーBGMの完成度の高さは今更言うまでもないが、バベルの塔も例に漏れない、というべきだろう。



パズルの難易度、パズルの深さ。アクション要素。BGM。聊か理不尽なところがない訳でもないが、この「バベルの塔」が、ファミコンパズルゲーム史に残る渾身の一作であることは論を俟たない、ということを結論として、本項を閉じたいと思う。


ということで、今日はこの辺で。次回はまたタイトルもののつもりです。
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2013年06月27日

レトロゲーム万里を往く その118 我々はバレンヌ帝国の国家戦略に何を学ぶべきか


ロマサガ2の話だが、先に断っておくとヨタ話である。


今更いちいち言うまでもなく、ロマサガ2はスクエニの代表的RPGシリーズの一角であり、帝国の歴史をなぞるという広大なスケールの世界設定を背景に、高い完成度を誇った名作である。

このゲームにおいて、プレイヤーはバレンヌ帝国の「皇帝」を操り、自ら各地を巡って、帝国の敵を打ち倒したり、よそ様の内政問題に首を突っ込んで半強制的に問題を解決したり、ルドン高原で行方不明になったり、人魚と駆け落ちしたりする。

最終的にはバレンヌ帝国は、西はアバロンから東はヤウダまで、(ゲームの進め方にもよるが)かつての繁栄以上の広大な版図を治めることになる訳であって、その国家戦略・拡張戦略には学ぶべきことが多そうだ。

本記事では、バレンヌ帝国の国家戦略を分析することを通して、現代を生き抜く為の英知を抽出することを目的としてみたい。

三つのテーマに分けて考えてみる。

・バレンヌ帝国の人事・軍事戦略の特徴
・バレンヌ帝国の外交戦略の特徴
・バレンヌ帝国の経済戦略の特徴


以下のお話は、ゲーム本編から見て取れる内容のみを参考に妄想しているものであり、ゲームの表面に現れていない要素を類推するのは避けていることを予めお断りしておきたい。


○バレンヌ帝国の人事・軍事戦略の特徴

一言で言うと、バレンヌ帝国では皇帝及び側近の命が驚異的に安く、皇帝を中心とした恐るべき少数精鋭体制で全てを回しているということが言えるのではないかと思う。

皆さんよくご存じの通り、バレンヌ帝国皇帝は、レオン-ジェラールの時代から最前線に立ちまくりの純度100%特攻魂の持ち主ばかりである。ロアーヌの特攻侯爵として著名なロマサガ3のミカエルですら、遠出する時は影武者を置いていたことを考えると、影武者ってなんですかソレ食い物ですか、的なその特攻魂には瞠目させられる他ない。

ゲーム中読み取れる限り、バレンヌ皇帝は、外征、策敵、偵察、治安維持、調略から外交使節や軍事防衛に至るまで、対外活動のほぼ一切を自分及びごく少数の側近で取りまわしており、お前は本当に国のトップなのか、為政者の仕事というものを一体どう心得ているのか、という説得すら空しく感じられる超過密労働を実施しているのである。ナポレオンも裸足でバックダッシュするであろう過密っぷりである。

当然のことながら、激務はリスクと隣り合わせである。バレンヌ皇帝及びその側近の死亡率は、およそ帝政をとっている国として本当に許されるのかというレベルのハイアベレージを保っており、ルドン高原やサバンナのような他国危険地域においてすら、プレイスタイル次第ではマンボウの稚魚のような勢いで皇帝及び側近の遺体が積み上がることになる。言うまでもないことだが、国のトップが他国で死にまくるというのは、国家として尋常な状態ではない。皇帝職としては他に類をみないブラック職場といえるのではないだろうか。

地上戦艦のくだりでは、軍師自らが「囮として戦艦を作るけど、ボクオーンに突っ込むのは帝国最強戦力のあんたです」という内容をしれっと発言しており、しかも皇帝もそれに簡単に同調している。普通に考えれば、「お前敵に突っ込めよ」と部下に言われて納得する指揮官って組織上どうなのという話になると思うのだが、アバロンでは一般的な考え方とはだいぶ違う思考法が定着してるらしく、皇帝は「お前が味方で良かった」などと軍師を褒めたりしている。バレンヌ帝国の軍師の質が心配されるのだが、実際これで上手くいってしまうので仕方ない。

その根底にあるのは、伝承法を背景にした、「能力があるヤツは徹底的に使い倒せ」及び「どうせ能力が失われないんなら死んでもいいんじゃん」の魂である。死んでも死んでも雨後の竹の子のように生えてくる(8人で1ループ)各地の精鋭人材もこれを助長しているといえる。

少数精鋭主義にも程があるというもので、げに恐ろしきはオアイーブといえる。

「朕は国家なり」というのはルイ十四世の言葉であるが、バレンヌ皇帝の前面への立ちっぷりは、はっきり言ってルイ十四世の比ではない。ただバレンヌ皇帝は、内政面ではどう考えてもお買い物の指示と同じ程度の仕事しかしてないので、極めて外征に偏った行動をとっているとはいえるだろう。恐らく内政は内政でそれに特化した人材(今の所持金を教えてくれるじじいとか)が配置されているのだろうが、ここではそれを類推するのは避ける。


○バレンヌ帝国の外交戦略の特徴

バレンヌ帝国の外交戦略はシンプル、かつ革新的である。その内容は、「人助けをするといつの間にか領土が増えてしまう」という端的な一言で表せる。

とかく、皇帝が諸国を漫遊しているとなんだかんだで困った状況に巡り会い、皇帝自らその困った状況を撃砕すると、僅か数十年、場合によってはたった一年で当該地域がバレンヌ領になってしまうという状況は、普通に考えると異様な国家拡張である。

後継者問題に直接干渉した上で外征を行ったカンバーランドや、曲がりなりにも地域の統治主体と思われる武装商船団を従属させたロンギット辺りはまだしも、なんか暴れている地上戦艦を撃破するだけで帝国領になるステップ、自分で原因を作った火山噴火を自演的に食い止めただけで軍門に下ったコムルーンは言うに及ばず、ナゼールやメルーに至っては言ってしまえば一回モンスター退治をしただけである(たまに七英雄と交渉したりやりあったりもするが)。

地域ごとの政体が不明確であること、治政基盤がぜい弱に見えることをおいても、この行動/成果比は驚くべきパフォーマンスだといえる。

実際のところ、ヤウダのアト王が言った「人助けのようなふりをしてあちこち占領している様だな」というのは完全に図星であって反論の余地がないと思うのだが、そんなことを全く気にせずにワグナスをしばき倒し、ついでにヤウダを併呑してしまうバレンヌ皇帝の潔さには清々しさすら感じる。バレンヌ帝国には、「人助けをしたら徹底的にその恩を利用せよ」という国是があると解釈する他ない。

ここでは、バレンヌ帝国の外交戦略を、諸国漫遊ご老公に倣って「水戸黄門型外交」と呼ぶことを提唱したい。


○バレンヌ帝国の経済戦略の特徴

経済戦略に関しても、皇帝が担う役割は極めて大である。

バレンヌ帝国の国庫にお金が入るタイミングは、基本的には二種類しかない。

・皇帝が戦闘をする(この際、その時点の税収分の金額を入手)
・皇帝が各地の宝箱を漁ってお金を入手する


これ以外では、例えば宿屋に何百日宿泊しても、国に税収が入る様子はない。ここから考えると、バレンヌ帝国の収税システムは時期的な収税ではなく、皇帝が戦闘することに対する報酬的な意味で収税が行われていると解釈する他ない。

端的に言って、「皇帝が領土を広げると税額が増える」「肯定が各地で戦ったり財宝を漁ると収入が入る」という二柱がバレンヌ帝国財政の根幹をなしており、ここでも殆ど皇帝が一人で仕事してるという状態を呈しているといっていいだろう。もうちょっと収税方針を考えてあげて!皇帝のLPはもう0よ!と財務省に言ってあげたい状態である。

一部の皇帝は、アバロンのシティシーフの上前をひたすらハネ続けることで巨万の富を築いたなどという話もあり、なかなか黒いうわさもつきまとうバレンヌ財政であるのだが、支出の機会が極めて限定されている(施設を作ったり武器や術法を開発したり)ことでなんとか健全な財政を保っているといえるだろう。実際のところ、普段のバレンヌ財政がどんなキャッシュフローをとりまわしているのかはさっぱり分からないが、ゲーム内で解釈出来ない部分を類推することはここでは避けたい。


ということで。

ここまでの議論を簡単にまとめてみると、

・バレンヌ帝国は、伝承法に裏打ちされた驚異的な少数精鋭主義で全てを運営している
・「能力がある人に仕事が集中する」ということを国家規模で実現するとバレンヌ帝国になる
・人助けはタダではないし、タダではないような人助けをしなくてはいけない
・バレンヌ皇帝は和民も裸足で逃げ出すブラック職場
・シティシーフの集金能力が驚異的過ぎる
・ところで前にも書きましたが陣形道場の人達が無能過ぎるのでなんとかしてください


という、まったく何の参考にもならなさそうなどうでもいい結論が導きだせるわけである。よかったですね。>私


今日はこの辺で。
posted by しんざき at 12:52 | Comment(1) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月11日

レトロゲーム万里を往く その117 コナミワイワイワールド


お客様の中にコナミマンかコナミレディの方はいらっしゃいませんか?


