2007年12月05日

レトロゲーム万里を往く その72 SDガンダム ガチャポン戦士2 カプセル戦記

武者ゼータを倒せる気がしない。


おかしい。何かがおかしい。私が得意とする戦術は元来遊撃戦であって、主戦線から外れた所でこっそり百式やR=ジャジャ辺りを進軍させておいて、長駆敵の本陣をつくのが勝ちパターンであった筈である。百式級が3体もあれば、昔なら勝負はついていた筈なのだ。

ところがどうだ、百式3体はビームナギナタとファンネルの前に一矢すら報いずに圧殺され、敵陣のガチャベースで急遽生産してきたドライセンは敵のバリアを外すことも出来ずに2秒で瞬殺、あまつさえνガンダムすら余裕で食われた。これは一体どんなチートだ。それとも武者Zにダグラス・カイエンでも乗っておるのか。続き描け、いや描いてください永野護。

まあ分析するに、今考えるべきは「私がファンネルつきのMSにからきし勝てなくなっていること」ではなく、「「作戦名星一号」というマップに何故ギラドーガがわらわらひしめいているのか」ということですらなく、百式やリックディアスが自力で大気圏を離脱出来るのはちょっとどうなんだ、ということなのである。いや、私が知らないだけで、ちょっと根性入れればザクでもグフでも大気圏の一つや二つ離脱出来るのか知らんが。


ということで、今回は一見するとガンオタっぽい用語が飛び交いますが、すいません、実はしんざきあんまりガンダム見たことがありません。私の知識は基本的に、ゲーム版のSDガンダムシリーズとWikipedia由来です。なるべくボロが出ない様気をつけて知ったかぶります。

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2007年10月24日

レトロゲーム万里を往く その71 俺達がレトロゲームから間違って教わったこと


ROMカートリッジには、人生を誤解させる内容がたくさん含まれている。

そう、俺達は忘れていたんだ。人生は8ビットだけで構成されている訳じゃない、ウソテクも含まれているんだってことを。


・ファミコンジャンプが俺達に間違って教えたこと

よく訓練されたゴールキーパーはサイヤ人や北斗神拳伝承者を瞬殺出来る。


・三國志が俺達に間違って教えたこと

郭図は顔良より強い。

世の中の大抵のトラブルは火計で解決する。

訓練は他にすることがない場合にやること。


・ロックマン3が俺達に間違って教えたこと

スライディングをすると歩くより速い。

崖に落ちても、2コンの左キーを押しっぱなしにすれば何とかなる。


・ゼビウスが俺達に間違って教えたこと

どんなに堅いものでも、256発殴れば壊せるよ!壊せるよ!


・魔界村が俺達に間違って教えたこと

墓場はデートスポット。

パンツ一丁で敵に攻撃されると人は白骨化する。


・ドラゴンバスターが俺達に間違って教えたこと

人間はどれだけ高い所から落ちても割と平気である。


・スーパーマリオブラザーズが俺達に間違って教えたこと

人間はどれだけ高い所から落ちても割と平気である。


・けっきょく南極大冒険が俺達に間違って教えたこと

よく訓練されたペンギンは、素で走っても音速を越える。


・ぺんぎんくんWARSが俺達に間違って教えたこと

ビーバー >>>>>>>>>>(越えられない壁) >>>>>>>>>>> パンダ


・忍者龍剣伝やシャドーダンサーが俺達に間違って教えたこと

忍者たるもの、単身敵に突っ込んで、二百や三百全滅させてなんぼ。


・ファミリーベーシックが俺達に間違って教えたこと

インタプリタ用のスタック領域は、ゲームを作る場合にはためらわずにがんがん使うべき領域。

出来る限りコードは省略するべきもの。コードの再読性などというヌルいものは不要。


・キャプテン翼2が俺達に間違って教えたこと

語尾に「たい」をつければ大体の日本語は九州弁になる。

よく訓練されたストライカーは、シュートを打った時ゴールキーパーを含めた4人を吹っ飛ばして、ゴールのネットを突き破ることが出来る。

ドライブシュートが許されるのはグレミオ戦までよねー。キモーイ。

って、「ドライブシュートは俺には効かないぜ」ってサッカーの台詞としては何か間違っている様な気がする。テニスの王子様って実はゲーム版のキャプテン翼を参考に書かれてないか?


・るろうに剣心が俺達に間違って教えたこと

二重の極み。


最後のはレトロゲームと関係ない気もするな。

前回の続き

すいません、次回から普通の万里に戻ります。

posted by しんざき at 12:57 | Comment(5) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月20日

レトロゲーム万里を往く その70 レトロゲームが俺達に教えてくれたこと。

人生において大事なことは、みんなROMカートリッジが教えてくれた。

そう、俺達の人生は、実は8ビットで出来ているんだ。


・迷宮組曲が俺達に教えてくれたこと。(人生の基本編)

結局のところ、世の中金である。

手っ取り早く大金を得るには裏技を使うしかない(コンティニュー連打楽器箱)。

音楽は人生に潤いを与えてくれる。

潤いは所詮、金である(音符をお金に換算)。

井戸の中に落ちると超危ない。

雷に当たると超危ないけど、まあ二、三回なら案外なんとかなる。

人気があるヤツの真似をすると話題になる。(タイトル画面で高橋名人的連射)


・ウィザードリィが俺達に教えてくれたこと。(人生の厳しさ編)

首をはねられると大抵のヤツは死ぬ。

人は基本的に一人では生きていけない。(あっという間に死ぬから)

でも、ある程度以上強いヤツなら一人でも十分生きていけたりする。

人間の善悪なんて、選択一つでころころと変わる程度のものである。

人間、どんなヤツでも死ぬ時は死ぬ。ロストする時はロストする。

げんこつを食らうと即死する。

見た目が可愛いと思って油断していると首をはねられるから超危ない。(ボーパルバニー)


・ロックマン2が俺達に教えてくれたこと。(人生の交渉術編)

目的を達成するには根回しが重要である。(ボスを倒す順番)

交渉事をクリアするには、相手の弱点を的確につくべき。

役に立たないと思っていた人が、最後の最後で凄い働きをすることがある。(バブルリード)

ラスボスだと思っていた人を乗り越えても、必ずその後にもう一人真のラスボスがいる。


・シティコネクションが俺達に教えてくれたこと。

車の運転超危ない。

猫をいじめると呪われる。

パトカーを怒らせない方が人生平和である。


・ドラゴンズレアが俺達に教えてくれたこと。

時にはあきらめることも必要である。


・コンボイの謎が俺達に教えてくれたこと。

時にはあきらめることも必要である。


・ツインビーとファンタジーゾーンとグラディウスが俺達に教えてくれたこと。

スピードの出し過ぎは死ぬから超危ない。


・アイスクライマーが俺達に教えてくれたこと。

ヤラレル前ニヤレ。


・スペランカーが俺達に教えてくれたこと。

薬物ダメ。ゼッタイ。(死ぬから)

エレベーターから飛び降りるのは超危ない。

爆弾が爆発する時に同じ画面にいると結構死ぬ。

人間、つまづいて転んだだけで死ぬ時もある。

洞窟に安易な気持ちで入ってはいけない。(死ぬから)

