2008年11月26日

レトロゲーム万里を往く その84 大航海時代

レオン「ふー、ようやくサントドミンゴについた。さて、サンゴを積み込んでと。あれ?」

ロッコ「どうしやした、提督」

レオン「なんかサンゴ売ってないんだけど。ピーナッツ油なんて交易品あったっけ?」

ロッコ「隣のサンファンって港で売ってるそうですぜ、提督」

レオン「そんな港あったっけ?…って、なんで一桁しか買えないんだこれ。金も倉庫も足りてるぞ、こらオヤジ」

交易所店主「カテ4がいるっす」

レオン「カテ4?何それ」

交易所店主「仕入発注書っす。ちょっと前まではブーメランで購入量回復したけど、お上の手が入って厳しくなったっす」

レオン「だから何それ。ブーメラン?武器?」

交易所店主「カテ4集めはジャカルタの交易クエがオススメっす。セビリアまで往復することになるっすけど」

レオン「一体何の話をしてるんだあああっ!!」

(「オンライン浦島太郎物語(民明書房刊)」より一部抜粋)

PCゲーとコンシューマーの間に越えられない壁があった時代が、かつてあった。


PCを買う重要な動機が「ファミコンやスーファミでは出来ないゲームをしたい」だった時代があった。インターネットの隆盛など想像もしなかった時代、PCが本当に高級機だった時代、今のCPUクロック数の100分の1以下の性能のPCが今のハイエンドモデルの値段で売られていた時代、そしてPCでないと出来ないゲームがとても重要だった時代があった。

ファミコン時代にゲームを触っていた人の中には、「あー、パソコンのゲームやりたいなー」と思ったことがある人がかなりの数いる筈だ。当時、PCの美しいグラフィック、凄まじい音質、そして数々の「PCならでは」のタイトルは、一部のファミコン小僧達の羨望の的だった。


例えば、アドベンチャーゲーム。初期のデゼニランドやサラトマからジーザス、スナッチャー、ポリスノーツまで、真っ先にコンシューマーに取り込まれていったジャンルではあるが、そのグラフィックは後々まで崩れない牙城だった。

例えば、RPG。夢幻の心臓やウルティマ、ウィザードリィから、イース、ブランディッシュ、ソーサリアン、ザナドゥなどのファルコムシリーズ。ルナティックドーンも有名だろう。ファザナドゥの例を出すまでもなく、ファミコンで「そのまんま」のRPGを遊ぶことは極めて難しいことであり、当時のRPGの本場は間違いなくPC市場だった。

例えば、シミュレーション。ロードモナークやパワーモンガー、大戦略、あるいはパワードール。ポピュラスにもシムシティにも、パソコンでないと出来ない時代があった。RPGと並んで、PCゲーム市場の中核だったといっていいだろう。

例えば、ギャルゲーやエロゲー。草分けとなったのは多分「同級生」だろう。一時代を築いたプリンセスメーカーや、メルクリウスプリティなんてタイトルもあったと思う。


アーケードゲーム業界と並んで、PCゲーム業界がゲーム市場をリードしていた時代、英雄伝説やエメラルドドラゴンがコンシューマーに移植されれば大騒ぎされていた時代、もう遥か昔の話だ。

当時は日本ファルコムが、アートディンクが、マイクロキャビンが、システムソフトが、確かにゲーム業界を回す焦点の一角だったのである。


そしてそんな中でも、PC-コンシューマーという軸においておそらく最強の影響力を有していたのが光栄というメーカーであり、信長の野望であり、三國志であり、提督の決断であり、大航海時代だった訳なのである。


大航海時代。シミュレーションゲーム。1990年、光栄よりPC版が発売。当時の光栄は「リコエーションゲーム」と称していたと思う。極めて高い自由度を中核として、グラフィック、音楽、ゲームバランス、どれをとってもハイレベルなゲームだった。そして、おそらく、PCがコンシューマーゲーム機に対して絶対的な優位を保っていた最後の時代のゲームだった、ともいえるのではないだろうか。

PC-8800が最初のプラットフォームだった筈だが、おそらく最も売れたのは、後に光栄定番シリーズで復刻されたPC-98版だろう。翌年1991年3月にはファミコンにも移植され、92年に発売されたSFC版と並んで人気を博し、後の「大航海時代2」を経てシリーズとしての人気を磐石なものとした。現在稼動しているオンライン版は、信長と並んで光栄産MMOの代表格となっている筈である。


以下は、ゲームとしての大航海時代についての参照URLである。まずはWikipedia。

Wikipedia:大航海時代 (ゲーム)

SFC版だが、画面写真はこちらから参照出来る。
大航海時代(FC)


まずはゲームの話にいこう。


・世界地図教育用ソフト。(注:沿岸限定)

大航海時代は、16世紀初頭、ヨーロッパが世界各地に船を派遣していた時代を舞台にした船舶ゲームである。プレイヤーは船を駆ってリスボンから航海に発ち、貿易をしたり海戦をしたりポーカーをしたり酒場女を口説いたりカノン砲をぶっ放したりする。

ゲーム全体を通していえることは、自由度が極めて高いことだろう。ゲームは基本的には「金稼ぎ」「名声稼ぎ」を主軸として行われることになるのだが、その為に出来ることは実に多種多様だ。プレイヤーは港から港を飛び回って交易をしてもいいし、船を襲いまくって海賊と化してもいいし、ギルドで仕事を請け負ってあちらこちらの港で投資をしてもいいし、酒場でひたすらブラックジャックやポーカーに魂を燃やすという選択もある。

とはいえ、ゲームのメインが「交易」と「海戦」にあることは間違いなく、ゲームとしての面白さもそこらへんに詰まっている。

交易の基本は、安い交易品をたくさん仕入れて、高く買ってくれる別の港に運んで売ることである。このたった一文に、大航海時代というゲームのエキスが3割程度は含まれている。

ある港では安く買えて、よその港に持っていくと高く売れる交易品を探すこと。たくさんの交易品を積む為に、もっと大きな船を買うこと。このサイクルには麻薬的な楽しみがあった。例えば「ボルドーでワインを仕入れてリスボンで売り飛ばす」であるとか、「アフリカで象牙を仕入れてロンドンで売り飛ばす」といった様々な交易路を開拓する内に、プレイヤーは自然と地中海沿岸の地図を覚えこみ、アフリカや新大陸といった、更に遠くの港を目指すことを考える様になる。

近海の交易は安全、かつ短期間で収益を挙げることが出来るが、儲けの幅は小さい。遠方の港の特産品は、運んでくれば一気に儲けることが出来るが、ハイリスクである。
この辺の絶妙なバランスがこのゲームの肝の一つであり、コショウを求めて命をかけた当時の船乗り達の気分を味わわせてくれる、気がしないでもない。気のせいかも知れないが。


一方の海戦はというと、強い船に大砲や水夫をたくさん積んで、自分より弱い船を襲う、ただひたすらこれである。

戦闘自体は、大砲の射程を有効利用した船同士のドッグファイトという趣で、三國志や信長の海戦と大きくは変わらない。カルバリン砲やカノン砲を敵の背後からぶっ放すことに全力集中するのみであるが、やはりなんといっても「勝利後の積荷分捕り」がいかにも海賊海賊としていて超絶楽しい。襲い掛かってきた討伐艦隊を寡勢で返り討ちにする楽しみもあれば、戦闘力がそれ程高くない商船隊を片っ端から切り込み倒す楽しみもあり、交易と同じく最終的には「金を稼いでいい船に乗る」という目標に落ち着く。

船選びに関してはまた、様々に男の子回路をくすぐる要素が満載されている。交易向けの船、戦闘向けの船、移動用の船。食料や水を載せるスペースはどうするかといった工夫や、切り込みをするならやっぱりガレーだろといったこだわりから、カラックやジーベック、ガレオンや重ガレオンといった船種をそろえる楽しみまで、この奥深さは相当なものだ。何せ積荷の単位が「樽」なのである。冒険小説を読んで備蓄物資に萌える私の特殊な性癖はおいておくとしても、「船を扱う」という楽しさにはまっていた人もファンの中にはいただろう。この辺、メタルマックスの戦車システムとも通じるものがあると思う。


あんまり関係ないが、交易に関して言えば、私はこのゲームの影響で長いこと「リスボンの特産品は砂糖」だと勘違いしていた。マディラ諸島や砂糖キビプランテーションの歴史を知って初めてこの誤解は解かれることになるのだが、まあボルドーとかバレンシアとか、その辺の特産品は大体合っていた気がするからよしとしておこう。


・外洋の音楽が超好きなんですが。


縁者のPCにたまに触れさせてもらっていた私にとっては、大航海時代は「音や絵の違い」に初めて衝撃を受けたタイトルでもある。MS-DOSの5.0が、丁度Windows3.1に置き換わろうとしていた時代だったと思う。ファミコン版の出来だって決して悪いものではなかったが、PC版大航海時代のグラフィックや音質は、当時のファミコン小僧達の常識から外れていた。

三國志や信長と並んで、大航海時代シリーズの作曲は菅野よう子さんであることは有名だろうと思うが、中でも外洋の曲「喜望峰でダンス」などは今でも明瞭に曲調を思い出すことが出来る。武将風雲録の曲と並んで、私の中では光栄の幾多のゲームタイトルの中でも最高峰に「ハマリ曲」が多いシリーズである。ザベストオブ光栄Vol.2は、中古CD屋さんで見かけたら是非入手しておくべきだと提言しておきたい。

あんまり関係ないが、私の手元には「武将風雲録」のサントラもある。このゲームの曲も私は大変気にいっているのだが、最後のトラックに入っている「陽炎」というボーカル曲だけどうにも正体がよく分からない。なんでしょうアレ。いや、別にキライな曲じゃないんですけど。

更に余談だが、縁者がバイトをして買った当時のPCはコレだったと思う。PC-9821Ap2。当時としてはかなりハイスペックな部類だったろうとは思うが、66Mhzというクロック数に中古車が余裕で買える定価には瞠目する他ない。縁者もよく頑張ったなあとつくづく思う。


・今回は続きますよ。

その他、カルロータがどうとか王女様にまつわるイベントは色々とどうなんだとか、色々とこのゲームのネタは多い訳なのですが。

実のところ私の中では、大航海時代というゲームはこの時点では未完成だったと思っている。このゲームを完成させたのは、多分続編、「大航海時代2」だ。

ということでゲーム内個別の様々なネタについては、次回、「2」の回でまた書いていきたいと思う。多分2週間以内くらいには書く気がします。



参照:PCゲーに進化の余地はあるのだろうか。
posted by しんざき at 17:50 | Comment(5) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月10日

レトロゲーム万里を往く その83 レイストーム

眼下に、世界があった。


それがどんなゲームであれ、「一語で魅力を表す」ということは大変に難しい。ゲームというのは様々なウリ、様々な魅力の集合体だ。全体として面白いゲームであれ、それほどでもないゲームであれ、あるゲームの魅力を表現するにはどこまでも言葉を尽くさなくてはならない。

ただ、ことレイストームというゲームにおいては、私はたった一つの言葉で、ゲームの中核部分の4割程度は説明出来るのではないかと思っている。

たった一つの言葉。それは、「圧倒的な視点コントロール」


レイストーム。縦スクロールシューティング。1996年、タイトーから業務用発売。翌1997年にはPS・SSにそれぞれ移植され、特にPS版はかなりの再現度と、アレンジバージョンである「エクストラモード」が好評を博した。特にフルアレンジされたBGMに関しては、それだけで単独のCD(ノイ・タンツ・ミックス)が売れてしまう程の恐ろしい完成度だった。ZUNTATAの黄金期だったと言っていいだろう。

フルポリゴンでありながらドットの細やかな表現と比して何の遜色もないグラフィックと、通常弾とは別に相手を攻撃することが出来る「ロックオンレーザー」が大きな特徴である。ゲームバランス、BGM、演出、世界観と、頭の先からつま先まで一級品オンリーで構成されているタイトルだが、私はこのゲームが名作である所以が「視点」にあると考えている。


レイストームというゲームの話は、それ単体では完結しない。まずは同じタイトー生まれの先達の話から始めるべきだろう。


・シューティングにおける、「見下ろす」という感覚。

縦スクロールシューティングと、横スクロールシューティングの間には、様々な厚さの壁がある。その一つ、縦シューでは味わうことが出来るが、横シューでは決して得ることが出来ないというものが、「見下ろす」という感覚である。