ちょっと、ゲーム業界における「看板キャラ」の話をしてみたい。ジャンルとしてはヨタ話の部類になる。

ゲームメーカーは勿論コンテンツメーカーでもあり、キャラクターはコンテンツビジネスにおける重要極まる柱の一つである。魅力的なキャラクター、知名度のあるキャラクター、人気キャラクター、それらはゲームメーカーにとって、とても強力な武器だ。自社が抱えるキャラクターをどう扱うか、というのは、そのままそのメーカーの手腕の見せ所でもある。

そんな中、そのメーカーの「顔」「看板」と言えるキャラクターは誰だろう、という話が起点になる。

看板キャラクターの定義は曖昧だが、「知名度が高く、そのメーカーの様々な広告戦略やゲーム展開の中で、メーカー全体の象徴的に扱われているキャラクター」とでもしておけば取り敢えず紛れが少ないだろう。

任天堂なら多分、毎度の名作に支えられたマリオやリンクが看板キャラになるのだろう。ナムコにはパックマンという偉大な大安定キャラクターがいる。セガならソニックだろうし、カプコンは古くは弥七やモビちゃんだったが、最近はリュウなのかも知れない。アイレムの看板は大工の源さんかスペランカー先生なのだろうし、タイトーの看板というとインベーダーなのだろう。アトラスはジャックフロストが現役だ。デコ?カルノフ一択だろ。

ところでこうして考えていった時、コナミのところでふと思考が止まる。

勿論、コナミには星の数程人気キャラクターがいる。ゴエモンがおり、ツインビーがおり、スネークがおり、ときメモの連中がおり、パワプロくんがおり、マジアカの連中がいる。

しかし、それらの中から、他のメーカーのように明示的に「看板」として扱われたキャラは?と考えると。国民的アイドル化計画のパステルか?というと、あれも「コナミの看板」として売り出されたのとはちょっと違う気がする。どうも、現役の、最近も頻繁に見かけるキャラクターとしては、「コナミの看板」というものが思い当たらないのだ。

私は考える。コナミの看板といえば、ヤツらだったろう、と。モアイであり、ペン太郎であり、そしてコナミマンだったろう、と。


コナミワイワイワールド。アクションゲーム。1988年、コナミより発売。ゲームとしては「悪魔城ドラキュラ」のほぼ発展形と言えるオーソドックスな横スクロールジャンプアクションだったが、シモン、マイキー、ゴエモン、フウマなど、コナミの歴代人気タイトルのキャラクターが操作可能ということで大きな人気を博した。

ファミコンジャンプと並んで、いわゆる「オールスターゲーム」の草分けの一角と言っていいだろう。この後、例えばスマブラやマヴカプ、KOFのように、「キャラクター総出演のオールスターゲーム」というものは、キャラクターを多く抱えるメーカーの、一つの定番ジャンルになる。

概要に関しては、wikipwdiaを参照していただければと思う。
コナミワイワイワールド

さて、ゲームの話をしよう。

・コナミアクションに降り立った「キャラ選択」の妙

前述のように、コナミワイワイワールドは横スクロールジャンプアクションであり、ゲームの中身はほぼ「悪魔城ドラキュラ」を踏襲している。プレイヤーは、その時使用可能なキャラクターを自由に切り替えながら、複数階層に別れたフィールドを歩き回り、時にはメインとなる近接攻撃で敵を倒し、時にはサブとなる遠距離攻撃を敵に撃ち込み、時にはアイテムを集め、時には仲間を助けて使用可能なキャラクターを増やし、時には丁半バクチに弾丸を全部賭けて負けたりする。

ゲームとしてのコナミワイワイワールドの特徴は、幾つかの要素で説明できると思う。

・使用キャラクター変更による操作感の拡張
・弾数制限のある飛び道具と、その解禁の為のアイテム探し
・弾丸を軸にしたRPG要素の導入
・キャラクターそれぞれの違いによる、ステージ攻略順の存在
・若干とってつけたようなシューティング面
・どうみても魂斗羅の敵キャラにしか見えない、ラスボス含む一部の敵キャラ
・コナミレディのハイキックの妙に力が入ったグラフィック

妙なのも混じってるけどまあいいや。

まず第一に、コナミワイワイワールドというゲームは、使用キャラクターによって結構変わる。

使用可能キャラクターは、コナミマン、コナミレディ、「がんばれゴエモン」のゴエモン、「グーニーズ」のマイキー、「悪魔城ドラキュラ」のシモン、「月風魔伝」のフウマ、「キングコング2」のコング、あと謎のモアイ。計8キャラである。

そして、それぞれのキャラクターはある程度「場面で使い分け」ができるようにキャラ付けされている。例えばゴエモンは近接攻撃が斜め上向きなので空中の敵キャラが出てくる場面が強い、とか。シモンはサブ武器も含めてリーチが長い、とか。

キャラクターの切り替え方法は「上とAボタン同時押し」と異様にお手軽であり、その為ゲームはキャラクターをとっかえひっかえ、ライフを節約しながら進めることになる。「このステージではこいつが大事になるから殺せない」「だから先にこいつを犠牲にする」といった、若干の戦略要素があるのもワイワイワールドの面白いところだ。

そういった中、ステージの中には「このキャラでないと先に進めない」とか、「このキャラのこのアイテムがないと重要アイテムが取れない」というような形で特徴付けがされている場面もある為、ステージの攻略順はほぼ決まってきて、ステージ選択の意味があまりない点は、もしかすると評価が分かれるところかも知れない。

一方。この頃のコナミがRPGを意識したゲーム作りをしていたのは、例えば悪魔城ドラキュラ2、月風魔伝、ガリウス辺りをみれば推測できるが、コナミワイワイワールドにもRPG風の味付けが見て取れる。

例えば、サブウェポンの弾数となる「弾丸」が通貨のような扱いをされており、カジノや、仲間を生き返らせる時に必要になったりであるとか。「攻撃力」「防御力」を上げるアイテムがあったりであるとか。

あと、真っ正面からみたツインビーという希少な光景が見られるシューティング面も、これどんな沙羅曼蛇?と思う側面も若干なくはなかったが、流石のコナミクオリティでそつなくまとまっていたと思う。ボスは弱かったが。

単純にアクションゲームとしてみても、実際のところコナミワイワイワールドは極めて良質な出来だった(難易度は結構高かったが)のだが、この辺りの様々な「おまけ要素」の盛り込み具合は、流石のお祭りゲーと評価するべきなのだろうと思う。

・ところでコナミマンはどこにいったのでしょうか。

本題はここからだ。

コナミマンがプレイヤーキャラクターになったのはコナミワイワイワールドが初めてだが、この頃コナミマンは、結構あちこちに顔を出していた。例えばグーニーズで、丁度前回書いた隠れキャラとして。あるいはグーニーズ2で。あるいはロードスターで。

コナミには、例えばナムコにおけるパックマンのように、コナミマンを「複数タイトルを繋ぐ看板として育てる」という意図が確かにあった筈なのだ。コナミワイワイワールドは、まさにその意図を如実に反映したゲームではないか。

ところが、スーファミ時代以降の長い期間、コナミマンはコナミレディと共に完全に消息を絶つ。彼が再登場するのは遠く時代を下った後、例えばポケプロのちょい役であり、ビートマニアのちょい役であり、キャリバーのちょい役である。仮にもメーカーの名前を冠したキャラクターとして、これは余りにも寂しい活躍ではないか。

ぶっちゃけた話、この干されっぷりの要因は色んな意味でデザインがまずかったという一点に集約されるのではないかと思ったりもするのだが、まあマリオだって見た目はただのヒゲ親父だし、もうちょっと何とかならなかったのかというのは残念なところだ。というか、コナミマンはともかくコナミレディは正統派ビキニアーマーキャラとして非常に勿体無いので、是非再度の活躍を祈念するところである。

余談だが、かつてのマリオの恋人であるレディもピーチ姫にその座を奪われて行方不明になったし、パックマンレディもどっかいってしまったし、もしかするとレディという名前がなんかまずかったのかも知れない。コナミ少女にしましょう(提案)


また随分長くなった。今回の万里はこの辺りで締めたいと思う。

次回は多分またタイトルものです。
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2013年05月04日

レトロゲーム万里を往く その116 「隠れキャラ」にまつわるエトセトラ



「隠れキャラの歴史」みたいなものがあるような気がする。


かつて、ファミコン時代のほんの一時期。「隠れキャラ」というものがゲームのメインステージの一角を飾っていた時代があった。

通常のゲームの流れからは浮いた、おまけ要素。お話的には何の必然性もない、ボーナス要素。何の気もなくキャラクターを操作していたら、突如画面に浮かびあがる意外性。

恐らく、淵源は「ゼビウス」におけるソルやスペシャルフラッグであるとか、パックマンにおけるフルーツターゲット辺りにあるのだろう。当初「隠れキャラ」は、単純に、「条件を満たさないと出現しない得点アイテム」だった。単純に、少年たちの宝探し欲求を満たすものだった。

その流れは、例えばレッキングクルーにおけるゴールデンハンマーやサンタクロース、ディグダグにおけるベジタブルターゲットなどにも続いていた、と思う。


当時、隠れキャラは、スパイスだった。隠し味であり、小道具だった。見つけられると嬉しいし、いいことがある。けれど主役ではない。メインコンテンツではない。飽くまでおまけ。



私が記憶する限り、はっきりと「隠れキャラ」がスターダムに上がってきたのは、「スターフォース」におけるクレオパトラだった筈だ。「謎の地上絵」と、隠された100万点キャラクター。最後に残されたゴーデス大陸の謎。コロコロコミックなどの漫画とタイアップして、ちびっこ達の心を捉えた隠し要素。あのわくわく感は本当に物凄かった。

多分なのだが、あの頃、ゲームメーカーは「雑誌などとタイアップした隠れキャラのコンテンツ力」をはっきりと認識したのではないか。

コンテンツとしての「隠れキャラ」を設定することには、様々なメリットがあった。

・ゲームに「謎解き」「宝探し」的な彩りを加えることが出来る
・少年たちの話しのネタになり、販促の一助となる
・ゲーム雑誌の重要なネタになり、ゲーム雑誌や攻略本を買う原動力の一つとなる
・まだ隠れキャラがいるのではないか?どうすれば隠れキャラが出るのか?といった、遊び続ける楽しさ、遊び続ける動機の一つとなる



これらのメリットは、「ゲームの中身とはあまり関係のない」、いわば「浮いた」隠れキャラをゲームに追加させる、十分な動機となった。ドルアーガなんかはまた全然話が別だが、当時「ちょっとした隠れキャラ」が一つの目玉となっていたゲームは、枚挙に暇がない。特にハドソンが得意としていた筈だ。