職業選択をミスると色々と苦労する。


・俺達が高橋名人に騙されていたかも知れないこと。(16連打編)

高橋名人の16連打すげえ!というプロパガンダ。

毛利名人の14連打も、速度では高橋名人には劣るけど正確性ですげえ!というプロパガンダ(良く考えると連打の正確性ってなんだろう)

いつの頃からか、「人間の限界は16連打」的な無意識的限界値を植えつけられてしまっていた俺達

実はちょっと頑張れば18連打くらい簡単にいけるんじゃないか?←今ここ

連射測定機で死ぬ気で連射してみる

結果が9連打で絶望する。



最後のは何か違う気もするな。

次回は「レトロゲームが俺達に教えてくれなかったこと」の予定。(かどうかは知らない)

(追記 07/10/24)------------------------------------------
続き。

posted by しんざき at 14:46 | Comment(9) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月02日

レトロゲーム万里を往く その69 サラダの国のトマト姫と、ハドソン帝国の盛衰



すいません、「サラダロンに食わせる」っていうコマンドないですか?>柿っぱち
(インゲンボムを食わせる>柿っぱち でも可)

アドベンチャーゲームにおける助手の必要性、というものにはちょっと論じる価値があるんじゃないかと思う。古くはポートピアにおけるヤスに始まり、デッドゾーンにおけるフォジー、さんまの名探偵におけるさんま、ミシシッピー殺人事件のワトソンからメタルスレイダーのエリナに至るまで、無口無反応な主人公に代わって感情表現をしてくれる助手は古今東西たくさんいる(エリナはちょっと違うが)。

そんな中でも、勝手に荷物持ちをして片っ端から所持品を落としてくれる柿っぱちはなかなか異彩を放っている。PC版ではいなかったんですよこいつ、覚えてますか?


まあ、置いといて。


サラダの国のトマト姫。アドベンチャーゲーム。1988年5月、ハドソンよりFC版発売。1984年に発売された同名の8ビットPC版タイトルの移植であり、「デゼニランド」からの路線であったシークワード式のゲームから、殆ど別物に近い程のアレンジが施されていた。

登場キャラクターは二人を除いて全員擬人化野菜、主人公はキュウリの戦士でお供は柿の少年「柿っぱち」、トマト姫からナスの護衛に至るまで、世界観はメルヘンチックに統一されている。当時、その特徴的なビジュアルから、女の子への人気も割と高かったという話を聞く。

特筆すべきは、どの場面をとっても素晴らしいBGMと「とんがった」部分の無い丁寧な語り口とビジュアルで、派手な印象こそないが非常に高いレベルでまとまったAVGだった。PCものの移植ということを考えても、そのアレンジ具合は「最適化」というにふさわしい。迷宮組曲と並んで、ハドソンオリジナルタイトルの傑作と評するべきだろう。

後述するが、ハドソンのゲームって、キャラクターもの(高橋名人含む)とそれ以外のゲームの出来の差が総じて激しい様に思う。ファンの方には申し訳ないが、私にはBugってハニーとこのゲームを同じメーカーが作ったとはとても信じられない。

画面写真を参照出来るサイト様があった。ちょっと引っ張ってみる。
サラダの国のトマト姫(ファミコン版)攻略チャート

取り敢えずゲームの話をしよう。

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posted by しんざき at 19:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月08日

レトロゲーム万里を往く その68 シリーズものゲームの「追加」「複雑化」を科学する。

ちょっと予定変更。今回はちょっと個別タイトルを離れて、ゲーム業界に大氾濫している「シリーズもの」の展開について、古きを思いて新しきを知ってみようぜ、というお話。


およそ、シリーズものが陥りやすい罠は、「複雑化・高難度化して客・新規離れ」に尽きる。

大体において、続編が作られる様なタイトルには、ある程度以上の数のファンがいるに決まっているのだ。当然ファンは、前作・元祖の記憶を引きずりながらも、前作以上の面白さを期待する。

この「記憶」というのが厄介だ。シリーズものの優位な点は「前作が面白かったから今度も面白いだろう」という意識に他ならず、前作が好きだった人こそが最大のマーケット、という事情の故に、あまり根本的にゲームを変える訳にもいかない。

一方で、開発者は「なんだよ、前作と全然変わってねえじゃん」とか「前作の方が面白かった」などという期待外れとも闘わなくてはいけない。

つまり、「前作の面白さ」は強力な武器であると同時に、最大の敵でもある。

変え過ぎてもいけないし、そのまんまでもいけない。

この過酷な縛りの為に、多くの続編は「前作を大きくは変えずに、色んな要素をちょこちょこ追加していく」という方針で作られざるを得なかったのだ。シリーズものが複雑化していくのは、実は宿命的な問題なのである。

じゃあ、この宿命から逃れる為にはどうすりゃいいんでしょ、という話になる。多分方法は二つしかない。「丁度いい範囲での「追加」を模索する」か、「「追加」以外のゲームの作り方を考える」の二通りである。

順番に考えてみよう。


1.丁度いい「追加」を考える。


上の縛りにハマった典型的な例が、多分格ゲー業界だろう。多くの格ゲーのシリーズものは、「基本的には変わらないシステム+次から次へと新要素」という作られ方をしていって、最後には肥大した追加要素に耐え切れずに自沈していった。

といっても、およそあらゆるシリーズものの初期には、成功した続編がつきものである。格ゲーの場合、スト2ダッシュやターボのヒットがなければ、業界そのものが成立しなかった。何で「初期の続編」はヒットするかというと、変化の「相対量」は大きいけど「絶対量」が少ないからだ。

スト2ダッシュの例で言うと、実はあのゲーム、ちょちょいとバランスがいじられて四天王が追加されただけで、後は殆ど前作と変わらなかった。それでも空前の大ヒットをした理由は、当時は「その程度の変化だけで十分驚天動地の変化だったから」に他ならない。

絶対量で見ればそれ程変わっていないので、前作ファンがこぞって100%楽しむことが出来る。相対量では物凄く変わっているので、前作ファンがこぞって「前作よりすげえ」と感じることが出来る。ドラクエやFFの二作目三作目も同じ様な事情だった。

つまり、「追加要素」という道を選んだ時の理想的な続編とは、「相対量では大きな変化だけど、絶対量で見るとそれ程でもない」という作り方である、ということがまずはいえそうだ。


これ、言うまでもなく難しい。シリーズが重なれば重なる程、一作品辺りの「変化の相対量」は目減りしていく。ちょっとやそっとの変化量ではユーザーを誤魔化せなくなっていく開発者は、ガンガン追加要素を加えていかざるを得ない。KOF然り、飢狼しかり。この辺考えると、格ゲー業界の最大の悲劇は「それ程システム的に発展性はないのに、続編作りまくって引っ張り過ぎました」という一点に尽きる様な気がする。