大半の縦シューは、基本的に「上から見下ろす」という画面構成で形作られている。プレイヤーは丁度自機や敵機の更に上に陣取っており、そこから自機や敵機の動き、更には背景画面である「地上」を見下ろしている、というのが多くの縦シューに共通する構図だ。

視点に限っていえば、縦シューのプレイヤーは神の位置にいる。こればっかりは、自機や敵機を横から眺める形である横シューではどうあがいても体感出来ない。


といっても、私が「今、自分は背景を見ているのではなく、遥か下方を見下ろしているんだ」という感覚を本当に体感出来たのは、かなり後になってからのことである。ゼビウスに、ツインビーに、究極タイガーに、イメージファイトに、私は様々な形で衝撃を受けたが、「自分が神の視点にいる」ことを必ずしも実感できた訳ではなかった。


私に関する限り、画面ではなく舞台を「見下ろしている」ということを初めて意識出来たのは、「ガンフロンティア」における出来事だった。

5面冒頭。遥か眼下に広がる敵機の大群は、まさに「軍勢」。その上空を飛び、敵の本拠である峡谷にたった一騎で突入する自機、流れるBGMは鳥肌が立つ程の悲壮感「ユンファオ」。殺す気純度100%の弾幕を潜り抜けた果てに、部下である筈の敵機を蹴散らしながら現れる5面ボスと、流れ出す1面BGM「砂漠の山嵐」。


(03:37くらいから)


5面→6面の展開と併せて、ゲーム史上に残る熱い展開だったと言うべきだろう。面構成だけで物語を表現し切った「ガンフロンティア」。STGで演出の話をするならば、やはりガンフロンティアというタイトルを外して語る訳にはいかない。


そして、_ガンフロンティアで表現されたあの眼下の大群を、ゲームと直結させたタイトルが言わずと知れた「レイフォース」である

レイフォースというゲームを、私は二つのキーワードで捉えている。一つは、「1ミリの狂いもなく統一された演出と世界観」。もう一つは、「「視点」という要素をゲームシステムに持ち込んだ、ロックオンレーザーというシステム」


ロックオンレーザーというのは、自機と同じ面に攻撃する通常のショットとは別に、「自機の下方」にいる敵機をロックオンし、そこに落ちていく誘導レーザーを発射出来るというシステムである。アフターバーナーにおけるミサイルでゼビウスの対地ブラスターを撃ったもの、と考えればそれ程外れない。

ガンフロンティアにおいては、飽くまで演出だった「眼下の敵」。レイフォースでは、遥か下方の敵が得点稼ぎのターゲットであり、突如上昇して攻撃してくる敵であり、世界を彩る劇団員でもあったのである。

ロックオンレーザーは、「様々に高さの違う敵」という要素と、「一度に複数の敵をロックオンレーザーで倒したらボーナス」という要素をSTGに持ち込んだ。この二つの要素は、プレイヤーにどの様な影響を与えたか。

一つは、「眼下に次々と現れる敵を追うことによって、ごく自然に「見下ろす気分」を味わうことが出来た」。もう一つは、「眼下の敵をどういう順番でロックオンし、どの様にまとめて撃墜するか、というパズル的要素を楽しむことが出来た」。この二点が、レイフォースを「通常の縦シュー」ではなくしているポイントである。


そして、レイフォースのエキスをそのまま受け継ぎ進化させた、生まれるべくして生まれた名作が私にとっての「レイストーム」である訳なのだ。


・レイストームが見せた「進化」。

レイフォースに比べてレイストームが進化した点は幾つかあるが、ゲームシステム的にはなんといっても

・対空レーザーの出現
・二号機(追尾型レーザー:レーザーを発射した後も引き続きロックオンが出来る)の登場


の二点が大きいだろう。

レイフォースにおけるロックオンレーザーの標的は、飽くまで「下」の敵に限られる。自分と同じレイヤーの敵は、今までのSTGと同じくショットでなぎ払わなくてはいけない。それに対し、「やろうと思えば全ての敵をロックオンレーザーで倒せる」様になったのがレイストームだ(実際にやるかどうかはまた別の話だが)。

レイフォースにおけるロックオンレーザーは、基本的に「ロックオンし終わった後」発射しなくてはいけない。その為、場面によっては「ただロックオンしているだけ」という動作が必要になることも多い。それに対し、「撃ってからロックオンを追加してもちゃんと反応してくれる」という要素を持ち込んだのがレイストームの二号機、追尾型レーザーだ。

「全ての敵をロックオン出来る」「動きながらロックオンレーザーを撃てる」という二つの進化は、ロックオンレーザーというシステムをレイフォース以上に輝かせた。眼下の敵を見下ろしてロックオンレーザーをトリガーする感覚に魅せられたプレイヤーは、それぞれのやり方でロックオンパターンの開発に打ち込み、各面でのロックオンボーナス稼ぎに取り憑かれることになる。


・TAITOシュー演出と、ZUNTATAサウンドの真髄。

まあ一言で言うと、「4面や7面の演出超絶かっこいい」という話なのだが。


私は冒頭で、「視点コントロール」という言葉を使った。私が知る限り、「プレイヤーの視点を操る」という点で、レイストーム程演出が卓絶しているゲームはそうざらにはないと思う。

例えば1面冒頭。画面奥から手前の方向に飛行する自機R-GRAY。一瞬後に、カメラがぐるっと旋回し、横スクロールの様な視点を経て通常の縦シュー視点に収まる。



ここだけ見るとほんの軽い演出だが、この直後から始まる「ロックオンレーザーによる「見下ろす」という感覚」と相俟って、レイストームはごくごく自然にプレイヤーの視線を「吸い込む」。ほんの一瞬前まで三人称の位置にいたプレイヤーは、カメラの旋回と「下方から上昇してくる敵機をロックオンする」という動作を経て、殆ど瞬間的に「見下ろす」という視点に遷移しているのである。

4面の演出は更に顕著だ。冒頭のカメラワーク(参照:youtube)の移動も然ることながら、この面では文字通り「遥か下方」の戦艦がロックオンターゲットとなり、攻撃を打ち上げてくる敵ともなる。スケールで言えば数キロから数十キロは離れているであろう戦艦を見下ろしながら、そこにレーザーを撃ち下ろし、あるいは撃ちあがってきたレーザーを紙一重でかわす。プレイヤーの視線を「高さ」「深さ」というレベルで縦横無尽に操る縦シューは、そうそうありふれたものではないと私は思う。


無論、レイストームの演出は三次元的なものばかりではない。1面と打って変わって涼やかな2面のBGM、3面で高速スクロールする背景の美しさと滝上をかすめながら始まるボス戦。4面の宇宙戦は2DSTGの枠を完全に飛び越えたものだったし、5面のラストで突如画面下方から踊り出るガイセリックには恐ろしい存在感があった。

6面7面と悲壮感を上増ししていくBGMに、立ち塞がる「アラリック」や「スパルタカス」。最終ボスで流れるBGM、余りにも重厚な「HEART LAND」と「INTOLERANCE」に至るまで、レイストームというゲームにはとことん「浮いた」演出がない。TAITOシューの世界観作りの一つの集大成だと言ってもいいだろう。



私に関する話をすれば。

私は元来横シューターである。これは別に横シューが上手いという意味ではなく、横シューよりも縦シューが遥かに下手っぴーであるということを意味する。3面中盤のドレイクどころか1ボスペンドラゴンのちょい太レーザーでも死にかねない、私の下手っぴーぷりは括目に値すると言えよう。

レイストームの難易度は、中盤以降遠慮会釈なく上昇する。4ボスゼノビアの浮遊機雷 + 高速レーザー、5面中盤の悪魔クレイジービット。アラリックのビット+ばら撒きの二重攻撃といい、ガンフロ5面を思い起こさせる7面道中の本気過ぎる弾幕といい、私の様な下手っぴーシューターを300回くらい挫折させてもおかしくない難易度である。

しかしそれでも挫折出来ず、幾度となくコインをつぎ込んだ理由は、やはりこのゲームの魔的な世界観、魔的な演出の魅力にあったと思う。極論を言えば、私は「INTOLERANCE」が流れるユグドラシル戦に辿りつく為に、このゲームを遊び続けていたと言ってもいい。

死に続ける内に少しずつ少しずつ学習させてくれる難易度も、どの場面場面を切り取っても見尽くせない世界観も全てひっくるめて、レイストームは疑いなく私にとっての「最強の縦シュー」である。



ということで、今回はこれくらいで。次回はもうちょっと前の時代に戻る予定。
posted by しんざき at 19:05 | Comment(8) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月09日

レトロゲーム万里を往く その82 桃太郎電鉄

73年目の6月、だった。

私の知人の家では、スーパーファミコンが一台と、そこに挿さりっぱなしのスーパー桃太郎電鉄IIIが、テレビの裏に放置されている。

その桃鉄IIIには、一つのデータが保存されている。99年桃鉄の73年目。知人の名前と、女の子の名前と、いぬやま社長の3人プレイ。

彼は言う。彼と、半年前に別れた彼女との歴史は、その99年桃鉄と共に刻まれているのだという。

彼の部屋に彼女が遊びに来る度に、ちまちまと刻まれていった99年桃鉄の歴史。10年目の頃にはキングボンビーの出現にきゃーきゃーと騒ぎ、20年目の頃には北海道と九州がそれぞれのプレイヤーの色に染まり、30年目の頃にはいぬやま社長の資産がマイナス100億に達し…そして、73年目より後の日付に、その桃鉄が進むことはない。

彼の言葉を静かに聴きながら、私は思った。


他に思い出の品らしきものが禄にないことが別れた原因の一つなんじゃねえか、と。



別れた彼女とやり掛けのデータが入ったままの桃鉄」という物体は、全日本痛いアイテム選手権トップ10くらいには入れるんじゃないかと個人的に思うのだが、まあそれはそれとして。


ハドソンというメーカーには、私はそれなりの思いいれと、ある程度の分量の「言いたいこと」を抱えている。以前にも書いたことがあるが、ファミコン黎明期のハドソンには、後のナムコやコナミと肩を並べるだけのポテンシャルが十分にあったと思う。しかし、平成の世も20年を過ぎて、今ハドソンゲームナビに並んでいるのは、「ボンバーマン」と「天外魔境」と「桃鉄」に埋め尽くされたゲームリストだ。

ハドソンはどの様にゲーム業界を泳ぎ、どの様に舵を切ってきたのか。振り返ってみると、様々に示唆深いことがそこには隠れている様に思う。

まずは桃鉄の話だ。


桃太郎電鉄。ボードゲーム風パーティゲーム。1988年12月、ハドソンよりファミコン版が発売。複数のプレイヤーが鉄道会社の社長に扮し、日本地図を模したボードをサイコロを振って行ったり来たりしつつ、物件を買い漁って収益を挙げる。当時の日本はバブル景気真っ只中であり、ある種時世を反映したゲームでもあった。モチーフは西武グループであった筈だ。

初代「桃太郎電鉄」はおそらく「A列車で行こう」シリーズとモノポリーをそれぞれ意識して制作された筈で、貧乏神もいなければカードの概念すらなく、ターンは一年に4回しかなかった。その後「スーパー桃太郎電鉄」SFCにプラットフォームを移しての「スーパー桃太郎電鉄II」「スーパー桃太郎電鉄III」とゲーム性の拡張を続け、パーティゲームとしては異例ともいえる大人気を博し、現在でも続編が出続けるハドソンの代表的シリーズの一柱となった。

シリーズの推移についてはWikipediaに詳しい。

Wikipedia:桃太郎電鉄シリーズ

20周年ということで、ハドソンの公式サイトではシリーズのタイトルを一覧することが出来る。流石にハドソンというかなんというか、ものっそい数である。始まった時期のことを考慮しても、テイルズシリーズといい勝負じゃないだろうか。

桃太郎電鉄シリーズ


さて、まずは歴史の話から始めてみよう。


・「桃太郎電鉄」進化ルート。

桃鉄というゲームは、「スーパー桃鉄」の時点で9割がた完成していた、と私は思う。

上でも書いたが、初代「桃太郎電鉄」は、今の桃鉄とは遥かに隔たったゲームだった。

・1年が春夏秋冬の4ターンで構成され、移動フェイズとイベントフェイズに分かれている。
・カードの概念が存在しない。
・貧乏神の概念が存在しない。
・物件の収益率が一律25%で、駅・種類による差異がない。
・目指す「目的地」がプレイヤーごとに異なる。