例えば、チャレンジャーにおけるクジラであるとか。

忍者ハットリくんにおける高橋名人であるとか。

ボンバーマンにおける中本プログラマーやデゼニマンであるとか。

あるいは、ジャイロダインにおける「目」や人魚であるとか。

ヴォルガードIIにおけるファミコンコントローラーであるとか。グーニーズにおけるスピルバーグ監督であるとか。


覚えていらっしゃる方も多いと思うのだが、上記はみーんな、当時の雑誌やゲーム攻略本で、目玉コンテンツの一角として扱われていたものばかりである。それらは、時には「思わせぶりなヒントと衝撃的な画像」で。時には雑誌の袋とじで、時にはコロコロコミックの漫画で、存在を示唆され、あるいは暴かれていた。

これは飽くまで邪推なのだが、当時、ゲームが殆ど完成してから、「付け加えとして」隠れキャラが設定されていたことは、かなり頻繁にあった筈だ。その情報が雑誌に流れ、共存共栄のコンテンツとしてタッグを張る。一つの黄金パターンだったと言っていい。


で、いつ頃からかはっきりとは分からないのだが、こういった「ゲームの中身とは全く関係がない、ボーナスアイテムとしての隠れキャラ」は、段々クローズアップされる機会が少なくなっていった、ように思う。87年代辺りになってくると、既に隠れキャラは「目玉」ではなく、昔と同じように、スパイス、おまけ要素に戻りつつあった。

勝手な推測だが、多分理由は幾つかあって、

・ゲームにおける隠しフィーチャーが一般的なものになり過ぎ、コンテンツとしてメインを張るのは難しくなった
・迷宮組曲やソロモンの鍵など、ゲームの中核部分に宝探し的要素があるタイトルが増えた


といったところが大きいのではないか。

「裏技」というものの一般化も含めて、ある程度以降の時期のファミコンゲームからは、隠しフィーチャーが全く入っていないゲームを探す方が難しくなってしまった。ファミマガに、毎号50個弱の「ウル技」が載る時代だ。そりゃ、個別の隠れキャラがいちいちメインコンテンツにはならないだろう。この流れは現在でも変わらない。

ゲームが「隠しフィーチャー」を設けることは、いつからか「ふつー」のことに過ぎなくなったのだ。

いずれにせよ、「隠れキャラ」がゲームのメインステージに君臨していた時代は、ファミコンというステージにおいてはそれ程長くなかった。85年後半から86年台くらいだったのではないか。



その遠い遠い後。再び「隠れキャラ」がゲームのメインコンテンツの一角になる時が来た。

そう。それは格闘ゲーム。格闘ゲームにおける「隠しボス」であり、「隠し使用キャラクター」であり、「隠し超必殺技」。

豪鬼乱入条件の、デュラル使用コマンドの、ルガール使用コマンドの、龍虎乱舞使用コマンドの、あの頃のゲーメストの紙面は、確かに86年台の盛り上がりを思い起こさせるものだった。歴史は繰り返すものなんだなあ、と当時しみじみ感じ入ったものだ。


そこから考えると、近い将来、再び「隠れキャラ」が業界を賑わせることもあるのではないかと思ったりもするのだが、まあそれは別のお話。


とりとめもない話になったが、今日はこの辺で項を収めたいと思う。

次回は多分タイトルものです。
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2013年03月08日

レトロゲーム万里を往く その115 「ゲーメスト」が俺に教えてくれたこと

・「ゲームを攻略する」「ゲームが上手くなる」というのはどういうことなのか、ということ
・ゲームには、ただ遊んで、クリアする以外にも色んな楽しみ方があるんだ、ということ
・世の中にはスコアラーという連中がおり、そしてそこは決して別世界ではなく、頑張れば自分でも入っていける世界なんだ、ということ
・銀勲章の得点は非情にもランダムであるということ
・ガレッガの連射ボタンは致死性の罠以外の何物でもないということ
・誤植の原因は手書き文字を写植の人が見た通りに植字しなくてはいけないからだ、ということ
・ダッシュから羅砕刃と烈空破の二択をかければカブキ団十郎は理論上最強である筈だ、ということ
・100円一枚握ってゲーセンに駆け込むだけでも、そこには無限の楽しみ方があるんだ、ということ
・大人は軽々しく「もう一度同じミスをしたら小鉄のコスプレして謝る」とか言うべきではない、ということ



昔話から始めさせて欲しい。長文になるのでお暇な時にでも。


私には、兄が一人いる。兄は私より5歳年上であり、ゲーマーであり、子供時代の私のゲーム人生は、大体のところ兄の門前の小僧であった。

世の中の小学生中学生がコロコロやジャンプやボンボンを買っていた頃、我が家では私がファミマガ、兄がゲーメストを買っていた。

まだ子供だった私は、当初なかなかゲーセンには行けなかったが、以前書いたように、対戦台が隆盛し始めた頃、近所のゲーセンに少しずつ出入りするようになっていた。


その時、私の背中を押してくれたのが「ゲーメスト」だった。


1980年代末から1990年代に入る頃。そう、丁度「スーパーファミコン」が姿を見せるか見せないかという頃、「ファミマガ」「マル勝」「ファミ通」(それに勿論ジャンプやコロコロ)などを中心に、当時家庭用ゲームに関する雑誌は花盛りであったし、「家庭用ゲーム」というあり方は既に完全に子ども達のメジャーな趣味の一角として定着していた、と思う。

それに対して、「ゲームセンター」というものは、小学生にとってはまだまだ敷居が高い場所であり、中で何が起きているのか分からない場所だった。私にとって、「ゲーセンのゲーム」というものは、駄菓子屋においてある「Mr.Do!」であり、デパートの屋上に置いてあるアフターバーナーであり、ファミコンのゲームより物凄く、しかしなんだかよく分からないものだった。

当時、「ゲームセンターのゲーム」というものについて専門的に書いていたのは、ベーシックマガジンやBeep!やログインなどがあった筈だが、その中でも「ゲーセン専門誌」というのはゲーメストだけだった筈だ。


我が家には、ゲーメストがあった。そして、ゲーメストに展開されていた世界が私とゲーセンを繋いでくれた。この点で、今の私の人生の十何%かには、間違いなくゲーメストの影響があったのだ。


この記事では、私にとっての「ゲーメストから教わったこと」について、私的な記憶として書き連ねていきたいと思う。


○「ゲームの攻略」とは何なのか、ということ。

私はそもそも、「やり込む」とは何なのかを知らなかった。

少なくともファミコン初期、殆どのちびっ子ゲーマーとって、攻略とは「先の面に進むこと」であり「クリアすること」だった、と思う。多分。


「ゲーム攻略本」という物が、ある時期から急に広く、深くなった、ということについては、決して私一人の思いこみではあるまい。

ファミコン時代の攻略本というものには、恐らくまだ子供向けであることが強く企図されていたこともあり、そこまで「深い」ものは少なかった記憶がある。そこには、例えばマップが掲載されており、出現する敵のデータが掲載されており、RPGであれば攻略チャートが掲載されており、点数稼ぎのちょっとしたコツが掲載されており、時には裏ワザが掲載されており、最終面やラスボスについては「ここから先は自分の目で確かめてくれ!」であったりした(例外もあったが)。

勿論、それはそれで良かったのだ。子どもから見れば、それで十分役に立ったし、十分面白かった。


ゲーメストは違った。レベルが違い、扱うテーマが違った。


ゲーメストには、例えば「対戦攻略」があった。基本的な立ち周りテクニックが掲載されており、どの相手の、どの技を潰すにはどの技を使えばいいかが掲載されており、対空技には何を使えばいいかが掲載されており、フレームの有利不利が掲載されており、リバーサル昇竜の有効性について掲載されていた。

そして、三日月避けと八の字避けの有効性と利用場面が掲載されており、残機潰しと安地が掲載されており、ボスのどの攻撃をどう避ければいいかが掲載されており、高得点を得る為にはどういう順番でボスの装甲を剥がしていけばいいかが掲載されていた。

ベルトスクロールアクションで、レースゲームで、パズルゲームで、ウィングウォーで、既存のゲーム雑誌とはレベルの違う「マニアの本気」がそこにあった。


コロコロコミックで、我々は高橋名人に出会った。「ゲームが上手い大人」が本気を出すことの凄さに魅せられた。そこには、子どもとはレベルが違う、大人の本気と大人のテクニックがあった。


一方、まだ小学生から中学生だった私から見れば、ゲーメストには高橋名人しかいなかったのだ。そこでは「ライター」という、名前を半分出した本気の、大人のゲームマニア達が、本気でゲームをやり込んだその結果を、本気で読者に伝えようとしていた。彼らが時間に時間を重ねて見出した「テクニック」がそこには載っていた。ゲームをやり込まないと分からないことが、そこには載っていた。

そして、そんな認識から、私は「攻略とは何か」ということについて読み取った。

攻略とは「クリアする」ことではなく「やり込み、上達する」ことだったのだ。ゲームをやり込んで、対戦で連勝し、ベルトフロアアクションをワンコインクリアし、STGでスコアエントリーに自分のスコアネームを打ち込むことだったのだ。少なくとも、当時私はそう思ったし、今でも75%以上は本気でそう思っている。

この後、私はゲーセンで「ダライアス外伝」というゲームに出会い、ハイスコアを得る為に人生最大の「やり込み」をすることになるのだが、それは一旦別の話である。


ゲーメストに出会って、ゲームに対するスタンスが変わった。そういう人は、私以外にもそれなりにいたのではないか。

とにかく、ゲーメストという雑誌が、ゲーセンのゲームのバイブルである以上に、ゲームマニアが、ゲームに対する熱意を原動力に、「やり込み」という行為をド直球で読者に叩きつけた初めての商業誌である、ということは多分論を俟たないと思う。




○ゲーメストにひしめいていた、ライターの人々について

アディオスToshiさんとC・LANさん、あとK-TANさんのファンでした。

これについてはファミ通やログインの方が先かも知れないが、「ライターのキャラが立っていた」というのもゲーメストの重要極まる持ち味の一つだったと思う。

各ゲームの攻略ページには全てライターの筆名が記載しており、「あ、この人はこういうゲームが好きなんだ」であるとか、「あ、この人はこういうキャラが好きなんだ」というのが手に取るようにわかった。