ちなみに、RPG業界も似た様なことになっている様な気はする。こっちは、システムの複雑化というよりはプレイ時間の増加が敷居を高くしてる様にも思うけど。


と、あんまり意味がないなあと思ったところで、もう一つの手法。


2.「追加」以外での続編の作り方を考えてみる。

幸いなるかな、われわれは過去の例を考えてみることが出来る。続編でゲーム性ごとものすげえ方向転換をしてみましたというタイトルは、かつて星の数程存在した。

この変遷をジャンルごと体験したのは、おそらくアドベンチャーゲームだろう。ポートピアの時にも書いたが、かつては「単語探しゲーム」だったアドベンチャーゲームは、ある時期を境に「コマンド総当り+テキストを楽しむゲーム」という凄まじい方向転換を行った。代表的な例が「サラダの国のトマト姫」だろう。

この変化は、コマンドに対応するテキスト量の純増という方向に向かい、更に方向性を突き詰めた「サウンドノベル」に流れこんでいくことになる。これは、変化というよりは単純化という方向に向かったゲームの好例であり、何かの解決法がここにあるんじゃないか、とか漠然と感じるところがある。

「パックマン」→「パックランド」の方向も瞠目するべきものがあった。ドットイートゲームにさくっと見切りをつけて、作られた横スクロールアクションは珠玉の職人芸。ワルキューレの冒険→伝説の例も鑑みると、ナムコの底力を感じずにはいられない。ファミスタ?知らん。

SDガンダム2(戦闘画面はアクション)→SDガンダム3(ガンダム版大戦略)の変化も大きかった。評判はいまひとつだったのか、SDガンダムXで元の鞘に納まった時は大評判だったけど。ああ、先祖がえりって手法も有用かも知れないな。


と、ここまで例を挙げてみるとお分かりかと思うが、われわれは当然源平討魔伝にも触れる必要があるだろう。アーケード版での超ド級和風アクションが、どういう訳かボードゲーム風RPGへの華麗なる転進。あれは衝撃的な続編だった。私自身は、「月風魔伝」が既に発売されていたということが、このゲームが生まれた理由ではないかなーと想像するのだが、まあ細かい話はこちらをご参照頂きたい。

あ、そろそろこの項の結論出す時間ですか。そうですか。続編の作り方に困ったら、いっそ全部国取りボードゲーム(フィギュアつき)にしてしまうというのが斬新でいいんじゃないかな、って感じで。



・まとめ。

ということで、変化が大き過ぎてもいけないし、小さ過ぎてもいけないし、いずれにせよ複雑化し過ぎるとまずいよね、ということになると開発者さんの苦労が偲ばれる。

取り敢えず、アドベンチャーゲームが辿った「ゲーム性転換→単純化」という道は、ちょっと他のジャンルとは違う様に思えるのだな。つまり、足し算ではなく、引き算の続編という可能性だ。

次回万里では、ハドソンの例のアレなんかを主題にして、この辺についてもうちょっと考えてみたいと思う。
posted by しんざき at 18:18 | Comment(8) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月01日

レトロゲーム万里を往く その67 ダウンタウン熱血行進曲 それゆけ大運動会

「ば、馬鹿な、この俺を道連れに!」
「こ、今度ばかりはタネはありません。ほ、本当にさよならです!!」
「すがたーーーっ!!(爆弾パンチでごうだを巻き込んでリングアウト)」


このゲームに対する個人的イメージ。



正直なところ、テクノスジャパンすげー勿体無かった。

FC中期〜後期において、データイーストから分派した彼らが作ったアクションゲーム・スポーツゲームって凄い質が高かったと思うんだけど、どういう訳か「ダブルドラゴン」「くにおくん」以外のタイトルでは鳴かず飛ばず。

その二つのシリーズにおいても、SFCでの華々しいスタートに若干失敗した感のある「くにおたちの挽歌」、落ちものに特攻して撃沈した「くにおのおでん」、完全な対戦格闘となったけど微妙に外してしまったネオジオ版「ダブルドラゴン」辺りで失墜し、二大看板を失ったテクノスジャパンはさくっと倒産してしまった。

「ファイナルファイト」系のゲームだけでは生き残れないという経営判断があったんだと思うんだが、ダウンタウンシリーズであそこまで明確に培ったノウハウがあったのだから、いっそSFCでもデフォルメ系アクションゲーム路線に突っ走れば良かったんじゃないかとか強く思う。いや、すごろクエストも割と好きでしたけどね。

それはそうと、「熱血行進曲」についてである。
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posted by しんざき at 22:10 | Comment(6) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

リフレインというものが好きだ。


GダライアスのEDで、初代ダライアスの「Boss7」のメロディが流れるのが好きだ。

雷電IIで、長い長い弾除けと撃ち込みの果て、最終面で突如2面のBGMが流れるのが好きだ。

「ワルキューレの伝説」のEDで、「冒険」のメロディが流れるのが好きだ。ドラクエIIのオープニング音楽が、IIIのエンディング前で初めて流れるのが好きだ。ギアガの大穴に落ちた後、突如流れ出すアレフガルドの曲が好きだ。FF9で、不意打ちの様に流れる「ウネとドーガのテーマ」が好きだ。

悪魔城シリーズで、初代のBGMがこれでもかとアレンジされまくる、あざといまでの演出が好きだ。

ガンフロンティアの5面ボスで、突如一面のBGM「砂漠の山嵐」が流れるのが好きだ。好き過ぎる。熱くて死ぬ。


音楽用語としての「リフレイン」の正確な意味がどうなのかは知らんが、んなこたまあどうでもいいのだ。「以前に聴いたフレーズが、様々な展開を挟んで再び流れ出す」という演出が、とにかく私は好きなのである。


ということで、何で好きなのか、ということを自己分析してみたよ。


・BGMというものは、視覚と結びついて非常に深く記憶に残り易い。

・昔そのBGMを聴いていた頃の、「楽しかった記憶」とか「大変だった記憶」とか「グレートシングとの戦いの記憶」とか「2面でボムを使い切って雑魚敵の高速弾に瞬殺された記憶」みたいなものが頭の中に去来する。

・「うおお、こう来たか」みたいな混沌とした感嘆。

・目から塩水。



ただ、この「好き度」は、いき過ぎると「○○の音楽がアレンジされているって!?買う」などという、食い物にされやすいレトロゲーオタの典型の様な行動を示してしまい勝ちになりそうな気配もある。


結局、「昔の思い出がプラスの電荷を帯びている人というのは、割と安く食い物に出来る」という結論が出せそうな気がしないでもない。レトロゲーオタって軽く昔のBGM挟んでおくと勝手に感動してくれるから楽だよね、みたいな。


いいじゃねえかよ別に。奇々怪界2作れこの野郎。

posted by しんざき at 19:26 | Comment(3) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

レトロゲーム万里を往く その66 セクロスの悲哀と、主にバイクゲーのヨタ話。

まず最初に、あなたはGoogleの検索結果を参照するべきだ。そして、画面に示される惨憺たる事実に、衝撃を受ける必要がある。


そもそも、キミらニチブツに申し訳ないとは思わんのか。1ミリグラムも思わんのか。


移植・開発なんでもござれ。クレイジークライマーを、ムーンクレスタを、テラクレスタを、そしてF1サーカスを世に送りだしてきたニチブツに対して、私は暗く深い哀惜の念を禁じえない。