この時期のファミコンというハードには、いわゆる「パーティゲーム」や「ボードゲーム」といえるジャンルがまだ殆ど存在していなかった。

デービーソフトから「鉄道王」が発売されたのが1987年。その後、タイトーから「たけしの戦国風雲児」88年11月に発売されているものの、「レーサーミニ四駆」が89年、「爆笑!人生劇場」が同じく89年、「いただきストリート」が91年ということを考えていくと、「桃鉄」がコンシューマーにおけるボードゲーム形式の事実上の草分けと考えてもそれ程支障はないだろう。発売された当初、まだこのゲームは「実験作」の部類だった筈だ。

その為かどうかは分からないが、初代「桃鉄」は、ゲームとしてはかなり慎重な作りこみをされていると感じる。上述の通り、私はこのゲームを「モノポリー」と「A列車」の流れを汲んだ上で、国とりゲームの要素を振りかけて発想されたタイトルではないかと考えているのだが、初代のゲーム展開は随分大人しい。

参照ページを挙げさせて頂く。

桃太郎電鉄 初代FC版

初代桃鉄のゲーム展開は「物件購入」と「サイコロイベント」がメインとなっている。リストを一見してもらえば分かる通り、「サイコロイベント」で発生する内容は、ほぼ後の「プラス駅」「マイナス駅」に該当するものだが、「スーパー」以降を考えると遥かに金の出納が穏やかである。激しい逆転要素は、せいぜいインフレが発生して収益・支出の金額が2倍になる程度のものだ。

私の勝手な想像だが、この時点での桃鉄は「物件売買シミュレーションゲーム」に近いものをイメージされていたのではないかと思う。パーティゲームというよりは、収益を挙げて目標を達成する「経営シミュレーション」。そのゲームバランスは、ある意味リアル指向とすら言える。


そんな桃鉄は、「スーパー」で怒涛の舵取りを見せた。


ターン数の純増。収益金額の時間経過に伴うインフレと、「効率のいい物件」「効率の悪い物件」の大量導入。皆で同じ場所を一度に目指す「目的地」という競争要素。貧乏神や「スリの銀二」などのマイナスイベントの導入と、それに伴う逆転要素の大幅増加。きゅうこうカードやリニアカードの導入と、同じくぎゅうほカードやふういんカードの導入によるゲーム性拡張。

「物件経営シミュレーション」がたったの一作で「皆でわいわい遊ぶパーティゲーム」に激変した瞬間である。初代だって皆で遊ぶのは楽しかったが、「スーパー」以降のカード乱れ飛び、逆転逆転の資産乱高下に比べれば、流石に競争要素が薄い。


以降の桃鉄は、「いかに「皆で」遊んでもらうか」「競争要素、逆転要素をどう持ち込むか」ということをメインテーマに、ひたすら「刺激的な要素」を導入していくことになる。必然的に、「一度に動く金額」が大きなイベントは、シリーズを重ねる毎にざくざく盛り込まれていった。

キングボンビーやハワイの導入、キングデビルカードの出現もその一つだが、7のギーガボンビーなどはその最たるものだろう。全プレイヤーの所持金・物件がリセットされるというイベントは、複数プレイヤーが長期間遊ぶ場合のダレを解決する為の手段以外の何物でもない。


そういった面で歴代シリーズのタイトルを見ていくと、「III」以降はほぼマイナーチェンジの積み重ねがひたすら続いている様にも見える。それだけ「スーパー」時点での桃鉄が完成していたということでもあるだろうし、シリーズ各作品を遊んでみると「楽しい」ことは確かなのだが、「一つのシリーズをひたすら使いまわす」という体質をハドソンに感じている私としては、ちょっともにょもにょとした気分になる面もある。


・ハドソンの「古くからの体質」について。

なんつーか、「一つのキャラ・一つのシリーズをひたすら再利用」って傾向がある気がするんですよね。昔から。

迷宮組曲といい、サラトマといい、初代ボンバーマンといい、ハドソンには「面白いオリジナルゲーム」を作る能力が十二分にあった。ファミコンが遊ばれ始めた当初、コロコロコミックとハドソンを中心にゲーム業界が回っていた時代があったのだ。迷宮組曲やサラトマのテンションでハドソンがオリジナル作品を作り続けていれば、ハドソンの代表的タイトルはこんな数では済んでいなかった筈だ。


サラダの国のトマト姫」の項でも書いたが、私はこれを「間違った成功体験」の為ではないかと考えている。

一言で言うと、迷宮組曲よりも「高橋名人の冒険島」や「ドラえもん」の方が売れてしまったから。サラトマよりも「ミッキーマウス 不思議の国の大冒険」の方が売れてしまったから。

雑誌とのタイアップなどの事情(特に高橋名人関連で)もあるのだろうが、「とにかく人気のあるキャラクターを前面に出して売る」という手法を、この時ハドソンが経験則として身につけてしまったんではねえか、とか私は思ってしまう訳だが。天外もボンバーマンも桃鉄もそれぞれに面白いのだが、サラトマや迷宮組曲の様な「オリジナルの良作」にハドソンがリソースを向け続けていたらどうなっていたか、などと私は妄想してしまう訳である。


まあ、「シリーズひたすら再利用」に関しては人のこと言えないメーカーさんもたくさんある気はする。実際、ある程度の売り上げが保証されているってのは営業さん的にも大きいのだろう。この辺は余談。



・私にとってのスーパー桃鉄。

どういう訳か、「しあわせのかたち」で桜先生がちょりそノブやサイバー佐藤と遊んでいた桃鉄のイメージが何より強かったりするんですけど、桜先生は最近お元気でしょうか。

ちなみに、自分の中では「スーパー桃鉄III」が一番好きだったりもします。当時は良く99年桃鉄やったなあ。えんまが言う程強くなかったけど。

私の得意戦術は東北地方・及び襟裳を中心とした農林王国狙いだったりもするんだけど、それも元々は「しあわせのかたち」の影響かも知れない。


と、例によって長くなったので今回はこの辺で。次回は多分またタイトルものです。
posted by しんざき at 16:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月12日

レトロゲームが大好きだけど、「今に比べて昔は良かった」とは全然思わない


今回、完全にひとり語り。ご容赦頂きたい。


私はレトロゲームが好きである。

ファミコンやスーパーファミコンやマークIIIやPCエンジンやメガドライブやF2やF3やバブルシステムのゲームが大好きである。古ぼけた旅館の一角にある半分ぶっ壊れた様なテーブル筐体や、デパートの屋上にひっそりと置いてある錆かけた体感ゲームが大好きである。

多分、一般的にいえば「懐古」の部類なんだろうと思う。私にとっては全然懐古じゃないんだけど。

ただ、何故だろうな。私は、「昔のゲームは楽しかった」という言い方には全然共感しないのだ。「今のゲームより昔のゲームの方が面白い」という言い方には近寄りたくもないのだ。今のゲームが好きじゃないからって、そこで昔のゲームを引き合いに出すなよこの野郎、とか思ってしまうのだ。


頭の中を漁ってみた。多分、理由が三つくらいある。

・面白いゲームも全然面白くないゲームも全部含めて「レトロゲームというジャンル」なのに、一概にそれが美化されることへの違和感。

・何かをけなす為のダシとして自分の好きなものが引き合いに出されることへの嫌悪感。

・「思い出」を抜きにして、純粋にゲームとしてレトロゲームを評価したい、評価して欲しいというマニア根性。



多分、私にとって、2000年以降より2000年以前の方が「ツボにハマるタイトル」が多かった、というのは事実なんだろうと思う。1980年台後半〜1990年台後半にかけて「子供」という生き物でいられたことは、私にとって物凄く幸運なことだったんだろう、と思う。

子供の頃遊んだゲームの方が、大人になってから遊ぶゲームよりも面白く思えることが多い、というのも理解している。


だが、あるいはそれ故に、私は「今のゲームをくさす為の比較対照物」としてレトロゲームが使われるのを嫌う。たいして遊びもせずにスペランカーやバンゲリングベイをクソゲーとして扱う、その様なレビューと同等か、あるいはそれ以上に「昔に比べて今は」という言説を嫌う。



今のゲームも昔のゲームも、同じ「ゲーム」という一ジャンルの構成員だから。

「全然面白くない今のゲーム」があった以上に、「全然面白くない昔のゲーム」も山ほどあったことを私は知っているから。「全然面白くない昔のゲーム」も、私が大好きなレトロゲームというジャンルの一部だから。「全然面白くない昔のゲーム」を思考から削除されたくないから。

「思い出フィルタ」なんてゲタをはかせなくても、レトロゲームは十分今のゲームと張り合えると私は思っているから。

私は今でもゲーム好きだから。昔のゲームが楽しかった様に、今のゲームもこれからずっと楽しめると思っているから。


うん、そういうことだな。これ書いてからなんとなくもやっとしていたけど、頭の中身を書き出したらすっきりした。


私にとって、「レトロゲーム」というのは一つのジャンルである。

私にとって、レトロゲームは1ミリグラムの美化の対象でもなく、1ナノグラムの卑下の対象でもない。私はこれからも、飽くまで「レトロ」という部分には依拠しない、「一つのジャンル」としてのレトロゲームについて書き続けたいと思う。

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2008年08月19日

レトロゲーム万里を往く その81 メタルマックス2

…押してもいいんだぜ!懐かしいドラム缶をよ!

(メタルマックス2 デスクルス看守の発言より引用)



当然話はこれからな訳だ。


かつてゲーム業界に、データイーストという異能集団があった。


異能とかなんとかいうといかにも中二病っぽい大仰な言い方になるが、彼らに限っては異能と言う他に言葉が見つからない。

彼らの作るゲームの特徴は、たった一言で表現出来る。

「自重を知らないゲーム作り」

データイーストは、一方ではB-WINGやバルダーダッシュ、ウルフファングやマジカルドロップの様な良作・名作を生み出す傍ら、もう一方ではカルノフやチェルノブ、トリオ・ザ・パンチやザ・グレートラグタイムショーの様な、「普通のメーカーなら思いついても作らない」凄まじいゲームを世に送り出し続けた。彼らの凄いところは、いわゆるイロモノゲームのみに留まらず、例えばヘラクレスの栄光や神宮寺三郎といった「まともな」名作群にも、色濃く彼らの「味」を残し続けたことだろう。

100点満点な優等生ゲームは一本たりとも存在しないが、どれ一つをとってもデータイーストの味わいを感じられないゲームはない。彼らはある意味、セガ以上に自分達の「味」を知り尽くしていたのかも知れない。

メタルマックスに含まれる「鉄」と「油」の臭いは、紛れもなく、データイーストでなければ表現し得ない味だったのである。


メタルマックス2。近未来風RPG。1993年3月、SFCにてデータイーストより発売。前作のシステムをひとかけらも取りこぼすことなく、その「とんがった」ゲーム性と世界観を全面にわたって押し出した、この作品こそがメタルマックスシリーズを確立したと言っていい。

戦車を中心にしたゲームシステムはもとより、グラップラー四天王やビイハブ船長、ガルシアやバトー博士やピチピチブラザーズといった、前作のウルフに勝るとも劣らない「濃い」キャラクター達が、メタルマックスという世界観に圧倒的な色づけをしたと言えるだろう。


ゲーム的には、例えばLOVEマシンであるとか、4種類から選んで戦車を自作出来るシステムであるとか、姉ちゃんでなくイリットであることなどが前作との大きな違いとして挙げられる。が、それより何より、データイーストならではの自重してなさというものが大幅にパワーアップしていることこそ、この作品をメタルマックスたらしめているということが出来るだろう。

メタルマックスシリーズ、特に「2」がどれだけ自重していないゲームか。今回はこれをメインにして話を進めてみたいと思う。


・死体が自重してない。

いきなり細かい話になるが、多分メタルマックスの殺伐さを分かりやすく表現している要素の一つだと思うので、軽く触れておこう。

RPGにおける「死」の取り扱いというものは、結構面白いテーマである。ざっくりといえば「やられた状態」というものをどう扱うか、「戦闘不能」や「死」というものをどう扱っているかという話で、たとえばドラクエであれば死んだ仲間は棺おけで表現されるし、FFでは単に「戦闘不能」になり、フィールド画面ではそもそも表示されない。この辺は、「死」がかなりの度合い隠蔽されている例だろう。