例えば、レースゲームといったらほぼこの人、という「ずるずる」さんであったりとか。ダラ外攻略で随分お世話になった「松っちゃん」さんだとか。

ヴァンパイアでオルバス使いだった私は、同じオルバス使いと思われるK-TANさんの記事は随分読みこんだし、重量級キャラ使いと思われるアディオスToshiさんの記事も好きだった。一方、豪鬼といえばこの人、という立場に見えたC・LANさんは、ほうぼうのネタ記事にも姿を現していて、強烈な個性を放っていた。正直、ライターさんの名前を挙げていては切りがない。


そこにあったのは、一言で言うと「こだわり」。「俺はこのゲームが、このキャラが好きなんだ!」という強烈なこだわりが、どのライターさんからも溢れ出していて、それもゲーメストという雑誌を魅力的にさせていた。時には強烈にやる気がない書かれ方をした記事もあって、あーこれあんま好きじゃないキャラやらされてるんだな、というところが諸分かりだったことも味わい深かった。


ライターの人間性が露出しまくっていたあの雰囲気も、当時私が読んでいたファミマガなどには見られないもので、私はそんなところでも「この人達一体どんだけゲームやってるんや。。。」という思いと共に、ゲームの楽しみ方の一つを学んだ気がする。



○ところでゲーメストが豊富過ぎるネタ集積所でもあった件について

Webでは誤植ネタばかりが花盛りなので誤植についてはあまり触れないが、それ以上に強烈極まるネタはゲーメストにあり余りまくっていた、と私は思う。

例えば、豪鬼コマンドが丸ごと黒塗りにされたストIIXの攻略号であるとか。

例えばデュラルコマンドであるとか。

例えば喫煙狂団ヤニー教であるとか。

例えば、どうせ小鉄のコスプレするなら春麗のコスプレやる必要なかったんじゃ…という某田渕先生であるとか。

例えば、終始何を書いているのかよく分からなかったけど取り敢えず好きではあった猛者通信であるとか。


狙ってないネタも、狙ったネタも、とにかくゲーメストのネタはパワーに溢れまくっていた。これは、とりもなおさず、上述のライターさん達のパワーとイコールでもあったと思う。

読者コーナーである「ゲーメストアイランド」のレベルもイラスト・文章・ネタ問わず想像を絶しており、例えば「鋼の錬金術師」の荒川先生を始め、雑君先生や藤島じゅん先生など、様々な商業作家がここから出濾したことも有名な話である。

個人的には、「福田雄一郎」さんの、時に熱く、時に投げやりな文章ネタの数々と、「竹井床」さんの美麗なイラストの数々の印象が濃い。また、パズルコーナーのパズルがとにかく面白かったことも記憶に残っている。

恐らく、「ゲーメスト」に投稿経験がある絵師さん・ネタ師さんというのは、今でもWeb上に多くいるのではないだろうか。メストの魅力の一端を物語る要素だと思う。



長くなった。


あの頃ゲーメストで書いていた人々は、今でも一部はアルカディアで書いていらっしゃるし、一部はWebやその他業界の色々なところでご健在だ。私の人生の十何%かに影響を与えてくださった全ての人達に対して、深い感謝を捧げたいと思う。


今日はこの辺で。
posted by しんざき at 20:40 | Comment(7) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月11日

レトロゲーム万里を往く その114 Dr.ワイリーとDr.ライトはどちらが有能なのか

ファミコン版ロックマンのお話。主に1及び2を元にした話であって、近年のロックマンは計算に入っていないのでご承知おき頂きたい。


まず考えなくてはいけないのは、「Dr.ライトの設計思想がよく分からない」という問題である。


ロックマン1において、中ボスになるのは「Dr.ライトが開発したが、Dr.ワイリーによって暴走してしまった工業用ロボット」である。そのストーリーや登場キャラクターについては、「げーむのせつめいしょ」様やWikipediaから詳細を確認出来る。

げーむのせつめいしょ:ロックマン
Wikipedia:ロックマン (ゲーム)

ロックマン1に登場する中ボスは、カットマン、ボンバーマン、ファイヤーマン、エレキマン、アイスマン、ガッツマンの6体である。ストーリーから読み取る限り、この6体は、ワイリーに暴走させられる以前は、元気にそれぞれの工業用ロボットとしての仕事をしていたのだろうと思われる。

まず誰しも気になるところであろうが、「南極大陸の探査ロボットとして開発された」アイスマンの能力が、一体何故「口から零下200℃の「アイススラッシャー」を吐いて、何でも凍らせる」なのか。お前は一体何のために南極に派遣されるのか、ただでさえ凍ったものだらけの南極でそれ以上物を凍らせて一体何を探査するつもりなのか、南極探査用ロボとしての自覚はあるのか、と6時間くらい問い詰めたい勢いである。

エレキマンについても相当おかしな話になっている。「原子力エネルギーの電圧制御作業をしていたロボット」であるところのエレキマンの能力は、「両手から放つ「サンダービーム」」であり、みなさんよくご存じの通りサンダービームは思いっきり高威力の電撃を思いっきり広範囲にぶっ放すものであって、原子力エネルギーの電圧制御中にサンダービームを使用するとどうなるかは想像に難くない

ちなみにこの二体、ロックマンのボス格6体の中でも最強の二体である。ライト博士は、一体何を考えて、結構工業用ロボットとしても重要なポジションを占めていそうなこの二体に、笑いごとで済まない戦闘力を付与したのか。制御とか探査をする為のロボットだということをちゃんと認識していたのか。もしかするとライト博士、あんまり人の話を聞いていなかったのではないか。「あ、ごめん、あんま要件聞いてなかったけどまあ強いロボ出来たからいいか!!」というノリだったのではないか。


他のロボットに目を移してみても、廃棄物処理場で働くファイヤーマン、森林伐採用のカットマン、土木作業用のボンバーマンとガッツマン、共通項として全部基本的には力技で出来る仕事という要素が見いだせる。速い話、ライト博士が作った6体のロボットは、全て力技ロボットなのである。力こそパワー。パワーこそ全て。どうなんだコレは。

ここから、

・ライト博士は、配備されるロボットの要件から必要な性能を導き出す要件定義・外部設計の能力に若干欠けているのではないか

または、

・実はライト博士は要件とかあんまり聞いておらず、取り敢えず力技ロボ作っちゃうぜヒャッハーな人なのではないか

という二つの可能性が浮かび上がる。なんということでしょう。人類の平和利用のためのロボット研究に力を注ぎ、ロボット工学の第一人者であるところのライト博士に、浮かび上がる黒い噂。いや、ロック→ロックマンの設定とか見てると後者はどうなんだという話ではあるのだが。



一方その頃、ワイリー博士の技術力にも目を移してみたい。


元々は工業用ロボットだった「ロックマン1」のボス達に対して、「ロックマン2」のボス格は全員、元々対ロックマン用に開発された戦闘ロボット達である。

(参照Wikipedia:ロックマン2 Dr.ワイリーの謎

で、よく見るとこいつら、どう見ても1の連中よりも工業用ロボットとしての実用性高そう。

「時を止める」という完全チート能力のフラッシュマンは言うに及ばないとして、メタルマンのメタルブレードはどう見てもカットマンのローリングカッターよりも伐採能力が高そうだし、「7000°から8000°までの炎を自由に操ることができる」というファイヤーマンに対し、ヒートマンは「12000℃にも及ぶ高熱(実際には炎が12000℃に達することはなく、プラズマ化する)を発生させ」などと設定されている。

クラッシュマンは「ガッツマンとボンバーマンの特徴を受け継いだロボット」とか言われているし、バブルマンは水中環境という目的に適した装備をしていることから考えると、アイスマンよりもまともな探査ロボットとして活躍出来そうだ。企業は、ワイリーロボットを採用した方が高い採算性を確保出来るのではないか。

二つ言えそうなことは、

・ワイリー博士は、すげえ高い技術力と、コンセプトを引き継いで発展させることの出来る発展的応用力を兼ね備えている

・世界征服とかアホなことを言っていないで、ライト博士のロボットが配備された職場にコンペ仕掛けていればワイリーロボットの方がシェアとれたのではないか


という点である。ワイリーさん、中二病も大概にして、もうちょっと有用な方向に頭を使ってください。

つまり、ワイリーさんは専門バカというか残念天才であって、ライト博士に色々負けて性格歪まなければライト博士より適切なロボ制作が出来ていたのではないか、という可能性が浮上する。


以上の議論をまとめてみると、

・ライト博士のロボットシリーズは、ロックやロール以外基本力技万歳であるように思える
・アイスマンの「極低温で何でも凍らせる」という、どう考えても南極探査用ロボとして間違えている能力を誰か何とかしろ
・ライト博士実はあんまり人の話とか要件とか聞いてないんじゃあ
・ワイリー博士は技術力すごい
・ロックマン2のロボをむしろ工業用ロボにするべきである
・ワイリー博士は世界征服とか頭悪いことを言い始めなければ色々といい線言ってたんじゃないだろうか、という点で残念過ぎる
・ワイリーさんは、戦闘用ロボットなんかよりまずマーケティング用の広報ロボットを開発した方がいいのではないでしょうか
・「Dr.ワイリーの謎」は一体何が謎なのか問題については、上記のワイリー博士の商業的手腕の残念さの要因が謎である説を推す


という、想像を絶してどうでもいい結論が導きだせる訳である。良かったですね。>私


今日はこの辺で。



参照:
Wikipedia:トーマス・ライト (ロックマンシリーズ)
Wikipedia:アルバート・W・ワイリー


この二人が、おそらく「鉄腕アトム」の御茶ノ水博士と天馬博士をモデルにしたキャラである、というのはあまり関係ない話なのでここでは置いておく。
posted by しんざき at 17:19 | Comment(3) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月04日