一体ニチブツが何をしたというのだ。ラクロスの巻き添えをくらってしまったとはいえ、代表作の一つが性行為の言い換え語に使われてしまう様な、そこまで悪いことをニチブツはしたのだろうか?結構面白いゲームだったんだよ?セクロス。なんつーか、俺たちがエキサイトバイクで感じていた、「チクショウ、今弾撃ってこいつ撃破出来たらすげー気持ちいいのになあ」という類の野望を満たしてくれるゲーム、みたいな感じで。

そう、セクロスはまさに「諸行無常版エキサイトバイク」とでも言うべきゲームだったのだ。エキサイトバイクでは轢かれても轢かれても平気な顔でバイクの元に駆け戻っていたあの連中が、セクロスでは壁にぶつけられただけであっさりと爆発炎上して影も形も見えなくなる。

エキサイトバイクで広まった、「ああ、バイク乗りって基本サイボーグなんだね、強くてカッコイイ!」などという危険極まりない誤解を、セクロスは「あ、やっぱり人間高速で壁に激突すると死ぬんだ、そりゃそうだよな・・・」とか「やっぱりバイクって後ろから射撃されまくると爆発するんだ、そりゃそうだよな・・・」という正しい認識に矯正してくれたのだ。これによって、当時バイク乗りを目指していた何人の少年が救われたことだろうか。

正味な話、「エキサイトバイクに憧れて二輪免許をとった人」よりは、「セクロスに憧れて二輪免許をとった人」の方が遥かに適性が上なんじゃないかと私は考えるのだ。一方はジャンプ台と見ると突っ込んでお空をカッ飛ぶところ、一方は「弾避け」の概念を学習しているから通行人を巧みに避けることも可能。母数がそれぞれ何人いるかは知らんが。
後にマッハライダーまで発売してバイク乗りの不死身っぷりを喧伝した任天堂に比べると、ニチブツは国土交通省に表彰されてもいいくらいなんじゃないかと思う(思わない)。


っていうか、任天堂は何故あそこまでライダーを不死身にしたがったんだろうか。ものすげー勢いで100メートルくらい大ジャンプして、着地に失敗して5回くらい前転しても平気な顔してバイクに駆け戻る(ボタン連打で加速)エキサイトバイク。1ドットでも岩石に触れるとライダーごとバイクが大爆発するけど、何故か一瞬後には分割されたヒトデの如く集合・再生するマッハライダー。当時の任天堂の中の人たちには、仮面ライダーV3か戸愚呂兄が含まれていたに違いない。


と、まあ、話が凄絶に逸れまくったが、一体何の話だっけ。ああ、一般語化の話だったな。


ゲームの一般名が「ファミコン」となってしまったことと微妙に似て非なる例は、レトロゲーム業界でも割と頻繁に見られる。つまり、いつの間にやら一般的な言葉・現象として定着してしまったが、元ネタが何だったか知らない人も多い、という現象だ。セクロスはまさにこの現象に見舞われたのである。発祥の経緯はちょっと違うみたいだけど。


プロ野球の多村仁のことを「スペランカー」と呼ぶ慣わしは、昨今元ネタを良く知らない一般の人にまで及んできた様子だ。パックマン買収も証券の世界では既に一般語である。


フジテレビがバレーボールのイメージキャラクターにパチ夫くんを採用したことは記憶に新しいし、「竹槍をとると死を招く」という都市伝説はいまや世界的に広まっているし、数理学会にはゼビ数字の元ネタがゼビウスだと知らない人が結構いるらしいし、バントでホームランはすっかり一般的なテクニックになってしまった。一般化は母体が大きければ大きい程影響が巨大であるというが、ファミコンの市場がいかに一般に膾炙していたかが分かろうというものである。

っていうか、このエントリー4月1日の日付にしといた方がいいかしらん。←ダメなブログ運営の例



一応参照URLを挙げておく。
セクロス(YouTube)
エキサイトバイク(Wikipedia)
マッハライダー(ファミコン探偵ブログ)


ところで、ニチブツって最近何やってるんだろう。企業沿革もないし年間売上は20億円のままになってるし、ホント謎。

posted by しんざき at 11:59 | Comment(6) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月09日

PS3版塊魂発売中止の話から、ハード間紛争の話を懐古してみる。


考察とかではなく、まあ、感傷。

発売中止になるPS3版「ビューティフル塊魂」

なんだか、ひどく懐かしいものを感じた。しっくりくる、というのかな。こうこなくっちゃ、って言うと語弊がありそうだけど。


最近の「ハード信者の宗教論」に関して、何故だか妙に空疎なものを感じていた。ソフトがなければゲーム機なんてただの箱、というのは当然の前提であるにしても、どうせユーザーから見たハードの格差なんて大したもんじゃないのに、一体何頑張ってんの、という感覚があったことは確かだ。


かつての「ファミコン→スーファミ」「PCエンジン」「メガドライブ」の三つ巴時代を思い出す。懐かしいといっても、それはどちらかというと中学時代のグループ間抗争ごっこを振り返る様な、余り好んで触れたいとは思わない、なまぐさくて生ぬるい懐かしさだ。

ゲーム雑誌の発売予定タイトル一覧は、修羅場だった。

「マルチ展開って何スか?」という時代だった当時の雰囲気。業務用のタイトルが移植されると聞くと、どのハードの所有者も一様に味わった息が詰まる様な思い。FCのスプラッターハウスとPCEのそれを比べた際の、なんともいえない絶望感と高揚。ドラクエ3の所有者が感じた視線と、「メガドライブって最近どんなゲームが出てるの?」と聞かれた時の、次に口を開いたヤツが死ぬ、と言わんばかりのロシアンルーレットな空気。X68000所有者の、ごく当然に醸造される選民意識。

ハード間の性能には絶対的な差があって、商売の上手い下手にも絶対的な差があって、発売されるタイトルにも絶対的な差があった。メガドラ所有者とSFC所有者は、それこそ異次元の住人同士だったのだ。

あの頃の話なら分かる。ゲーム好きにとって、異なるゲームハードはまさに「敵」だった。ハード間の有利不利、強み弱みが絶対的なものだった時代、ナムコの業務用アクションはPCエンジン、セガゲーはメガドライブでしか「遊べなかった」時代だ。当時の家庭用ゲーム業界の盛り上がりというのは、それこそハード間紛争抜きでは語れない。

冒頭のニュースを聞いて、なーんとなく、あの当時の頃のことを思い出した。あのタイトルがあっちで出るとかあっちでは出ないとか。「完全移植」などという言葉が死語になった今、サードパーティーの参加有無以外のレベルで、こんな話が出てくるのは割と新鮮だ。


ちょっと話は変わる。

懐古上等で敢えて言うなら、家庭用ハードの性能は低いままだった方が、もしかするとゲーム業界には良かったんじゃないか、とか思う。

家庭用ゲーム機の性能がアーケード業界に軽々と追いついた時、「移植タイトルの出来・不出来」というハード間の紛争要因も消失した。技術制限の元に試行錯誤で生まれた、突然変異的珍妙タイトル群も姿を消した。周の世に帰れなどと言うつもりはないが、例えばセガの様な「世間一般のセンスから微妙にズレた技術力とアイディアだけで勝負」的な集団は、ある程度混乱したレース場でしか生き残れなかったんじゃないだろうか。