で、メタルマックスの場合どうなのかという話なのだが、端的に言ってぜんっぜん隠蔽されてねえ。

仲間の死体はもうまるっきりそのまんま、思いっきりどざえもん風の「死体」というグラフィックでずりずりと引きずられていくし、海やダンジョンの周辺に死体がぷかぷか浮いていたりする。ソルジャーは仲間になる前に何度か死体の状態で主人公と対面していたりするし、テッドブロイラー様の火炎放射では容赦なく黒焦げになったりするし、ドクターミンチに話かけると「なんだこの死体は!まだ生きとるじゃないか!」とか怒られたりする。この殺伐っぷりは流石データイーストとしか言い様がない。

一事が万事で、メタルマックスの世界観は「殺伐」という一語で全般が統一されている、ということがまずは言えるだろう。


・台詞が自重してない。

上記の「殺伐」っぷりを強烈にアシストしているのが、頭の先から足の先まで漏れなく殺伐としている、NPC軍団の台詞である。言わずと知れたデスクルスの住人達を始めとして、どの町もこの町も乾燥した台詞をはくNPC、張り紙、スワン住人、マリリンなどで埋め尽くされている。

ただフリーズドライであるばかりでなく、時にはおバカな台詞、時には寂漠とした台詞、時には狂気に満ちた台詞が入り乱れて、「メタルマックス」という世界観を形成していると言うべきだろう。一例を挙げる以上の説明はない。


「あんたは強え! 強えヤツはただしい!」

「あけろ あけろ!ひひひ!せかいじゅうのドアというドアを!きんこというきんこを!」

「しにてェ・・・・。」

「グラップラーのやつらは野バスをころすばかりで、じぶんのクルマにすることはできなかったのさ!」

「これで 死ねる・・・・ あんしんして のう!」

「キャタピラにならひかれて死んでもいいわ!」


「2」を遊んだ人にとってはなじみのある台詞ばかりだろう。スーパーファミコンのRPGという畑で、「しゅうじんはクソ!かんしゅはかみさま!」などという台詞を一片のためらいもなくモニターに表示してみせた、データイーストの自重の無さに戦慄する他ない。

勿論台詞だけでなく展開も自重していない訳で、特にドラム缶とかドラム缶とかドラム缶とか、殆ど「刷り込み」というレベルでデスクルスの存在をプレイヤーの頭に焼き付けた、あの辺のイベントは余人では到底ゲーム化出来なかったであろう。その他、スカンクス戦→モンキーセンターの一連の展開とか、テッドブロイラーの顔見せ→決戦とか、エバ博士とカリョストロにまつわる色々であるとか、どれをとっても「浮いてない」ケレン味たっぷりのイベントばかりである。

そんな中、殆ど唯一に近いオアシスであるイリットに転ぶハンターが多いのは当然ではあるのだが、それでもあの弟さんは地雷を配置し過ぎなので誰かどうにかしてください。どんだけ結婚までの展開が速いのかと。


・戦闘が自重してない。

特にバランスの話であるのだが。「2」の戦闘バランスは前作に輪をかけて絶妙であると思う。崩壊しそうで崩壊していない、工夫次第で楽にもなればハードにもなる、強大火力の乱れ撃ち。

始めの頃はまるで歯が立たなかった賞金首が、頭を捻って用意した装備で雑魚と化す、この極端さもこのゲーム独自のものだったと思う。今となっては、サイゴンに苦戦していた日々が遠い。

「ハンター一人旅」であるとか「戦車無しプレイ」であるとか、様々な縛りプレイが隆盛した要因でもあったろう。


前作に比べて人間戦闘がハードになっていることも一つの要素だ。マダム・マッスルやアダムアントもさることながら、最後の最後に待ち構える因縁の賞金首・テッドブロイラー。これは燃える(二つの意味で)。テッド様には、裏技など使わず、是非正面から生身で挑むべきであると、私は強く主張したい。


余談になるが、戦車の選択、及び戦車に積む装備の選り取りは、「2」では前作を数段圧して面白くなっていると思う。

バトー博士の研究所で4種類の戦車が自作出来るのも一つだが、レオパルトの様なウルフの様ないかにも戦車戦車とした戦車から、いわずと知れた野バスやバギーの様な「クルマ」まで、全てが精細なグラフィックで装備を表示してくれる。スタイルにこだわるも良し、攻撃力にこだわるも良し、S=Eにこだわるも良し、様々な「こだわり」をプレイヤーに提供してくれるという意味では、このゲームは当時出色の出来だったと思う。

「見た目にこだわって」195ミリバーストを積むかどうかが論争になるという、この様なゲームが当時他にあっただろうか。ちなみに私自身は、「大砲とS=Eは全車両違うものを使う」「ウルフには177ミリアモルフ」というスタンダードなんだかそうでもないんだかよく分からないこだわりを現在に至るまで保持しており、一方でサウルス砲を使ったことは一回もありませんすいません。私のパーティはレオパルド、ウルフ、ゲパルトなんですけど、一体どれに載せればいいんスかアレ。

まあ、ゲームに慣れてしまうとあまり大砲を買う必要自体がなくなってしまったりするのだが、それはご愛嬌ということで。155ミリスパルクはちょっと優秀過ぎるよなあ。


・ポチが自重してない。

「すきな人」の基準が「最後にえさをくれた人」なんですけど、食欲で生きているこの爆裂おばかドッグを誰かどうにかしてください。あと、つやつやしなくていいから戦闘レベルを上げろっていっといてください。



その他、数々のBGMからグラフィック、OPからEDに至るまで、全てがメタルマックス2を形成している欠かさざる要素である為に、いくら語っても話は終わらないのだが。取り敢えず言えることは、このゲームってSFCの数あるRPGの中でも指折りの「BGMがマッチしまくっているゲーム」ですよねー。

と、いくら何でもエントリーが長くなり過ぎたので、取り敢えず今回はこの辺で締めておきたいと思う。


データイーストは残念ながら倒産してしまったが、彼らの「残り香」とでも言うべきものは、様々なメーカーに移り住んでいる。再びデコゲーの味わいに出会えることを祈るのみ、である。
posted by しんざき at 23:02 | Comment(6) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月18日

レトロゲーム万里を往く その80 メタルマックス


つまりそれは、「はがねのつるぎ」を装備するか、88mm砲を積むかという、厳然たる壁だ。「ゴールドを稼ぐ」か「賞金を稼ぐ」かの、越えられない壁だ。


1991年という年は、ゲーム業界における文字通りの過渡期だった。

スーパーファミコンというハードが既に出現し、「ファミコンで出る予定だったあのゲームがSFCで」という噂がゲーム雑誌を跳ね回り始めていた頃。一方で、ファミコンのゲーム開発もいい加減煮詰まり、様々な「到達点」や「二番煎じ、三番煎じ」と言うべきタイトルが発売されていた頃。

PCエンジンもメガドライブもまだまだ現役で、一方任天堂はファミコンの普及台数を背景にSFCの勢力拡張を進めており、ハード間戦争が本当の意味で深刻だった頃。ラングリッサーが、マスターオブモンスターズが、イースIIIが発売されていた頃。ゲーセンにいけばストIIの筐体が立ち並び、対戦格闘ブームの狼煙が挙がり始めていた頃。

この時代を一言で言い表すとすれば、「新旧勢力の大乱戦」とでも表現するべきだろう。ハードにおいてもソフトにおいても、「王道」というべき方向はもうはっきりと示されており、世代交代の混沌を縫う様に、色んな開発者達がその「王道」に追随したり、二匹目三匹目のドジョウを狙ったり、ゲリラ戦を繰り広げたりしていた。


そんな中、メタルマックスは「アンチテーゼ」として出現した。


メタルマックス。近未来風RPG。1991年5月、データイーストより発売。ゲームデザインは堀井雄二氏と共にドラクエを手がけた宮岡寛氏であり、「竜退治はもう飽きた!」という「アンチドラクエ」的なキャッチコピーが当時話題になった。

「戦車を駆る」ということを起点とした独自のゲームシステムや、近未来風のとんがった世界観、当時としては常識外れに高い自由度、極端な様に見えて考えつくされたゲームバランスなどが人気を博し、SFCにおける「2」「リターンズ」の発売を経て熱狂的なファン層を獲得するに至った。

参照URLを挙げておく。

ゲームの背景に関してはWikipediaに詳しい。
Wikipedia:メタルマックス

画面に関しては、こちらのページから参照することが出来る。
メタルマックスシリーズ概要

さて、ゲームの話にいこう。


・「戦車」に始まり、「戦車」に終わるゲームシステム。

メタルマックスがアンチテーゼであり得た理由はたった一つ。そこに「戦車」があったから、である。

メタルマックスは、全編通して、「自分を鍛える以上に戦車を強化する」ことがメインテーマとなるRPGである。戦車に乗って戦えない場所も時にはあるが、ゲームの大半の場面において、主人公は戦車を駆ってフィールドを進み、アイテムを漁り、モンスターと戦う。ゲームの至上命題は、主人公を鍛えることではなく、ストーリーを追ってエンディングを見ることですらなく、「戦車を改造して最強にすること」なのだ。

実際の所、賞金首もフィールドモンスターも、うっかりするとラスボスすらも、より戦車を強くする為の「手段」でしかない、というのがこのゲームのとんがった部分である。全てはエクスカリバーを、OHCカルメンを、160ミリアモルフを入手する為の手段であり、エンジンの積載量を増やし、デカくて重い大砲を載せ、戦艦ばりの装甲タイルを張る為の手段だった。

RPGのキモはキャラクターの成長である。主人公キャラクターが、あるいは仲間が、レベルアップすることで強くなり、より強い敵を倒すことでカタルシスを得る。その「成長」という部分を、殆どそっくりそのまま「戦車を改造する」ということに置き換えたのがメタルマックスである。言ってみれば、「成長させる」その対象を主人公から切り離したことで、メタルマックスは既存の様々なRPGが求められてきた幾つもの制約から解放された。

戦車に乗れば生身の状態よりアットー的に強いのは当たり前のことである。つまり、戦車に乗れる状況であれば、普段より数段強い敵をがんがん出してもゲームは破綻しない。強い敵を出せるということは、強い武器を出してもいいということで、プレイヤーは「強くなる」カタルシスを序盤から存分に味わうことが出来る。それまで「主人公の成長に合わせて」展開を小出しにするという制約を、メタルマックスはそれ程要しないということになる。

一方、戦車から降りればアットー的に戦力が落ちることも当たり前のことである。つまり、「戦車を降りないと進めない」エリアを設定しさえすれば、当然の如く難易度は上がり、容易にゲーム展開のメリハリをつけることが出来る。105ミリキャノンを拾って辺りを蹂躙しようが、戦車を降りればただの人。マッドマッスルやアダムアントに大苦戦するのも、むべなるかな。


戦車というものを軸にした、主流RPGへの対抗。メタルマックスが発売当時アンチテーゼであり得た理由は、まさにそのメインテーマがあった故、なのである。

ちなみに、世界観というものもメタルマックスにおいてはひっじょーに重要な要素だと思うのだが、私が考える限り、メタルマックスの世界観を完成させたのはSFC版の2である。その為、今回は世界観や音楽には触れず、次項に回すことにする。


・竜か戦車か、ミニ四駆。


若干話が飛ぶが、ゲームとしてのメタルマックスは、二つのタイトルと比較することが出来る。RPGとしての比較対象に、「サンサーラ・ナーガ」。システムとしての比較対象に、「レーサーミニ四駆」。

サンサーラ・ナーガは、竜使いの少年を主人公にした、ファンタジー風の異色RPGである。押井守や桜玉吉が揃ってゲームに携わっていたというのも、今から考えれば感慨深い。「育つのは竜であって、主人公ではない」点、「竜が主人公よりずっと強い」点、「稀に主人公一人で行動しなくてはならない」点などが、メタルマックスのバランス調整と通底する部分だろう。

レーサーミニ四駆は、ミニ四駆好きな少年少女性別不明を主人公にした、ボードゲーム風ミニ四駆改造ゲームである。人生ゲームの様な様々なイベントをくぐって、主人公は自分のミニ四駆を軽量化したりモーターを変えたりグリスを塗ったり穴を開けすぎてぶっ壊したりしながら、色々なキャラとのレースに挑む。戦車の様々な「改造」要素に関しては、このゲームと共通する部分が多々見られると思う。