レトロゲーム万里を往く その113 ストリートファイターII

最初はガードすらろくに出来なかった。それで十分、十分過ぎる程面白かった。


そのゲームは、ゲーセンの一角に唐突に出現し、出現するなりギャラリーを集めまくった。物凄くでかいキャラが、物凄く派手なアクションと共に殴り、蹴り、ジャンプする、そのビジュアルは確かにギャラリーを集めるに十分なインパクトを有していた。

そして、程なくそのゲームは、見た目のインパクトからすら想像出来ない「深さ」「広さ」を備えたゲームだということを明らかにしていった。


私が初めてそのゲームを見た時の印象は、「ファイナルファイトのボス戦オンリーのゲーム」だったし、「すげーでかいキャラのイーアルカンフーかダブルドラゴン」だった。大して広い範囲ではないが、私の周囲の印象も、そこまで異ならなかったと思う。世間的にも、それ程少数派の認識ではなかったのではないだろうか。

まさかその後、そのゲームが、シリーズごとに勢力を広げに広げ、それまでは「おまけ要素」だった「対戦」という遊びをゲーセンのスタンダードとして、ゲーセン全体を「格闘ゲーム」で埋め尽くしてしまうことになるとは、私など夢にも思わなかった。


ストリートファイターII。対戦型アクションゲーム。1991年、カプコンよりアーケード版発売。ゲーセンでの爆発的ヒットを経て、スーパーファミコンを始めとする様々なハードに移植され、出るハード出るハードでキラーソフトとなった。


これに先立つ1987年、初代「ストリートファイター」は大ヒットとはいかず、カプコンは一度は「ファイナルファイト」への路線変更を行った。しかし、「改めて対戦格闘を」という方向で再度開発された本作は、ありとあらゆる事情を木端微塵にしてゲーセンを席巻し、「ストリートファイターII'」を経て対戦格闘というジャンルを確立してのけた。その構図は、丁度「テトリス」が落ち物パズルというジャンルを確立した構図と相似している。


「対戦ゲーム」というジャンル自体は、勿論遥か昔からあった。黎明期のスペースウォー!やPONGは言うまでもないとして、コンピューターゲームのあり方がある程度確立してからの話であれば、「対戦という遊び方」を初めてスタンダードにしたのは恐らく「マリオブラザーズ」なのではないかと思う。

その後も、例えばバルーンファイトやクルクルランド、キン肉マン・マッスルタッグマッチ、MSXの「ウォーロイド」、ソフトプロの「ブリーダー」から、バトルシティやカプセル戦記や熱血行進曲などなどなど、「対戦が熱い」ゲームというのは枚挙に暇がない。


ただ、私が考える限り、「対戦も出来る一人用ゲーム」が明確に「CPU戦も出来る対戦ゲーム」に変化したのは、「ストリートファイターII」の爆発的人気を経て「ストリートファイターII'」が発売された、その瞬間の出来事だった筈だ。「対戦格闘ゲーム」が誕生する瞬間だった。

以降、ゲームセンターの収益モデルと完全にマッチしたモデルをたった二作で完成させた「格ゲー」は、ほんの僅かな期間で業務用シーンのスターダムに上り詰めていくことになる。


とはいえ、まずはストIIの話だ。


ストリートファイターIIというゲームについては、多分、色んな人が色んな所で書き尽くしていると思う。私は、私が触れた記憶を中心に、「ストII」に関して思うところを書いてみたい。既出話は混じるだろうがご勘弁頂きたい。


・しんざきにとって、ストIIはどこが凄かったのか。

突き詰めて考えると、私が「このゲームすげえ!おもしれえ!!」と思ったポイントって、二つに集約されるんじゃないかと思う。

○ボタンが6つあったこと。
○上下ガードがあったこと。


少なくとも私にとっては、なにより重要だったのはこの二つだ。

一番にくるのは、「強パンチというボタンを押したら、ちゃんとなんか強そうなパンチが出ること」だった。


何度か書いているが、アクションゲームというジャンルの最大のキモは、「動かしていて面白いかどうか」だ。直感的で、自分の思ったようにキャラクターを動かせて、しかも動かすこと自体に爽快感があるアクションゲームは、もうそれだけで名作といっていい。


ストIIのキャラクターは、動かしていて面白かった。そして、操作や動きに説得力があった。「ああ、こうレバーを入れたらこう動くんだ。そりゃそうか」「ああ、このボタンを押せばこんな技が出るんだ。そりゃそうか」という、問答無用の納得感があった。

その納得感を演出している、もっとも端的なインターフェースが「6ボタン」だった。この6ボタンは、「Aボタン・Bボタン」でも「X/Y/B/Aボタン」でもなく、「弱・中・強パンチ」であり、「弱・中・強キック」であった。なんという、誤解の招きようのないインターフェースだろうか。「キャラクターが、自分の想像した通りに動く」という、一番基本的な部分を、6つのボタンという超絶バリエーションを交えて、しかも一切誤解を招くことなく作り上げている。

今から思えば簡単な話なようだが、恐らく開発当時、「ボタンの数こんなに多くするの?」という話は必ず出た筈だ。「シンプルなインターフェース」という言葉はとても魅力的だから。「シンプルである程とっつき易い」というのは、ゲームにおける一つの解答でもあるから。

しかし、「時にはシンプルイズベストとは限らない」というのが、ストIIが出してくれた最も端的な教訓の一つだった。

これが、たとえば「レバーと2・3ボタンの組み合わせ」というインターフェースだったらどうだったろうか。あるいは、前作ストリートファイターがそうだったように、「ボタンを押す強さによって技の強弱が決まる」というベラボースイッチ的ソリューションだったらどうだったろうか?勿論、言うまでもなく、それはそれで面白かっただろう。しかし、断言出来るが、初代ストII程の超絶ヒットを記録することは決してなかっただろう。何故なら、説得力を感じるまでに敷居があるから。強パンチを押したら強そうなパンチが出る、強キックを押したら強そうなキックが出る、というバリエーション溢れる納得感とはかけ離れているから。

超絶ビジュアルに誘われてふらふらとコインを入れてみたら、触り始めて10秒でわかる超絶納得感。少なくとも私にとっては、これこそが「ストリートファイターII」というゲームの面白さの源泉だった。6ボタンというインターフェースについては、ストIIが草分けだったのかどうか知らないが、「6ボタンが格ゲーブームの礎になった」というのは決して突飛な考えではないと思う。その後、勿論格ゲーは様々な操作系を送り出してきたが、全ては6ボタンを基準に、6ボタンを如何にアレンジするか、というところから始まったのである。まあ、突飛どころか既出も既出かも知れないが。


一方、これも今更言うまでもないことかも知れないが、上下ガードというシステムはとんでもなく奥深かった。

何しろ敵もがんがん攻撃してくるのだ。単にボタンを連打しているだけだとあっさりボコられる。じゃあどうすればいいの、というと、レバーを後ろに倒せばいいのだ。しかもこの時、上から攻撃が来たらまっすぐ後ろに、下から攻撃が来たら斜め後ろにレバーを倒さなくてはいけない。

ここに学習が生まれる。駆け引きが生まれる。相手に攻撃を当てるにはどうすればいいのか?相手の攻撃の隙をつけばいい。相手の攻撃の隙をつくにはどうすればいいのか?相手の攻撃をガードしてから反撃すればいい。格闘ゲームという扉をくぐったばかりのド素人が、最初に経験する気づき。以降、これがやがて足払い合戦や、飛び道具のけん制、スカシ投げなど、様々なテクニックに繋がる始めの一歩となる。


通常技キャンセル必殺技や連続技などの存在を知る、遠い遠い以前。「プレイヤーが勝手に色んなことに気づくインフラ」というものが、まずは「ストII」というゲームの基盤にあったことは間違いない、と思う。少なくとも私にとっては、そうだったのである。



・「対戦」というものはいつ始まったのか?

ところでしんざきが一番最初に選んだキャラは、どういうわけかブランカだった。理由はよく覚えていない。なんかジャンプが速かったから、とかそういう理由だったと思う。あと、ジャンプ大キックから頭突きにつなぐだけでお手軽に連続技が出来たから、という理由もあったかも知れない。

実のところ、しんざきが「対戦」というものに初めて触れたのは、ストIIもダッシュが出て、対戦台という筐体がゲーセンに姿を現して、その後のことだった。同じような人は案外多いのではないだろうか。

ストII時代は、対戦台はまだまだでかいゲーセンの特権だった、ように記憶している。そうでなくても「対戦」という遊びはそれなりに敷居が高く、まだしんざきは必殺技を出して喜んでいる段階だった。スクリューパイルを出せる人間がゲーセンに一人いるかいないか、そんな時代の話だ。一人用プレイヤーの行列が出来、ベガ様どころかバイソンにも滅多にたどり着けはしなかった。

で、ダッシュが出て、「あ、四天王が使える!」と思ってなんとなくバルログを選んで以来、私はバルログ使いである。この当時私は空中投げというものにはまっており、空中投げを使う為だけに春麗に手を出したり、ひたすらイズナだけ狙ってガイルにサマソで迎撃されまくったりしていた。馬鹿のひとつ覚えという言葉の生きた見本であった。


私がいたゲーセンは小さなゲーセンであった為、気づくのがだいぶ遅れたと思う。「キャラクターごとの相性」というものに気づき、意識し始めたのは、ダッシュがそろそろ発売されるかという頃だったし、この頃も頭で考えるばかりで、自分自身ではまだまだ対戦に入れていなかった。隣同士に座って行う対人戦の敷居は、当時まだ子供だった私には高かった。

リュウケンの波動昇竜をかいくぐるにはどうすればいいか?ダルシムのスライディングで下をくぐるか、ブランカの速い飛び込みで飛び込めばいい。けれど、ブランカではガイルの待ちに歯が立たない。じゃあどうするか?強い人は、なんか春麗で中パンチを連打していたり、ダルシムでソニックをくぐりつつ迎撃し返したりしている。なるほど、この戦法にはこういう返し方があるのか。じゃあこっちの戦法には。