現状、ハード間の性能差というものは、既にユーザーの手の届かない位置にしか存在していないと思う。性能的には移植出来ないタイトルなどというものは存在せず、それ以前に、ゲーセンのタイトルは既に起爆剤の地位から失墜している。

「満たされない状況でこそ発生するパワー」というものが、かつてはあったと思う。ゲーム業界における童貞力、みたいなもんか。ゲームの面白さに「制限要因」が必要不可欠であるのと同じ様に、ゲーム業界にも性能の低さという「制限要因」は重要なスパイスだったのではあるまいか。


ハード間紛争の話も一つだが、例えば源平とかアルゴスの戦士の様な、「制限された性能の中でアレコレ工夫してみました」的なゲームが最近見られなくなったのは、なんとなく寂しかったりもする訳である。

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2007年06月28日

レトロゲーム万里を往く その65 あるゲーセンの記憶

ちょっと一人語りをする。


昔住んでいた家の近所に、「キャビン」という名前のゲーセンがあった。


キャビンは、私がいた当時、既に「ちょっと古びた」ゲーセンだった。体育館をミニチュアサイズにした様な、屋根の鉄骨が剥き出しになっているボロい建物で、中には1ゲーム50円のゲーム筐体がずらっと並んでおり、プライズゲームなど一台も置いておらず、妙に高い天井には飛行機の模型が幾つもぶら下がっていた。そんなゲーセンだった。

私がその頃住んでいたのは坂が多い町で、原付に乗れる年になると皆こぞってバイトで金を貯め始める様な土地柄だった。

私はそんな中でも終始一貫して自転車乗りで、あちらこちらのゲーセンを自転車で渡り歩く内、脚力だけは無闇についた。私が「上半身はガリガリだけど、足だけ妙にゴツい」という奇天烈な体型をしているのは、専ら長距離走とこの頃の坂道自転車行のせいである。

自宅の駐車場から自転車で走り始めて、角を二回曲がって、坂道を4分くらい転がり落ちていくと、左側にキャビンがあった。

キャビンにいつから通い始めたのかは、もう良く覚えていない。といっても、私が通い始めの頃にはもう対戦台がデカい図体を見せ始めていた記憶があるので、既にストIIダッシュの時代だったろう。当時の風潮としてはあまり褒められた話でもないが、私はガキの頃から随分とそこに通い詰めていた。最初は縁者にくっついておそるおそる。慣れてくるとそのゲーセンのオヤジと仲良くなり、一袋50円で売っているスナック菓子をおごってもらったりした。その頃には大手を振って一人でキャビンに通っていた。

私が初めてスコアアタックにはまったのは「中華大仙」というタイトーの横シューであり、これはそのオヤジの影響である。オヤジは店が空いている時は自分でもゲームを遊んだが、やるのは脱衣麻雀とテトリスと中華大仙くらいだった。

中華大仙は「西遊記」の孫悟空の様なキャラが主人公の横シューで、サングラスをかけたエキセントリックな大仏がボスだったり、ショップの店員の頭部が「ナルト」であったりすることを除けばごくシンプルな内容だった。私はすぐにオヤジよりも上手くなり、初めての1コインクリアにも成功した。スコアが80万点を越えた時には、「ゲーメスト」のハイスコアコーナーに送ってくれたりもした。煙草くさかったり、頭の形だけブルース・ウィリスに似ていたり、ゲーセンに女を連れ込んでいたりすることもあったが、オヤジは基本的にいい人だった。多分当時40過ぎというところだったろうと思う。独身なのか、離婚していたのかは知らないが、奥さんはいないようだった。

私の目の前で、キャビンのゲームのラインナップはめまぐるしく変わっていった。スパIIが入り、ストIIXが入り、やがてKOF94やサムスピが入ってきた。バーチャが入った時は対戦台の周りが人で埋まり、一方風雲黙示録は私くらいしかやってなかった。

ゲーセンの一角にはシブいレトロゲームもたくさん置いてあり、私はそこで随分色んなゲームを遊んだ。ニューマンアスレチックがあり、スプラッターハウスがあり、戦場の狼があり、エスケープキッズがあり、いつも変わらず中華大仙があった。

私は、時にはストライカーズ1945にはまったり、時にはダライアス外伝で見知らぬ誰かと熾烈なスコア争いを繰り広げたりしていた。そんな中でも、時折思い出した様に中華大仙をやった。私が中華大仙をやっていると、オヤジは横に座って、格ゲーの入れ替わるペースが速くて参る、みたいなことを愚痴っていた。煙草やめなよ、と私は答えた。


通い始めて6,7年は経っていたと思う。ヴァンパイアセイヴァーの対戦台が入ってきた頃、私はどういう訳か大学に受かり、東京に引っ越すことになった。


オヤジと話すと、おめでとう、と言われた。私は、ありがとう、と答えた。

常連さんが一人いなくなっちまうなー、と言われた。私は、また来るよ、と答えた。


最後に遊んだゲームはファンタジーゾーンだったと思う。私はスマートボムを抱えたまま、クラブンガーの直前で死んだ。

多分、当時はもう、私以外の「常連さん」はあんまり残っていなかったんだろう、と思う。私がいる時間に対戦が成立すること自体あまり見なかった。過疎という程でもないが、大型筐体の一台もない「街のゲーセン」は、その頃既に下火だった。多くのゲーセンは「アミューズメントスポット」か、あるいはメーカーの直営のゲーセンに移り変わっていた。


4年が過ぎた。


ちょっとした用事でその辺りに足を運ぶことになった私は、以前住んでいた家を外から眺めた後、キャビンにも足を運んでみた。というよりは、足が勝手にキャビンの方へ向いた。以前は自転車で転がり落ちていた坂道をてくてく歩いた。

薄水色のボロゲーセンには、シャッターが降りていた。

「閉店のお知らせ」の張り紙もなく、以前はあったボロい看板もなく、まあ、そんなもんだろうな、と思った。隣に建っていた真新しいビデオ屋を横目に、近所を散歩して帰った。



この前、自宅からだいぶ歩いた辺りに、潰れたゲーセンがあることに気付いた。その姿がキャビンとダブって見えて、急に上の様な話を思い出した。

「街のゲーセン」は、多分、近年ゆっくりと消えつつある。個人経営のゲーセンなんか、もう数年前から絶滅危惧種である。ゲーセンが「不良の溜り場」だった時代は遥か昔に終わりを告げ、格ゲーの新作が出る度に中高生が集まっていた時代も過ぎ、私のゲーセン通いの日々も今は昔だ。


だから、今の内に書き残しておこう。これは、かつてはどこの街にでもあった、ごく当たり前のゲーセンの記憶だ。キャビンで私とスコア争いをやっていた連中は今はもうゲームをやっていないかも知れないが、せめて誰かに拾ってもらえればなあ、と、そう思う。