サンサーラナーガもレーサーミニ四駆も、底堅い面白さと奇抜な発想を特徴とする佳作であるのだが、いずれもどこか妙な味を漂わせており、メジャー路線からは外れていた。そんなところにも、メタルマックスと近いものがある気はする。


・メタルマックスとは、「男の子回路刺激ソフト」である。


まあそんなことより何よりも、メタルマックスの魅力の源泉は「雰囲気」だと思うのである。

どうのつるぎやはがねのつるぎではないのだ。大砲なのだ。武器の名前は「105ミリキャノン」であり、「165ミリロングT」なのだ。アイテムの名前はやくそうでもどくけしそうでもなく、「タイルパック」であり、「アルカリワックス」であり、「ドッグシステム」なのだ。乗り物は馬車でも気球でもチョコボでもなく、バギーであり、タイガーであり、Rウルフなのだ。これが燃えずにいられようか。

いつの時代も、「運転手さん」や「パイロット」に憧れる子供は尽きることがなく、「戦車」とか「車」とか「改造」という言葉に惹かれる子供がいなくなることもない。メタルマックスは当時、こういった「鉄の臭いに憧れる」少年達を魅了すること大であった。

ここで「戦車」に魅了された少年達の内何人かは、例えば後にアーマードコアやパンツァーフロントへと突っ込み、あるいはメタルサーガに快哉を叫ぶことになる。


と。随分長くなったので今回はこの辺で。
次回は引き続きメタルマックス絡みの話になる可能性が高い。続編にして到着点、「メタルマックス2」がタイトルに挙がる予定である。
posted by しんざき at 17:49 | Comment(7) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月25日

レトロゲーム万里を往く その79 バトルシティーと、「敗北条件」。

ゲーム業界で一番最初に成功したリメイクって、実はこれじゃないかと思うんだ。


まず最初に。もしかすると既存の議論の焼き直しになるかも知れないが、ゲームの「勝利条件」と「敗北条件」について考えてみる。


勝利条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの勝ち(ゲームクリア)」という条件だ。例えば「インベーダーを全て倒す」とか「ステージ内のエサを全て食う」に始まり、「カイを救い出す」であるとか「ゾーマを倒す」であるとか「相手のライフをゼロにする」であるとか「金旋で全国統一する」であるとか、勝利条件というものは古今東西無数にある。

敗北条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの負け(ゲームオーバー)」という条件だ。「自機が敵と接触する」や「タイムオーバー」に始まり、「プレイヤーのライフがゼロになる」とか「部屋に入った瞬間すっ飛んできたナイフに刺さる」であるとか「金旋が首を斬られる」であるとか、こちらも古今東西色々ある。


あらゆるゲームは、「勝利条件」と「敗北条件」の設定方法によって4つのパターンに分類出来る。

・勝利条件も敗北条件も両方あるゲーム:「ラスボス」が存在する様々なアクションゲーム、パズルゲーム、シューティングゲーム、格ゲー、またはゲームオーバーが存在するアドベンチャーゲームなど。

・勝利条件はあるが、敗北条件はないゲーム:ドラクエの様な、多くのRPG、戦略シミュレーション。「ゲームオーバー」という概念が存在しないゲーム。

・勝利条件はないが、敗北条件はあるゲーム:バルーンファイトやゼビウスなど、初期〜中期のループゲーム。「ゲームクリア」の概念が存在しないが、ゲームオーバーは存在するゲーム。

・勝利条件も敗北条件もないゲーム:環境シミュレーションなど。どうぶつの森とか。



この辺の話は、つきつめると万里が三回くらい書けそうだ。あまり前置きが長くなるとアレなので、取り敢えずこれくらいにしておこう。

ともあれ、こういった「敗北条件」の変遷の、一つの草分けになったタイトルが「タンクバタリアン」であり、この「バトルシティー」だったのではないかと、私はそんな風に思う訳である。

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posted by しんざき at 17:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月05日

レトロゲーム万里を往くその78 ゲームにおける、「振り出しに戻る」の重要性。


コンティニューが裏技だった時代から、まあ随分遠くにきたもんだなあ。と。


まず、結論から先に書いてみる。

1.「振り出しに戻る」というのは、ゲームの進行、キャラクターの育成などに関して、何らかの方法でリセットすることを指す。昔から、たくさんのゲームがこの「振り出しに戻る」機能を有していた。

2.近年、色んなジャンルのゲームが「育てる」「集める」という要素を内包している。「育てる」「集める」は非常に高い中毒性を期待出来るツールだが、「基本的に面倒くさい」「育つにつれて更に面倒くさくなる」「育つにつれてだんだん飽きてくる」といったマイナス要素とワンセットであることが多い。

3.「振り出しに戻る」という機能は、この二つの要素と一見矛盾している様だが、上手く取り込むことが出来ると、「飽きにくい」という物凄く有効な武器になる。

4.特にMMORPGであるとか、「継続して遊んでもらう必要がある」ゲームにおいては、この「振り出しに戻る」機能をいかに上手く取り込むか、ということが一つの生命線になるんじゃないだろうか。



と。先に言いたいことを全部書いてしまったので、上の4つの順番で、以下ざっくばらんに話を進めてみよう。


・「振り出しに戻る」の歴史について。

いや、ぶっちゃけ1980年台のゲームって8割がた「振り出しに戻る」なんですけどね。


ゲームの歴史から言うと、むしろ「振り出しに戻らない」方が後から付け加わった機能だと考えていい。古くはスペースウォーの頃から、ゲームの大多数は「死んだら最初から」となるのが当然だった。ゲームオーバーは「最初からやり直し」という意味だった訳で、感覚としては駆けっこやかくれんぼといった「遊び」と一緒である。

で、一番最初に「残る」を実現した機能が、多分「ハイスコア」というヤツだ。その日プレイしていた人の中で、一番稼いだ人の点数が表示される、アレである。インベーダーの頃にはもう存在した機能だから、少なくとも成立はそれ以前の筈だ。

で、その後、裏技としてのコンティニュー、パスワード方式を経由して、「バッテリーバックアップ」という「振り出しに戻らない方法」が出現した頃から、ぼちぼちゲーム業界は「集める」「育てる」という遊びの有用性を取り入れ始めた。RPGがゲーム業界に隆盛し始める時期と、「育成要素」というものの出現時期は、まあ大体重なっている。経験値稼ぎが、レアアイテム取得が、「やり込み要素」が、段々とその形を明確にしていく訳だ。

この辺については、以前も私は同じ様なことを書いた。手前味噌だが、以下のURLをご参照頂けると幸い。

「集める」ゲーム性と「育てる」ゲーム性
レトロゲーム万里を往く その45 「集める」ゲーム論

ともあれ。「振り出しに戻らないゲーム」が主要なジャンルとして、いつからかゲーム業界に隆盛していったということは言えるだろう。


・「育てる」ゲームの弱点について。

めんどーくさいこと。


一言で終了してしまったが。以前も書いたが、「育てる」「集める」ゲームの最大の弱点は、楽しみを味わっていけばいく程、それ以上楽しむ余地を削ってしまうこと、である。

例えばドラクエで言えば、ある程度以上レベルを上げてしまえば、苦戦する敵というものは殆どいなくなる。それ以降、全ての戦闘は「遊び」から「作業」になってしまう。遊びは楽しいが、作業はあんまりは楽しくない。これが、「育てゲー」の最大の弱点な訳である。FFでも信長でも同じことが言える。

例えばメガテンで言えば。仲魔を集めるのは楽しいが、簡単に強い仲魔集め切ってしまえるとゲームにならない。だから強い悪魔であればある程仲魔にするのは難しい訳だが、これがまた、タイトルによってはやってられないくらいめんどーくさい。ミカエルを、ルシファーを仲魔にしようとした人ならば誰でもわかるだろう。その面倒くささは、一般人を軽く挫折してしまう程のレベルである。


集めるのは楽しい、育てるのは楽しい。だが大抵のゲームの場合、ある程度以上楽しんだその先には高い壁がそびえている。

普通のオフラインタイトルであれば、そんな「壁」は大した問題にはならないのだが、ずーっと継続して遊んでもらうことを前提に考えられているオンラインRPGなんかでは、実は結構この「壁」が重大な問題になってくると思うのだ。ROも、FFも、ある程度以上の強さのプレイヤーは「廃人」と称される。人生捨てる程の覚悟がないと到達出来ない領域が存在する、ということだ。遊び続けている内に「廃人になるか、ならないか」という選択肢をプレイヤーに突きつけるのは、収益性という側面からは可能な限り避けたい。


・じゃあ解決法はなんだろう。

「振り出しに戻る」と「育てる」「集める」を両立させてしまえばいい訳である。


多分、上記二者を両立させている、一つの理想的な例が「不思議のダンジョン」シリーズだろう。「育成」という要素を飽くまで保持しつつ、プレイヤーは「振り出しに戻る」ことを前提としたゲームに何の違和感も感じない。ダンジョンに何百回挑んでも新鮮味が失われない、その要因はひとえに「主人公が死ねば装備・レベルがリセットされる」という一点に尽きる。その一方で、「育てた武器を残す方法もある」ということは、プレイヤーの収集要素を決して減衰させない。

「残る」ものと「消える」ものの両立。結果的に、トルネコやシレンは、育成ゲームでありながら「遊び」の要素を色濃く残した、ローグライクゲームとしても出色のタイトルに育った訳だ。この辺りには学ぶ要素が多いんじゃないかと思う。


ここまで考えて、ふと最近のタイトルを見回すと、上手い具合に「振り出しに戻る」を導入している例が幾つもある。例えばディスガイアやマビノギの転生システム。強さの核になる部分は残しつつレベルを1にリセットして、その後の育てる楽しみを継続する、というのは、プレイヤーのやる気を喚起するという意味では実に上手いやり方だ。

一方、「振り出しに戻す」システムを用意していないゲームとの場合、遊び続けてもらう為には新要素をざくざく投入していく他手段がない。これは、あんまりコストパフォーマンスがよろしくない。



振り出しへの戻し方。最近のゲーム業界を見てると、これ、結構重要なキーワードなんじゃねえかなあ、と私は思った訳である。



ということで。大概長くなったので、今回はこれくらいにしておくことにする。

次回は多分タイトルもの書きます。
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2008年03月19日

レトロゲーム万里を往く その77 ザナック

さてここで問題です。あなたにとって、「ファミコン最高のシューティング」とは何でしょう?


何度か似たようなことを書いているが、それが何であれ、「最高」を決めるのは意外に難しい。「最高のゲーム」などというテーマではより一層その難しさに拍車がかかり、「人の数だけベストゲームがある」というテーゼはあながち誇大でもないんじゃないかと思わせてくれる。

例えばゼビウスやグラディウス、あるいはツインビーといった、ファミコン初期の偉大な移植作を挙げる人がいるかも知れない。スターソルジャーやへクター'87といったキャラバン系シューティングも名前が挙がるだろうし、「烈火」やオーバーホライゾンといったFC後期のタイトルが出てきても不思議ではない。

スカイキッドやイメージファイト、B-WINGやエクセリオンといったタイトルに入れ込んだ人もいるし、アーガスやテラクレスタ、ヴォルガードII辺りも当然アリだろう。ファルシオンやコズミックイプシロンの様な擬似3Dシューティングが候補にあがる可能性だってある。私にとっても、「ファミコン最高のシューティング」というテーマで一つのタイトルを選ぶのは結構難しい。

が、「ファミコン最強のシューティング」という言葉を使うとしたら、私は一つのタイトルを迷いなく挙げることが出来る。

「ザナック」である。

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2008年02月20日

撃墜王の一夜

エース様じゃねぇか。今日は何にする。


返事をする気にもならなかった。上目遣いにバーテンを見上げると、ため息ひとつと一緒にダブルが押し出されてきた。申し訳程度に氷が浮かんだマッカラン。もう何年も、飛んだ後の夜にはこれしか飲んでない。

確かに、パラシュートを積まずに飛んでいるのは、今では俺一人しかいない。勇敢な訳じゃない、むしろ逆だ。パラシュートで降りる羽目になって、無抵抗で宙に浮いている時間が、俺にはとても耐えられないのである。

とどめを刺すも刺さないも敵次第、放っておかれても魚の餌になる確率が5割以上。それくらいなら、自分の意思が及ばない境遇に怯えるくらいなら、一瞬でさっぱり逝く方が遥かにマシだと、俺は本気で思っていた。