「6ボタン」という操作系に裏打ちされたストIIの「広さ」が、色々な戦法、色々な戦い方を許容していたということが、キャラクター同士の戦いをものすごく深くしていたことは疑いない、と私は思う。これが、私にとって、中盤以降の「ストIIの最大の面白さ」だった。

とにかく、ストIIは広いのだ。キャラクターが色々動けるのだ。だから色々な戦い方があり、「強い」戦い方も「弱い」戦い方も等しく同じリングにあり、「強い」戦い方をどう攻略すればいいのか、まさにそこにいる相手を倒すために考える。


現在の「ダイヤグラム」に繋がる、「キャラクター攻略」の萌芽であったろう。「どれだけ考えれば相手より強くなれるのか?」これが、後々まで、対戦格闘のひとつのテーマであり続けたことは、ひとつ特筆すべきであると思う。キャラクターの相性がひっくり返り、ひっくり返り、ひっくり返り続けたあの展開の、どこまでがカプコンの計算通りだったのか、今となっては知る由もない。

で、いざダッシュになって対戦を始めたら、ベガさんのダブルニーハメ・サイコハメにハメられまくってひとつのトラウマになる訳なのですが。なんだアレ。まあターボでは弱体化されまくってましたけども。



そして、そこにあった「ゲーメスト」。

個人的には、この頃あったもう一つの出会いも、後々のゲーム人生に影響する重大なものだった。

ゲーセンの片隅のマガジンラックに入っていた、一冊の雑誌。そう、言わずと知れた「ゲーメスト」である。

ゲーメストという「ゲーセンのゲーム専門雑誌」の存在感、アーケード業界に及ぼした影響については、今更書くまでもないだろう。ベーマガと並んで、「ゲーメストが業界を作った」という側面は、言い過ぎでなく存在したと思う。あの当時、ゲーメストの格ゲー攻略コーナーはまさにバイブルだったし、超芸魂はバイブルの中に燦然と輝くネタの宝庫であった。

今ではザンギュラだとかインド人であるとか、どういう訳か誤植話ばかりがネタとしてWebに残っているように思うが、当時は豪鬼コマンド掲載時のアレとか小鉄コスプレのそれとか、とにかく黒歴史にはことかかない雑誌だったと思うし、攻略記事の深さであるとか、雑君保プ先生の四こまであるとか、異様にハイクオリティな投稿イラストであるとか、雑誌自体の面白さもとにかく群を抜いていたと思う。投稿コーナー出身の漫画家さんが多いのは有名な話だし、福田雄一郎氏のような文章ネタ氏にも凄まじいパワーが溢れていた。

ゲーメストで読んで面白そうだったからそのゲームを遊んでいたし、ゲーメストで読んで楽しそうだったから対戦をしていた。あそこまで雑誌に影響されていた時代は、後にも先にもなかったのではないだろうか。サムスピも、ワーヒーも、ストZEROも、少なくとも私にとって、全ては確かにゲーメストから始まったのだ。

ただし、「ベガのサイコハメ以外の戦法を紹介、ということで読んでみたらダブルニーハメだった」というアレは許さない、絶対にだ。

そして、ゲーメストのハイスコアコーナーだけを目標に、ダライアス外伝というゲームを遊ぶことになったのが私自身のもう一つの転機になるわけだが、まあそれはまた別の話。


ということで、大概長くなった。格ゲーについてはまだまだ色々と書くことがある為、ここで一回区切りたい。

次回はまた別のタイトルについて書くかも。
posted by しんざき at 23:37 | Comment(1) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月20日

レトロゲーム万里を往く その112 「忍者くん」のジャンプは何故最強なのか


「制御出来ないジャンプ」の中で最強なのは忍者くんだよなあ、とふと思った。ふと思いつく内容なのか、という点はしんざきの脳構造の問題なので気にしないで頂きたい。


ただ、自分でも何故そう思ったのかが今一つ分からなかったので、分析してみたくなった。

まず整理から始めよう。


ジャンプアクションにおけるジャンプには、大きくわけて二種類ある。「ジャンプをしてから左右の方向調節などが利く、いわゆる「制御可能ジャンプ」と、「ジャンプした後は左右の調節などが出来ない、いわゆる「制御不能ジャンプ」である。当然物理的には後者が正しい。

ジャンプという操作は勿論ジャンプアクションの中核であるので、「ジャンプがどんな操作感なのか」という問題は、「そのゲームの面白さはどこにあるのか」という話の中ですっごく重要になる。「ジャンプという操作自体が面白い」ジャンプアクションの中に、外れはほぼ存在しないと言ってしまってもいい。

「制御可能ジャンプ」のゲームには、例えばスーパーマリオがあり、パックランドがあり、アイスクライマーがあり、ロックマンがあり、バブルボブルがある。

「制御不能ジャンプ」のゲームには、例えば魔界村があり、影の伝説があり、ナッツ&ミルクがあり、イーアルカンフーがあり、スペランカーがある。

で、そんな「制御不能ジャンプ」ゲームタイトルの中でも、特に「俺ジャンプしてる感」が優れている、一つの到達点というべきタイトルが忍者くんなのではないか、と思った次第な訳である。


「忍者くん 魔城の冒険」はUPLから1984年に発売された業務用アクションゲームで、翌1985年にジャレコからファミコンに移植されている。私がやり込んでいたのがファミコン版である関係上、主にファミコン版を元に話を進めさせて頂きたい。



↑のようなゲームである。関係ないが、このブログ8年やってて、この記事で初めて記事内に動画張った。こうやるのか。

また、アーケード版忍者くんについては、「OKINIIRI」のバブシカさんが語られている以上の内容の記事を見たことがない。読みどころが多過ぎて物凄いので、是非ご参照頂ければと思う。一部を下記にリンクする。

忍者くん―魔城の冒険―
忍者くん_魔城の冒険 攻略

私が考える限り、「忍者くん」というゲームにおいて、ジャンプというアクションが特筆すべき立ち位置にある理由は幾つかある。


1.ステージ構成上、ジャンプという操作の比重が非常に大きい
2.ジャンプという行為のリスク、リターンのバランスが素晴らしい
3.操作感が非常にリアルかつ独特であり、「俺ジャンプしてる」感がとても大きい



順番にいこう。

1.ステージ構成上、ジャンプという操作の比重が非常に大きい

上記動画を見て頂ければわかる通り、忍者くんのステージ構成は縦長であり、ゲームとしては「縦スクロール横移動アクション」ということになる。

忍者くんの基本的な進行方向は、「山を登っていくこと」だ。一段一段の足場は狭く、また同じ段にとどまっているメリットが極めて小さい為、ゲームのかなりの部分を「段差の上下」が占めることになる。ゲームの構造的に、既に「ジャンプ」が非常に重要である土台が形成されている訳である。この点はアイスクライマーや、一部の固定画面型アクションなどとも同様だ。

で。

2.ジャンプという行為のリスク、リターンのバランスが素晴らしい

「忍者くん」のジャンプには、「ハラハラ感」「どきどき感」とでもいうべきものが詰まっている。(わくわく7的表現)

何のことかというと、「ジャンプによって得られるリスク・リターンが非常に大きく、またバランスがいい」ということだ。

忍者くんの基本テクニックは、「敵に体当たりして気絶させてから倒す」ことである。一対一で敵と撃ちあうと大抵の場合撃ち負ける。非常に忍者らしいバランスだと言える。

その為の基本的な方法は、上から飛び降りて敵にぶつかることか、下から飛び上がって敵にぶつかること、である。端的に言って、「ジャンプは敵を気絶させる為の最大の武器」ということになる。

「手裏剣を無駄撃ちせず、全ての敵を一撃で仕留めるとボーナス得点」といったギミックもあるので、敵を気絶させて安全に倒すことによるリターンは非常に大きい。なにより、隠密忍者っぽくて気持ちいい。「敵の位置を狙い澄ましてジャンプ」というのは、忍者くんというアクションの一つの中核になる部分だ。

一方、忍者くんというゲームにおいて、「ジャンプは大きなリスク」でもある。忍者くんは非制御型ジャンプゲームなのであって、一度ジャンプすると後戻りが効かない。そして、忍者くんの敵キャラのアルゴリズムは結構絶妙で、こちらが思いもよらない動きをすることがある。

例えば、「ジャンプして着地したところに敵が打った手裏剣が丁度飛んできた」であるとか、「体当たりをしようとしたヤツに華麗にジャンプでかわされたと思ったら、反対側から別の敵が降ってきた」であるとか。そうでなくても、違う段に行くというのは「新たな敵と戦いにいく」という行為である訳なので、ジャンプによるリスクというものは決して低くない。むしろ、「不用意なジャンプは最大の死因の一つ」というべきものである。

リスクとリターンのバランス。最大のリスクがある行為で、最大のリターンを得る。これがあるからこそ、上手く隙をついて敵を気絶させ、手裏剣の一投で仕留めた時の気持ちよさが麻薬的なものになる訳である。忍者くんのゲームバランスの見事さというべきだろう。


3.操作感が非常にリアルかつ独特であり、「俺ジャンプしてる」感がとても大きい

これには感覚的な部分もあるので、若干説明が難しいのだが。

まず、忍者くんのジャンプはとても「放物線が美しい」。

上の動画を見て頂けば分かると思うが、忍者くんのジャンプには大小二種類があり、いずれも放物線を描いて下に落ちてくるジャンプである。放物線ではきちんと頂点近くで速度がゆっくりになり、そして止まり、だんだん加速しながら下に落ちてくる。まず、この感覚が無暗に臨場感を煽る。

勿論ジャンプの感覚は、決して「リアルであればそれでいい」というものではないが、忍者くんの「ふわっとした独特な軌道、操作感」は、滅多なゲームでは味わえないものである。


また、「忍者くん」のジャンプには、操作する時独特の「タメ」がある。

忍者くんは、上の段に上る時は横にレバーを倒しながらジャンプをする必要があるのだが、その際の一瞬のタメ、タメの後のふわりと宙に舞う感覚が、「重さ」をはっきりとプレイヤーに感じさせる素晴らしい操作感を演出しているのだ。「重さに逆らって頑張ってジャンプしてる感」に溢れている。