ちなみに、中華大仙はしばらく前に新宿で見かけた。数年振りの中華大仙は4ボス止まりだったが、妙に嬉しかった。わざわざスコアネームを入れた。私のスコアネームは、SSI、という。数年振りに入れる三文字が、奇妙に感慨深く、また奇妙に懐かしくて、私はデモ画面を眺めて何度かスコア欄を見直した。オヤジに見せたくなった。


キャビンのオヤジが今何をやっているかは勿論知らない。ただ、相変わらずどこかのゲーセンで、禁煙パイプをくわえつつ、脱衣麻雀でもやってくれているといいな、と思うのみである。

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2007年06月08日

レトロゲーム万里を往く その64 バブルボブル

固定画面アクションゲームの粋が、そこにあった。


練りこまれた敵配置も、考え抜かれた面構成も、点稼ぎの爽快感も、飽きることのない操作性も、マニアックなテクニックも、掘っても掘っても底が見えない奥深さも、100面をクリアした時の達成感も、そこにはおよそ望みうる全てがあった。


「固定画面アクションゲーム」というジャンルが、ゲーム界の主要なシーンとして隆盛した時代が、多分あったと思う。1970年代末から、まあ大体1980年代の中盤くらいまで、だろう。

古くは「シェリフ」の様なSTGの発展形や、「ヘッドオン」やパックマン、ラリーXなどのドットイートゲームを祖として、ペンゴやドンキーコング、マリオブラザーズやロードランナー、あるいはディグダグやボンジャックなどを輩出する内、そのジャンルはパズル的な方向とアクション的な方向の二つに分かれていった。

その一方の到達点に「ソロモンの鍵」が君臨している。「削る」のではなく「創る」パズルアクション。パズル要素とアクション性の完全な融合。パズルアクションという土俵でソロモンの鍵と勝負し得るタイトルは、そうそう多くはないと思う。

もう一方。アクションとしての楽しさを追求していった固定画面アクションゲームの、一つの究極の形が「バブルボブル」だったのではないかと私は思うのだ。


バブルボブル。1986年、「フェアリーランドストーリー」に続く固定画面アクションゲームとしてタイトーから業務用発売。X68000、FM-TOWNS等の様々なハードに移植されたが、翌87年の10月「ディスクシステム」を舞台に発売された、ファミコン版に触れた人が多いかも知れない。タイトーとしては数少ない、コンシューマー畑でのキラーソフトでもあった。

上記でソロモンの鍵の名前を挙げたが、ソロモンとバブルボブルは丁度同年、1986年にアーケード版が発売されている。1986年という年は、業務用・家庭用共、冗談抜きで大豊作の年だった。中でもこの2タイトルは、丁度同じ時期に出現した、固定画面型アクションゲームの双璧と言っていいだろうと思う。

ゲームの解説は、いつもの通り「OKINIIRI」様の詳説をご参照頂ければと思う。業務用の画面も掲載されている。
OKINIIRI:バブルボブル

Wikipediaの関連項目も挙げておこう。
Wikipedia「バブルボブル」

さて、ゲームの話をしてみよう。

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posted by しんざき at 17:08 | Comment(4) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月30日

レトロゲーム万里を往く その63 入出力オデッセイ

あらゆるコンピューターゲームは、凄く単純な定義で全体を括ることが出来る。

1つの処理系と、1つ以上の入力系と、1つ以上の出力系。つまり、入力デバイス(コントローラー)、出力デバイス(モニターなど)、処理デバイス(プロセッサ)を備えている、遊戯目的の電子機器。それがいわゆる「コンピューターゲーム」ということになる。これは、ファミコンだろうがゲームウォッチだろうがWiiだろうが、世界初のアーケードゲームである「Computer Space」から最近の大型筐体に至るまで例外はない。

ってんなこた当たり前じゃん、と思うなかれ。一般的な電子機器と違って、コンピューターゲームはこの三つの系統に、物凄く奥深い歴史をもっているのだ。特に入出力系、つまり「操作するところ」と「表示するところ」に関する歴史は分厚い。

入出力デバイスはゲームの中核に直結する。コンピューターゲームの歴史を指して、「すばらしい入出力系を求めて試行錯誤を繰り返してきた歴史」と言いかえてしまってもいい、と私は思う。

今回の万里では、コンピューターゲームの「入出力」について、ゲームタイトルを中心にざざっと漁ってみようかと思う。ごく当たり前に「そこにある」池を攫ってみることで、何か見えてくるものがあるかも知れない。

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posted by しんざき at 23:23 | Comment(8) | TrackBack(2) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月29日

イヤなレトロゲーオタを見分ける10の方法

なんかどこぞの掲示板と被りそうだけど、検索しても出てこないから気にしないことにする。

・「キン肉マンマッスルタッグマッチ」のレビューで「ブロッケンJr強すぎ!」などと書いてあると、つい「違う!ブロッケンJrは大して強くない!ウォーズマンの方がよっぽど凶悪だ!」などと突っ込みたくなる

・「たけしの挑戦状はクソゲー」という文面を見ると、つい「パソゲーなんかには、もっと理不尽なゲームが山ほどある!たけ挑(得意げに略す)なんか序の口だ!」と口を出したくなる(だが、実際にはそれ程パソゲーを知っている訳ではない)

・「バンゲリングベイはクソゲー」という文面を見ると、つい「操作方法が把握出来てないだけなんじゃないの?あれは結構戦略的なゲームデスヨ?」とか得意げに語りたくなる

・「星をみるひとはクソゲー」という文面を見ると、「ユーザーインターフェースはちょっとアレだが、シナリオの出来は云々」などというよく分からない理屈をこね始める

・「スペランカーはクソゲー」という文面を見ると、旧ブローダーバンドの方角に向かって泣いて謝らせたくなる

・「スペランカーはゲーム業界最弱の主人公」というお決まりのネタになると、「スペランカーの特徴はそれだけじゃない」などとなんとなくもにょもにょとした気分になる

・スペランカーのオープニングの音楽を聴き始める

・「元祖西遊記スーパーモンキー大冒険はクソゲー」というレビューにはどういう訳か賛同する

・横シューの話になると、ルーツとしてグラディウスの名前を出さずにいられない

・最近のゲームで「独創的なシステム」という言葉が使われると、「でもそれ、ルーツは○○だよね」などと空気を読めない突っ込みをしたくなる(いきなりミュージシャンやブリーダー辺りが好まれる)

・現行メーカーの「隠された過去」的な話を好んでひけらかしたがる

・スクウェアエニックスの話になると、得意げに「でも、昔はエロゲー作ってたしなあ」とか「アップルタウン物語はスクウェアの暗部」とか言い出す

・光栄の話になると、「団地妻の・・・」と言いかけて途中でやめる

・でも、「マインドシーカー」には何故か触れたがらない

・ディスク版「レリクス暗黒要塞」の話を得意げに持ち出すが、実際にはやったことがない

・ネットのMAD動画由来で旧作ファミコンの音楽が流行っていたりすると、微妙に面白くない気分になる

・音ゲーでレトロゲームの音楽がアレンジされていると思いっきり釣られる(だが、心の中では「オトッキーだよな、これ」とつぶやいている)

・新作RPGのムービーを見ると、ドット絵の芸術とファミコン音源の偉大さについて語りたくなってたまらない


10越えてる?というか20近い?数えるの面倒だからいいや別に。

ブーメラン?何のことか分からないですよ?

posted by しんざき at 19:15 | Comment(10) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月03日

レトロゲーム万里を往く その62 格ゲー「衰退」を考える。

格ゲーが衰退した訳じゃない。衰退したのは対戦台だ。

というより、究極的には「ゲーセンの衰退」とリンクしてくる話の様な気がする。

まず、リンク。かーずSP様経由で拝見した。

格ゲー衰退の根本的な問題点と解決策とは?