その内俺が呼ばれる様になった名が、こともあろうに「レッドバロン」ときた。呼ぶ方も呼ぶ方だが、黙って呼ばれている方も呼ばれている方だ。自覚はある。


風船が何で割れるか、知ってるか、知ってるかよ、おい。


カウンターの右の方、もう十年も空気が動かずに淀み続けている様に見える薄暗い空間から、何やらぼそぼそとした声がした。

横目で一瞥してみると、体の成分の数十パーセントがアルコールで出来ているんじゃないか、と思える様な酒臭いオヤジが、数ミリの安酒が残ったコップに向かってなにやら話しかけている。

バーテンの眉の角度から察するに、さっきからずっと、故障したCDプレイヤーの様に同じことを繰り返している様だった。


ヘリウムガスが詰まってるから、詰まってるからよう、ゴムの表面が張り詰めてるんだよ。膨れてるから割れるんだよ。膨れてなければ割れねぇ、よな、へへ。


オヤジは際限なく、くだらない言葉を垂れ流し続けていた。マッカランを傾ける。

昔は、これを一緒に飲むヤツが、もう一人いた。パラシュートを積んでいなかったもう一人、俺が唯一、自分の上を飛ぶことを許していた男。スコアを争って、お互い数知れない相手を叩き落としていた男。飛行中に落雷に遭って、雲下に姿を消してから、もうそろそろ一年になる。

ヤツの仇名は、確か「ブルース」と言った。これも質の悪い冗談だ。


だがよう、ガスが詰まってない風船は飛べねえ、飛べねえんだよ、水風船にもならねえわな。へへ。飛ぶのが風船の唯一の仕事、風船が風船であろうとしたら、いつかは割れるしかねぇんだよ。因果、因果だよな。


飲み終えた。いつもよりちょっと早いが、これもオヤジの下らない言葉の恩恵だ。

金を置いて、席を立つ。グラスを拭いていたバーテンが、それが義務であるかの様に、こちらにちらりと視線を向けた。目も合わせずに、バーの出口に向かって歩き出す。


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「どういうことだ?これは」

テーブルが一つ置かれたっきりの出撃準備室。目の前にフライト予定図がある。フライト前にこれに目を通すのは、俺達に許された数少ない権利だ。

いつもなら書き込まれている、複数の敵の姿がない。地形図すら書き込みはなく、ただあるのは・・・海と、一面の雷雲。

俺の言葉は、部屋の片隅の魚眼レンズに向かって放たれたものだったのだが、勿論魚眼レンズも、その向こうにいる顔を見たこともない誰かさんも、何の言葉も返しはしなかった。いつも通り。


ハメられたか。


多分、俺は目立ち過ぎたのだろう。今まで叩き墜として来た相手の数は、勿論100や200では到底利かない。俺に恨みを持つ人間の数など、数える気にもならない。それでも、いつかはこちらが落とされる立場になるだろうと思っていたし、後ろから撃たれる羽目になるかも知れない、というのも覚悟の内だった。今更動揺はしない。

聞いたことはある。生還不能のミッション。ただひたすら雲海を飛び続け、いつか力尽きて海に落ちるか、落雷に落とされるか、選択肢はその二つだけ。名前は何と言ったか。


風船が風船であろうとしたら、いつかは割れるしかねぇんだよ。因果、因果だよな。


脈絡もなく昨日のオヤジの言葉が思い出されて、勝手に俺の口から笑みがこぼれた。上等じゃないか、という思考がよぎったことは否定出来ない。


いってみるか。


俺は、出撃準備室の窓の外、今から俺が飛ぶことになる空に目をやった。雲海の上には、多分青空がある。終わりのない戦いを越えた後には、一体何があるのだろうか。雷雲を抜けて、終わりのない空を飛び続けて、もう一度、どこかを目指してみようか。墜とされる恐怖とも、墜とす恐怖とも無縁で暮らせるどこかを。


ひとつ、力尽きるまで飛び続けてみようか。

どこかに辿り着くまで飛び続けてみようか。

割れない風船もこの世にはある、ということを見せ付けてやろうか。


二度と戻ってくることのないだろう出撃準備室の、無愛想な雰囲気をもう一瞥すると、俺は相棒のバックパックに手をかけた。今までも、これからも、俺が相棒と呼べるのはこれ一つっきりだ。


背負う。俺の仇名の由来である、二つの赤い風船が翻った。

最後のフライトに向かう。

発射台に歩き出す時、さっきは思い出せなかったミッション名が、唐突に頭の中に浮かび上がってきた。平和な単語だ。戻ることのないミッションには、そんな名前の方がふさわしいのかも知れない。


バルーントリップ。








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このエントリーのタイトルは、本来は「レトロゲーム万里を往く その76 バルーンファイト」でしたが、不倒城のロジックミスで変換されました。ご了承下さい。
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2008年02月13日

レトロゲーム万里を往く その75 ファイアーエムブレム

ノルダの町近くの山中、とある戦士が斧を片手に傭兵を追い掛け回していたのだが、ある時泉に斧を落としてしまった。

すると不思議なことに、泉の中からたおやかな女神が現れ、こう言われた。

「バーツよ、あなたが落としたのはこちらの使い古しの鉄の斧ですか?それとも武器屋で高く売れるこちらの銀の斧ですか?」

「女神様」

戦士は静かに答えて曰く、

「ぶっちゃけどちらも要らないので、むしろハンマーを下さい」

〜レトロゲーム箴言集「消えたペラティ連続殺人事件」より一部抜粋〜



ワルキューレの時のコピペじゃね?


いや、素で思うのだが、ファイアーエムブレムは何の草分けって「リメイクに伴う悲喜劇」の草分けじゃあるまいか。


最近でこそメタルマックスのアレとかヴァルケンのソレとか、「レトロゲームのリメイク」とそれに伴う色々というのは珍しくもなんともなくなったが、この当時はリメイクもの自体がまだ殆ど見られなかった。ユーザー達は、「移植」と「続編」という二つの単語だけ記憶していればそれで事足りた。

そこにちらほらと「旧ハード作品のリメイク」というものが姿を見せ始めたのが1993年頃の話だ。ある程度手を加えた、「過去の名作」の再利用。スーパーマリオコレクション、ドラクエ1/2、メタルマックスリターンズ辺りと前後して、「ファイアーエムブレム 紋章の謎」が姿を見せた訳である。

家庭用ゲーム史上に現れた「リメイク作品」の影。今回はその辺の話も書いてみようと思う。
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2008年01月22日

レトロゲーBGM子守唄理論・実測編。

レトロゲームの曲は子守唄に最適だ、と思う訳である。


赤ん坊はなにせまだ赤ん坊なので、いま一つ謎なタイミングで泣いたり転がったり叫んだりする。

理由もまあ色々で、おむつが濡れていたり、お腹が減っていたり、眠かったり暑かったり暇だったりする。

想定し得るあらゆる手を尽くしてもいま一つ赤ん坊の機嫌が直らない時、親は歌う訳である。歌って赤ん坊の機嫌を直す訳である。

レトロゲームのBGMの良い点は、幾つかある。

・赤ん坊は総じて「繰り返し」が好きである。レトロゲームのBGMにも短い周期での繰り返しが多い。

・音数が少なく、メロディがシンプルである場合が多い。

・多くの場合、主旋律が分かりやすく口ずさむのが容易である。

・歌ってる側のテンションが上がる。


いいことづくめな訳である。特に最後とか。

ということで、私の脳内メモリーには幸い大量のレトロゲームBGMが蓄積されているので、自分の息子(生後7ヶ月)に実際にレトロゲームBGMを色々歌ってみて、反応を調べてみたよ。

分かりやすい様に、youtubeとかMIDIサイトで聴ける曲はリンクもつけてみるよ。


サラダの国のトマト姫・オープニング〜stage1:オープニングののどかな曲は寝かしつけに最適。小声で歌っているとすぐに目がとろーんとする。ただし、ステージ1に入ってしまうといきなり曲のテンションが上がるので注意。一回寝かしつけに失敗した。MIDIサイト様

パオパオ島へいこう!(パズルボブル):入浴中に歌うと大変喜ぶ。にへらーという表情。寝かしつけにもそこそこ使える。youtube

チャレンジャー一面:同じく、入浴中、機嫌が悪い時などに歌うと喜ぶ曲。基本テンションの高い曲なので、寝かしつけには不向き。you tube

DADDY MULK(ニンジャウォーリアーズ一面):三味線パートだけ喜ぶ。ただ、歌っている時の父親の表情の方を見て喜んでいる可能性も高い。親のテンションが無闇に高いので寝かしつけには不向き。ちなみに、ダライアスシリーズもそれに準ずる。youtube:太鼓の達人 MIDIサイト様

バブルボブルメインBGM:入浴中、頭を洗っていると息子は大変暴れるのだが、この曲を歌うと割とおとなしくなる。寝かしつけにもまあまあ使える。youtube

遥かなる故郷(FF5):あんまり反応がないけど、寝かしつける時には割と適している気がする。親が楽しいのでいいや別に。MIDIサイト様

ハーヴェスト(FF5):入浴中に前奏を始めると、ケラケラ笑って喜ぶ。寝かしつける時には歌ってはいけない。MIDIサイト様

ファンタジーゾーン:一面の曲よりも二面の曲の方が好きらしい。レトロゲームのBGMを歌っていると、脳内の展開と曲の展開が被ることが常である為、頑張って二面まで曲を進める必要がある。youtube


けっきょく南極大冒険:寝かしつける時には結構いい。というかスケーターズワルツなんだけど、まあ細かいことは気にするな。というか、このペンギンは一体秒速何キロで走ってるんだろうな。youtube


悪魔城ドラキュラ・FC版1面:どうも嫌いらしく、歌うとしかめっつらになる。いい曲なんだけどな。ちなみにグラディウスの曲もあんまり好きじゃないみたいです。youtube

ツインビー:青ベルをとると喜ぶ。通常時の曲はあまりお気に召さない様なので、なるべく早くパワーアップしなくてはいけない。もしかするとコナミがあまり好きじゃないのかも知れない。youtube

マッハライダー:ゲームオーバーになった時ちょっと喜ぶ。この曲は一度歌い始めるとなかなか終わらないので大変である。youtube

迷宮組曲:井戸に落ちた時のみ喜ぶ。なるべく早く井戸まで辿り着かなくてはいけない。一応、部屋の中の曲で寝かしつけに成功したこともある。youtube

源平討魔伝:義経に遭った時のみ喜ぶ。周防ルートを通らざるを得ない。youtube


スペランカー:開始直後にエレベーターから落ちた時のみ喜ぶ。youtube


今後も逐次情報を収集する予定。選曲が偏ってるのは仕様なのでまあ気になさるな。

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2008年01月16日

レトロゲーム万里を往く その74 「失望」のゲームデザイン


私が思うに、シューティングの醍醐味はなんといっても「自機がやられた時」である。


グラディウスで、ビッグコアのレーザーに接触した時のビッグバイパーの爆発音。ファンタジーゾーンのオパオパが飛散する時の効果音。ダライアス外伝で、シャコのばら撒き弾の前にボンバーが尽き、弾避けに力尽きた時の悲哀。我々は、時として「クリアした時」以上に、自機の消失というイベントを強く胸に焼き付けられている。


およそ、ありとあらゆるゲームジャンルの中で、シューティング程「ノーミスクリア」という単語の比重が高いジャンルは他にないだろう。ダラ外しかり、グラディウスしかり、R-TYPEしかり、シューティングをある程度やりこむ人は、大抵の場合「ノーミスクリア」というものを一つの目標に据える。別に神業でもスーパープレイでもない、ごく一般的なゲーマーが一般的に目指す目標として、「ノーミスクリア」というものが存在しているのだ。


これは、シューティングというゲームジャンルにおいて、「ミス」「自機の消失」というイベントが、物凄く重大な事件であることを示している、と私は考える。


・「失望」と「達成」の揺れ幅について。

あるゲームを評価する際、その尺度のひとつに「「失望」をどう演出しているか」というものがある、という気がしている。失望の演出がうまいゲームは面白い。麻薬的な面白さといってもいい。


それは何でかというに。人間の精神が、「触れ幅」に凄く敏感だから、ではあるまいか

ちょっとゲームと話がずれるが、以前、恋愛のコツ的な話で「感情体積を増やす」という話を読んだ。以下、参照リンクである。

異性をほぼ確実に落とす方法
とすると、ずっと「いい人」は差分が0点。
「いい人」が「すごくいい人」になっても差分30点。
「悪い人」と「すごくいい人」を『繰り返す』人は何百点でも稼げてしまう。

多分、根っこは同じ様な話なのかなあ、と。

ゲームにおいて何かに失敗し、あるいは何かを得ることが出来ずに、失望する。失望が強く胸に焼き付けられる。この失望があってこそ、何かに成功し、何かを得た時の喜び、興奮が倍増する。これが、ゲームにおける「達成感」の構造なんではないか、と私は推測するのである。


別に上の話はシューティングに限らないのだが、シューティングというジャンルには、分厚い「失望の地層」とでも言うべきものが体積している様な気がする。ジャンル自体が失望というものに関する根強いテンプレートをもっていると思うのだ。

シューティングにおける典型的な「失望デザイン」というものは、ざっと以下の様な感じである。

・ミスした時の自機の弱体化。純粋に難易度が激増するケース。
・稼ぎの問題。ミスが得点の低下に直結するケース。残機がボーナス点に加算される場合など。


一昔前には、

・ミスした際の復活形式。

というものもあった。自機がやられるとちょっと前まで戻されて、弱体化した件もあいまって復活にエラい苦労を強いられた、アレである。残機潰しによる得点稼ぎとか、バトルガレッガみたいな例外もあるが、シューティングにおける「失望」のゲームデザインは基本的に一様であり、しかも極めて有用だ。ここでは、「失望」という要素はゲームデザインの中に完璧な形で組み込まれている。

そしてこれこそが、シューティングというゲームジャンルにおける、麻薬的な魅力を生み出すソースの一つになっているんじゃないだろか、と私は思う。


・「失望のデザイン」いま・むかし。

ちょっとシューティングというジャンルから離れてみよう。

例えば、RPGでいうとウィザードリィにおけるキャラクターのロスト(消失)だとか。ヴァンパイアロードに2レベルも3レベルもドレインされたりだとか。

ロンダルキアの洞窟で、進んでも進んでも落とし穴に落ち、さっぱり先に進めなかったりだとか。

苦労に苦労を重ねてラスボスまで辿り着き、MP切れでこてんこてんにフルボッコにされたりだとか。

全滅すると所持金が半分になる、といったペナルティも、「失望のデザイン」のよくある様式の一つだろう。


いわゆる「集めゲー」においては、試行回数が量的な失望を演出している。倒しても倒しても出ないレアアイテム。探しても探しても出現しないレアモンスター。会心の一撃を何度決めても仲間にならないはぐれメタル。

試行回数が高まるごとに、「量としての失望」ゲージが上がっていき、これがあればこそ目的のアイテムを見つけた時の達成感が麻薬的なものになる。近年のMMOなんか、大体のタイトルがこの要素を取り入れているんじゃないだろうか。行き過ぎてMMO廃人とか量産しちゃうと色々とアレだが。


話は勿論RPGに限らない。SLGだろうがパズルゲームだろうがアクションゲームだろうが、「達成感」を演出しているゲームは、多かれ少なかれ「失望」という要素をゲームデザインの中に含んでいる。テトリスで赤ブロックがさっぱり出現せずに画面をブロックが埋め尽くすことだって、ドルアーガでイシターとサキュバスを勘違いしてZAPされることだって失望の内だ。


これらの「失望デザイン」は、色んな分類が可能だと思う。例えば、それがリカバリの効くものなのかどうか。プレイヤーに与える衝撃度はどの程度か。実際に失われるものは何か。

ウィザードリィが全世界で愛された理由の一つは、このゲームにおける「失望」が時として絶対に取り返せないものであり、それ故にプレイヤーの心中に強烈な印象を残したからじゃあないか、と私は思ったりもする訳だ。


・そしてプレイヤーは、新たな失望へ歩みだす。

敢えてもってまわった言い方をすると、良質な失望は、決して絶望には転化しない。


失望しても失望しても、その向こうにある「達成」をプレイヤーに求めさせてしまうタイトルこそが、「麻薬的な名作」と称されるべきだろう。開発者があの手この手で用意した「失望」という要素を、私は愛好する。その向こうにどんな「達成」が待っているのか、楽しみでならないからである。


次に私が出会う失望はどんな形をしているだろう。


以下、まとめてみる。


・ゲームを評価する軸の一つとして、「失望」をどう演出しているか、というものがある気がする。
・何故かというに、「失望」と「達成」の触れ幅は、強烈な面白さとしてプレイヤーの印象に残るからである。
・「失望」の演出が上手いゲームは、ハマリ者を大量生産する。
・シューティングは、ジャンル自体が「失望」というものに対するゲームデザインを内包しており、すげえ面白いと思う。
・ここまでOK?よし、じゃあそろそろPゾーンのクラスティハンマーに突っ込んでみようか。


シューティング衰退してないよシューティング。少なくとも私んちでは。

参照:のとーりあす なぜシューティングは衰退したのか

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2008年01月09日

レトロゲーム万里を往く その73 マッピー

私は、自分の発想力にそれ程信をおいていない。


故に、「ねずみ年だから取り敢えずマッピー」などという発想は安易極まると断定してしまってよかろう、と思った。こんな安易な発想は、Webでは既にJOIN THE CREWばりに氾濫しまくっており、年賀状用のフリー素材は見渡す限りマッピーの図案に埋め尽くされ、エントリーをあげてしまったが最後「スパム書くなハゲ」などという論難が滝の様に私のブログに押し寄せるのではあるまいか、と私は怯えていた訳である。戦々恐々としていた訳である。

しかし、まずはぐぐる先生にお伺いを立てた所、思った程ページが引っかからない。どうも、「ネズミ→マッピー」という即決論理回路を構築している人材は、世にそれ程多くはない様なのである。


何故だ。ネズミと言えばマッピーだろ、どう考えても。ゲゲゲの鬼太郎だの浦安の魔法の国の話なんかしている場合じゃないだろ。こら、そこの君、勘違いするな。ソニックはハリネズミであってネズミではない。レミーのおいしいレストラン?なんスかそれ。宮沢賢治スか。

我々には余りにもマッピー分が不足している。我々は手に入るだけのマッピーを必要としているのである。


ともあれ、どうやら私のブログが「スパム書くなハゲ」という書き込みで大炎上する恐れはそれ程ない様なので、安心して安易なネタを書くことにする。


今年はネズミ年であり、ネズミと言えばマッピーである。


「マッピー」。アクションゲーム。1983年、ナムコより業務用発売。翌1984年には「ギャラクシアン」「パックマン」「ゼビウス」などのタイトルに続く移植作としてファミコンで発売され、遊びやすく、かつ奥深いアクションと、印象的でコミカルなキャラクターによって幅広いユーザーに好評を博した。

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2007年12月05日

レトロゲーム万里を往く その72 SDガンダム ガチャポン戦士2 カプセル戦記

武者ゼータを倒せる気がしない。


おかしい。何かがおかしい。私が得意とする戦術は元来遊撃戦であって、主戦線から外れた所でこっそり百式やR=ジャジャ辺りを進軍させておいて、長駆敵の本陣をつくのが勝ちパターンであった筈である。百式級が3体もあれば、昔なら勝負はついていた筈なのだ。

ところがどうだ、百式3体はビームナギナタとファンネルの前に一矢すら報いずに圧殺され、敵陣のガチャベースで急遽生産してきたドライセンは敵のバリアを外すことも出来ずに2秒で瞬殺、あまつさえνガンダムすら余裕で食われた。これは一体どんなチートだ。それとも武者Zにダグラス・カイエンでも乗っておるのか。続き描け、いや描いてください永野護。

まあ分析するに、今考えるべきは「私がファンネルつきのMSにからきし勝てなくなっていること」ではなく、「「作戦名星一号」というマップに何故ギラドーガがわらわらひしめいているのか」ということですらなく、百式やリックディアスが自力で大気圏を離脱出来るのはちょっとどうなんだ、ということなのである。いや、私が知らないだけで、ちょっと根性入れればザクでもグフでも大気圏の一つや二つ離脱出来るのか知らんが。


ということで、今回は一見するとガンオタっぽい用語が飛び交いますが、すいません、実はしんざきあんまりガンダム見たことがありません。私の知識は基本的に、ゲーム版のSDガンダムシリーズとWikipedia由来です。なるべくボロが出ない様気をつけて知ったかぶります。

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2007年10月24日

レトロゲーム万里を往く その71 俺達がレトロゲームから間違って教わったこと


ROMカートリッジには、人生を誤解させる内容がたくさん含まれている。

そう、俺達は忘れていたんだ。人生は8ビットだけで構成されている訳じゃない、ウソテクも含まれているんだってことを。


・ファミコンジャンプが俺達に間違って教えたこと

よく訓練されたゴールキーパーはサイヤ人や北斗神拳伝承者を瞬殺出来る。


・三國志が俺達に間違って教えたこと

郭図は顔良より強い。

世の中の大抵のトラブルは火計で解決する。

訓練は他にすることがない場合にやること。


・ロックマン3が俺達に間違って教えたこと

スライディングをすると歩くより速い。

崖に落ちても、2コンの左キーを押しっぱなしにすれば何とかなる。


・ゼビウスが俺達に間違って教えたこと

どんなに堅いものでも、256発殴れば壊せるよ!壊せるよ!


・魔界村が俺達に間違って教えたこと

墓場はデートスポット。

パンツ一丁で敵に攻撃されると人は白骨化する。


・ドラゴンバスターが俺達に間違って教えたこと

人間はどれだけ高い所から落ちても割と平気である。


・スーパーマリオブラザーズが俺達に間違って教えたこと

人間はどれだけ高い所から落ちても割と平気である。


・けっきょく南極大冒険が俺達に間違って教えたこと

よく訓練されたペンギンは、素で走っても音速を越える。


・ぺんぎんくんWARSが俺達に間違って教えたこと

ビーバー >>>>>>>>>>(越えられない壁) >>>>>>>>>>> パンダ


・忍者龍剣伝やシャドーダンサーが俺達に間違って教えたこと

忍者たるもの、単身敵に突っ込んで、二百や三百全滅させてなんぼ。


・ファミリーベーシックが俺達に間違って教えたこと

インタプリタ用のスタック領域は、ゲームを作る場合にはためらわずにがんがん使うべき領域。

出来る限りコードは省略するべきもの。コードの再読性などというヌルいものは不要。


・キャプテン翼2が俺達に間違って教えたこと

語尾に「たい」をつければ大体の日本語は九州弁になる。

よく訓練されたストライカーは、シュートを打った時ゴールキーパーを含めた4人を吹っ飛ばして、ゴールのネットを突き破ることが出来る。

ドライブシュートが許されるのはグレミオ戦までよねー。キモーイ。

って、「ドライブシュートは俺には効かないぜ」ってサッカーの台詞としては何か間違っている様な気がする。テニスの王子様って実はゲーム版のキャプテン翼を参考に書かれてないか?


・るろうに剣心が俺達に間違って教えたこと

二重の極み。


最後のはレトロゲームと関係ない気もするな。

前回の続き

すいません、次回から普通の万里に戻ります。

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2007年10月20日

レトロゲーム万里を往く その70 レトロゲームが俺達に教えてくれたこと。

人生において大事なことは、みんなROMカートリッジが教えてくれた。

そう、俺達の人生は、実は8ビットで出来ているんだ。


・迷宮組曲が俺達に教えてくれたこと。(人生の基本編)

結局のところ、世の中金である。

手っ取り早く大金を得るには裏技を使うしかない(コンティニュー連打楽器箱)。

音楽は人生に潤いを与えてくれる。

潤いは所詮、金である(音符をお金に換算)。

井戸の中に落ちると超危ない。

雷に当たると超危ないけど、まあ二、三回なら案外なんとかなる。

人気があるヤツの真似をすると話題になる。(タイトル画面で高橋名人的連射)


・ウィザードリィが俺達に教えてくれたこと。(人生の厳しさ編)

首をはねられると大抵のヤツは死ぬ。

人は基本的に一人では生きていけない。(あっという間に死ぬから)

でも、ある程度以上強いヤツなら一人でも十分生きていけたりする。

人間の善悪なんて、選択一つでころころと変わる程度のものである。

人間、どんなヤツでも死ぬ時は死ぬ。ロストする時はロストする。

げんこつを食らうと即死する。

見た目が可愛いと思って油断していると首をはねられるから超危ない。(ボーパルバニー)


・ロックマン2が俺達に教えてくれたこと。(人生の交渉術編)

目的を達成するには根回しが重要である。(ボスを倒す順番)

交渉事をクリアするには、相手の弱点を的確につくべき。

役に立たないと思っていた人が、最後の最後で凄い働きをすることがある。(バブルリード)

ラスボスだと思っていた人を乗り越えても、必ずその後にもう一人真のラスボスがいる。


・シティコネクションが俺達に教えてくれたこと。

車の運転超危ない。

猫をいじめると呪われる。

パトカーを怒らせない方が人生平和である。


・ドラゴンズレアが俺達に教えてくれたこと。

時にはあきらめることも必要である。


・コンボイの謎が俺達に教えてくれたこと。

時にはあきらめることも必要である。


・ツインビーとファンタジーゾーンとグラディウスが俺達に教えてくれたこと。

スピードの出し過ぎは死ぬから超危ない。


・アイスクライマーが俺達に教えてくれたこと。

ヤラレル前ニヤレ。


・スペランカーが俺達に教えてくれたこと。

薬物ダメ。ゼッタイ。(死ぬから)

エレベーターから飛び降りるのは超危ない。

爆弾が爆発する時に同じ画面にいると結構死ぬ。

人間、つまづいて転んだだけで死ぬ時もある。

洞窟に安易な気持ちで入ってはいけない。(死ぬから)

職業選択をミスると色々と苦労する。


・俺達が高橋名人に騙されていたかも知れないこと。(16連打編)

高橋名人の16連打すげえ!というプロパガンダ。

毛利名人の14連打も、速度では高橋名人には劣るけど正確性ですげえ!というプロパガンダ(良く考えると連打の正確性ってなんだろう)

いつの頃からか、「人間の限界は16連打」的な無意識的限界値を植えつけられてしまっていた俺達

実はちょっと頑張れば18連打くらい簡単にいけるんじゃないか?←今ここ

連射測定機で死ぬ気で連射してみる

結果が9連打で絶望する。



最後のは何か違う気もするな。

次回は「レトロゲームが俺達に教えてくれなかったこと」の予定。(かどうかは知らない)

(追記 07/10/24)------------------------------------------
続き。

posted by しんざき at 14:46 | Comment(9) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月02日

レトロゲーム万里を往く その69 サラダの国のトマト姫と、ハドソン帝国の盛衰



すいません、「サラダロンに食わせる」っていうコマンドないですか?>柿っぱち
(インゲンボムを食わせる>柿っぱち でも可)

アドベンチャーゲームにおける助手の必要性、というものにはちょっと論じる価値があるんじゃないかと思う。古くはポートピアにおけるヤスに始まり、デッドゾーンにおけるフォジー、さんまの名探偵におけるさんま、ミシシッピー殺人事件のワトソンからメタルスレイダーのエリナに至るまで、無口無反応な主人公に代わって感情表現をしてくれる助手は古今東西たくさんいる(エリナはちょっと違うが)。

そんな中でも、勝手に荷物持ちをして片っ端から所持品を落としてくれる柿っぱちはなかなか異彩を放っている。PC版ではいなかったんですよこいつ、覚えてますか?


まあ、置いといて。


サラダの国のトマト姫。アドベンチャーゲーム。1988年5月、ハドソンよりFC版発売。1984年に発売された同名の8ビットPC版タイトルの移植であり、「デゼニランド」からの路線であったシークワード式のゲームから、殆ど別物に近い程のアレンジが施されていた。

登場キャラクターは二人を除いて全員擬人化野菜、主人公はキュウリの戦士でお供は柿の少年「柿っぱち」、トマト姫からナスの護衛に至るまで、世界観はメルヘンチックに統一されている。当時、その特徴的なビジュアルから、女の子への人気も割と高かったという話を聞く。

特筆すべきは、どの場面をとっても素晴らしいBGMと「とんがった」部分の無い丁寧な語り口とビジュアルで、派手な印象こそないが非常に高いレベルでまとまったAVGだった。PCものの移植ということを考えても、そのアレンジ具合は「最適化」というにふさわしい。迷宮組曲と並んで、ハドソンオリジナルタイトルの傑作と評するべきだろう。

後述するが、ハドソンのゲームって、キャラクターもの(高橋名人含む)とそれ以外のゲームの出来の差が総じて激しい様に思う。ファンの方には申し訳ないが、私にはBugってハニーとこのゲームを同じメーカーが作ったとはとても信じられない。

画面写真を参照出来るサイト様があった。ちょっと引っ張ってみる。
サラダの国のトマト姫(ファミコン版)攻略チャート

取り敢えずゲームの話をしよう。

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2007年09月08日

レトロゲーム万里を往く その68 シリーズものゲームの「追加」「複雑化」を科学する。

ちょっと予定変更。今回はちょっと個別タイトルを離れて、ゲーム業界に大氾濫している「シリーズもの」の展開について、古きを思いて新しきを知ってみようぜ、というお話。


およそ、シリーズものが陥りやすい罠は、「複雑化・高難度化して客・新規離れ」に尽きる。

大体において、続編が作られる様なタイトルには、ある程度以上の数のファンがいるに決まっているのだ。当然ファンは、前作・元祖の記憶を引きずりながらも、前作以上の面白さを期待する。

この「記憶」というのが厄介だ。シリーズものの優位な点は「前作が面白かったから今度も面白いだろう」という意識に他ならず、前作が好きだった人こそが最大のマーケット、という事情の故に、あまり根本的にゲームを変える訳にもいかない。

一方で、開発者は「なんだよ、前作と全然変わってねえじゃん」とか「前作の方が面白かった」などという期待外れとも闘わなくてはいけない。

つまり、「前作の面白さ」は強力な武器であると同時に、最大の敵でもある。

変え過ぎてもいけないし、そのまんまでもいけない。

この過酷な縛りの為に、多くの続編は「前作を大きくは変えずに、色んな要素をちょこちょこ追加していく」という方針で作られざるを得なかったのだ。シリーズものが複雑化していくのは、実は宿命的な問題なのである。

じゃあ、この宿命から逃れる為にはどうすりゃいいんでしょ、という話になる。多分方法は二つしかない。「丁度いい範囲での「追加」を模索する」か、「「追加」以外のゲームの作り方を考える」の二通りである。

順番に考えてみよう。


1.丁度いい「追加」を考える。


上の縛りにハマった典型的な例が、多分格ゲー業界だろう。多くの格ゲーのシリーズものは、「基本的には変わらないシステム+次から次へと新要素」という作られ方をしていって、最後には肥大した追加要素に耐え切れずに自沈していった。

といっても、およそあらゆるシリーズものの初期には、成功した続編がつきものである。格ゲーの場合、スト2ダッシュやターボのヒットがなければ、業界そのものが成立しなかった。何で「初期の続編」はヒットするかというと、変化の「相対量」は大きいけど「絶対量」が少ないからだ。

スト2ダッシュの例で言うと、実はあのゲーム、ちょちょいとバランスがいじられて四天王が追加されただけで、後は殆ど前作と変わらなかった。それでも空前の大ヒットをした理由は、当時は「その程度の変化だけで十分驚天動地の変化だったから」に他ならない。

絶対量で見ればそれ程変わっていないので、前作ファンがこぞって100%楽しむことが出来る。相対量では物凄く変わっているので、前作ファンがこぞって「前作よりすげえ」と感じることが出来る。ドラクエやFFの二作目三作目も同じ様な事情だった。

つまり、「追加要素」という道を選んだ時の理想的な続編とは、「相対量では大きな変化だけど、絶対量で見るとそれ程でもない」という作り方である、ということがまずはいえそうだ。


これ、言うまでもなく難しい。シリーズが重なれば重なる程、一作品辺りの「変化の相対量」は目減りしていく。ちょっとやそっとの変化量ではユーザーを誤魔化せなくなっていく開発者は、ガンガン追加要素を加えていかざるを得ない。KOF然り、飢狼しかり。この辺考えると、格ゲー業界の最大の悲劇は「それ程システム的に発展性はないのに、続編作りまくって引っ張り過ぎました」という一点に尽きる様な気がする。

ちなみに、RPG業界も似た様なことになっている様な気はする。こっちは、システムの複雑化というよりはプレイ時間の増加が敷居を高くしてる様にも思うけど。


と、あんまり意味がないなあと思ったところで、もう一つの手法。


2.「追加」以外での続編の作り方を考えてみる。

幸いなるかな、われわれは過去の例を考えてみることが出来る。続編でゲーム性ごとものすげえ方向転換をしてみましたというタイトルは、かつて星の数程存在した。

この変遷をジャンルごと体験したのは、おそらくアドベンチャーゲームだろう。ポートピアの時にも書いたが、かつては「単語探しゲーム」だったアドベンチャーゲームは、ある時期を境に「コマンド総当り+テキストを楽しむゲーム」という凄まじい方向転換を行った。代表的な例が「サラダの国のトマト姫」だろう。

この変化は、コマンドに対応するテキスト量の純増という方向に向かい、更に方向性を突き詰めた「サウンドノベル」に流れこんでいくことになる。これは、変化というよりは単純化という方向に向かったゲームの好例であり、何かの解決法がここにあるんじゃないか、とか漠然と感じるところがある。

「パックマン」→「パックランド」の方向も瞠目するべきものがあった。ドットイートゲームにさくっと見切りをつけて、作られた横スクロールアクションは珠玉の職人芸。ワルキューレの冒険→伝説の例も鑑みると、ナムコの底力を感じずにはいられない。ファミスタ?知らん。

SDガンダム2(戦闘画面はアクション)→SDガンダム3(ガンダム版大戦略)の変化も大きかった。評判はいまひとつだったのか、SDガンダムXで元の鞘に納まった時は大評判だったけど。ああ、先祖がえりって手法も有用かも知れないな。


と、ここまで例を挙げてみるとお分かりかと思うが、われわれは当然源平討魔伝にも触れる必要があるだろう。アーケード版での超ド級和風アクションが、どういう訳かボードゲーム風RPGへの華麗なる転進。あれは衝撃的な続編だった。私自身は、「月風魔伝」が既に発売されていたということが、このゲームが生まれた理由ではないかなーと想像するのだが、まあ細かい話はこちらをご参照頂きたい。

あ、そろそろこの項の結論出す時間ですか。そうですか。続編の作り方に困ったら、いっそ全部国取りボードゲーム(フィギュアつき)にしてしまうというのが斬新でいいんじゃないかな、って感じで。



・まとめ。

ということで、変化が大き過ぎてもいけないし、小さ過ぎてもいけないし、いずれにせよ複雑化し過ぎるとまずいよね、ということになると開発者さんの苦労が偲ばれる。

取り敢えず、アドベンチャーゲームが辿った「ゲーム性転換→単純化」という道は、ちょっと他のジャンルとは違う様に思えるのだな。つまり、足し算ではなく、引き算の続編という可能性だ。

次回万里では、ハドソンの例のアレなんかを主題にして、この辺についてもうちょっと考えてみたいと思う。
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2007年09月01日

レトロゲーム万里を往く その67 ダウンタウン熱血行進曲 それゆけ大運動会

「ば、馬鹿な、この俺を道連れに!」
「こ、今度ばかりはタネはありません。ほ、本当にさよならです!!」
「すがたーーーっ!!(爆弾パンチでごうだを巻き込んでリングアウト)」


このゲームに対する個人的イメージ。



正直なところ、テクノスジャパンすげー勿体無かった。

FC中期〜後期において、データイーストから分派した彼らが作ったアクションゲーム・スポーツゲームって凄い質が高かったと思うんだけど、どういう訳か「ダブルドラゴン」「くにおくん」以外のタイトルでは鳴かず飛ばず。

その二つのシリーズにおいても、SFCでの華々しいスタートに若干失敗した感のある「くにおたちの挽歌」、落ちものに特攻して撃沈した「くにおのおでん」、完全な対戦格闘となったけど微妙に外してしまったネオジオ版「ダブルドラゴン」辺りで失墜し、二大看板を失ったテクノスジャパンはさくっと倒産してしまった。

「ファイナルファイト」系のゲームだけでは生き残れないという経営判断があったんだと思うんだが、ダウンタウンシリーズであそこまで明確に培ったノウハウがあったのだから、いっそSFCでもデフォルメ系アクションゲーム路線に突っ走れば良かったんじゃないかとか強く思う。いや、すごろクエストも割と好きでしたけどね。

それはそうと、「熱血行進曲」についてである。
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posted by しんざき at 22:10 | Comment(6) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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