「ふわりとしたジャンプ」「綺麗な放物線」「一瞬のタメ」といった様々な要素が、一言で言うと「きちんと重さ・重力のあるジャンプ」という、問答無用の説得力を醸し出している。 若干感覚的な部分ではあるのだが、私が忍者くんを「最強の制御不可ジャンプ」ゲームであると考える、一つの大きな要素である。


こういう場面で引き合いに出してしまうのは大変恐縮なのだが、分かりやすいカウンター的な例として、「忍者ハットリくん」のジャンプが挙げられるだろう。



忍者ハットリくんのジャンプは非常に鋭角的であり、凄い勢いで上に登って行って凄い勢いで下に落ちてくる。なにせハットリくんはハットリさんなので多少のジャンプをしても驚くにはあたらないのだが、個人的には「忍者くん」のふわりジャンプに比べて、操作した時の臨場感や重力の存在感という点で数歩を譲ると思う。というか、多分ハットリくんにはイナーシャルキャンセラーが搭載されているのではあるまいか。



ということで、随分長くなってしまった。まとめると、

・忍者くんのジャンプの凄いところは、「ジャンプの存在感が物凄く大きい」「ジャンプという操作のリスク・リターンのバランスが物凄くいい」「ジャンプという操作感の説得力が物凄く大きい」という3点の物凄さに集約されるのではないか
・忍者くんの戦いかたは清く正しい忍者道を突っ走っており、某ワーヒーのフウマとかシャドウダンサーとか忍者龍剣伝のリュウ・ハヤブサとかに見習わせたい
・服が赤い点だけはちょっとどうかと思う


といった感じの結論が導けるわけである。よかったですね。


次回になるかどうかは分からないが、「制御ありジャンプ」についてももう少し書いてみたい。また項を改める。
posted by しんざき at 12:06 | Comment(1) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月08日

レトロゲーム万里を往く その111 銀河英雄伝説4

現在の、移植されたらハード買いするゲームタイトルリスト:19XX、銀河英雄伝説4(EX)
現在の、ちゃんとWindowsで動く形でWindows版を再販して欲しいタイトルリスト:大航海時代II



上記リストには適宜タイトルが追加されます。


最初は、「銀河英雄伝説4(EX)は、とにかく超名作なので積極的に家庭用移植を訴えていきたい」というタイトルで書こうと思っていたのだが、いざ書いてみたら思ったより長くなったので急きょ万里を往くに編入してみた。「万里を往く」の中では初の純正パソゲーである。

移植ないしリメイクされないかなあ。多分銀英伝ものゲームの、またボーステックの最高傑作じゃないかと思うんだけどなあ。7でなんか色々トラブっちゃったみたいだから無理なのかなあ。


ということで、今日のエントリーでは、銀河英雄伝説4がいかに面白いのか、という点を解説の上、移植ないしリメイクを訴えていきたいと思う。銀河英雄伝説自体を知らない人は読んでみてください。面白いし、田中芳樹先生の作品には珍しくちゃんと完結しているので。


以下、ゲームの話。


銀河英雄伝説4。同名のSF小説の世界観を舞台にした、戦略/戦術SLG。1994年、ボーステックからPC-9801/9821向けに発売。同年に「EX」となるパワーアップキットが同じく9821向けに発売され、1997年にはWindows95/98版も発売されている。

ボーステックからは、元々「銀河英雄伝説」のゲームがシリーズで発売されており、1989年の「銀河英雄伝説」から、MMORPGとなる2004年の「7」まで続いた。ただ、ご存じの方も多いと思うが、「7」は様々な理由(サービスイン時点で5割近い機能が未実装だったりとか)からえらいトラブルが発生しまくりサービス終了。5と6は基本的に戦術モード限定のゲームであったし、3までは戦略要素がそこまでなかった為、「戦略シミュレーション」として完成していたボーステック銀英は実質この「4」のみだった、と言ってしまっていいだろう。銀英ものゲームは幾つかあるが、この「銀河英雄伝説4」があらゆる銀英ものゲームで最高傑作である、と言い切ってしまっても賛同してくださる方は多いのではないだろうか。

参照ページとして、Wikipediaにリンクしておく。


銀河英雄伝説 (ゲーム)


さて、ゲームの話をしよう。



・卿の名は?(戦略編)

銀河英雄伝説4は、言ってしまえば「銀英版三国志」である。

プレイヤーは、ゲーム開始時、「卿の名は?」の問いに答え、自分が操るキャラクターを決める。選択出来るのは少将以上のキャラクター。ヤンやラインハルトはもとより、アッテンボローやミッターマイヤー、ロイエンタールといった同盟、帝国それぞれの名だたる将たち、場合によってはパエッタやボロディンといった渋い役どころから、ブラウンシュヴァイク公やフレーゲルなどというやられ役まで選択することが出来る。

戦略マップは、同盟、帝国それぞれの星系で埋め尽くされている。アスターテやらアムリッツァ、ヴァーミリオンやエル・ファシルといった、原作でもそこかしこで名前が出てきた星系がマップ上にちりばめられているのである。そして、ヤンやラインハルト、ファーレンハイトやメルカッツといった面々には、それぞれ「統率」や「運営」「攻撃」「防御」といったステータスが設定されており、キャラクターそれぞれ得意不得意がある。ヤンは「統率」や「防御」に極めて優れているが、「運営」はからっきしである、とか。ミッターマイヤーは「機動」が最高である、とか。カールセンやモートン、グリューネマンやアルトリンゲンといった、原作ではいまいち影が薄い連中を活躍させることも可能だ。最早、これだけで原作ファンには燃えない要素があるまい。

そして、プレイヤーは、最初に選択した将官に扮して、この広大な戦略マップを、自陣営の色に染め上げる為に活躍したり活躍しなかったりするわけである。

キャラクターには階級があり、その階級次第で「出来ること」は違ってくる。たとえば少将であればまだ一個艦隊を指揮することは出来ず、自分の裁量で動かせる艦隊は限定されている。そこで、戦略的な様々な策を上官に「進言」することで舞台に介入する。例えば「○○と××でこういう艦隊を編成しましょう」とか。「○○艦隊と××艦隊でここを攻めましょう」とか。

進言は、容れられることもあれば却下されることもある。このときも原作通りの会話を垣間見ることが出来、例えばヤンに進言して断られれば「だめ!」と言われたり、シェーンコップが進言を容れられたら「あなたもなかなか物分りのよい方ですな」と上官とも思わぬ口をきくなど、原作ファン垂涎の展開がもうあちこちに埋められている。そして、自分の階級が進んでいけば自分の裁量で決められる部分もどんどん大きくなるし、宇宙艦隊司令長官のような要職につくことが出来れば、それこそ全艦隊を手足のように動かすことが出来る。

ただし、予算の範囲内で。当然のことながら、同盟・帝国いずれも「税収と予算」というものが決められており、軍を動かすには金がかかる。そして、予算がなくなると、艦隊移動ひとつ満足に出来なくなる。この辺りも、実に実に原作通りの展開であって、「補給がなければ戦えるもんも戦えない」という展開が再現されるわけである。

言ってはなんだが、CPUの首脳陣は結構おばかさんなので、放っておくと(これも原作通り)ガンガン無茶な作戦を立てる。フェザーン方面で攻められているのにそっちを放っておいてイゼルローンから逆侵攻しようとするであるとか、おいおいちょっと落ち着け、てなもんである。そこで、プレイヤーキャラクターはなるべく上手に戦略に口出しをして、状況を有利な方に有利な方に持っていかなくてはいけない。

こうして、プレイヤーは、予算や戦況とにらめっこをしながら、戦略ターンを思い通りに進めようとするわけである。例えば、原作通りに同盟側からアムリッツァに大挙進軍することも出来るし、逆にイゼルローンを盾にして専守防衛に走ることも出来る。「防御」に優れるミュラー艦隊の弱点を補うために「攻撃」がmax値であるビッテンフェルトを幕僚につけることも出来るし、フェザーンに侵攻することも当然出来る(その後補給とかにペナルティを食うが)し、場合によってはクーデターや亡命をすることすら出来る。


銀英4全体を通しての最大のキーワードが「原作再現」であることは間違いないだろう。もう、ゲームの作りから展開、コマンド、リップシュタット戦役やラインハルト暗殺未遂のような様々なイベントに至るまで、何からなにまで「原作をなぞった」ものばかりで、それでいて自由裁量は非常に大きい。原作通りの歴史を織ることも出来れば、ifを実現することも出来る。原作の味を濃厚に残しながらここまで広大な自由度を確保するというのも、これは一つの「奇跡のバランス」と言うべきなのではないか。


・卿の名は?(戦術編)

ところで、戦闘シーンもこれまた芸が細かい。

プレイヤーは、基本的に「艦隊」を率いて戦闘に臨む。艦には「戦艦」「高速戦艦」「駆逐艦」「輸送艦」といった様々な種類があり、原作と同じく、プレイヤーはそれらの艦を場面場面に沿って適切に自艦隊に配置しなくてはいけない。そして、戦闘シーンではミサイル、レーザー、近くにあっては空戦や、場合によっては要塞砲などを駆使して敵を撃破しにかかるわけである。

戦闘シーンが完全に上から見下ろしの2D場面であるのは残念とはいえる(まあこれも原作準拠といえなくもないが)が、それを含めても原作ファンの期待にこたえて余りある戦闘バランスである。例えばヤンやミュラーのように防御が高い提督は撃たれても撃たれてもなかなか致命的なダメージを受けないし、ビッテンフェルトやファーレンハイトのように攻撃の高い提督は、一戦で弱兵を壊滅してのける。敵を全滅するか、敵の士気を0にするかで戦闘に勝利することが出来、士気 = 提督の統率の値であるため、「統率」のパラメーターも極めて重要である。

戦場にはイゼルローンやガイエスブルクのような巨大要塞も存在し、これまた原作通り、要塞に正面からぶつかっては戦艦が何万隻あっても足りはせず、片っ端から要塞砲で殲滅されて終わりである。しかし、シェーンコップのような一部将兵が、行動力を溜めて使えるコマンド「占拠」を使えば、原作のように無血で要塞を占領することが出来る。恐ろしい原作再現度である。

また、戦術ターンごとに艦を修理出来る工作艦や、戦闘物資・ミサイルなどの補給が出来る補給艦が超重要なことも、原作を再現している要素の一つといえるだろう。

戦術的にも、例えば待ち伏せあり、包囲戦あり、背後からの奇襲あり、敵の分断ありと、原作でも出てきた様々な場面を再現するに足る、圧倒的な「許容量」を誇っている。その裏に流れるのは、アニメでもマッチっぷりが絶賛された、「ボレロ」など様々なクラシック音楽。これで燃えるなという方が無理な話である。

私はどちらかというと同盟スキーなのでボロディンやウランフといった面々を活躍させることが多いが、誰を使ってもゲームはクリアまでもっていける辺り、つくづくこのゲームの戦闘バランスは素晴らしいと思う。ただ、これも原作と同じく、基本的に同盟より帝国の方が優秀な提督が多いし、シナリオが先に進めば進む程帝国側にバランスが傾いていくので、そこをひっくり返すにはかなりの努力を強いられる。原作のヤンの苦労がよくわかるわけである。



ということで長々と書いてきたが、私が言いたいことは

・徳間書店でもどこでもいいから一刻も早く銀英4をリメイクするか、せめて今のWindows対応で再販すべき

ということであって、他に言いたいことは特にないことを付け加えておく。

今日はこの辺で。

posted by しんざき at 23:43 | Comment(3) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月05日

レトロゲーム万里を往く その110 ドラえもん

形を変えた「チャレンジャー」なのではないか、などと思うわけなのである。



実は、私にとってはドラえもんはライバルである。私は、ファミコンにおけるハドソンの三大名作は「迷宮組曲、ボンバーマン、サラダの国のトマト姫」だと考えており、かつその中でもトップは迷宮組曲だと考えており、迷宮組曲がハドソンゲーでありながら当時あまりピックアップされなかった理由は、「高橋名人の冒険島(1986年9月12日)」と「ドラえもん(1986年12月12日)」という二大ミリオンセラーに挟まれていたからではないか、と思い込んでいるからである。

とはいえ、勿論ファミコン初期におけるハドソンの存在は巨大であり、後々「ドラえもんゲーに外れなし」と一部のファミコンゲーマーに言わしめるに至った、そのスタート地点である本作の存在は、やはり無視出来るものではない。


「ドラえもん」。アクションゲーム・シューティングゲーム。1986年12月12日、ハドソンよりファミコンで発売。「ステージが進むごとにゲームが全く変わる」ということが一つのウリとされており、全体的に底堅い面白さと、当然のように強力なタッグを組んだコロコロコミックの販促などもあり、110万本以上を売り上げるミリオンヒット作となった。

当時キャラクターゲームに注力していたメーカーはいくつかあるが、国民的キャラクターである「ドラえもん」のゲームがバンダイではなくハドソンから発売されたことには、勿論コロコロコミックとハドソンの緊密なタッグが背景にあったことではあろうが、なかなか興味深い現象だったと思える。ハドソンは90年以降、「桃太郎」や「ボンバーマン」「高橋名人」などの一部のキャラクターを軸にしたゲームに注力し続けることになるわけだが、その遠因には「忍者ハットリくん」やこのゲームによる成功体験があったりするんじゃないかなあ、と私は考えている。

1987年以降、「ミッキーマウス不思議の国の大冒険」や「桃太郎伝説」を境に、ハドソンが徐々にPCエンジンに軸足を移していったことを考えれば、「ハドソンがファミコンのみに注力していた時代の、終わり間際の作品」としてこのゲームを捉えることも出来るかも知れない。


参考ページとして、Wikipediaのページを挙げておく。

Wikipedia:ドラえもん (ファミコン)


さて、ゲームの話をしよう。


・常識はずれの「ゲームのバラエティ」。

ゲームとしての「ドラえもん」の最大の特徴は、やはり「ステージによってゲームが変わること」だといえるだろう。

ワールド1、「開拓編」は、ゼルダのようなトップビュー画面と、マリオのようなサイドビュー画面が入り混じった探検型アクションゲーム。

ワールド2、「魔境編」は、縦スクロールと横スクロールが入れ替わり立ち代り出現する、まるで「沙羅曼蛇」のようなシューティングゲーム。

ワールド3、「海底編」は、持てる数に制限のあるアイテムを入れ替えながら、ボス敵のいる部屋を目指すパズル的アクションゲーム。

まさしく子供向け番組の展開のように、「とにかく子供を飽きさせない」という思考が、そのゲーム作りの基底にあったのではないか、と私は考えている。

どのステージも、正直単体でみればそこまで強烈な印象はないが、それぞれはっきりとした「ウリ」をアピールしていたのが印象的だった。

例えば開拓編であれば、様々な隠しアイテムを軸にした探索要素とパワーアップ要素。最初は攻撃手段すら持っていないドラえもんだが、「ショックガン」や「空気砲」「強力うちわ」などを見つけることが出来ればどんどん攻撃手段がパワーアップするし、あちらこちらに隠された「ドラやき」や「キャンディー」「ミルク」などを集めていけば、体力が回復したり弾数が増えたりといった特典を得ることが出来た。

基本的には、開拓編の「ウリ」は「宝探し要素」だった、といってしまっていいと思う。複雑な手順を踏まないと出てこない「隠しキャラ」なども用意されており、雑誌とのタイアップによって情報を小出しにファミコン小僧達を釣る、伝統の隠しキャラ商法も黄金期だった筈だ。

一方、「魔境編」ははっきりと「グラディウス」を意識した、オプション(ジャイアンやスネ夫)を生かした地形との戦い、という要素が主軸だったと思う。巧みに弾を回避し、地形をかわし、敵を狙い撃つ、古きよき横シュー伝統の操作感が二面のウリだ。敵の攻撃は正直開拓編よりも遥かに激しく、ノーダメージで進むのは至難の業だ。当時のファミッ子の中にも、「魔境編をクリア出来ない」という子は割りといたと思う。

そして、最終面となる「海底編」も、これまたかなりの高難度だった。小部屋が幾つも連なった迷宮状のマップ。先に進むための「通り抜けフープ」や「カギ」「お守り」などのアイテムと、通常は一個、取り寄せバッグを持てば二個という、持ち運べるアイテムの個数制限。迷宮のあちこちに閉じ込められているのび太、スネ夫、ジャイアンを連れてこなくては最後の鍵を開けることは出来ず、中ボスであるオクトパスは強力で、しずかちゃんの前に立ちふさがるラスボスポセイドンの攻撃も激しい。難度だけから言えば、当時中学生のお兄ちゃんくらいでもそれなりにてこずったのではないだろうか。

一見ソフトなキャラクターものの中に、明確に用意された「展開の多彩さ」「面ごとのアピールポイント」「様々な隠しキャラ」「面を追うごとに増してくる難度」などの要素。見えてくるのは、「ターゲットとなる子供たちにどうやって飽きずに遊んでもらうか」「雑誌とのタイアップをどう生かすか」という、明示的な「ゲームを売る」戦略だ。この当時、ファミコン業界の中心の一角を担っていたハドソンの、一つの本気がこのゲームに表現されている、と考えるべきではないだろうか。

ドラえもんというと、とかく海底編のドラミちゃん出現裏技が取り沙汰されやすいが、ここにも「意図的に裏技を仕込むことによる広告戦略」があったのではないか、と私は考えている。マイクには「ハドソーン」と叫ぼうが「ファミマガー」と叫ぼうが結果は同じなので注意が必要である。



・多彩展開のご先祖様は?

ちょっと、時代背景の話をする。

この当時、1986年という年は、「RPG」というジャンルが強力な力を備え始めた、言ってみれば過渡期だった。ゲームの大容量化に伴い、アクションゲームの主軸も、「ワープマン」や「クルクルランド」のような固定画面型アクションゲームから、「東海道五十三次」や「がんばれゴエモン」「影の伝説」のようなスクロールアクションへと移り変わっていた。ゲームは長くなり、当然のことながらゲーム自体も複雑さを増してきていた。それでも、「ステージが進むごとにゲームが完全に変わる」というゲームは、当時はっきりと異色だった筈だ。


さて、「ステージが進むごとにゲーム展開が変わる」という点で、ファミコンにおける草分け作品はなんだったろう?


厳密を期すならば、ここでは「デビルワールド」あるいは「ハイパーオリンピック」の名を挙げるべきなのかも知れない。しかし、私はこう思う。「展開の多彩さ」をファミコンに初めて持ち込んだタイトル、それは「チャレンジャー」なのだ、と。

チャレンジャーは、いわずと知れたファミコン初期の名作アクションである。ハドソンから発売されたのが1985年10月。「インディ・ジョーンズ」を意識していると思われる、考古学者の主人公「チャレンジャー」が挑むのは、「ブラッディワッカー」のボスドン・ワルドラド。

「チャレンジャー」においても、ハドソンは「ステージごとにくるくると変わるゲーム展開」を用意していた。ステージ1は、暴走する列車の屋根の上と車内を進む、サイドビュー横スクロールアクション。ステージ2は、トップビューの探索型アクション。ステージ3と4は、固定画面内でアイテムを集めるダンジョン探索アクション。


私は、「ドラえもん」の原点は「チャレンジャー」にある、と思う。根底にある、「展開を多彩にすることで子供を飽きさせない」というハドソン共通の精神。むしろ「チャレンジャーでは出来なかったことを詰め込まれたのがドラえもん」という要素も、全くないとは言えないのではないか。


・ところで魔境編のステージ2のBGMがめっさいい曲なんですが。

【楽譜】ファミコン版ドラえもん 魔境編その2

なんか明らかにこの曲だけ他のアニメ調の曲と雰囲気違うんですが、なんなんでしょうコレは。ここだけ作った人違ったりしないですか。


ということで、また随分長くなってしまったので今回はこの辺りで筆を置く。次回はまたもうちょっと時代を下るかも。
posted by しんざき at 23:27 | Comment(1) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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