今の状況については、
ゲームセンターの対戦台は、今現在既に強い奴が金と時間を独占する構造になっているので、元々新規開拓には向いていない。飽きて辞める奴は毎日出るが、新規は増えないので当然先細りする。
この構図、まずは当たっていると思う。

そして、こっちだ。
格闘ゲームは旧作をベースにした細かい拡張で新作を作っているので、新規が負うペナルティは年々増加している。

歴史の話から始めよう。
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posted by しんざき at 03:32 | Comment(25) | TrackBack(2) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月22日

レトロゲーム万里を往く その61 「映画を目指した」ゲームの災厄


なんか久々にゲームタイトルを冠してない万里など。調べてみたら1年半ぶりだった。

知はうごく:コンテンツ力(7−3)日本の戦略

細かいところなんだが、ちょっと違和感があったんでつきつめて考えてみた。

で、違和感を感じた対象がここだったんで自分でも若干呆れた。本筋から外れた部分であることは一応理解している。
アニメや漫画は感動をもたらすけれど、ゲームは、お金だけ持っていって、子供の時間奪ってますね。その人生にプラスアルファがない。宮崎さんとか他のアニメ見て、人生変わったという人はいると思います。心ふるえるほどの感動とか、ゲームは若干難しい。

当たり前だっつの。ドンキーコングやアイスクライマーで心がふるえる程感動する子供がご近所にいたら、まず性癖の心配をしろ。将来ミスター味っ子(初期)みたいな人になるから。

と第一感では思ったんだが、良く考えてみると。アニメや漫画、あるいは(宮崎さんの名前が示している通り)映画と、ゲームがこういう文脈で比べられること自体、私の認識とだいぶずれている。というか、おそらく私の認識の方が世間からずれている。私の脳回路が8ビットで動いていることは私も認知している訳であって、認識がずれていることを認めるにやぶさかではない。


つまりこれは、「近年、ゲームはいつの間にか漫画やアニメと同じ土俵に乗せられてしまった」ということを意味しているんだろうか。


そもそも、「心ふるえるほどの感動」とか「人生へのプラスアルファ」がゲームにはない、などというテキストが書かれるのは何でか。それは多分、ゲームに対してあまりにも「物語」を期待しているからだ。

良質な物語は心に響く。良い小説は人生を豊かにする。多分五十年くらい前から、国語の先生が言い続けてきた言葉だ。

ここ数年、ゲームのCMや店頭広告を見て「何の映画だ?」と思うことは多くなった。実際、ゲームの中身そのものも「アニメ的」あるいは「映画的」であることは多い。スクエニのアレとかナムコのそれとかを引き合いに出すと分かりやすい。「ストーリーを一番の具材として、その周辺にゲーム要素をばら撒く」という作り方をされているゲームは、一昔前程ではないかも知れないが、今でも結構ある。

「見た目」である程度映画やアニメに追いついてしまったゲーム業界の、少なくともその一部は、「内容」でまで映画やアニメを目指してしまったのだ。これは改めて言うことでもなく、ここ十年ばかりずーっと指摘されてきたことだと思う。

しかし勿論、「映画もどき」は永遠に映画にはなれない。映画的な外見に釣られて、映画以上の感動をゲームに期待する人は、多くの場合がっかりする。「遊ばせなくてはいけない」という巨大な制約を抱えたゲームは、「物語」を描き切るのに適したプラットフォームだとはお世辞にもいえないから(ノベルゲームの様な例外も存在するが)。そして、「物語」を描く土壌に関しても、ゲーム業界と映画業界ではそれこそ数十年の差があるから。

ところが、なまじっか映画を目指してしまったせいで、世の中には誤解をする人が出てきた。ゲームのことを、「劣化映画」とか「劣化アニメ」と判定してしまう人が現れる訳だ。そういう人が、例えば「物語の内容が薄い」こととか、「キャラクターの内面描写が足りない」ということに対してケチをつける(参照:FF12に関する論議について。→まこなこさんのコメント欄も参照) そして、例えばメイドインワリオみたいな、もうちょっと純粋に「遊び」に近いゲーム群は、「子供向け」とか「ミニゲーム集」みたいな括りの元、「大作」の影に押し流されていく。

多分、冒頭引用での「若干難しい」というのは、そういうことも含めての「難しい」なんだろうなあ、とは思う。


本来ゲームは「遊び」であって、つまり鬼ごっことかかくれんぼとかじゃんけんとか、そういったものの延長線上にある存在だった筈なのだ。だから、ゲームをやって何か得るものがあるとすれば、それは「遊び」をする上で得るものである筈だ。「遊び」をコンテンツと考える際、アニメや漫画の土俵で比較すれば、そりゃゲームの魅力は薄いだろう。「遊び」と「物語」は本来全くの別物なのだから。

結果的に「ストーリーが評価される」名作というものは、ゲーム業界にも多分たくさん存在する。だが、最初から「ストーリーを中心に」ゲームを作り、ゲームを遊び、ゲームに期待するなど、本末転倒なんじゃないだろうか。


と、本エントリー一旦ここまで。「遊び」的分類について、レトロゲームでやってみようかと思ってたんだが、ちょっと長くなりそうだったので次回に回す。

手前みそだが、以前書いた似た様なテーマのエントリ。ご参照頂けると幸い。
レトロゲーム万里を往く その24 〜エンディングの呪縛〜
レトロゲーム万里を往く その25 〜エンディングの呪縛・2〜
レトロゲーム万里を往く その27 〜エンディングの呪縛・3〜
posted by しんざき at 02:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月10日

レトロゲーム万里を往く その60 奇々怪界

音、なのである。

「ハイドライドスペシャル」でも同じ様なことを書いたが、「音」の話を主軸にしないといけないゲームの話は厄介だ。音声や音楽は、文章による説明を受け付けない。

奇々怪界の筐体の前に座って、コインを投入し、スタートボタンを押したことがない人に、あのオープニングの音声の展開を説明することは出来ない。

それを承知の上で、言ってしまおう。奇々怪界は音ゲーである。そして、「効果音と、BGMと、世界観との調和」という面に限って言えば、ありとあらゆる和風ゲームの中でも屈指の名作である、と。

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posted by しんざき at 22:23 | Comment(9) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月25日

レトロゲーム万里を往く その59 ワルキューレの冒険 時の鍵伝説

アファ大陸西部の山中、斧を片手に山をざくざくと切り崩していたワルキューレは、ある時泉に斧を落としてしまった。

すると不思議なことに、泉の中からたおやかな女神が現れ、こう言われた。

「ワルキューレよ、あなたが落としたのはこちらの使い古しのおのですか?それとも幾ら使っても壊れることのないこちらのパワーおのですか?」

「女神様」

ワルキューレは静かに答えて曰く、

「ぶっちゃけどちらも要らないので、むしろパワーロングソードを下さい」

〜レトロゲーム箴言集「富の国の歩き方」より一部抜粋〜


っつーかパワーおのは罠アイテムです女神様。


「サンドラの冒険」を最近久々にやったが、サンドラはつくづくワルキューレシリーズにおいて(出番の多さの割に)冷遇されていると思う。初代「冒険」なんか、ブラックサンドラがもう不憫で不憫で(レベル上げに大量殺戮)。サンドラはサンドラでアイテム扱いだし。


1986年という年は、コンシューマー業界におけるRPGの黎明期である。初期のFCのゲームは無論アクションとシューティングの寡占市場であって、FCオリジナルのRPGもまずは「アクションRPG」という形をとるのが必然の成り行きだった。

85年8月の「ドルアーガの塔」の発売を背景に、86年2月の「ゼルダの伝説」がこの路線を固めたことは論を俟たないだろう。3月の「ハイドライドスペシャル」5月に現れた非アクション型RPG「ドラゴンクエスト」を挟んで、8月に発売されたのがワルキューレである。


ナムコは割と頻繁にゲーム業界におけるオーパーツを輩出するメーカーだが、ワルキューレもその一種だったんじゃないかと私は思う。


このゲームは、この時期のFCタイトルとしては一種異様な「深さ」をもったゲームだった。ゲームの展開、武器やアイテム・術の豊富さ、ダンジョンの広大さから謎・隠し要素の多さや成長パターンの多さに至るまで、「冒険」は明らかに同世代のタイトルと比べて浮いている。浮きまくっている。

勿論ゲームは深けりゃいいってもんでもなく、ワルキューレはある程度のとっつきにくさや攻略のしにくさも抱えることになってしまった訳ではあるのだが、こと「詰め込まれた要素の多さ」という点に限って言えば、このゲームはゼルダを軽く超えていたかも知れない。

出る攻略本出る攻略本みんなデータがいい加減だったことや、後に業務用に「逆移植」されたことなども、その一つの現れである様にも思う。


「ワルキューレの冒険」。アクションRPG。1986年8月1日、ナムコより発売。ゾウナを倒して「時の鍵」を取り戻す為、主人公のワルキューレは剣を振り回してフルータジア全土を駆け回る。

当時はまだまだ少なかった「濃いストーリーとED」を持ったゲームでもあり、アクションの分かりやすさや成長要素、また壮大なBGMや富士宏氏が描くワルキューレのキャラクターなどもあって好評を博した。続きを読む
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2006年08月16日

レトロゲーム万里を往く その58 アフターバーナーII


実はゲーセンの絶頂期ってこの頃だったんじゃねえかなあと、今になって思う。


およそ、「アフターバーナー」以上に「ゲーセンでしか出来ないゲーム」ってのは後にも先にも存在しなかったんではなかろうか。そして、アフターバーナー以上に「リアル」なゲームも、ゲーム史上にそうそう存在しないと私は思う。そこには、グラフィック面での「リアル指向」なんて軽く笑い飛ばす様な、何か圧倒的な存在感があった。

「最強のゲーム」という言葉に個人の感想文以上の実態はないが、私は幾つかのジャンルでは「最強のゲーム」を明確に表明することが出来る。私にとって、「最強のアクションパズル」はソロモンの鍵だ。「最強の横シュー」はダライアス外伝だし、「最強のRPG」というと多分Wizardryだろう。そして、私にとって「最強のセガゲー」は何かというと、バーチャでもファンタシースターでもアウトランでもゴールデンアックスでもなく、アフターバーナーIIなのである。

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posted by しんざき at 23:45 | Comment(4) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月14日

レトロゲーム万里を往く その57 グラディウス

以前、知人と上司論を話している時に、何故かレトロゲーの話になったことがある。

「だからさ、上司が何でもやっちゃうのもアレかと思うわけよ。ゾーマとか上司だったらさ、スライムとか自分の存在意義に疑問抱かね?「マヒャドでも何でも唱えてろよ」とか思わね?」
「いやお前、実際仕事やってたら絶対そっちの方がマシだって。上司ゴーファーよ?マジ何もしねえよ?モアイでも下克上出来そうじゃん?」
「・・・お前ら、それ以前にゾーマやゴーファーが上司ってことに疑問は抱かんのか?」


呪いのゲーム、だと思う。

1990年過ぎくらいまでの横シューの歴史というものは、一言で言ってしまえば「グラディウス」との戦いの歴史だった。そう言い切ってしまっても多分あんまり問題はなかろう。

1985年というとんでもない早期にこのゲームが出てしまったが故に、その後生まれてきた横シューは「いかにグラディウスとの違いを作るか」「いかにグラディウスを超えるか」に腐心せざるを得なかった。そして、超克するにはこのご先祖様は余りに偉大過ぎた。いってみれば、グラディウスはシューティング業界に掛けられた呪いだ。

グラディウス。 横スクロールシューティング。1985年、コナミより業務用発売。翌86年にはファミコンに移植され、FC黄金期キラーソフトの一翼を担った。超弩級移植度のX68000を始め、ありとあらゆるハードで移植作が作られたことも挙げるべきだろう。

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posted by しんざき at 14:20 | Comment(4) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月16日

レトロゲーム万里を往く その56 ファイナルファンタジーIII

「ペンは剣よりも強し、という。知性は常に暴力への勝利者となる。我らはまさにペンで戦い、頭脳で戦い、本によって戦うのだ」
「しかし先生、我らの力も時には及ばぬ時があります。書の力をもってしても抗し得ぬ強大な暴力に立ち向かう時、我らはどうするべきでしょう?」

学者はこともなげに一言、こう答えた。

「辞典を装備せよ。両手に」

〜レトロゲーム箴言集「ある学者集団の対話(ミシディア出版)」より抜粋 〜


本の角で殴られるととても痛い。少なくともミスリルソードより。(攻撃力32)

歌うと何故か敵がダメージを受ける吟遊詩人や、自分の頭よりもでかいベルで敵をぶっ叩く風水士も大概といえば大概だが、それも学者には及ぶまい。

何故彼らは、商売道具である筈の本や辞典でクラーケンをがんがん殴りつけるのか(しかも戦士より強い)。ワンピースのオハラも、FF的イメージの学者であったら海軍の一個小隊や二個小隊軽く撃退していただろう、と思うと残念でならない。

FFの旧作の紹介というのは様々な意味でやりにくいのだが、DSでの発売が控えている昨今、今書かないと時期を失しそうな気配がある。丁度FF5などのらくらとやっている最中であることもあり、まずは私が最も気に入っているタイトルである「3」についてつらつらと書いてみたいと思う。


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posted by しんざき at 00:50 | Comment(12) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする