まず最初に、ちょっと「昔のスクウェア」について考えてみたい。
現在は「株式会社スクウェア・エニックス」であるところの旧スクウェアは、1983年に設立され、1985年からファミコンに対してゲームタイトルを供給し始めた。最初のタイトルはゲームアーツ開発の「テグザー(1985年12月)」、翌年に続いたのは「フォーメーション…RP…G…?」と思わずユーザーを唸らせた「キングスナイト(1986年9月)」であった。
少年シーフというカテゴリのトビーたんが一部で人気を集めたが、RPGというジャンルの印象を固め始めていたユーザー達は、一見縦スクロールSTGのようにしか見えない同タイトルに首を捻ったという(要出典)
これとほぼ同じ時期、スクウェアは複数のPCゲームメーカーと手を組んで、「DOG」というブランドを発足している。これはディスクシステムというフィールドにタイトルを提供するゲームメーカー連合であり、パソコン業界で活躍していた複数企業をスクウェアがファミコン業界に呼び込んだ、というような動きだった。スクウェアにとっては結構大きな決断だった筈である。
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2010年02月17日
2009年12月30日
レトロゲーム万里を往く その93 「勝利条件・敗北条件」についての一考察。
ちょっと前にTwitterでもちらっと書いたこと。結構長話になりそうな予感があるので、先に言いたいことのメインパートを書いておく。
・あらゆるゲーム/遊びは4種類に分類出来る気がする。
1.「勝利条件も敗北条件もある」
2.「勝利条件はあるが敗北条件がない」
3.「勝利条件はないが敗北条件はある」
4.「勝利条件も敗北条件もない」
・勝利条件も敗北条件も、プレイ時間/遊び時間を区切る機能がある。ゲーム業界での話で言えば、例えばMMORPGはプレイ時間を長くしたい為、それ自体の勝利条件、敗北条件はない場合が多い。逆にゲーセンのゲームは特に敗北条件が厳密なことが多い。
・勝利条件はプレイヤーに達成感・爽快感を与えるものであり、また「ストーリー」があった場合それを完結させる為のものでもある。
・敗北条件はプレイヤーに敗北感・悔しさを与える為のものでもある。
・適切な「勝利条件」や「敗北条件」があるとゲームがとても面白くなる。
・3は遊びの一番原始的な形に近いと思うが、少なくともゲーム業界では、3に該当するゲームは随分前から少なくなっている様な気がする。これは、「達成感を自前で設定する」という遊び自体が受け入れられ辛くなっていることのあらわれかも知れない。
よし、言いたいことは大体言ったぞ。
ということで、以下は補論。
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・あらゆるゲーム/遊びは4種類に分類出来る気がする。
1.「勝利条件も敗北条件もある」
2.「勝利条件はあるが敗北条件がない」
3.「勝利条件はないが敗北条件はある」
4.「勝利条件も敗北条件もない」
・勝利条件も敗北条件も、プレイ時間/遊び時間を区切る機能がある。ゲーム業界での話で言えば、例えばMMORPGはプレイ時間を長くしたい為、それ自体の勝利条件、敗北条件はない場合が多い。逆にゲーセンのゲームは特に敗北条件が厳密なことが多い。
・勝利条件はプレイヤーに達成感・爽快感を与えるものであり、また「ストーリー」があった場合それを完結させる為のものでもある。
・敗北条件はプレイヤーに敗北感・悔しさを与える為のものでもある。
・適切な「勝利条件」や「敗北条件」があるとゲームがとても面白くなる。
・3は遊びの一番原始的な形に近いと思うが、少なくともゲーム業界では、3に該当するゲームは随分前から少なくなっている様な気がする。これは、「達成感を自前で設定する」という遊び自体が受け入れられ辛くなっていることのあらわれかも知れない。
よし、言いたいことは大体言ったぞ。
ということで、以下は補論。
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2009年12月09日
レトロゲーム万里を往く その92 ナッツ&ミルク
ナッツ「ドンキーコングのレディよりはヨーグルの方が正統派ヒロインっぽいんじゃないだろうか」
ミルク「カービィの中の人って俺じゃね?」
(「レトロゲーム箴言集「シャドウ・オブ・ハドソン」(民明書房刊)」より一部抜粋)
ファミコンにおける「ステージエディット」というものは一体何だったのか、ということをちょっと考えてみる。
説明するまでもないかも知れないが、ステージエディットというものは、例えばパズルゲームや固定画面アクションゲームなどで、自分の好きな様にステージを作成出来るという機能である。プレイヤーは、例えば難易度が高いマゾステージであるとか、逆に目をつぶっていてもクリア出来るヌルステージ、敵を徹底的にイジめ倒すことが出来るサドステージなど、様々なステージを作成することが出来る。
初期から中期のファミコンタイトルには、このステージエディット機能がついたゲームがぽつりぽつりと見られる。ぱっと思いつく感じ、1985年までの間に、ステージエディット機能がついているゲームは少なくとも5本出ている。ロードランナー、エキサイトバイク、レッキングクルー、バトルシティ、そしてナッツ&ミルクである。
ナッツ&ミルク。固定画面型アクションゲーム。1984年7月28日、ハドソンより発売。ファミコンにおける、記念すべき初のサードパーティ発(つまり任天堂以外から発売された)タイトルであり、また初の「ステージエディット」機能を盛り込んだゲームでもあった。3日後に同じくハドソンから発売された「ロードランナー」と並んで、ファミコン黎明期におけるハドソンのスタートダッシュを下支えした佳作タイトルの一角だったと言っていいだろう。ファミコン発売の年である1983年から少なくとも丸二年、ファミコン業界は任天堂とナムコ、そしてハドソンを中心に回っていたのである。
まずは関連リンクを。
ゲーム自体については、いつものことだが、Wikipediaに詳しい。
Wikipedia:ナッツ&ミルク
こちらのページでは画面も参照頂くことが出来る。素晴らしい見易さである。
ナッツ&ミルク
さて、ゲームの話をしよう。
・僕達が「アルゴリズム」に出会った日。
ナッツ&ミルクは固定画面型アクションゲームである。プレイヤーは、まんじゅうに足が二つついた様な独特のデザインをした主人公「ミルク」を操り、顔色が悪い敵キャラ「ナッツ」をジャンプで避けたり誘導して海に放り込んだりして避けながら、ステージ中の果物アイテム(バナナとリンゴのみという極めて健康的なチョイスである)を集め、ゴール地点である恋人「ヨーグル」の家を目指す。
ミルクは攻撃手段を持っていない。徒手空拳孤立無援のミルクに出来るアクションは、ただ移動とジャンプのみ。その為、ゲームの中心は「ミルクをひたすら追い掛け回すナッツをいかに避け、果物を集めるか」という点に終始する。
そのゲーム性として、「ドンキーコング」や「ドンキーコングJR」、「ポパイ」などと比較されるのはやむを得ないところだろう。「基本的には倒せない敵キャラ」「クリアの過程でアイテムを集める」「ヒロイン(JRの場合にはヒロインは父コングだが)のところに辿り着く」といった要素も、先行するタイトルと通じるところがある。「鬼ごっこ」的なゲーム要素が、アクションゲームとしては一番原始的な形だと考えることも出来るだろう。
ナッツ&ミルクが先達と大きく異なるのは、「50ステージ」という当時としては常識外れに膨大なステージ数と、ラウンドスキップ(セレクトボタンを押すことによってその面を飛ばすことが出来た)やボーナスステージなどの様々な追加要素にあるだろう。「ステージセレクト」的な要素が初めてファミコン業界に姿を現したタイトルでもあった。
ゲームとしてのナッツ&ミルクの特徴は、二つの要素に集約されると思う。つまり、「ジャンプによるパズル要素」と、「ナッツの行動予測」である。
ジャンプがジャンプアクションの根幹になるのは当然だが、このゲームにおけるジャンプは「ナッツをかわす手段」であると同時に、「得点稼ぎの方法の一つ」でもあり、「スプリングと絡めてパズル的な地形を突破する為のテクニック」でもある。
ナッツをジャンプで飛び越えるとボーナス点が入る。これは、「回避」という行動自体に報酬がつくことで、後述する「いかにナッツの行動を読むか」という流れにプレイヤーを呼び込むことに通じる。
また、通常のジャンプは1マス分しか飛ぶことが出来ないが、タイミングを合わせると2マス分の距離を飛び越えることが出来る、というのもこのゲームを奥深くしていた要素の一つだろう。50ステージどのマップをとっても、ジャンプというテクニックの使い方を考えないステージはなく、その「考えられた配置」の完成度は高い。
そしてもう一つ、「ナッツの行動予測」というものが、このゲームの「肝」であると私は考える。
ナッツは通常何も考えずにミルクを追いかけるだけの動きをするのだが、例えばある条件下では全く逆の方向に動いたり、ある地形上ではミルクの縦軸を先に追いかけたりと、様々な意味で「面白い」動き方をする。これを利用して、やがてプレイヤーは「ナッツをおびき寄せておいて、あるタイミングで一点突破する」であるとか、「ロープの上でナッツを誘導して、上手い事画面下に叩き落す」といった、相手の動きを予想した戦術というものを学習していくことになる。
すぐ後に発売された「ロードランナー」、そして11月の「パックマン」と並んで、「敵がこの後どういう風に動くか」ということを予想する、という楽しみ方をプレイヤーに提供した初めてのファミコンゲームである、と私はこのゲームを評価している。この一点において、ポパイやドンキーコングはナッツ&ミルクに一歩を譲るだろう。ロードランナーなどに比較すればその知名度では劣るが、ナッツ&ミルクも確かに、アクションゲームの根っこの近くに位置するタイトルの一つなのである。
・で、ステージエディットの話。
凄く端的に言うと、「データレコーダの為に追加された機能」なんじゃないかなあ、とか邪推してしまうのですが。
参照:ザ・周辺機器ズ様
ナッツ&ミルクが発売されたのは1984年7月28日。これに先立って、6月21日に任天堂より発売されたのが、いわずと知れたファミリーベーシックである。
ファミリーベーシック自体については以前もちらっと書いた。重要なのは、これと前後してファミコン用のデータレコーダ(カセットテープにゲームやベーシックのデータを記録する為の周辺機器)が発売されたことであり、おそらく任天堂はある程度MSX(ファミコンと同時期に発売された、低価格PCの規格。ゲームも出来る)を意識していたのではないか、という憶測である。
覚えていらっしゃる方も多いとは思うのだが、ファミコン初期には「ゲームのデータを保存する」こと事態が容易なことではなかった。当時はまだバッテリーバックアップも出現しておらず、フラッシュメモリなどカゲもカタチもない。パスワードコンティニューすらまだ一般的ではなかった(初出は多分85年のフラッピーだと思う)時代である。
そんな折、ベーシックの別売り付属機器として発売されたデータレコーダは、当然のことながらユーザーがせこせこと打ち込んだベーシックのプログラムを保存する為の機械だった訳なのだが、当時ベーシックを使いこなせるお子様は当然それほど多くなく、データレコーダが普及するには「他の使い道」がどうしても必要になる。当たり前である。
で、その「他の使い道」を提供する為に打ち出されたものの一つがハドソンと任天堂タッグによる「ステージエディット」である、という側面は意外にあったりするんじゃないかなあ、と私は推測(というか邪推)するのだがどうだろうか。
「ハードが先にあり、そこからゲームの要素が作りこまれる」というのは別に全然珍しいことではなく、例えばファミコンのタイトルには「マイク」を使った遊び方が導入されたゲームが山ほどある。とはいえ、このゲームの「データレコーダ対応」という要素については些か政治的なタイムリーさを見ざるを得ず、そういう意味では、「高橋名人の為に追加された」同じくハドソンの迷宮組曲、タイトル画面の連射機能を個人的には連想したりするのである。
少なくとも、当時ベーシックで打ち出された「自分でもゲームが作れる」という方向性をある程度意識した機能である、という推測は外れてはいるまい。バトルシティは確かデータレコーダ対応してなかった気がするけど。
もっとも、このしばらく後に「バッテリーバックアップ」という機能が一般化し、ターボファイルなどという超強力なライバル付属機器も現れ、データレコーダはあっさり時代の孤児となってしまう訳ですが。技術の進歩というものは、かくも速い。
勿論、上記のような邪推とは何の関係もなく、ステージエディットはそれ自体「とても面白い」要素ではあった。イラストのような色とりどりのステージを作ることも出来れば、本格的なパズル要素に挑戦することも出来る。
ナッツをブロックで囲んで外に出られなくしたりであるとか、海の上に配置してステージ開始早々延々と海中に没し続けるナッツを見て楽しむであるとか、そういった残酷な少年的遊び方をした人も当時は結構いたのではあるまいか。子供の創作意欲を刺激するメニューであったことは確かな事実だろう。
エディット機能は、後のファミスタや倉庫番などに受け継がれつつ、より機能の高いハードへと流れ込むことになる。
ということで、大概長くなったので今回はこの辺りで締めることにする。
次回はまたタイトルもの万里の予定です。
ミルク「カービィの中の人って俺じゃね?」
(「レトロゲーム箴言集「シャドウ・オブ・ハドソン」(民明書房刊)」より一部抜粋)
ファミコンにおける「ステージエディット」というものは一体何だったのか、ということをちょっと考えてみる。
説明するまでもないかも知れないが、ステージエディットというものは、例えばパズルゲームや固定画面アクションゲームなどで、自分の好きな様にステージを作成出来るという機能である。プレイヤーは、例えば難易度が高いマゾステージであるとか、逆に目をつぶっていてもクリア出来るヌルステージ、敵を徹底的にイジめ倒すことが出来るサドステージなど、様々なステージを作成することが出来る。
初期から中期のファミコンタイトルには、このステージエディット機能がついたゲームがぽつりぽつりと見られる。ぱっと思いつく感じ、1985年までの間に、ステージエディット機能がついているゲームは少なくとも5本出ている。ロードランナー、エキサイトバイク、レッキングクルー、バトルシティ、そしてナッツ&ミルクである。
ナッツ&ミルク。固定画面型アクションゲーム。1984年7月28日、ハドソンより発売。ファミコンにおける、記念すべき初のサードパーティ発(つまり任天堂以外から発売された)タイトルであり、また初の「ステージエディット」機能を盛り込んだゲームでもあった。3日後に同じくハドソンから発売された「ロードランナー」と並んで、ファミコン黎明期におけるハドソンのスタートダッシュを下支えした佳作タイトルの一角だったと言っていいだろう。ファミコン発売の年である1983年から少なくとも丸二年、ファミコン業界は任天堂とナムコ、そしてハドソンを中心に回っていたのである。
まずは関連リンクを。
ゲーム自体については、いつものことだが、Wikipediaに詳しい。
Wikipedia:ナッツ&ミルク
こちらのページでは画面も参照頂くことが出来る。素晴らしい見易さである。
ナッツ&ミルク
さて、ゲームの話をしよう。
・僕達が「アルゴリズム」に出会った日。
ナッツ&ミルクは固定画面型アクションゲームである。プレイヤーは、まんじゅうに足が二つついた様な独特のデザインをした主人公「ミルク」を操り、顔色が悪い敵キャラ「ナッツ」をジャンプで避けたり誘導して海に放り込んだりして避けながら、ステージ中の果物アイテム(バナナとリンゴのみという極めて健康的なチョイスである)を集め、ゴール地点である恋人「ヨーグル」の家を目指す。
ミルクは攻撃手段を持っていない。徒手空拳孤立無援のミルクに出来るアクションは、ただ移動とジャンプのみ。その為、ゲームの中心は「ミルクをひたすら追い掛け回すナッツをいかに避け、果物を集めるか」という点に終始する。
そのゲーム性として、「ドンキーコング」や「ドンキーコングJR」、「ポパイ」などと比較されるのはやむを得ないところだろう。「基本的には倒せない敵キャラ」「クリアの過程でアイテムを集める」「ヒロイン(JRの場合にはヒロインは父コングだが)のところに辿り着く」といった要素も、先行するタイトルと通じるところがある。「鬼ごっこ」的なゲーム要素が、アクションゲームとしては一番原始的な形だと考えることも出来るだろう。
ナッツ&ミルクが先達と大きく異なるのは、「50ステージ」という当時としては常識外れに膨大なステージ数と、ラウンドスキップ(セレクトボタンを押すことによってその面を飛ばすことが出来た)やボーナスステージなどの様々な追加要素にあるだろう。「ステージセレクト」的な要素が初めてファミコン業界に姿を現したタイトルでもあった。
ゲームとしてのナッツ&ミルクの特徴は、二つの要素に集約されると思う。つまり、「ジャンプによるパズル要素」と、「ナッツの行動予測」である。
ジャンプがジャンプアクションの根幹になるのは当然だが、このゲームにおけるジャンプは「ナッツをかわす手段」であると同時に、「得点稼ぎの方法の一つ」でもあり、「スプリングと絡めてパズル的な地形を突破する為のテクニック」でもある。
ナッツをジャンプで飛び越えるとボーナス点が入る。これは、「回避」という行動自体に報酬がつくことで、後述する「いかにナッツの行動を読むか」という流れにプレイヤーを呼び込むことに通じる。
また、通常のジャンプは1マス分しか飛ぶことが出来ないが、タイミングを合わせると2マス分の距離を飛び越えることが出来る、というのもこのゲームを奥深くしていた要素の一つだろう。50ステージどのマップをとっても、ジャンプというテクニックの使い方を考えないステージはなく、その「考えられた配置」の完成度は高い。
そしてもう一つ、「ナッツの行動予測」というものが、このゲームの「肝」であると私は考える。
ナッツは通常何も考えずにミルクを追いかけるだけの動きをするのだが、例えばある条件下では全く逆の方向に動いたり、ある地形上ではミルクの縦軸を先に追いかけたりと、様々な意味で「面白い」動き方をする。これを利用して、やがてプレイヤーは「ナッツをおびき寄せておいて、あるタイミングで一点突破する」であるとか、「ロープの上でナッツを誘導して、上手い事画面下に叩き落す」といった、相手の動きを予想した戦術というものを学習していくことになる。
すぐ後に発売された「ロードランナー」、そして11月の「パックマン」と並んで、「敵がこの後どういう風に動くか」ということを予想する、という楽しみ方をプレイヤーに提供した初めてのファミコンゲームである、と私はこのゲームを評価している。この一点において、ポパイやドンキーコングはナッツ&ミルクに一歩を譲るだろう。ロードランナーなどに比較すればその知名度では劣るが、ナッツ&ミルクも確かに、アクションゲームの根っこの近くに位置するタイトルの一つなのである。
・で、ステージエディットの話。
凄く端的に言うと、「データレコーダの為に追加された機能」なんじゃないかなあ、とか邪推してしまうのですが。
参照:ザ・周辺機器ズ様
ナッツ&ミルクが発売されたのは1984年7月28日。これに先立って、6月21日に任天堂より発売されたのが、いわずと知れたファミリーベーシックである。
ファミリーベーシック自体については以前もちらっと書いた。重要なのは、これと前後してファミコン用のデータレコーダ(カセットテープにゲームやベーシックのデータを記録する為の周辺機器)が発売されたことであり、おそらく任天堂はある程度MSX(ファミコンと同時期に発売された、低価格PCの規格。ゲームも出来る)を意識していたのではないか、という憶測である。
覚えていらっしゃる方も多いとは思うのだが、ファミコン初期には「ゲームのデータを保存する」こと事態が容易なことではなかった。当時はまだバッテリーバックアップも出現しておらず、フラッシュメモリなどカゲもカタチもない。パスワードコンティニューすらまだ一般的ではなかった(初出は多分85年のフラッピーだと思う)時代である。
そんな折、ベーシックの別売り付属機器として発売されたデータレコーダは、当然のことながらユーザーがせこせこと打ち込んだベーシックのプログラムを保存する為の機械だった訳なのだが、当時ベーシックを使いこなせるお子様は当然それほど多くなく、データレコーダが普及するには「他の使い道」がどうしても必要になる。当たり前である。
で、その「他の使い道」を提供する為に打ち出されたものの一つがハドソンと任天堂タッグによる「ステージエディット」である、という側面は意外にあったりするんじゃないかなあ、と私は推測(というか邪推)するのだがどうだろうか。
「ハードが先にあり、そこからゲームの要素が作りこまれる」というのは別に全然珍しいことではなく、例えばファミコンのタイトルには「マイク」を使った遊び方が導入されたゲームが山ほどある。とはいえ、このゲームの「データレコーダ対応」という要素については些か政治的なタイムリーさを見ざるを得ず、そういう意味では、「高橋名人の為に追加された」同じくハドソンの迷宮組曲、タイトル画面の連射機能を個人的には連想したりするのである。
少なくとも、当時ベーシックで打ち出された「自分でもゲームが作れる」という方向性をある程度意識した機能である、という推測は外れてはいるまい。バトルシティは確かデータレコーダ対応してなかった気がするけど。
もっとも、このしばらく後に「バッテリーバックアップ」という機能が一般化し、ターボファイルなどという超強力なライバル付属機器も現れ、データレコーダはあっさり時代の孤児となってしまう訳ですが。技術の進歩というものは、かくも速い。
勿論、上記のような邪推とは何の関係もなく、ステージエディットはそれ自体「とても面白い」要素ではあった。イラストのような色とりどりのステージを作ることも出来れば、本格的なパズル要素に挑戦することも出来る。
ナッツをブロックで囲んで外に出られなくしたりであるとか、海の上に配置してステージ開始早々延々と海中に没し続けるナッツを見て楽しむであるとか、そういった残酷な少年的遊び方をした人も当時は結構いたのではあるまいか。子供の創作意欲を刺激するメニューであったことは確かな事実だろう。
エディット機能は、後のファミスタや倉庫番などに受け継がれつつ、より機能の高いハードへと流れ込むことになる。
ということで、大概長くなったので今回はこの辺りで締めることにする。
次回はまたタイトルもの万里の予定です。
2009年11月10日
レトロゲーム万里を往く その91 キン肉マン マッスルタッグマッチ
ブロッケンJr「ベルリンの赤い雨ーーーっ!」
ロビンマスク「・・・・・・」
うん、Jrなのに何故か毒ガス殺法なんだ。すまない。
多分なのだが、対戦格闘ゲームのルーツを辿っていくと、割と根っこの近くにファミコンのタイトルが何本かあると思う。
ことファミコンに関する限り、多分「格ゲー」の元祖的な存在はアーバンチャンピオンだ。横から見た一対一の殴り合い。上パンチ、下パンチ、強弱パンチなどの使い分け。そこには確実に対戦格闘のルーツがあった。
次に来るのがおそらくイーアルカンフーだと思う。以前も書いたが、左右に分かれた体力ゲージに、ローキック、ハイキック、中段パンチ、足払いなどなどの「通常技」の数々。この辺りのフォーマットは殆ど今の格ゲーと変わることはなく、「今の格ゲーに近い」という視点で言えば、ファミコン版のイーアルカンフーは業務用のそれとほぼ遜色ない。
で。その次に来たマッスルタッグマッチでは一体何が起きたんでしょう、というのが今回の万里のテーマな訳である。
キン肉マン マッスルタッグマッチ。対戦型アクションゲーム。1985年11月、バンダイよりファミコンで発売。同名のド級人気コミックをゲーム化した作品であり、プレイヤーはキン肉マンやらアシュラマンやらブロッケンJrやらウォーズマンやらを操り、2Dのリングの上で、相手をぶんなぐったり跳び蹴ったり必殺技を使ったりして叩きふせる。
バンダイのファミコン参入第一作品にして、バンダイ初のミリオンセラーとなったソフトの筈である。そしておそらく、国外アニメである「ポパイ」「ポパイの英語遊び」を除けば、ファミコン史上初の「キャラゲー」だったともいえるだろう。以後バンダイは、様々なアニメやコミックを下敷きにしたキャラゲーを連射し、ファミコン業界に様々な悲喜劇をもたらすことになる。
まずは参照リンクを。
ゲーム自体に関してはいつも通りWikipediaに詳しい。
Wikipedia:キン肉マン マッスルタッグマッチ
攻略を含めたゲーム情報についてはこちらのページが白眉だろう。画面写真も参照頂ける。
「キン肉マン マッスルタッグマッチ」攻略
さて、ゲームの話にいこう。
・マッスルタッグマッチに見る「キャラ差」のルーツ。
ファミコン黎明期、「二人で同時に遊べるゲーム」というタイトルはまだ意外と少なかった。その中でも、「対戦」というものをメインに据えたゲームは、はっきりと少数派だった。例えばマリオブラザーズ。例えばアイスクライマーやバルーンファイト、クルクルランド。これらはいずれも「対戦も出来ます」というスタンスのゲームデザインであり、ゲームの本筋は飽くまで協力プレイだった。
「サッカー」や「ゴルフ」の様な一部のスポーツゲームを除くと、それこそ「対戦ゲーム」と呼べるものはごく希少なものだったといえるだろう。85年中盤くらいまでは、アーバンチャンピオンくらいだったのじゃないだろうか。
そして、これら全てのタイトルの共通点は、「1Pも2Pも性能は同じ」という原則である。そこには、「友達同士公平に遊べるように」という理念が見え隠れしていた、と思う。
私が考える限り、マッスルタッグマッチが「対戦格闘」というジャンルにもちこんだものはたった一つ。「キャラ差」である。
先述した通り、マッスルタッグマッチには複数の超人が登場する。その数は8人。キン肉マン、テリーマン、アシュラマン、ラーメンマン、ロビンマスク、ブロッケンJr、ウォーズマン、バッファローマンがその面子である。バージョンによってはジェロニモがいたりペンタゴンがいたりするらしいがまあそれは別にいい。
で、これらの超人は一人一人性能が違う。ミートくんがリング上下から投げる「命の玉」をとることによって使用出来る必殺技も違う。スピードはとろいが必殺技は強いテリーマンやブロッケンJrであるとか、スピード速くてハメ手があるが通常技のどれかが弱いウォーズマンやバッファローマンであるとか。
対戦をするにあたって、ウォーズマンとキン肉マンでは明らかな性能差があった。命の玉をとったテリーマンに、キン肉マンやブロッケンJrで近づくことは死を意味していた。これは、それまでの2Pゲーにおける「1Pでも2Pでも公平に」という理念とは、全く異質のゲーム性だった。
つまりこのゲームは、おそらく家庭用史上初のどのキャラを選択するかによって有利不利が発生するゲームだったのである。
更に、超人間のキャラ差は様々な駆け引き要素、戦略性をも生み出した。
例えばブロッケンJrは、通常時は足の致命的な遅さが響いてヘタをするとキン肉マン以下の性能だが、命の玉をとれば途端に「唯一の飛び道具キャラ」として輝き出す。テリーマンもほぼそれと同様、「普段は弱いが命の玉をとればヘッドロック連打でほぼ無敵」というキャラである。つまり、ブロッケンやテリーマンは、「通常時をなんとか凌いで、命の玉で一発逆転を狙う」キャラということが出来る。
それに対して、例えばアシュラマンは通常時の性能は非常に良いが、必殺技の阿修羅バスターを対戦で決めるのは非常に難しい。ロビンマスクもほぼそれに順ずる。ラーメンマンはキックに光るものを持っているが、性能を全体的に見ればアシュラマンにおとり、必殺技の空手殺法を使いこなすのも難しい。キン肉マンには余りいいところがない。
ウォーズマンは暴力的なスピードで通常時の立ち回りも隙がなく、必殺技も強力。このゲームをやり始めたばかりの人は、必殺技の強力さに目を奪われて「ブロッケンJr最強」などと言ってしまいがちだが、おそらく最もオールマイティな強さを誇っているのはウォーズマンの筈である。
プレイヤーの得意不得意、ゲームに対する習熟度によってさえ、「どのキャラを選ぶべきか」が変わってくる。後のストIIの対戦ダイアグラムの変遷に通じさえする、この「キャラ差による戦略性の発祥」こそが、キン肉マンマッスルタッグマッチの歴史的意義であると、私はそんな風に思うわけなのである。
・マッスルタッグマッチのグラフィックと音楽。
第一作ということを割り引いて考えれば、正直「ドラゴンボール 神龍の謎」や「オバケのQ太郎」より頑張っていたんじゃねえか、という気がしないでもない。で若干でも製作期間に余裕があったんだろうか。
ちなみに神龍の謎についてはこちらのページをご参照されたい。画面写真を参照可能である。
ドラゴンボール 神龍の謎
マッスルタッグマッチのBGMの話で言えば、タイトル画面の軽快なBGMの印象が濃い。というか、対戦中はBGMがない。まだこの時期はBGMというより「ファンファーレ」というレベルの曲が多かったことを考えると、割と力を入れている方ではないだろうか。
余談になるが、私が思う「ファミコンBGMのトップランナー」はフラッピーである。当時、3種のBGMからゲーム中の音楽を選べるという演出を導入したゲームは他にただの一作もなかった筈だ。PCからの移植だけど。
私にとってのマッスルタッグマッチについて言えば、それは「キャラ差への挑戦」の記憶とほぼイコールになる。必殺技が使いにくいキャラで、どうやってブロッケンJrやテリーマン、ウォーズマンを返り討ちにするか。命の玉をとられた時どんな位置どりで凌ぐか。そういった記憶を考慮すると、少なくとも私にとっては、このゲームは「頭を捻って攻略法を考えた」初めてのゲームだったような気がする。
キャラ差がある故の戦略性。そういった観点から考えると、マッスルタッグマッチも一つの歴史的タイトルだといえるのではないだろうか。
という辺りで今回はここまで。
次回はもうちょっと時代を下って、もしかするとSFC頃のタイトルがメインになるかも知れない。
ロビンマスク「・・・・・・」
うん、Jrなのに何故か毒ガス殺法なんだ。すまない。
多分なのだが、対戦格闘ゲームのルーツを辿っていくと、割と根っこの近くにファミコンのタイトルが何本かあると思う。
ことファミコンに関する限り、多分「格ゲー」の元祖的な存在はアーバンチャンピオンだ。横から見た一対一の殴り合い。上パンチ、下パンチ、強弱パンチなどの使い分け。そこには確実に対戦格闘のルーツがあった。
次に来るのがおそらくイーアルカンフーだと思う。以前も書いたが、左右に分かれた体力ゲージに、ローキック、ハイキック、中段パンチ、足払いなどなどの「通常技」の数々。この辺りのフォーマットは殆ど今の格ゲーと変わることはなく、「今の格ゲーに近い」という視点で言えば、ファミコン版のイーアルカンフーは業務用のそれとほぼ遜色ない。
で。その次に来たマッスルタッグマッチでは一体何が起きたんでしょう、というのが今回の万里のテーマな訳である。
キン肉マン マッスルタッグマッチ。対戦型アクションゲーム。1985年11月、バンダイよりファミコンで発売。同名のド級人気コミックをゲーム化した作品であり、プレイヤーはキン肉マンやらアシュラマンやらブロッケンJrやらウォーズマンやらを操り、2Dのリングの上で、相手をぶんなぐったり跳び蹴ったり必殺技を使ったりして叩きふせる。
バンダイのファミコン参入第一作品にして、バンダイ初のミリオンセラーとなったソフトの筈である。そしておそらく、国外アニメである「ポパイ」「ポパイの英語遊び」を除けば、ファミコン史上初の「キャラゲー」だったともいえるだろう。以後バンダイは、様々なアニメやコミックを下敷きにしたキャラゲーを連射し、ファミコン業界に様々な悲喜劇をもたらすことになる。
まずは参照リンクを。
ゲーム自体に関してはいつも通りWikipediaに詳しい。
Wikipedia:キン肉マン マッスルタッグマッチ
攻略を含めたゲーム情報についてはこちらのページが白眉だろう。画面写真も参照頂ける。
「キン肉マン マッスルタッグマッチ」攻略
さて、ゲームの話にいこう。
・マッスルタッグマッチに見る「キャラ差」のルーツ。
ファミコン黎明期、「二人で同時に遊べるゲーム」というタイトルはまだ意外と少なかった。その中でも、「対戦」というものをメインに据えたゲームは、はっきりと少数派だった。例えばマリオブラザーズ。例えばアイスクライマーやバルーンファイト、クルクルランド。これらはいずれも「対戦も出来ます」というスタンスのゲームデザインであり、ゲームの本筋は飽くまで協力プレイだった。
「サッカー」や「ゴルフ」の様な一部のスポーツゲームを除くと、それこそ「対戦ゲーム」と呼べるものはごく希少なものだったといえるだろう。85年中盤くらいまでは、アーバンチャンピオンくらいだったのじゃないだろうか。
そして、これら全てのタイトルの共通点は、「1Pも2Pも性能は同じ」という原則である。そこには、「友達同士公平に遊べるように」という理念が見え隠れしていた、と思う。
私が考える限り、マッスルタッグマッチが「対戦格闘」というジャンルにもちこんだものはたった一つ。「キャラ差」である。
先述した通り、マッスルタッグマッチには複数の超人が登場する。その数は8人。キン肉マン、テリーマン、アシュラマン、ラーメンマン、ロビンマスク、ブロッケンJr、ウォーズマン、バッファローマンがその面子である。バージョンによってはジェロニモがいたりペンタゴンがいたりするらしいがまあそれは別にいい。
で、これらの超人は一人一人性能が違う。ミートくんがリング上下から投げる「命の玉」をとることによって使用出来る必殺技も違う。スピードはとろいが必殺技は強いテリーマンやブロッケンJrであるとか、スピード速くてハメ手があるが通常技のどれかが弱いウォーズマンやバッファローマンであるとか。
対戦をするにあたって、ウォーズマンとキン肉マンでは明らかな性能差があった。命の玉をとったテリーマンに、キン肉マンやブロッケンJrで近づくことは死を意味していた。これは、それまでの2Pゲーにおける「1Pでも2Pでも公平に」という理念とは、全く異質のゲーム性だった。
つまりこのゲームは、おそらく家庭用史上初のどのキャラを選択するかによって有利不利が発生するゲームだったのである。
更に、超人間のキャラ差は様々な駆け引き要素、戦略性をも生み出した。
例えばブロッケンJrは、通常時は足の致命的な遅さが響いてヘタをするとキン肉マン以下の性能だが、命の玉をとれば途端に「唯一の飛び道具キャラ」として輝き出す。テリーマンもほぼそれと同様、「普段は弱いが命の玉をとればヘッドロック連打でほぼ無敵」というキャラである。つまり、ブロッケンやテリーマンは、「通常時をなんとか凌いで、命の玉で一発逆転を狙う」キャラということが出来る。
それに対して、例えばアシュラマンは通常時の性能は非常に良いが、必殺技の阿修羅バスターを対戦で決めるのは非常に難しい。ロビンマスクもほぼそれに順ずる。ラーメンマンはキックに光るものを持っているが、性能を全体的に見ればアシュラマンにおとり、必殺技の空手殺法を使いこなすのも難しい。キン肉マンには余りいいところがない。
ウォーズマンは暴力的なスピードで通常時の立ち回りも隙がなく、必殺技も強力。このゲームをやり始めたばかりの人は、必殺技の強力さに目を奪われて「ブロッケンJr最強」などと言ってしまいがちだが、おそらく最もオールマイティな強さを誇っているのはウォーズマンの筈である。
プレイヤーの得意不得意、ゲームに対する習熟度によってさえ、「どのキャラを選ぶべきか」が変わってくる。後のストIIの対戦ダイアグラムの変遷に通じさえする、この「キャラ差による戦略性の発祥」こそが、キン肉マンマッスルタッグマッチの歴史的意義であると、私はそんな風に思うわけなのである。
・マッスルタッグマッチのグラフィックと音楽。
第一作ということを割り引いて考えれば、正直「ドラゴンボール 神龍の謎」や「オバケのQ太郎」より頑張っていたんじゃねえか、という気がしないでもない。で若干でも製作期間に余裕があったんだろうか。
ちなみに神龍の謎についてはこちらのページをご参照されたい。画面写真を参照可能である。
ドラゴンボール 神龍の謎
マッスルタッグマッチのBGMの話で言えば、タイトル画面の軽快なBGMの印象が濃い。というか、対戦中はBGMがない。まだこの時期はBGMというより「ファンファーレ」というレベルの曲が多かったことを考えると、割と力を入れている方ではないだろうか。
余談になるが、私が思う「ファミコンBGMのトップランナー」はフラッピーである。当時、3種のBGMからゲーム中の音楽を選べるという演出を導入したゲームは他にただの一作もなかった筈だ。PCからの移植だけど。
私にとってのマッスルタッグマッチについて言えば、それは「キャラ差への挑戦」の記憶とほぼイコールになる。必殺技が使いにくいキャラで、どうやってブロッケンJrやテリーマン、ウォーズマンを返り討ちにするか。命の玉をとられた時どんな位置どりで凌ぐか。そういった記憶を考慮すると、少なくとも私にとっては、このゲームは「頭を捻って攻略法を考えた」初めてのゲームだったような気がする。
キャラ差がある故の戦略性。そういった観点から考えると、マッスルタッグマッチも一つの歴史的タイトルだといえるのではないだろうか。
という辺りで今回はここまで。
次回はもうちょっと時代を下って、もしかするとSFC頃のタイトルがメインになるかも知れない。
2009年09月04日
レトロゲーム万里を往く その90 ルーラとはなんだったのだろうか。
ドラクエ9をやって、ふと思ったこと。過去の話がメインになるので万里で書く。
今回のドラクエでは、通常の職業の人が通常覚える魔法としては「ルーラ」が存在しない。代わりに、シナリオ進行上のとあるポイントで、主人公が無条件に覚える。同じくイベントで習得する5とは違い、9のルーラのMP消費は0であり、必然的に今回のドラクエではルーラが使い放題である。町の中から外に出る時に使うことすら気軽に出来る。超便利。
で、ふと思った。「あー、ここまでもってきたのかあ」と。
ルーラとはそもそも何だったのか、ということについて考えてみたい。
ドラクエにおけるルーラとは移動呪文である。1の時はラダトームに、2では最後に復活の呪文を聞いた場所に、3以降では1度でも立ち寄ったことのある町に、主人公パーティを一瞬で運んでくれる。同一効果は「キメラのつばさ」でも得ることが出来るが、こちらは勿論買うなり取るなりしなければならない。
ルーラがゲーム性に与える影響は、要するに「プレイ時間の短縮」である。ある町からある町へ移動する、その「移動時間」を省略する。その間発生することが想定される敵との戦闘も省略する。「昔行った町」をプレイヤーの視野に入れ続けることによって、ゲーム世界を広く感じさせる、という効能もあるだろう。やはり、ルーラ後の選択画面に街がずらっと並ぶと世界が広く感じられるものだ。
ちょっとここで資料をひいてみよう。
ニコニコ大百科:各作品のルーラ
以下は上記URLからの引き写し。
ドラゴンクエスト
主人公(Lv13)
ドラゴンクエストII
サマルトリアの王子(Lv10)
ドラゴンクエストIII
勇者(Lv7)
魔法使い(Lv12)
ドラゴンクエストIV
勇者(Lv9)
ブライ(Lv10)
マーニャ(Lv9)
ドラゴンクエストV
主人公(イベント習得)
娘(最初から)
エビルマスター(Lv30)
キメラ(Lv24)
ネーレウス(Lv10)
ホークマン(Lv13)
プチターク(Lv40)
ドラゴンクエストVI
主人公(Lv8)
バーバラ(Lv8)
はぐれメタル(Lv5)
魔法使い(職業Lv3)
はぐれメタル(職業Lv4)
ドラゴンクエストVII
主人公(Lv8)
メルビン(最初から)
魔法使い(職業Lv3)
ドラゴンクエストVIII
主人公(ゆうきスキルLv1)
ククール(最初から)
インデントが汚い点は勘弁していただきたい。注目したいのは、キャラクターの横に書いてある「ルーラを覚えるレベル」だ。
主人公のレベルとゲームの進行は大体シンクロするものだ。そこから「ゲーム進行上のどの辺でルーラを覚えるのか」を考えると、大雑把にいって「大体序盤から中盤にゲームが遷移する辺り」という共通点が見て取れる。もう少しいってしまうと、(1はちょっと例外だが)「世界が広がる辺り」という表現が妥当だろう。
例えばドラクエIIの例で言えば、サマルトリアレベル10というのは、まあ大体ムーンペタのある大陸に移って、ムーンブルク王女を仲間にして、船のあるルプガナを目指そうか、という辺りのレベルと考えていい。ドラクエ3のレベル7というのは、アリアハン大陸を抜けてロマリアに辿り着けるか着けないか、という辺りだろう。ドラクエ4であれば船のあるコナンベリーが視界に入る頃だし(当然だが、低レベルクリアの方々のようなプレイは想定していない)5のルラフェンは言うまでもなく、結婚イベントで船が手に入る直前だ。
この辺は、当然のことながらゲームデザイン上の調整であり、勿論「狙って」やっているのだろうと推測出来る。
ドラクエにおける「世界の広げ方」の管理はかなり厳密である。最初移動出来るのは極めて限定された範囲(例えばアリアハンとかローレシアとか)で、徐々にプレイヤーをゲームに慣らしていき、その後「次の大陸」という形で一気に行動範囲が広がり、そして船が手に入ることによってほぼ世界全域が行動範囲に含まれる。ただしこれは飽くまで「徒歩の延長」としての話であって、ラーミアや気球のような「敵との戦闘をすっ飛ばしてどこでも移動出来る手段」が手に入るのは、一部の例外を除いてほぼゲームの最終盤なのだ。
逆の言い方をすれば、ドラクエでは「敵をすっ飛ばせる移動手段」が最後の最後まで手に入らない。この状態で世界をめぐると、「ただ世界を回る」だけでも非常に手間がかかる。折角世界が広がったのに、例えば昔行った街にふと立ち寄る為に、プレイヤーはわざわざキメラの翼を買わなくてはいけない。
そこでタイミングよく「ルーラ」という移動手段を得ることによって、プレイヤーは既存の行動範囲内であればほぼ制約なしに動き回ることが出来るようになる。広がった世界を十分に堪能できる。
そこから考えると、ドラクエにおけるルーラというものは、いわば「世界を広げる為のエクスキューズ」として動作している、といえるのではなかろうか。
9におけるルーラは、レベルとはまるで無関係に「世界が広がる直前(転職が可能になり、ツォの浜→サンマロウを経て船が手に入る)」で習得することが出来、しかもMP消費がないので非常に容易に「昔行った街」に立ち戻ることが出来る。「ルーラの思想」を更に推し進めるとこういう形になるのかあ、などと私は妄想する訳なのである。
ちなみに、9においては過去シリーズと異なり、セントシュタインという街が非常に重要というか、ある種の「ゲームの基盤」的な役割を果たしている。おそらくその辺のところも考慮されたゲームデザインなのだろうと思う。
話は変わる。
ドラクエと対比しやすい存在として、当然のことながらファイナルファンタジーがある。FFにはいわゆる「ルーラ」の様な移動呪文が存在しない。フィールドでセーブ出来るという事情もあるが、それ以上に大きいのが、FFにおける「敵と戦闘せずに移動出来る手段」の(ドラクエと比較しての)気安さ、豊富さである。
例えばFFIIにはチョコボがいる。飛行艇もある。FFIで飛行艇が手に入るリュカーン砂漠もゲーム全体から見れば中盤だし、IIIに至ってはゲーム序盤から飛行艇が手に入り、以後展開に沿って複数の飛行艇を乗り継いでいくことになる(暫くは色々と制約があったり乗れない時期があったりするが)。4でも5でも6でも、かなり早い段階から「敵をすっ飛ばして移動出来る手段」が手に入るのである。
その代わり、ファイナルファンタジーシリーズでは「ストーリーの展開の一環として」世界が広がる、という傾向が強い。例えばIIでは竜巻発生前と後で世界の様相がほぼ変わるといっていいし、3は浮遊大陸前と後、4は地底世界と月世界、5でも6でもストーリーの進行によって世界の様相がまるで変わる。
こうして考えると、ドラクエとファイナルファンタジーは、「世界の広げ方」というものについてかなり異なった思想をもって作られているのではないか、という結論が導けそうだ。こちらについてはまた改めて、もうちょっと具体的に考えてみる。
今回のドラクエでは、通常の職業の人が通常覚える魔法としては「ルーラ」が存在しない。代わりに、シナリオ進行上のとあるポイントで、主人公が無条件に覚える。同じくイベントで習得する5とは違い、9のルーラのMP消費は0であり、必然的に今回のドラクエではルーラが使い放題である。町の中から外に出る時に使うことすら気軽に出来る。超便利。
で、ふと思った。「あー、ここまでもってきたのかあ」と。
ルーラとはそもそも何だったのか、ということについて考えてみたい。
ドラクエにおけるルーラとは移動呪文である。1の時はラダトームに、2では最後に復活の呪文を聞いた場所に、3以降では1度でも立ち寄ったことのある町に、主人公パーティを一瞬で運んでくれる。同一効果は「キメラのつばさ」でも得ることが出来るが、こちらは勿論買うなり取るなりしなければならない。
ルーラがゲーム性に与える影響は、要するに「プレイ時間の短縮」である。ある町からある町へ移動する、その「移動時間」を省略する。その間発生することが想定される敵との戦闘も省略する。「昔行った町」をプレイヤーの視野に入れ続けることによって、ゲーム世界を広く感じさせる、という効能もあるだろう。やはり、ルーラ後の選択画面に街がずらっと並ぶと世界が広く感じられるものだ。
ちょっとここで資料をひいてみよう。
ニコニコ大百科:各作品のルーラ
以下は上記URLからの引き写し。
ドラゴンクエスト
主人公(Lv13)
ドラゴンクエストII
サマルトリアの王子(Lv10)
ドラゴンクエストIII
勇者(Lv7)
魔法使い(Lv12)
ドラゴンクエストIV
勇者(Lv9)
ブライ(Lv10)
マーニャ(Lv9)
ドラゴンクエストV
主人公(イベント習得)
娘(最初から)
エビルマスター(Lv30)
キメラ(Lv24)
ネーレウス(Lv10)
ホークマン(Lv13)
プチターク(Lv40)
ドラゴンクエストVI
主人公(Lv8)
バーバラ(Lv8)
はぐれメタル(Lv5)
魔法使い(職業Lv3)
はぐれメタル(職業Lv4)
ドラゴンクエストVII
主人公(Lv8)
メルビン(最初から)
魔法使い(職業Lv3)
ドラゴンクエストVIII
主人公(ゆうきスキルLv1)
ククール(最初から)
インデントが汚い点は勘弁していただきたい。注目したいのは、キャラクターの横に書いてある「ルーラを覚えるレベル」だ。
主人公のレベルとゲームの進行は大体シンクロするものだ。そこから「ゲーム進行上のどの辺でルーラを覚えるのか」を考えると、大雑把にいって「大体序盤から中盤にゲームが遷移する辺り」という共通点が見て取れる。もう少しいってしまうと、(1はちょっと例外だが)「世界が広がる辺り」という表現が妥当だろう。
例えばドラクエIIの例で言えば、サマルトリアレベル10というのは、まあ大体ムーンペタのある大陸に移って、ムーンブルク王女を仲間にして、船のあるルプガナを目指そうか、という辺りのレベルと考えていい。ドラクエ3のレベル7というのは、アリアハン大陸を抜けてロマリアに辿り着けるか着けないか、という辺りだろう。ドラクエ4であれば船のあるコナンベリーが視界に入る頃だし(当然だが、低レベルクリアの方々のようなプレイは想定していない)5のルラフェンは言うまでもなく、結婚イベントで船が手に入る直前だ。
この辺は、当然のことながらゲームデザイン上の調整であり、勿論「狙って」やっているのだろうと推測出来る。
ドラクエにおける「世界の広げ方」の管理はかなり厳密である。最初移動出来るのは極めて限定された範囲(例えばアリアハンとかローレシアとか)で、徐々にプレイヤーをゲームに慣らしていき、その後「次の大陸」という形で一気に行動範囲が広がり、そして船が手に入ることによってほぼ世界全域が行動範囲に含まれる。ただしこれは飽くまで「徒歩の延長」としての話であって、ラーミアや気球のような「敵との戦闘をすっ飛ばしてどこでも移動出来る手段」が手に入るのは、一部の例外を除いてほぼゲームの最終盤なのだ。
逆の言い方をすれば、ドラクエでは「敵をすっ飛ばせる移動手段」が最後の最後まで手に入らない。この状態で世界をめぐると、「ただ世界を回る」だけでも非常に手間がかかる。折角世界が広がったのに、例えば昔行った街にふと立ち寄る為に、プレイヤーはわざわざキメラの翼を買わなくてはいけない。
そこでタイミングよく「ルーラ」という移動手段を得ることによって、プレイヤーは既存の行動範囲内であればほぼ制約なしに動き回ることが出来るようになる。広がった世界を十分に堪能できる。
そこから考えると、ドラクエにおけるルーラというものは、いわば「世界を広げる為のエクスキューズ」として動作している、といえるのではなかろうか。
9におけるルーラは、レベルとはまるで無関係に「世界が広がる直前(転職が可能になり、ツォの浜→サンマロウを経て船が手に入る)」で習得することが出来、しかもMP消費がないので非常に容易に「昔行った街」に立ち戻ることが出来る。「ルーラの思想」を更に推し進めるとこういう形になるのかあ、などと私は妄想する訳なのである。
ちなみに、9においては過去シリーズと異なり、セントシュタインという街が非常に重要というか、ある種の「ゲームの基盤」的な役割を果たしている。おそらくその辺のところも考慮されたゲームデザインなのだろうと思う。
話は変わる。
ドラクエと対比しやすい存在として、当然のことながらファイナルファンタジーがある。FFにはいわゆる「ルーラ」の様な移動呪文が存在しない。フィールドでセーブ出来るという事情もあるが、それ以上に大きいのが、FFにおける「敵と戦闘せずに移動出来る手段」の(ドラクエと比較しての)気安さ、豊富さである。
例えばFFIIにはチョコボがいる。飛行艇もある。FFIで飛行艇が手に入るリュカーン砂漠もゲーム全体から見れば中盤だし、IIIに至ってはゲーム序盤から飛行艇が手に入り、以後展開に沿って複数の飛行艇を乗り継いでいくことになる(暫くは色々と制約があったり乗れない時期があったりするが)。4でも5でも6でも、かなり早い段階から「敵をすっ飛ばして移動出来る手段」が手に入るのである。
その代わり、ファイナルファンタジーシリーズでは「ストーリーの展開の一環として」世界が広がる、という傾向が強い。例えばIIでは竜巻発生前と後で世界の様相がほぼ変わるといっていいし、3は浮遊大陸前と後、4は地底世界と月世界、5でも6でもストーリーの進行によって世界の様相がまるで変わる。
こうして考えると、ドラクエとファイナルファンタジーは、「世界の広げ方」というものについてかなり異なった思想をもって作られているのではないか、という結論が導けそうだ。こちらについてはまた改めて、もうちょっと具体的に考えてみる。
2009年08月19日
レトロゲーム万里を往く その89 ファミコン業界・長い長いタイトル群の夕べ。
とてもどうでもいい話。
先日、とある知人とふとした拍子に、「ゲオポリティク島における国家興亡論(アイレムからの発売中止タイトル)」についての話になった。どんな拍子だ、ということに関しては気にしないで頂きたい。
で、その知人が「ファミコンにそんな長いタイトルのゲームがあったのか!」とか言ったので、「未熟ものめが、ファミコンは長いタイトルのゲームだらけじゃ」と応えた。その時私の脳裏にあったのは、「アルゴスの戦士 はちゃめちゃ大進撃」や「ダウンタウン熱血曲それゆけ大運動会」などであった。
で。後になってよく考えてみると、それどころじゃないシリーズが結構あるんじゃないか、という気がしてきた。
そう、ヤツの名は探偵神宮寺三郎。探偵神宮寺三郎新宿中央公園殺人事件。長い。これは長すぎる。
単純にひらがなに直してみる。
たんていじんぐうじさぶろうしんじゅくちゅうおうこうえんさつじんじけん。34文字。
すげー。ことファミコン業界に限れば、これを越えるタイトルは余り多くないんじゃないだろうか。
以下、長いんじゃないかなーと個人的に思いついたタイトル。飽くまで思いついたものを後から検証した順であって、タイトル一覧を精査している訳ではないので、抜けがある可能性は多分にある。ちなみに、文字数のルールは、「サブタイトルまで全て含めた上で、読みに従ってひらがなに直した時の純粋な文字数」である。
まず、当初思いついたものを幾つか。
「アルゴスの戦士はちゃめちゃ大進撃」。
あるごすのせんしはちゃめちゃだいしんげき。20文字。ダメですアルゴス。全然届きません。
「元祖西遊記スーパーモンキー大冒険」。
がんそさいゆうきすーぱーもんきーだいぼうけん。22文字。サブタイトルなしと考えていると健闘している部類か。食料制限はもう少し緩くしてくださいお願いです。
「ファミコン探偵倶楽部2 後ろに立つ少女前編」。
ふぁみこんたんていくらぶつううしろにたつしょうじょぜんぺん 29文字。くそ、2をつうと読んでも30文字に届かないのか。
「SDガンダムワールドガチャポン戦士スクランブルウォーズ」。
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしすくらんぶるうぉーず 31文字。くう、30文字の壁はなんとか突破したが、まだ届かない。SDをスーパーデフォルメと読めば一応突破可能だが、流石に商品名を読みかえるのは反則だろう。
それじゃこれでどうだ。
「ダウンタウンスペシャル くにおくんの時代劇だよ全員集合」。
だうんたうんすぺしゃるくにおくんのじだいげきだよぜんいんしゅうごう 33文字。
なんてこった。本命と思われた時代劇すら神宮寺に届かないのか。強しデータイースト。厚き神宮寺の壁。何故我々はヤツを越えられないのか。タバコは今後も吸い続けるのか。
というところで、もう一本思いついた。確かこれは正式タイトルの筈だ。
「なんてったってベースボール 子ガメカセット'91年開幕編」。
なんてったってべーすぼーるこがめかせっときゅうじゅういちねんかいまくへん 36文字。
おお、きた。やっときました。流石の神宮寺も子ガメカセットには勝てなかった。でもこれ本当にタイトルなのか。なんかズルい気もするな。
というところで、もう一本強力なのがいた。
「SDガンダムワールド ガチャポン戦士5 BATTLE OF UNIVERSAL CENTURY」
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしふぁいぶばとるおぶゆにばーさるせんちゅりー 42文字
うおおすげえ。40文字越え来ました。流石SDガンダム、流石シリーズもの。でもバトル画面はアクションの方が正直良かった気がする。システム自体は後の「ギレンの野望」とかに流れこんでそうですな。
と、取り敢えず観測範囲内ではこれくらいが最大文字数でした。DSとかに話を広げるともっと色々出てくるみたいだけど。FC業界では暫定チャンピオン42文字。
以下は思いついたタイトルの羅列。一応文字数順。読みにくいが勘弁していただきたい。繰り返すが、多分抜けはたくさんある。特に30文字以下は。
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしふぁいぶばとるおぶゆにばーさるせんちゅりー 42文字
なんてったってべーすぼーるこがめかせっときゅうじゅういちねんかいまくへん 36文字
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしふぉーにゅーたいぷすとーりー 35文字
たんていじんぐうじさぶろうしんじゅくちゅうおうこうえんさつじんじけん 34文字
だうんたうんすぺしゃるくにおくんのじだいげきだよぜんいんしゅうごう 33文字
にしむらきょうたろうみすてりーすーぱーえくすぷれすさつじんじけん 32文字
あどばんすどだんじょんずあんどどらごんずぷーるおぶれいでぃあんす 32文字
なんてったってべーすぼーるこがめかせっとおーびーおーるすたーへん 32文字
ながぐつをはいたねこせかいいっしゅうはちじゅうにちだいぼうけん 31文字
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしすくらんぶるうぉーず 31文字
ほくとのけんふぉーしちせいはけんでんほくとしんけんのかなたへ 30文字
えすでぃーせんごくぶしょうれつでんれっかのごとくてんかをとれ 30文字
たんていじんぐうじさぶろうよこはまこうれんぞくさつじんじけん 30文字
やまむらみささすぺんすきょうとはなのみっしつさつじんじけん 29文字
ふぁみこんたんていくらぶつううしろにたつしょうじょぜんぺん 29文字
だうんたうんねっけつこうしんきょくそれゆけだいうんどうかい 29文字
ぷろやきゅうふぁみりーすたじあむはちじゅうななねんどばん 28文字
びーばっぷはいすくーるこうこうせいごくらくでんせつ 25文字
ほくとのけんつうせいきまつきゅうせいしゅでんせつ 24文字
あいあむあてぃーちゃーすーぱーまりおのせーたー 23文字
なんかひらがながゲシュタルト崩壊を起こしてきた。
無理矢理総括してみると、「サブタイトルの有無」という点からシリーズものが強いのは当然として、後は原作もの、アドベンチャー系が強い傾向がある様な気がする。これはやはり、元々「タイトル付け」という文化にある程度歴史というか、背景があるからこそなのだろう。推理小説とか漫画とか。
ちなみに、DSまで話を広げると暫定チャンピオンはこの辺らしい。
全米が震撼した?!ゲーム史上最も長いタイトル名
あと、「東北大学未来技術共同研究センター川島隆太教授監修 もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング」なんてのもあるが何文字なのかは知らない。3文字以上は「たくさん」でいいですもう。
取り敢えず今日はこれくらいで。
参照:レトロゲーム万里を往く その10 意図不明タイトル群の夕べ
先日、とある知人とふとした拍子に、「ゲオポリティク島における国家興亡論(アイレムからの発売中止タイトル)」についての話になった。どんな拍子だ、ということに関しては気にしないで頂きたい。
で、その知人が「ファミコンにそんな長いタイトルのゲームがあったのか!」とか言ったので、「未熟ものめが、ファミコンは長いタイトルのゲームだらけじゃ」と応えた。その時私の脳裏にあったのは、「アルゴスの戦士 はちゃめちゃ大進撃」や「ダウンタウン熱血曲それゆけ大運動会」などであった。
で。後になってよく考えてみると、それどころじゃないシリーズが結構あるんじゃないか、という気がしてきた。
そう、ヤツの名は探偵神宮寺三郎。探偵神宮寺三郎新宿中央公園殺人事件。長い。これは長すぎる。
単純にひらがなに直してみる。
たんていじんぐうじさぶろうしんじゅくちゅうおうこうえんさつじんじけん。34文字。
すげー。ことファミコン業界に限れば、これを越えるタイトルは余り多くないんじゃないだろうか。
以下、長いんじゃないかなーと個人的に思いついたタイトル。飽くまで思いついたものを後から検証した順であって、タイトル一覧を精査している訳ではないので、抜けがある可能性は多分にある。ちなみに、文字数のルールは、「サブタイトルまで全て含めた上で、読みに従ってひらがなに直した時の純粋な文字数」である。
まず、当初思いついたものを幾つか。
「アルゴスの戦士はちゃめちゃ大進撃」。
あるごすのせんしはちゃめちゃだいしんげき。20文字。ダメですアルゴス。全然届きません。
「元祖西遊記スーパーモンキー大冒険」。
がんそさいゆうきすーぱーもんきーだいぼうけん。22文字。サブタイトルなしと考えていると健闘している部類か。食料制限はもう少し緩くしてくださいお願いです。
「ファミコン探偵倶楽部2 後ろに立つ少女前編」。
ふぁみこんたんていくらぶつううしろにたつしょうじょぜんぺん 29文字。くそ、2をつうと読んでも30文字に届かないのか。
「SDガンダムワールドガチャポン戦士スクランブルウォーズ」。
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしすくらんぶるうぉーず 31文字。くう、30文字の壁はなんとか突破したが、まだ届かない。SDをスーパーデフォルメと読めば一応突破可能だが、流石に商品名を読みかえるのは反則だろう。
それじゃこれでどうだ。
「ダウンタウンスペシャル くにおくんの時代劇だよ全員集合」。
だうんたうんすぺしゃるくにおくんのじだいげきだよぜんいんしゅうごう 33文字。
なんてこった。本命と思われた時代劇すら神宮寺に届かないのか。強しデータイースト。厚き神宮寺の壁。何故我々はヤツを越えられないのか。タバコは今後も吸い続けるのか。
というところで、もう一本思いついた。確かこれは正式タイトルの筈だ。
「なんてったってベースボール 子ガメカセット'91年開幕編」。
なんてったってべーすぼーるこがめかせっときゅうじゅういちねんかいまくへん 36文字。
おお、きた。やっときました。流石の神宮寺も子ガメカセットには勝てなかった。でもこれ本当にタイトルなのか。なんかズルい気もするな。
というところで、もう一本強力なのがいた。
「SDガンダムワールド ガチャポン戦士5 BATTLE OF UNIVERSAL CENTURY」
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしふぁいぶばとるおぶゆにばーさるせんちゅりー 42文字
うおおすげえ。40文字越え来ました。流石SDガンダム、流石シリーズもの。でもバトル画面はアクションの方が正直良かった気がする。システム自体は後の「ギレンの野望」とかに流れこんでそうですな。
と、取り敢えず観測範囲内ではこれくらいが最大文字数でした。DSとかに話を広げるともっと色々出てくるみたいだけど。FC業界では暫定チャンピオン42文字。
以下は思いついたタイトルの羅列。一応文字数順。読みにくいが勘弁していただきたい。繰り返すが、多分抜けはたくさんある。特に30文字以下は。
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしふぁいぶばとるおぶゆにばーさるせんちゅりー 42文字
なんてったってべーすぼーるこがめかせっときゅうじゅういちねんかいまくへん 36文字
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしふぉーにゅーたいぷすとーりー 35文字
たんていじんぐうじさぶろうしんじゅくちゅうおうこうえんさつじんじけん 34文字
だうんたうんすぺしゃるくにおくんのじだいげきだよぜんいんしゅうごう 33文字
にしむらきょうたろうみすてりーすーぱーえくすぷれすさつじんじけん 32文字
あどばんすどだんじょんずあんどどらごんずぷーるおぶれいでぃあんす 32文字
なんてったってべーすぼーるこがめかせっとおーびーおーるすたーへん 32文字
ながぐつをはいたねこせかいいっしゅうはちじゅうにちだいぼうけん 31文字
えすでぃーがんだむわーるどがちゃぽんせんしすくらんぶるうぉーず 31文字
ほくとのけんふぉーしちせいはけんでんほくとしんけんのかなたへ 30文字
えすでぃーせんごくぶしょうれつでんれっかのごとくてんかをとれ 30文字
たんていじんぐうじさぶろうよこはまこうれんぞくさつじんじけん 30文字
やまむらみささすぺんすきょうとはなのみっしつさつじんじけん 29文字
ふぁみこんたんていくらぶつううしろにたつしょうじょぜんぺん 29文字
だうんたうんねっけつこうしんきょくそれゆけだいうんどうかい 29文字
ぷろやきゅうふぁみりーすたじあむはちじゅうななねんどばん 28文字
びーばっぷはいすくーるこうこうせいごくらくでんせつ 25文字
ほくとのけんつうせいきまつきゅうせいしゅでんせつ 24文字
あいあむあてぃーちゃーすーぱーまりおのせーたー 23文字
なんかひらがながゲシュタルト崩壊を起こしてきた。
無理矢理総括してみると、「サブタイトルの有無」という点からシリーズものが強いのは当然として、後は原作もの、アドベンチャー系が強い傾向がある様な気がする。これはやはり、元々「タイトル付け」という文化にある程度歴史というか、背景があるからこそなのだろう。推理小説とか漫画とか。
ちなみに、DSまで話を広げると暫定チャンピオンはこの辺らしい。
全米が震撼した?!ゲーム史上最も長いタイトル名
SIMPLE DS シリーズ Vol.14 THE自動車教習所DS?原動機付自転車・普通自動二輪・大型自動二輪・普通自動車・普通自動車二種・中型自動車・大型自動車・大型自動車二種・大型特殊自動車・けん引絶対狙ってるだろコレ。
あと、「東北大学未来技術共同研究センター川島隆太教授監修 もっと脳を鍛える大人のDSトレーニング」なんてのもあるが何文字なのかは知らない。3文字以上は「たくさん」でいいですもう。
取り敢えず今日はこれくらいで。
参照:レトロゲーム万里を往く その10 意図不明タイトル群の夕べ
2009年06月21日
レトロゲーム万里を往く その88 スターフォース
それは、遠い遠い昔のお話。
「連射が速い」ということが一つのステータスとして、ゲームを攻略する上での重要な才能として君臨していた時代。シンクロ連射装置などというものは、まだカゲもカタチも存在しなかった時代。高橋名人というささやかな夢を、皆がこぞって追いかけた時代。
「ディフェンダー」に始まり、「ヴァンガード」や「ゼビウス」といった名作によって既定路線となった「スクロール」という概念は、シューティング業界にもう一つのものを持ち込んだ。それが即ち「連射」である。
スペースインベーダーを草分けとする当初の固定画面シューティングゲームでは、1ステージに登場する敵の数がそもそも制限されていた。ハード的な制約などその他もろもろの事情もあり、基本的には自機から発射される弾の数は1ないし2。重要なテクニックになってくるのは、精密な操作と弾発射のタイミングだった。
それに対し、スクロールという要素は「敵の純増」「画面の広がり」「敵が出てくるペースの調整」など、様々なゲーム性の変化をSTGにもたらすことになる。ゼビウスの時点で、既に「たくさん出てくる空中敵の物量作戦」「それに対抗する為の連射」(あとバキュラ256発とか)といった連射の要素は発生していた。
そこに、「空中・地上の弾の打ち分け要素を撤廃」という処置をした上で、色んな要素を詰め込んで一気に連射の地位を上げまくったのが、言わずと知れた「スターフォース」である。
スターフォース。縦スクロールシューティング。1984年、テーカン(後のテクモ)よりアーケード版発売。翌1985年にはハドソンよりファミコン版が発売され、「キャラバン」や「コロコロコミック」などと合わせた広告戦略により、「スターソルジャー」などへと繋がるFC縦シューの基礎を形作り、さらには「高橋名人の出現」という、ファミコン業界の重要なターニングポイントの引き金を引いた。
まずは関連ページリンク。
アーケード版に関しては、いつも通りというか「OKINIIRI」さんを参照して頂けるのが一番いいのではないかと思う。バブシカさんの緻密なレビューが読める。
OKINIIRI:スターフォース
ゲームの背景その他に関してはWikipediaを参照のこと。
Wikipedia:スターフォース
さて、ゲームの話にいこう。
・突如そこに現れた「連射」の重要性。
当然のことながら、スターフォースは縦スクロールシューティングである。プレイヤーは自機「ファイナルスター」を操り、敵が撃ってきた弾を避けて、こちらの弾を地上・空中問わず敵にぶち当てる。そのゲーム性は今からは想像も出来ない程シンプルだ。
重要な要素は3つくらいある。
・耐久力のある敵の増加。
・「連射によってボーナス点が入る」ギミックの大量投入。
・敵の攻撃の基本は自機への突っ込み。
例えばの話、ゼビウスでは、バキュラ以外のあらゆる敵が「一発撃ったら終わり」だった。「耐久力」という概念がそもそも存在しなかったのである。これはボザログラムだろうが、アンドアジェネシスだろうが変わらない。撃つ場所は多いけど。
これに対してスターフォースでは、地上敵・空中敵問わず、耐久力のある敵が激増している。ラリオスやエリアターゲットは言うに及ばず、トッパーの様な空中敵、ジムダやマジッカなどの地上敵、ヒドンの様な「隠れキャラ」に至るまで、そこには「たくさん撃たないと倒せない」敵が山盛りだった訳である。
それに加えて、ラリオスやジムダ・ステギなどの「たくさん撃って撃破に成功すればボーナス点」という要素の追加。弾幕はそれほどキツくないけど、高速で自機に突っ込んでくる数々の敵機。敵を倒すことでポイントが加算され、エリアが先に進んでいくシステム。これらをまとめることで、このゲームはどうなったか。
そう。つまりスターフォースは、テーカンが意図したものなのかどうか、おそらく史上初の「連射が速ければ速い程有利」というゲームに仕上がっていたのである。
ここに、一人の巨人が現れる土壌が整った。
・高橋名人という「怪物」の出現。
ハドソンの高橋利幸氏が初めてファミコン小僧達の前に現れたのは、チャンピオンシップロードランナーの販促イベントである(参考:"高橋名人”という社会現象)その後、彼は「キャラバン」という、全国レベルでのゲーム大会において「高橋名人」となる。
「キャラバン」の第1回、「TDK全国ファミコンキャラバン 」で使われたゲームが、勿論スターフォースだ。
高橋名人は勿論ゲームが上手かった訳だが、彼の最も有名な特技である「16連射」が名人の看板になる為には、「連射というスキル」が重要な才能として数えられる必要があった。その為の土壌として、スターフォースというゲームはうってつけだった。
高得点を上げる為に、大量の敵を押しのける為に、ほぼ必須ともいえる「連射の速さ」。コロコロコミックの漫画で、デパートでの販促イベントで、「連射」という要素は高橋名人とセットになって、シューティングゲームでの主要な才能の一つへと駆け上がっていったのである。
私は、当時の業界の盛り上がりをうっすらと覚えている。ラリオスが、ジムダ・ステギが、漫画の展開とワンセットになって次から次へと撃破されていった風景。やがてごく一般的なゲーム好きのなかから「毛利名人」がハドソンに見出され、発生する「14連射」と「16連射」の対比。色々なメーカーがこぞって名人を擁立したことも記憶に残っているが、ある程度定着したのはバンダイの橋本名人くらいではなかったか。
「コロコロコミック」と「キャラバン」そして「高橋名人」と「連射」。後にスターソルジャーまで発売してこれらの要素を子供相手にクローズアップした、ハドソンの戦略は今から振り返っても見事だったと思う。
シューティングゲームの時代の、ほんの一時期。やがて、「連射」という要素は「シューティングゲームの多様化」や「連射装置・ソフト連射の普及」などによってスターダムから追いやられ、ハドソンもゆっくり、ゆっくりと業界のトップ集団から退いていくことになる。
・私にとってのスターフォース。
知っている人はよく知っている、「ジョイボール」という代物がある。十字キーにあたる部分がボール上になっており、ボールを掴んでぐりぐりと自機を操るという微妙な操作感のコントローラーだが、私が初めて「連射装置」というものを体験したのがジョイボールであり、このスターフォースだった。
ピアノ撃ちで必死にならなくてもラリオスが撃破出来る!というのは確かに鮮烈な感動だったが、周囲のファミコン小僧の間では「邪道なもの」として位置づけられており、またボールをちょっとずらすとくりっとメーウスに突っ込むことが多かった為、そこまで欲しいとは思わなかった。それよりなにより、当時は「手動連射をいかに速くするか」ということがファミコン小僧達の最大の関心事であった訳である。この点、ハドソンの戦略にものの見事に乗せられたといって間違いないだろう。
ゼビウス当時はまだそこまでゲームに時間を使えなかった私にとって、スターフォースは多分初めての「点稼ぎの楽しさ」を教えてくれたソフトだったと思う。エリアターゲットを倒した時のあのファンファーレを、ラリオス前の緊張感を、今でも私は覚えている。
シンプルイズベストの、その先にあったゲーム。スターフォースは確かに、縦スクロールSTGの一つのルーツであったと思う。
「連射が速い」ということが一つのステータスとして、ゲームを攻略する上での重要な才能として君臨していた時代。シンクロ連射装置などというものは、まだカゲもカタチも存在しなかった時代。高橋名人というささやかな夢を、皆がこぞって追いかけた時代。
「ディフェンダー」に始まり、「ヴァンガード」や「ゼビウス」といった名作によって既定路線となった「スクロール」という概念は、シューティング業界にもう一つのものを持ち込んだ。それが即ち「連射」である。
スペースインベーダーを草分けとする当初の固定画面シューティングゲームでは、1ステージに登場する敵の数がそもそも制限されていた。ハード的な制約などその他もろもろの事情もあり、基本的には自機から発射される弾の数は1ないし2。重要なテクニックになってくるのは、精密な操作と弾発射のタイミングだった。
それに対し、スクロールという要素は「敵の純増」「画面の広がり」「敵が出てくるペースの調整」など、様々なゲーム性の変化をSTGにもたらすことになる。ゼビウスの時点で、既に「たくさん出てくる空中敵の物量作戦」「それに対抗する為の連射」(あとバキュラ256発とか)といった連射の要素は発生していた。
そこに、「空中・地上の弾の打ち分け要素を撤廃」という処置をした上で、色んな要素を詰め込んで一気に連射の地位を上げまくったのが、言わずと知れた「スターフォース」である。
スターフォース。縦スクロールシューティング。1984年、テーカン(後のテクモ)よりアーケード版発売。翌1985年にはハドソンよりファミコン版が発売され、「キャラバン」や「コロコロコミック」などと合わせた広告戦略により、「スターソルジャー」などへと繋がるFC縦シューの基礎を形作り、さらには「高橋名人の出現」という、ファミコン業界の重要なターニングポイントの引き金を引いた。
まずは関連ページリンク。
アーケード版に関しては、いつも通りというか「OKINIIRI」さんを参照して頂けるのが一番いいのではないかと思う。バブシカさんの緻密なレビューが読める。
OKINIIRI:スターフォース
ゲームの背景その他に関してはWikipediaを参照のこと。
Wikipedia:スターフォース
さて、ゲームの話にいこう。
・突如そこに現れた「連射」の重要性。
当然のことながら、スターフォースは縦スクロールシューティングである。プレイヤーは自機「ファイナルスター」を操り、敵が撃ってきた弾を避けて、こちらの弾を地上・空中問わず敵にぶち当てる。そのゲーム性は今からは想像も出来ない程シンプルだ。
重要な要素は3つくらいある。
・耐久力のある敵の増加。
・「連射によってボーナス点が入る」ギミックの大量投入。
・敵の攻撃の基本は自機への突っ込み。
例えばの話、ゼビウスでは、バキュラ以外のあらゆる敵が「一発撃ったら終わり」だった。「耐久力」という概念がそもそも存在しなかったのである。これはボザログラムだろうが、アンドアジェネシスだろうが変わらない。撃つ場所は多いけど。
これに対してスターフォースでは、地上敵・空中敵問わず、耐久力のある敵が激増している。ラリオスやエリアターゲットは言うに及ばず、トッパーの様な空中敵、ジムダやマジッカなどの地上敵、ヒドンの様な「隠れキャラ」に至るまで、そこには「たくさん撃たないと倒せない」敵が山盛りだった訳である。
それに加えて、ラリオスやジムダ・ステギなどの「たくさん撃って撃破に成功すればボーナス点」という要素の追加。弾幕はそれほどキツくないけど、高速で自機に突っ込んでくる数々の敵機。敵を倒すことでポイントが加算され、エリアが先に進んでいくシステム。これらをまとめることで、このゲームはどうなったか。
そう。つまりスターフォースは、テーカンが意図したものなのかどうか、おそらく史上初の「連射が速ければ速い程有利」というゲームに仕上がっていたのである。
ここに、一人の巨人が現れる土壌が整った。
・高橋名人という「怪物」の出現。
ハドソンの高橋利幸氏が初めてファミコン小僧達の前に現れたのは、チャンピオンシップロードランナーの販促イベントである(参考:"高橋名人”という社会現象)その後、彼は「キャラバン」という、全国レベルでのゲーム大会において「高橋名人」となる。
「キャラバン」の第1回、「TDK全国ファミコンキャラバン 」で使われたゲームが、勿論スターフォースだ。
高橋名人は勿論ゲームが上手かった訳だが、彼の最も有名な特技である「16連射」が名人の看板になる為には、「連射というスキル」が重要な才能として数えられる必要があった。その為の土壌として、スターフォースというゲームはうってつけだった。
高得点を上げる為に、大量の敵を押しのける為に、ほぼ必須ともいえる「連射の速さ」。コロコロコミックの漫画で、デパートでの販促イベントで、「連射」という要素は高橋名人とセットになって、シューティングゲームでの主要な才能の一つへと駆け上がっていったのである。
私は、当時の業界の盛り上がりをうっすらと覚えている。ラリオスが、ジムダ・ステギが、漫画の展開とワンセットになって次から次へと撃破されていった風景。やがてごく一般的なゲーム好きのなかから「毛利名人」がハドソンに見出され、発生する「14連射」と「16連射」の対比。色々なメーカーがこぞって名人を擁立したことも記憶に残っているが、ある程度定着したのはバンダイの橋本名人くらいではなかったか。
「コロコロコミック」と「キャラバン」そして「高橋名人」と「連射」。後にスターソルジャーまで発売してこれらの要素を子供相手にクローズアップした、ハドソンの戦略は今から振り返っても見事だったと思う。
シューティングゲームの時代の、ほんの一時期。やがて、「連射」という要素は「シューティングゲームの多様化」や「連射装置・ソフト連射の普及」などによってスターダムから追いやられ、ハドソンもゆっくり、ゆっくりと業界のトップ集団から退いていくことになる。
・私にとってのスターフォース。
知っている人はよく知っている、「ジョイボール」という代物がある。十字キーにあたる部分がボール上になっており、ボールを掴んでぐりぐりと自機を操るという微妙な操作感のコントローラーだが、私が初めて「連射装置」というものを体験したのがジョイボールであり、このスターフォースだった。
ピアノ撃ちで必死にならなくてもラリオスが撃破出来る!というのは確かに鮮烈な感動だったが、周囲のファミコン小僧の間では「邪道なもの」として位置づけられており、またボールをちょっとずらすとくりっとメーウスに突っ込むことが多かった為、そこまで欲しいとは思わなかった。それよりなにより、当時は「手動連射をいかに速くするか」ということがファミコン小僧達の最大の関心事であった訳である。この点、ハドソンの戦略にものの見事に乗せられたといって間違いないだろう。
ゼビウス当時はまだそこまでゲームに時間を使えなかった私にとって、スターフォースは多分初めての「点稼ぎの楽しさ」を教えてくれたソフトだったと思う。エリアターゲットを倒した時のあのファンファーレを、ラリオス前の緊張感を、今でも私は覚えている。
シンプルイズベストの、その先にあったゲーム。スターフォースは確かに、縦スクロールSTGの一つのルーツであったと思う。
2009年05月28日
レトロゲーム万里を往く その87 大航海時代II
ピリー・レイス「いいか、小僧どもっ。重要なのは水より食料だ!食料だ!食料だ!水が飲みたきゃその辺で上陸して汲めっ!」
ジョアン「サー、イェッサー!!」
ピリー・レイス「いいか、一に歓待!二に歓待!三、四がなくて五に探索だっ!」
ジョアン「サー、イェッサー!!」
カタリーナ「…屋形船の訓練?」
(「フルメタル・キャラベル(民明書房刊)」より一部抜粋)
ヴェネツィアン・ガレアスで南極圏・北極圏まで、昼夜問わず余裕でおっかけてくるレイス兄弟の物凄さを、我々はもっと認識するべきだと思う。後世に語り継ぐべきだと思う。
アルゼンチン海盆の暴風の中でも、北氷洋の氷の中でもにっこり笑顔でガレーを漕ぎ切るバルバリア海賊の皆さん。氷山とかガレーの櫂でバキバキですよ多分。なんだあいつら。実は水夫の代わりにターミネーターでも乗せてるんじゃないか。
ということで、なんか大分間が空いてしまいましたが、一応前回の続き。私にとってのオフライン版大航海時代の完成形、「II」について書きたいと思う。
初代「大航海時代」では、実はゲームの軸は二本しかなかった。つまり、「交易」と「戦闘」である。
ゲームの基本は、「交易品を運んで金を貯め、でかい船を買って強い敵を倒す」であり、いわゆる「冒険要素」といえるものは、たまに依頼される「宝探し」というものに集約されていた。「宝の地図」を渡され、副官の助言の元、宝の地図に示された世界のどこかに財宝を探しにいくというもので、勿論これはこれで楽しかった訳なのだが。
そこに、「集落」「発見物」「地図作成」という要素を放り込んで、「冒険」という太い一本の柱を構築したのが、「大航海時代II」というゲームであり、私が一つの「完成形」だと考える所以でもある。
「冒険」「海戦」「交易」。この3つが揃ってこその大航海時代である、と私は思う訳なのである。
大航海時代II。1993年2月、光栄よりPC版発売。インターフェイスに若干の難こそあれ、複数の主人公キャラクターの導入、「冒険」「海戦」「交易」の三本柱の確立、それによって滅多矢鱈に高まった自由度、美麗なグラフィックと菅野よう子作曲の素晴らしいBGMなどなど、頭の先からつま先まで一級の完成度で、後のオンライン版まで続く大航海時代シリーズの礎となった。のち、SFC、メガドライブなどの家庭用にも移植され、インターフェイスも様々に改善されていった。
まずは関連URLを。
まず、ゲームの関連情報に関してはWikipediaにサマリーされている。
Wikipedia:大航海時代II
攻略情報についてはヤキトリ屋さんが白眉だろう。
ヤキトリ屋
まずはゲームの話に行こう。
・「冒険」要素がゲームにもたらした色々なもの。
つまるところ、ゲームの中に超巨大な「宝探し」要素が一つ丸ごと放り込まれた、と考えていいと思う。
このゲームにおいて、「安い港で買って高く売れる港で売る」交易と、「たくさん砲や水夫をつめる船をたくさん集める」海戦については、前作とそれ程大きくゲーム性が異なる訳ではない(一騎打ちは結構重要な要素だけど)。
だが、「II」では地図が作れる訳である。集落が見つけられる訳である。サーベルタイガーが、マンモスが、モアイが、水晶のドクロが発見出来る訳である。これが燃えずにいられようか。
このゲームにおける発見物探しは、大体以下の様な流れで行われる。
1.コレクターと契約。
2.船で世界各地を回る。ナイル川を上ったり、ヴェルデ岬で嵐にあったり。
3.集落を発見する。
4.集落に上陸して探索。この際、集落の原住民との友好度を上げる為に食料を食わせまくったり(冒頭でいうところの歓待)、発見したコモドオオトカゲにかまれて船員が減りまくったりする。
5.帰還してコレクターに報告。冒険名声とお金を得る。
という様な感じで。この際、母港から離れた遠い異境で、「集落を発見しました」の文字列を見ることにとにかく麻薬的な快感がある。「次は何が見つかるのか?」というごく単純な好奇心を、パンダからオーロラからタスマニアタイガーにいたるまで、バラエティ豊富すぎる発見物の数々が裏付けてくれていたといっていいだろう。
一つには、「雰囲気作り」の上手さというものがあると思う。例えば北海を遠く北上した氷の海。例えばアマゾン川の上流。船の行き来が殆どない孤独感と、それぞれの場面に合致したBGMが、「今自分は未開の土地にいるんだ」という雰囲気を盛り上げる。
いわば「冒険感」あっての発見物システムだとは思うのだが、そんな中でもまるでマッピーのご先祖さまの如くひたすらPCを追いかけてくるレイス兄弟だけは誰かなんとかしてください。シップ買ってきて撃退するぞコラ。
ちなみに、発見物は毎回全てが見つかる訳ではないので、目当ての発見物を見つけることが出来るかどうかはリアルラック次第でもある。はるばるイースター島まで出向いて集落が見つからなかった時には流石にがっくりときたものだが、それもまた「II」の醍醐味である。
それに加えて、1では基本的に「積荷がたくさんつめるかどうか」「水夫がたくさん乗せられるかどうか」の二軸だった船選びにも、「積荷はあまりつめないけれど、少人数で動かせて速い船」といった「冒険向けの船」なども出てきて、船選びのバリエーションが倍増したことも特筆すべきだろう。スループやピンネースの便利っぷりには恐ろしいものがあった一方、シップやバーグでカロネード砲を撃ちまくる楽しみや、序盤の軽ガレーの効率の良さ、ジーベックの恐るべき万能っぷりなどなど、船の新調はお金の使い道を迷いに迷わせまくってくれる場面でもあった。
・エルネストストーリーの浮きっぷりについて。
一人だけ他プレイヤーキャラとの絡みが一切ないのですが、これはパウラさえいればそれで俺のストーリー全ておっけーおーるおっけー、とそういうことですか。(スタッテンの存在抹消)
ということで、「II」ではプレイヤーキャラクターも6人に増え、ストーリー的な面も大幅に増強されている。
初期から優秀な部下を抱え、「初心者向き」という触れ込みだが、実際にプレイしてみると罠要素満載の主人公、ポルトガルのジョアン・フェレロ。
ジョアンを付けねらう女海賊、イスパニアのカタリーナ・エランツォ。
剣術がカタリーナ程高くないので一騎打ちで意外と苦労する軍人、イングランドのオットー・スピノーラ。
借金王にして冒険家、イタリア(というかジェノヴァ)のピエトロ・コンティー。
おそらくもっとも進行が簡単で、それでいてクリアは途方もなく面倒くさい、オスマンの商人アル・ヴェザス。
そして登場当初14歳の少女を世界各地に連れまわしつつ世界地図完成を目指す、ネーデルランドの大学講師エルネスト・ロペス。
この中では、「色々と優遇されているが、実はストーリー上強敵との戦闘が絶対に避けられない」ジョアンが最強の初心者殺しと言えるだろう。冒険船で中東にいった辺りでイベント戦に巻き込まれ、敢え無く紅海の露と消えた航海者が当時どれだけ存在したことか。一方、何も考えずに船だけ襲っていれば取り敢えずストーリーは進む軍人二人は、むしろ初心者向きという気がしないでもない。
そしてただひたすら美少女パウラと(あとたまにスタッテンと)の会話イベントだけでゲームが進行していくエルネスト。まさしく愛一本道。この辺り、後のアンジェリークなどをリリースする光栄女性チームの影をほのかに感じたりするのだが、これは私の気のせいだろうか。
これらの主人公キャラに加えて、脇を固める副官・航海士の面々も非常にバラエティ豊富になっており、「人材集めの楽しみ」「誰を使って何をするか、という自由度」といった遊びも相応に深くなっている。
こと人材集めについていえば、信長の野望・三国志の頃から、光栄にはブ厚い「人材雇用の楽しみをどう演出するか」というノウハウが溜まっていると私は思う。測量や会計といった様々なスキル、ゆうき・けんじゅつ・直感といった能力値にいたるまで、「こいつは使えるなー」「こいつはそれ程でもないなー」と人材情報画面をつらつらと眺める楽しさは、まさしく光栄歴代のシミュレーションゲームと同質のものだといえるだろう。
サブキャラとしては、港の彩りである「酒場娘」の好み・性格が様々に分かれており、好みのプレゼントを酒場娘に貢ぐことに血道をあげる航海者が随所に見られたことも挙げられるだろう。自慢話を延々喜んで聞いてくれる酒場娘もいれば、「ふうんすごいわね」の一言で済ませる冷淡な酒場娘もいた辺り、なかなかにシビアなゲームであったといえないこともない。
・聴けば聴く程「MOSLEM DANCE イスラムの踊り」(中近東の港の曲)が素晴らし過ぎるんですが
そして、いわずと知れた音楽・グラフィックの美麗さ。初代大航海時代に続いて、私は歴代光栄ゲーの中でもこのシリーズの曲が白眉だと思っているのだが、その他ジョアンのテーマ、カタリーナのテーマ、戦闘の曲から酒場の曲にいたるまで、一つとして「浮いた」曲がないのもこのゲームの品質を示している一要素だと私は思う。
初代三國志から信長、ジンギスカン、ロイヤルブラッドに至るまで、光栄ゲーの「時代背景・世界設定にマッチしたBGM」作りの腕前は、様々なゲームの中でも際立っていると私は思う。
一部のタイトルでは菅野よう子さんの才能が遺憾なく発揮されていることだろうが、菅野曲ってそういえばどの辺までなんだろう。今度調べてみる。
ともあれ、「発見物集め」「人材集め」といった要素は一面集めゲーの楽しみを包含しているということでもあり、前作から引き続く「海戦」「交易」の楽しさを「曲・世界観」の高度さがコーティングしている、この大航海時代IIは私にとって文句なく名作である。今遊んでも十二分に楽しめるステキゲーだと思うので、Windows版のまともなリメイクを切に期待する次第である。お願いです光栄さん、Windows95版のバイナリをそのまんま焼いて定番シリーズに出すのはもう勘弁してください。
とまあ、非常に長くなったので今回はこれくらいで。次回はまた時代をさかのぼり、FC初期のSTGについて書くことになろうかと思う。
ジョアン「サー、イェッサー!!」
ピリー・レイス「いいか、一に歓待!二に歓待!三、四がなくて五に探索だっ!」
ジョアン「サー、イェッサー!!」
カタリーナ「…屋形船の訓練?」
(「フルメタル・キャラベル(民明書房刊)」より一部抜粋)
ヴェネツィアン・ガレアスで南極圏・北極圏まで、昼夜問わず余裕でおっかけてくるレイス兄弟の物凄さを、我々はもっと認識するべきだと思う。後世に語り継ぐべきだと思う。
アルゼンチン海盆の暴風の中でも、北氷洋の氷の中でもにっこり笑顔でガレーを漕ぎ切るバルバリア海賊の皆さん。氷山とかガレーの櫂でバキバキですよ多分。なんだあいつら。実は水夫の代わりにターミネーターでも乗せてるんじゃないか。
ということで、なんか大分間が空いてしまいましたが、一応前回の続き。私にとってのオフライン版大航海時代の完成形、「II」について書きたいと思う。
初代「大航海時代」では、実はゲームの軸は二本しかなかった。つまり、「交易」と「戦闘」である。
ゲームの基本は、「交易品を運んで金を貯め、でかい船を買って強い敵を倒す」であり、いわゆる「冒険要素」といえるものは、たまに依頼される「宝探し」というものに集約されていた。「宝の地図」を渡され、副官の助言の元、宝の地図に示された世界のどこかに財宝を探しにいくというもので、勿論これはこれで楽しかった訳なのだが。
そこに、「集落」「発見物」「地図作成」という要素を放り込んで、「冒険」という太い一本の柱を構築したのが、「大航海時代II」というゲームであり、私が一つの「完成形」だと考える所以でもある。
「冒険」「海戦」「交易」。この3つが揃ってこその大航海時代である、と私は思う訳なのである。
大航海時代II。1993年2月、光栄よりPC版発売。インターフェイスに若干の難こそあれ、複数の主人公キャラクターの導入、「冒険」「海戦」「交易」の三本柱の確立、それによって滅多矢鱈に高まった自由度、美麗なグラフィックと菅野よう子作曲の素晴らしいBGMなどなど、頭の先からつま先まで一級の完成度で、後のオンライン版まで続く大航海時代シリーズの礎となった。のち、SFC、メガドライブなどの家庭用にも移植され、インターフェイスも様々に改善されていった。
まずは関連URLを。
まず、ゲームの関連情報に関してはWikipediaにサマリーされている。
Wikipedia:大航海時代II
攻略情報についてはヤキトリ屋さんが白眉だろう。
ヤキトリ屋
まずはゲームの話に行こう。
・「冒険」要素がゲームにもたらした色々なもの。
つまるところ、ゲームの中に超巨大な「宝探し」要素が一つ丸ごと放り込まれた、と考えていいと思う。
このゲームにおいて、「安い港で買って高く売れる港で売る」交易と、「たくさん砲や水夫をつめる船をたくさん集める」海戦については、前作とそれ程大きくゲーム性が異なる訳ではない(一騎打ちは結構重要な要素だけど)。
だが、「II」では地図が作れる訳である。集落が見つけられる訳である。サーベルタイガーが、マンモスが、モアイが、水晶のドクロが発見出来る訳である。これが燃えずにいられようか。
このゲームにおける発見物探しは、大体以下の様な流れで行われる。
1.コレクターと契約。
2.船で世界各地を回る。ナイル川を上ったり、ヴェルデ岬で嵐にあったり。
3.集落を発見する。
4.集落に上陸して探索。この際、集落の原住民との友好度を上げる為に食料を食わせまくったり(冒頭でいうところの歓待)、発見したコモドオオトカゲにかまれて船員が減りまくったりする。
5.帰還してコレクターに報告。冒険名声とお金を得る。
という様な感じで。この際、母港から離れた遠い異境で、「集落を発見しました」の文字列を見ることにとにかく麻薬的な快感がある。「次は何が見つかるのか?」というごく単純な好奇心を、パンダからオーロラからタスマニアタイガーにいたるまで、バラエティ豊富すぎる発見物の数々が裏付けてくれていたといっていいだろう。
一つには、「雰囲気作り」の上手さというものがあると思う。例えば北海を遠く北上した氷の海。例えばアマゾン川の上流。船の行き来が殆どない孤独感と、それぞれの場面に合致したBGMが、「今自分は未開の土地にいるんだ」という雰囲気を盛り上げる。
いわば「冒険感」あっての発見物システムだとは思うのだが、そんな中でもまるでマッピーのご先祖さまの如くひたすらPCを追いかけてくるレイス兄弟だけは誰かなんとかしてください。シップ買ってきて撃退するぞコラ。
ちなみに、発見物は毎回全てが見つかる訳ではないので、目当ての発見物を見つけることが出来るかどうかはリアルラック次第でもある。はるばるイースター島まで出向いて集落が見つからなかった時には流石にがっくりときたものだが、それもまた「II」の醍醐味である。
それに加えて、1では基本的に「積荷がたくさんつめるかどうか」「水夫がたくさん乗せられるかどうか」の二軸だった船選びにも、「積荷はあまりつめないけれど、少人数で動かせて速い船」といった「冒険向けの船」なども出てきて、船選びのバリエーションが倍増したことも特筆すべきだろう。スループやピンネースの便利っぷりには恐ろしいものがあった一方、シップやバーグでカロネード砲を撃ちまくる楽しみや、序盤の軽ガレーの効率の良さ、ジーベックの恐るべき万能っぷりなどなど、船の新調はお金の使い道を迷いに迷わせまくってくれる場面でもあった。
・エルネストストーリーの浮きっぷりについて。
一人だけ他プレイヤーキャラとの絡みが一切ないのですが、これはパウラさえいればそれで俺のストーリー全ておっけーおーるおっけー、とそういうことですか。(スタッテンの存在抹消)
ということで、「II」ではプレイヤーキャラクターも6人に増え、ストーリー的な面も大幅に増強されている。
初期から優秀な部下を抱え、「初心者向き」という触れ込みだが、実際にプレイしてみると罠要素満載の主人公、ポルトガルのジョアン・フェレロ。
ジョアンを付けねらう女海賊、イスパニアのカタリーナ・エランツォ。
剣術がカタリーナ程高くないので一騎打ちで意外と苦労する軍人、イングランドのオットー・スピノーラ。
借金王にして冒険家、イタリア(というかジェノヴァ)のピエトロ・コンティー。
おそらくもっとも進行が簡単で、それでいてクリアは途方もなく面倒くさい、オスマンの商人アル・ヴェザス。
そして登場当初14歳の少女を世界各地に連れまわしつつ世界地図完成を目指す、ネーデルランドの大学講師エルネスト・ロペス。
この中では、「色々と優遇されているが、実はストーリー上強敵との戦闘が絶対に避けられない」ジョアンが最強の初心者殺しと言えるだろう。冒険船で中東にいった辺りでイベント戦に巻き込まれ、敢え無く紅海の露と消えた航海者が当時どれだけ存在したことか。一方、何も考えずに船だけ襲っていれば取り敢えずストーリーは進む軍人二人は、むしろ初心者向きという気がしないでもない。
そしてただひたすら美少女パウラと(あとたまにスタッテンと)の会話イベントだけでゲームが進行していくエルネスト。まさしく愛一本道。この辺り、後のアンジェリークなどをリリースする光栄女性チームの影をほのかに感じたりするのだが、これは私の気のせいだろうか。
これらの主人公キャラに加えて、脇を固める副官・航海士の面々も非常にバラエティ豊富になっており、「人材集めの楽しみ」「誰を使って何をするか、という自由度」といった遊びも相応に深くなっている。
こと人材集めについていえば、信長の野望・三国志の頃から、光栄にはブ厚い「人材雇用の楽しみをどう演出するか」というノウハウが溜まっていると私は思う。測量や会計といった様々なスキル、ゆうき・けんじゅつ・直感といった能力値にいたるまで、「こいつは使えるなー」「こいつはそれ程でもないなー」と人材情報画面をつらつらと眺める楽しさは、まさしく光栄歴代のシミュレーションゲームと同質のものだといえるだろう。
サブキャラとしては、港の彩りである「酒場娘」の好み・性格が様々に分かれており、好みのプレゼントを酒場娘に貢ぐことに血道をあげる航海者が随所に見られたことも挙げられるだろう。自慢話を延々喜んで聞いてくれる酒場娘もいれば、「ふうんすごいわね」の一言で済ませる冷淡な酒場娘もいた辺り、なかなかにシビアなゲームであったといえないこともない。
・聴けば聴く程「MOSLEM DANCE イスラムの踊り」(中近東の港の曲)が素晴らし過ぎるんですが
そして、いわずと知れた音楽・グラフィックの美麗さ。初代大航海時代に続いて、私は歴代光栄ゲーの中でもこのシリーズの曲が白眉だと思っているのだが、その他ジョアンのテーマ、カタリーナのテーマ、戦闘の曲から酒場の曲にいたるまで、一つとして「浮いた」曲がないのもこのゲームの品質を示している一要素だと私は思う。
初代三國志から信長、ジンギスカン、ロイヤルブラッドに至るまで、光栄ゲーの「時代背景・世界設定にマッチしたBGM」作りの腕前は、様々なゲームの中でも際立っていると私は思う。
一部のタイトルでは菅野よう子さんの才能が遺憾なく発揮されていることだろうが、菅野曲ってそういえばどの辺までなんだろう。今度調べてみる。
ともあれ、「発見物集め」「人材集め」といった要素は一面集めゲーの楽しみを包含しているということでもあり、前作から引き続く「海戦」「交易」の楽しさを「曲・世界観」の高度さがコーティングしている、この大航海時代IIは私にとって文句なく名作である。今遊んでも十二分に楽しめるステキゲーだと思うので、Windows版のまともなリメイクを切に期待する次第である。お願いです光栄さん、Windows95版のバイナリをそのまんま焼いて定番シリーズに出すのはもう勘弁してください。
とまあ、非常に長くなったので今回はこれくらいで。次回はまた時代をさかのぼり、FC初期のSTGについて書くことになろうかと思う。
2009年04月22日
レトロゲーム万里を往く その86 キャラゲーのダメ率は本当に高いのか。
ちょっと気になるコメントを見かけたので。
れとろげーむまに様:ファミコンキャラゲーを振り返って
るいんずめもりぃ様
ち、違うんだっ。別にキャラゲー自体がダメな訳じゃない、キャラゲーを囲むもろもろの事情が故に、結果的に「あまり出来の良くないキャラゲー」ばかりが印象に残ってしまった歴史があるだけなんだっ。
キャラゲーとは何かというと、要するに「オリジナルではない既存のキャラ」が出てくるゲームである。大抵の場合漫画やアニメや小説などの原作があり、原作のストーリーをなぞったり全く関係ないことをしていたりする。ドラゴンボールやキャプテン翼などもキャラゲーの一種だし、芸能人が出てくるゲームもキャラゲーといえるかも知れない。
で、「キャラゲーのダメ率が高い」というのはよく言われることではあるのだが。事実なのかというと、必ずしもそうでもない気がする(統計的な話をする気はないが)。「キャプテン翼」や「カプセル戦記」「さんまの名探偵」などの例を挙げるまでもなく、キャラゲーというジャンルには名作・佳作も数多く存在するし、ドラゴンズレアやスーパーモンキーなどの例を挙げるまでもなく、キャラゲー以外のジャンルにもちょっとアレなゲームは数多く存在する。
ただし、「キャラゲー以外のジャンルに存在するちょっとアレなゲーム」はそもそも知られていないのだ。遊ぶ側の記憶領域に残っていないのだ。本当にアレなゲーム(ゲームの出来だけの話ではない)は人口に膾炙する程売れていない。ファジカルファイターとか、遊んだことある人どれだけいますか?
キャラゲー以外のダメゲーがキャラゲー程は印象に残らないが故に、「キャラゲーにおけるダメゲー」が取りざたされてしまう。それが錯覚を呼ぶ。つまり、「ダメなキャラゲーが、ダメな一般ゲー以上に遊ぶ側の印象・記憶に残りやすい」という事情がある。
○遊ぶ側の印象に残りやすい事情
・原作ファンである場合が多い為、遊ぶ側が原作のイメージとの差異に敏感
・また、原作とのイメージの差異が色々な側面でネタにされやすい
・タイアップが前提とされている為、広告宣伝が広範になりやすい
・その為、普段それ程ゲームを遊ばないユーザーにもある程度売れ・あるいは認知され、ゲームの出来が知られやすい
多分この辺が大きいんじゃないかと。つまり、「それなりに広く知られる」「しかも割と売れる」「印象が強烈」の三連殺が、キャラゲーの記憶を定着させているのではないかと思う訳である。コンボイが、神龍の謎が、たけしの挑戦状が未だにネタにされる、一つの理由はこれだ。実際のところ、「本当に出来がアレなゲーム」ってそんなに数はないと思うんだけど。
「割と売れる」ということについては、「キャラゲーであることのドーピング効果」とでも言うべき要素がかなりあると思う。忍者ハットリ君が150万本、ゲゲゲの鬼太郎が125万本という数字を示せば、その効果の程が分かろうというものだ。
一方。上記とは矛盾する部分があるが、「ダメなキャラゲーは徹底的にダメになる」事情というのも、もしかしたらあるのかも知れない。こちらは主に開発する側に存在する問題だ。
○ダメな時徹底的にダメになる事情
・原作ものの場合「旬を逃さない」ことが重要になる場合が多い為、開発期間がシビアになりがちである(気がする)。
・原作とのギャップを整合させる為、ゲーム性・ゲームバランスなどに無理がくる場合がある。
・一方、原作のネームバリューによってある程度「売れてしまう」為、会社が危機感を持ってリソースを振り向けない場合がある(気がする)。
・上記事情の関係から、「ダメゲーになっちゃったけど版権とか時期とか諸々の事情から引くに引けなくなって発売されちゃった」キャラゲー、というのが割とありそうな気がする。
私の知識は基本的にファミコン・SFC時代に偏っている為、最近のキャラゲーのことは良く知らんが、まあ多分そんなに事情は変わらんだろう。ファミコン時代、特に某B社から発売されていたタイトル群が、巨大な売り上げに比して若干出来があれれーという感じだった理由が、多分上の様な話だ。
3つ目は単なる邪推だが、1つ目と組み合わせて考えてみると、「粗製」のキャラゲーの中にはこういう思考で薄いリソースしか振り向けられなかったタイトルがありそうに思う。
ちなみに、2つ目の「ゲームバランス・設定」に関してはキャラゲーそれぞれでアプローチが違う。結果的に、「原作とのギャップを整合」させる手間を殆ど放棄したスーパーロボット対戦が隆盛しているという事実には、ある意味感慨深いものがある。
手前味噌ながら参照リンク。
レトロゲーム万里を往く その5 〜キャプテン翼〜
レトロゲーム万里を往く その22 〜芸能界ゲームよ永遠に〜
レトロゲーム万里を往く その38 〜ファミコンジャンプ 英雄列伝〜
まあ、結論として。
・「キャラゲーにはダメゲー含有率が高い」というテーゼは、必ずしも事実とはいえない気がする。
・本当にダメな一般ゲームはそもそも知られていない場合が多い。
・キャラゲーって売り上げドーピング効果が凄いですよねー。
・原作とのシナジー効果で印象残り過ぎ。結果的に「記憶に残るダメゲー」は結構あるけど、名作キャラゲーもたくさんあるよ!あるよ!
・ところで「バンダイ」の名前が今はもうない、という事実に時代を感じまくるんですが。
取り敢えずそんな感じで。
れとろげーむまに様:ファミコンキャラゲーを振り返って
るいんずめもりぃ様
キャラゲーって基本的にクソゲーが多いっていうのが私の認識だったりするのですが。
まあスパロボやりまくってる私が言うことでもないですけど。
出来のいいキャラゲーができる確率が低いような気がしますよ。
ち、違うんだっ。別にキャラゲー自体がダメな訳じゃない、キャラゲーを囲むもろもろの事情が故に、結果的に「あまり出来の良くないキャラゲー」ばかりが印象に残ってしまった歴史があるだけなんだっ。
キャラゲーとは何かというと、要するに「オリジナルではない既存のキャラ」が出てくるゲームである。大抵の場合漫画やアニメや小説などの原作があり、原作のストーリーをなぞったり全く関係ないことをしていたりする。ドラゴンボールやキャプテン翼などもキャラゲーの一種だし、芸能人が出てくるゲームもキャラゲーといえるかも知れない。
で、「キャラゲーのダメ率が高い」というのはよく言われることではあるのだが。事実なのかというと、必ずしもそうでもない気がする(統計的な話をする気はないが)。「キャプテン翼」や「カプセル戦記」「さんまの名探偵」などの例を挙げるまでもなく、キャラゲーというジャンルには名作・佳作も数多く存在するし、ドラゴンズレアやスーパーモンキーなどの例を挙げるまでもなく、キャラゲー以外のジャンルにもちょっとアレなゲームは数多く存在する。
ただし、「キャラゲー以外のジャンルに存在するちょっとアレなゲーム」はそもそも知られていないのだ。遊ぶ側の記憶領域に残っていないのだ。本当にアレなゲーム(ゲームの出来だけの話ではない)は人口に膾炙する程売れていない。ファジカルファイターとか、遊んだことある人どれだけいますか?
キャラゲー以外のダメゲーがキャラゲー程は印象に残らないが故に、「キャラゲーにおけるダメゲー」が取りざたされてしまう。それが錯覚を呼ぶ。つまり、「ダメなキャラゲーが、ダメな一般ゲー以上に遊ぶ側の印象・記憶に残りやすい」という事情がある。
○遊ぶ側の印象に残りやすい事情
・原作ファンである場合が多い為、遊ぶ側が原作のイメージとの差異に敏感
・また、原作とのイメージの差異が色々な側面でネタにされやすい
・タイアップが前提とされている為、広告宣伝が広範になりやすい
・その為、普段それ程ゲームを遊ばないユーザーにもある程度売れ・あるいは認知され、ゲームの出来が知られやすい
多分この辺が大きいんじゃないかと。つまり、「それなりに広く知られる」「しかも割と売れる」「印象が強烈」の三連殺が、キャラゲーの記憶を定着させているのではないかと思う訳である。コンボイが、神龍の謎が、たけしの挑戦状が未だにネタにされる、一つの理由はこれだ。実際のところ、「本当に出来がアレなゲーム」ってそんなに数はないと思うんだけど。
「割と売れる」ということについては、「キャラゲーであることのドーピング効果」とでも言うべき要素がかなりあると思う。忍者ハットリ君が150万本、ゲゲゲの鬼太郎が125万本という数字を示せば、その効果の程が分かろうというものだ。
一方。上記とは矛盾する部分があるが、「ダメなキャラゲーは徹底的にダメになる」事情というのも、もしかしたらあるのかも知れない。こちらは主に開発する側に存在する問題だ。
○ダメな時徹底的にダメになる事情
・原作ものの場合「旬を逃さない」ことが重要になる場合が多い為、開発期間がシビアになりがちである(気がする)。
・原作とのギャップを整合させる為、ゲーム性・ゲームバランスなどに無理がくる場合がある。
・一方、原作のネームバリューによってある程度「売れてしまう」為、会社が危機感を持ってリソースを振り向けない場合がある(気がする)。
・上記事情の関係から、「ダメゲーになっちゃったけど版権とか時期とか諸々の事情から引くに引けなくなって発売されちゃった」キャラゲー、というのが割とありそうな気がする。
私の知識は基本的にファミコン・SFC時代に偏っている為、最近のキャラゲーのことは良く知らんが、まあ多分そんなに事情は変わらんだろう。ファミコン時代、特に某B社から発売されていたタイトル群が、巨大な売り上げに比して若干出来があれれーという感じだった理由が、多分上の様な話だ。
3つ目は単なる邪推だが、1つ目と組み合わせて考えてみると、「粗製」のキャラゲーの中にはこういう思考で薄いリソースしか振り向けられなかったタイトルがありそうに思う。
ちなみに、2つ目の「ゲームバランス・設定」に関してはキャラゲーそれぞれでアプローチが違う。結果的に、「原作とのギャップを整合」させる手間を殆ど放棄したスーパーロボット対戦が隆盛しているという事実には、ある意味感慨深いものがある。
手前味噌ながら参照リンク。
レトロゲーム万里を往く その5 〜キャプテン翼〜
レトロゲーム万里を往く その22 〜芸能界ゲームよ永遠に〜
レトロゲーム万里を往く その38 〜ファミコンジャンプ 英雄列伝〜
まあ、結論として。
・「キャラゲーにはダメゲー含有率が高い」というテーゼは、必ずしも事実とはいえない気がする。
・本当にダメな一般ゲームはそもそも知られていない場合が多い。
・キャラゲーって売り上げドーピング効果が凄いですよねー。
・原作とのシナジー効果で印象残り過ぎ。結果的に「記憶に残るダメゲー」は結構あるけど、名作キャラゲーもたくさんあるよ!あるよ!
・ところで「バンダイ」の名前が今はもうない、という事実に時代を感じまくるんですが。
取り敢えずそんな感じで。
2009年04月09日
レトロゲームでよく見かける現実では使わない言葉:ネタ元編 その2
ということで残り書くぜ!
・「PUSH START.」
スタートボタンを押せ。特にアーケード界隈ではありとあらゆる色んなゲームで見かけるが、初出は多分アタリゲーなんじゃないかなあ。なんとなくだけど。
・「ワシは宇宙の帝王ザカリテ」
シルフィード。ワシじゃなくて私だったっけ?「喋る」というただその一点のみにおいてゲーム業界の歴史に残った言葉。
類語として「ぞんびはんたーっ!」がある。嘘だが。
・「たわむれは終わりじゃ」
源平討魔伝。一応ラスボスたる頼朝の台詞なのだが、当該出現シーンはどう見ても遊んでいる(主に開発者が)。
「殺してしんぜよう!」の義経さんの方がヤる気満々でかっこよかったと思います。
・「ながいたびが はじまる…」
スーパーモンキー大冒険。このゲームも理不尽度で有名になったが、実際のところ、これより理不尽なゲームは幾らでもある。有名になっただけマシな方じゃないかと思う。
・「おびただしい りゅうけつ!」
ヘラクレスの栄光。台詞的には、なんとなく「くびをはねられた!」の眷属の様な気がする。殺伐具合がいい味出してる。初代では「脱ドラクエ型」を標榜していたと思うが、IIは割と素でドラクエだった。IIIで盛り返した感じだったかな。
・「カメェェェッー!」
FF5よりエクスデスさん。FF系の悪役は、どういう訳か台詞回しというより奇声・怒声・笑い声などで記憶に残るものが多い。「ファファファ」とか「ウボァー」とか。
・「WARNING! A HUGE BATTLESHIP GOLDEN OGRE IS APPROACHING FAST!」
初出はダライアスだが、ゴールデンオーガはダラ外にしか出てこない。ボス前で演出される怒涛の緊張感。今更だが、ダライアスシリーズのボスネーミングをした人は本当に偉大だと思う。イカが「ネオンライトイリュージョン」というセンスに素で感動する。
・「エモノガイタゼ!」
ラストハルマゲドン。当時、私の中では女神転生(デジタルデビルストーリー)の眷属だった。
・「ヘルナンデスくんのおうごんのみぎうでだーっ!」
キャプテン翼にも同じ台詞があったかも知れないが、もってきたのは「ファミコンジャンプ」のラストバトルの方。この一言で北斗神拳伝承者が瀕死になる光景は、当時衝撃的だった。
・「殺してしんぜよう」
源平討魔伝より、義経さん。ここのBGMはつくづく素晴らしいと思う。
・「わたしのびぼうまではまねできなかったようね!」
ストIIのどれかでの春麗の勝ち台詞…の筈だ。これだけ記憶がはっきりしないまま書いた。もしかするとストIIではなくADKなりデコなりSNKなりのどれかだったかも知れない。
関係ないが、「同キャラ対戦というものを勝ち台詞でどう解決するか」ということに対するアプローチは、それだけで独立エントリーが書ける程深い。多分その内書く。
・「Continue?」
数限りないゲームで。あんまり関係ないが、「ゲームオーバー後もコイン投入によってゲームを続けることが出来る」という概念は、ゲームの歴史の中でも割と最近出来たものの筈だ。少なくともゲームセンターという業態が完全に確立してからじゃないだろうか。その内調べてみる。
・「PLEASE ARTHUR,COME BACK HERE WITH THE BRACELET AND RELEASE ME.YOU ARE MY ONLY HOPE.」
超魔界村。訳すと「もう一周して腕輪とってこいや」となる。プリンセスほっといて帰っちゃダメですか?
-------------------------------------------------------
以下はコメントやはてブから適当に抽出。テーマは「ぐぐらない」なので間違えたことも書いてるかも知れない。
・「ざんねん!! わたしのぼうけんはここで おわってしまった!!」
シャドウゲイト。これもなんか随分有名になってしまったが、個人的には「アキラ」の方が色々とひどいと思う。
・「アンキモ、アンキモ、アンキモ!」
美味しんぼ。上記のアキラもだが、この頃の原作つきAVGには、色々とトチ狂ったものが多い。孔雀王もなかなかのものだった記憶がある。
・「タフすぎて そんはない」
アタリのピットファイター。類語は残虐行為手当(違うかも知れない)。これをメガドライブで出したことに全ての意義があると思う。
・「アツイゼ アツイゼェー アツクテ シヌゼェーッ!」
ブラッディウルフ。類語は「ナイフデ タノシモウゼェー!」デコゲーは全体的に、ゲームの本筋とは関係ないところで記憶に残っているタイトルが多いが、ゲーム自体も出色な出来のものが多かった。ブラッディウルフがそうであったかどうかは保証しないが。
・「ガムが ついたら くるがよい」
メタルマックス(多分初代)。「単に邪魔なだけ」のアイテムがRPGに出てくるというのも、当時は結構新鮮だったと思う。
・「いまのあんたが いちばん みにくいぜ」
サガ。あれ、サガIIだっけ?このシリーズは、主人公に設定がない割に印象的な台詞が多かった様な気がする。台詞回しのシンプルさというか、やや投げやりな感じは後のロマサガに通じている。
・「ミンナニハナイショダヨ」
ゼルダ。厳密には「ミンナニナイショダヨ」が正しい、らしい。ドアの修理代と対極にあるイベントである。
・「きみ いいからだしてるね ゲッターチームに はいらないか」
スーパーロボット大戦、多分GB版初代。類語は「いいわ いうとおりにする」(違うかも知れない)スパロボα辺りからしかやったことがない人が、GB版やったらどう思うんだろうか。ちょっと興味がある。
・「オレサマ オマエ マルカジリ」「コンゴトモヨロシク」
女神転生。後者はデジタルデビル物語の頃からあるが、前者の初出は大分後の筈だ。真II辺りだろうか。「マルカジリ」のインパクトがすばらしい。
・「all your base are belong to us」
ゼロウイング。実は深い意味があるんじゃないかとかんぐってしまうが、多分単純に英語が分からなかっただけなんだろうと思う。
大概長くなったのでこの辺で。
・「PUSH START.」
スタートボタンを押せ。特にアーケード界隈ではありとあらゆる色んなゲームで見かけるが、初出は多分アタリゲーなんじゃないかなあ。なんとなくだけど。
・「ワシは宇宙の帝王ザカリテ」
シルフィード。ワシじゃなくて私だったっけ?「喋る」というただその一点のみにおいてゲーム業界の歴史に残った言葉。
類語として「ぞんびはんたーっ!」がある。嘘だが。
・「たわむれは終わりじゃ」
源平討魔伝。一応ラスボスたる頼朝の台詞なのだが、当該出現シーンはどう見ても遊んでいる(主に開発者が)。
「殺してしんぜよう!」の義経さんの方がヤる気満々でかっこよかったと思います。
・「ながいたびが はじまる…」
スーパーモンキー大冒険。このゲームも理不尽度で有名になったが、実際のところ、これより理不尽なゲームは幾らでもある。有名になっただけマシな方じゃないかと思う。
・「おびただしい りゅうけつ!」
ヘラクレスの栄光。台詞的には、なんとなく「くびをはねられた!」の眷属の様な気がする。殺伐具合がいい味出してる。初代では「脱ドラクエ型」を標榜していたと思うが、IIは割と素でドラクエだった。IIIで盛り返した感じだったかな。
・「カメェェェッー!」
FF5よりエクスデスさん。FF系の悪役は、どういう訳か台詞回しというより奇声・怒声・笑い声などで記憶に残るものが多い。「ファファファ」とか「ウボァー」とか。
・「WARNING! A HUGE BATTLESHIP GOLDEN OGRE IS APPROACHING FAST!」
初出はダライアスだが、ゴールデンオーガはダラ外にしか出てこない。ボス前で演出される怒涛の緊張感。今更だが、ダライアスシリーズのボスネーミングをした人は本当に偉大だと思う。イカが「ネオンライトイリュージョン」というセンスに素で感動する。
・「エモノガイタゼ!」
ラストハルマゲドン。当時、私の中では女神転生(デジタルデビルストーリー)の眷属だった。
・「ヘルナンデスくんのおうごんのみぎうでだーっ!」
キャプテン翼にも同じ台詞があったかも知れないが、もってきたのは「ファミコンジャンプ」のラストバトルの方。この一言で北斗神拳伝承者が瀕死になる光景は、当時衝撃的だった。
・「殺してしんぜよう」
源平討魔伝より、義経さん。ここのBGMはつくづく素晴らしいと思う。
・「わたしのびぼうまではまねできなかったようね!」
ストIIのどれかでの春麗の勝ち台詞…の筈だ。これだけ記憶がはっきりしないまま書いた。もしかするとストIIではなくADKなりデコなりSNKなりのどれかだったかも知れない。
関係ないが、「同キャラ対戦というものを勝ち台詞でどう解決するか」ということに対するアプローチは、それだけで独立エントリーが書ける程深い。多分その内書く。
・「Continue?」
数限りないゲームで。あんまり関係ないが、「ゲームオーバー後もコイン投入によってゲームを続けることが出来る」という概念は、ゲームの歴史の中でも割と最近出来たものの筈だ。少なくともゲームセンターという業態が完全に確立してからじゃないだろうか。その内調べてみる。
・「PLEASE ARTHUR,COME BACK HERE WITH THE BRACELET AND RELEASE ME.YOU ARE MY ONLY HOPE.」
超魔界村。訳すと「もう一周して腕輪とってこいや」となる。プリンセスほっといて帰っちゃダメですか?
-------------------------------------------------------
以下はコメントやはてブから適当に抽出。テーマは「ぐぐらない」なので間違えたことも書いてるかも知れない。
・「ざんねん!! わたしのぼうけんはここで おわってしまった!!」
シャドウゲイト。これもなんか随分有名になってしまったが、個人的には「アキラ」の方が色々とひどいと思う。
・「アンキモ、アンキモ、アンキモ!」
美味しんぼ。上記のアキラもだが、この頃の原作つきAVGには、色々とトチ狂ったものが多い。孔雀王もなかなかのものだった記憶がある。
・「タフすぎて そんはない」
アタリのピットファイター。類語は残虐行為手当(違うかも知れない)。これをメガドライブで出したことに全ての意義があると思う。
・「アツイゼ アツイゼェー アツクテ シヌゼェーッ!」
ブラッディウルフ。類語は「ナイフデ タノシモウゼェー!」デコゲーは全体的に、ゲームの本筋とは関係ないところで記憶に残っているタイトルが多いが、ゲーム自体も出色な出来のものが多かった。ブラッディウルフがそうであったかどうかは保証しないが。
・「ガムが ついたら くるがよい」
メタルマックス(多分初代)。「単に邪魔なだけ」のアイテムがRPGに出てくるというのも、当時は結構新鮮だったと思う。
・「いまのあんたが いちばん みにくいぜ」
サガ。あれ、サガIIだっけ?このシリーズは、主人公に設定がない割に印象的な台詞が多かった様な気がする。台詞回しのシンプルさというか、やや投げやりな感じは後のロマサガに通じている。
・「ミンナニハナイショダヨ」
ゼルダ。厳密には「ミンナニナイショダヨ」が正しい、らしい。ドアの修理代と対極にあるイベントである。
・「きみ いいからだしてるね ゲッターチームに はいらないか」
スーパーロボット大戦、多分GB版初代。類語は「いいわ いうとおりにする」(違うかも知れない)スパロボα辺りからしかやったことがない人が、GB版やったらどう思うんだろうか。ちょっと興味がある。
・「オレサマ オマエ マルカジリ」「コンゴトモヨロシク」
女神転生。後者はデジタルデビル物語の頃からあるが、前者の初出は大分後の筈だ。真II辺りだろうか。「マルカジリ」のインパクトがすばらしい。
・「all your base are belong to us」
ゼロウイング。実は深い意味があるんじゃないかとかんぐってしまうが、多分単純に英語が分からなかっただけなんだろうと思う。
大概長くなったのでこの辺で。
2009年04月08日
レトロゲームでよく見かける現実では使わない言葉:ネタ元編 その1
これのネタ元が知りたい?よっしゃ、任せとけ!コメントに書いてあったヤツまで勝手に解説しようと思ったらやたら長くなったんで二つに分けるぜ!
・「くっ!ガッツがたりない!」
ファミコン版キャプテン翼の有名な台詞。ほぼ普通のRPGの「MPが足りない」に当たる。確か1の場合、ガッツが足りないとパスも出来ない。ドリブルより楽だと思うんだが。
類語に「くっ!しんぞうが…」みたいなものもあった気がするが、こちらはややマイナーか。
・「そのほうこうにはだれもいない。」
FC版ドラクエシリーズの有名な台詞。いつ頃からかなくなった気がするが、7からか?
FC版ドラクエ1は、「はなす」コマンドを選択した後話しかける方向を選択しなくてはならなかったので、この台詞も文脈に一致していた。最初から2以降の形式なら違った台詞になっていた気がする。
・「へんじがない。ただのしかばねのようだ。」
同じくドラクエシリーズの伝統的な台詞。くさった死体がいる世界だからこそ成立する台詞なんだろうと思うが、何と声をかけて返事がないのか、という問題は残る。
・「たいほしろ」
初出はポートピア連続殺人事件か?刑事ものAVGの最終兵器だが、令状とかはいいんだろうか。
とはいえ、最後の最後に「コマンド形式」というシステムそのものをネタにもってくる、堀井雄二氏のスゴみは認めなければなるまい。
・「たたかう」
初出は分からないが、多分定番となったのはドラクエシリーズ。「attack」を最初にこう訳した人は偉大だと思う。
・「お、おのれー!」
ゲームでは色んな場面で見かけるが、不思議と現実やアニメなどではあまり出てこない言葉の様な気がする。発音すると意外とマヌケだからだろうか。その点銭形警部の発声は際立っていると思う。
・「しんでしまうとはなさけない!」
ドラクエ。密かに、冷静に考えるとトチ狂っている台詞トップ10くらいには入ると思う。
・「そうびしないといみがないぜ」
これも色んなRPGで見かける言葉の一部。上に「武器や防具は」とかついたり、「パンツをはきなさい」に変化したりする。やはり、定着したのはドラクエだろうか。
・「コインいっこいれる」
アタリゲー日本語版の定番メッセージ。insert coinを直訳するとこうなる様だが、多分意識して妙な言葉にしてあると思う。
・「よくぞここまでたどりついた!」
言ってる場合ちゃうやろと。
参照:魔王のマネジネント能力について。
・「いしのなかにいる!!」
Wizardry。直後に全員ロスト。多分、「見たくないゲーム中メッセージランキング」か何か作ったらトップ10には入ると思う。個人的には「ぼうけんのしょがきえてしまいました」よりこっちの方がイヤだ。
・「ほかにすることはないのですか」
三國志。どういう訳か、訓練をしようとすると大抵の軍師にこういわれる。このゲームの孔明って、本当に有能なのかどうか微妙な立ち位置である様な気がする。
・「くにへかえるんだな おまえにもかぞくがいるだろう」
ストIIよりガイル少佐。普通の人ならブランカを一見して出る台詞ではないと思うのだが、流石少佐は懐が深い。
・「ドアノシュウリダイヲモラウゾ 」
ゼルダの伝説。隠し扉を開けているとたまに遭遇する、まあトラップの一種。修理代と称して大金を巻き上げる辺り、ある種の怖い人タチ的な気配がして趣き深い。
続きはまた後ほど。
・「くっ!ガッツがたりない!」
ファミコン版キャプテン翼の有名な台詞。ほぼ普通のRPGの「MPが足りない」に当たる。確か1の場合、ガッツが足りないとパスも出来ない。ドリブルより楽だと思うんだが。
類語に「くっ!しんぞうが…」みたいなものもあった気がするが、こちらはややマイナーか。
・「そのほうこうにはだれもいない。」
FC版ドラクエシリーズの有名な台詞。いつ頃からかなくなった気がするが、7からか?
FC版ドラクエ1は、「はなす」コマンドを選択した後話しかける方向を選択しなくてはならなかったので、この台詞も文脈に一致していた。最初から2以降の形式なら違った台詞になっていた気がする。
・「へんじがない。ただのしかばねのようだ。」
同じくドラクエシリーズの伝統的な台詞。くさった死体がいる世界だからこそ成立する台詞なんだろうと思うが、何と声をかけて返事がないのか、という問題は残る。
・「たいほしろ」
初出はポートピア連続殺人事件か?刑事ものAVGの最終兵器だが、令状とかはいいんだろうか。
とはいえ、最後の最後に「コマンド形式」というシステムそのものをネタにもってくる、堀井雄二氏のスゴみは認めなければなるまい。
・「たたかう」
初出は分からないが、多分定番となったのはドラクエシリーズ。「attack」を最初にこう訳した人は偉大だと思う。
・「お、おのれー!」
ゲームでは色んな場面で見かけるが、不思議と現実やアニメなどではあまり出てこない言葉の様な気がする。発音すると意外とマヌケだからだろうか。その点銭形警部の発声は際立っていると思う。
・「しんでしまうとはなさけない!」
ドラクエ。密かに、冷静に考えるとトチ狂っている台詞トップ10くらいには入ると思う。
・「そうびしないといみがないぜ」
これも色んなRPGで見かける言葉の一部。上に「武器や防具は」とかついたり、「パンツをはきなさい」に変化したりする。やはり、定着したのはドラクエだろうか。
・「コインいっこいれる」
アタリゲー日本語版の定番メッセージ。insert coinを直訳するとこうなる様だが、多分意識して妙な言葉にしてあると思う。
・「よくぞここまでたどりついた!」
言ってる場合ちゃうやろと。
参照:魔王のマネジネント能力について。
・「いしのなかにいる!!」
Wizardry。直後に全員ロスト。多分、「見たくないゲーム中メッセージランキング」か何か作ったらトップ10には入ると思う。個人的には「ぼうけんのしょがきえてしまいました」よりこっちの方がイヤだ。
・「ほかにすることはないのですか」
三國志。どういう訳か、訓練をしようとすると大抵の軍師にこういわれる。このゲームの孔明って、本当に有能なのかどうか微妙な立ち位置である様な気がする。
・「くにへかえるんだな おまえにもかぞくがいるだろう」
ストIIよりガイル少佐。普通の人ならブランカを一見して出る台詞ではないと思うのだが、流石少佐は懐が深い。
・「ドアノシュウリダイヲモラウゾ 」
ゼルダの伝説。隠し扉を開けているとたまに遭遇する、まあトラップの一種。修理代と称して大金を巻き上げる辺り、ある種の怖い人タチ的な気配がして趣き深い。
続きはまた後ほど。
2009年04月03日
レトロゲームでよく見かける現実では使わない言葉
昔の少女漫画でよく見かける現実では使わない言葉
なんとなく面白かったんだけど、私は少女漫画にはあんまり知識がないから、「レトロゲームでよく見かける現実では使わない言葉」を幾つか妄想してみたよ。
・「くっ!ガッツがたりない!」
・「そのほうこうにはだれもいない。」
・「へんじがない。ただのしかばねのようだ。」
・「たいほしろ」
・「たたかう」
・「お、おのれー!」
・「しんでしまうとはなさけない!」
・「そうびしないといみがないぜ」
・「コインいっこいれる」
・「よくぞここまでたどりついた!」
・「いしのなかにいる!!」
・「ほかにすることはないのですか」
・「くにへかえるんだな おまえにもかぞくがいるだろう」
・「ドアノシュウリダイヲモラウゾ 」
・「PUSH START.」
・「ワシは宇宙の帝王ザカリテ」
・「たわむれは終わりじゃ」
・「ながいたびが はじまる…」
・「おびただしい りゅうけつ!」
・「カメェェェッー!」
・「WARNING! A HUGE BATTLESHIP GOLDEN OGRE IS APPROACHING FAST!」
・「エモノガイタゼ!」
・「ヘルナンデスくんのおうごんのみぎうでだーっ!」
・「殺してしんぜよう」
・「わたしのびぼうまではまねできなかったようね!」
・「Continue?」
・「PLEASE ARTHUR,COME BACK HERE WITH THE BRACELET AND RELEASE ME.YOU ARE MY ONLY HOPE.」
うん、最後のが書きたかっただけなんだ。というかそんなに頻繁には見かけない台詞ばっかりな気もするな。むしろ現実のシステム開発の場面とかで言われそうな予感がないでもない。
あんまり関係ないけど、魔界村のプリンセスはぼちぼちアーサーに見捨てられてもいいんじゃないかとふと思った。
なんとなく面白かったんだけど、私は少女漫画にはあんまり知識がないから、「レトロゲームでよく見かける現実では使わない言葉」を幾つか妄想してみたよ。
・「くっ!ガッツがたりない!」
・「そのほうこうにはだれもいない。」
・「へんじがない。ただのしかばねのようだ。」
・「たいほしろ」
・「たたかう」
・「お、おのれー!」
・「しんでしまうとはなさけない!」
・「そうびしないといみがないぜ」
・「コインいっこいれる」
・「よくぞここまでたどりついた!」
・「いしのなかにいる!!」
・「ほかにすることはないのですか」
・「くにへかえるんだな おまえにもかぞくがいるだろう」
・「ドアノシュウリダイヲモラウゾ 」
・「PUSH START.」
・「ワシは宇宙の帝王ザカリテ」
・「たわむれは終わりじゃ」
・「ながいたびが はじまる…」
・「おびただしい りゅうけつ!」
・「カメェェェッー!」
・「WARNING! A HUGE BATTLESHIP GOLDEN OGRE IS APPROACHING FAST!」
・「エモノガイタゼ!」
・「ヘルナンデスくんのおうごんのみぎうでだーっ!」
・「殺してしんぜよう」
・「わたしのびぼうまではまねできなかったようね!」
・「Continue?」
・「PLEASE ARTHUR,COME BACK HERE WITH THE BRACELET AND RELEASE ME.YOU ARE MY ONLY HOPE.」
うん、最後のが書きたかっただけなんだ。というかそんなに頻繁には見かけない台詞ばっかりな気もするな。むしろ現実のシステム開発の場面とかで言われそうな予感がないでもない。
あんまり関係ないけど、魔界村のプリンセスはぼちぼちアーサーに見捨てられてもいいんじゃないかとふと思った。
2008年12月02日
レトロゲーム万里を往く その85 アルゴスの戦士
ちょっと見過ごせないエントリーを見たので、若干予定を変更する。
「れとろげーむまにあ」様より。
れとろげーむまにあ:アーケードから移植された納得のいかないファミコン作品
れとろげーむまにあ様には申し訳ないが、私はこのエントリーに対してはこう申し上げなくてはならない。
違うだろう、と。
もっと重要なヤツを忘れているだろう、と。
マイティファイナルファイトなんて普通の良作を取り上げてる場合じゃないだろう、と。
およそありとあらゆる家庭用ハードの中で、ファミコンというハード程「移植」という言葉の裏に数々のドラマを秘めているハードは他に存在しないだろう。
PCやアーケードとの性能差は山より高く聳え立っているのに、開発陣は容赦なく「××を移植すれ!」という理不尽なオーダーを受ける。絶対的なハード性能の差に、原作ファンの厳しい視線。はじめから負けが見えている戦に敢然と戦いを挑む開発陣。
そしてファミコン市場にはアフターバーナーが、魔界村が、沙羅曼蛇が、熱血硬派くにおくんが、オペレーションウルフが、ハードの限界を越えて送り出されてきたのである。
そんな中。とある一つの硬派タイトルが、妥当なシステム変更と、凄まじいまでのイメージチェンジを施された上でファミコン業界に降り立った。
そう、その名は「アルゴスの戦士 はちゃめちゃ大進撃」。
アルゴスの戦士。アクションゲーム。1986年、テクモよりアーケード版発売。その翌年、87年4月にファミコン版に移植された際には、RPG風の味付けと、見下ろし型マップなどの追加要素と、「はちゃめちゃ大進撃」という恐るべき副題を引っさげて業務用ファンの度肝を抜いた。ついでに、パッケージには誰だよお前とつぶやきたくなる様な、可愛らしい3頭身の戦士がアルゴスの戦士として描写されていた。(参照: 琵琶湖のほとり様より)
ファミコンへの移植の際に奇妙な副題がつくというのは意外によくあるパターンなのだが、ゲームごと180度の路線変更を行った「スプラッターハウス わんぱくグラフィティ」、PCアドベンチャーの雄「ジーザス 恐怖のバイオモンスター」などと並んで、最もインパクトが強烈な部類に入るといっていいだろう。ゲームそのものはアーケード・ファミコン版共に良作と言うべき出来であっただけに、そのインパクトは一層際立っていた。
当時、ファミコンが「お子様マーケット」であると認識されていたことは想像に難くないし、玩具メーカーとしての任天堂の存在を考えても、それは別におかしな話ではない。ただ、だからといって「サブタイトルでお子様に受けそうなテイストをつけよう」という発想はちょっとどうなんだ、と思わざるを得ない。確かにアルゴスの戦士は硬派硬派とした硬派ゲーであった訳だが、中身は割と硬派なまま看板とパッケージだけお子様用に変えてみました、というスタンスには若干の議論の余地が残るだろう。その点「全とっかえ」のスプラッターハウスはまだ潔かったといえなくもない。
まあ、この辺は数ある移植のドラマの内だ。まず、参照URLを挙げてみる。
ゲームの背景についてはWikipediaに詳しい。
Wikipedia:アルゴスの戦士
ファミコン版の攻略に関してはこちらのページが白眉だろう。画面写真も参照することが出来る。
アルゴスの戦士
業務用については、こちらでインストカードから画面写真まで参照することが出来る。恐るべき情報量である。
アルゴスの戦士 -テクモ 1986
あんまり関係ないが、アルゴスの戦士はPS2に移植された際も、「マッスルインパクト」などという、人によってはキン肉マンものと間違いかねないサブタイトルを冠されている。なんというか、元来サブタイトルに恵まれていないシリーズなのだろうか。
さて、ゲームの話にいこう。
・胸力って何?(業務用ファン談)
アーケード版のアルゴスの戦士は、どこまでもストイック、かつ硬派なジャンプアクションだった。
主人公のアルゴスの戦士は、ヨーヨー状の武器「ディスカーマー」を駆使しながら、獣王ライガーを倒す為、敵をなぎ倒したり踏んづけたり飛び越えてスルーしたりする。「インドラ」というパワーアップアイテムこそ存在したものの、そのゲーム性自体にとんがった部分はそれ程ない。適度な難易度と丁寧なステージ構成、殺伐としたインストカード(上記URL参照)が特徴である程度である。
その一方、ファミコン版に移植された際には、他の数々の移植タイトルと同様、アルゴスの戦士は大きく姿を変えていた。「腕力」「胸力」「精神力」などの各種パラメータ。ボウガンやくさりガマなど、「特殊な地形を越える為のアイテム」に双方向のマップ。敵を倒すことで成長するという経験値稼ぎの要素と、仙人からの情報収集。
そう、そのゲーム性は極めて強くRPGを意識したものになっていたのである。これはこれで十分丁寧な作りこみがされてはいたし、単体でも十分面白いゲームではあったのだが、業務用をイメージして始めてみたらびっくり仰天、という度合いでは源平に劣るものではない。
何故アルゴスの戦士はこの様なアレンジを施されたのか?それを知る為には、時代背景を考えてみる必要がある。
・1987年4月という時期、ファミコン業界には何が起きていたか。
以前も何度か書いているが、86年中盤から87年後半くらいにかけて、ファミコン業界はジャンルのカンブリア爆発を経験する。その背景には、86年2月にディスクシステムが発売され、安くなったメディア供給を背景に、様々なメーカーが山ほどの実験作を送り出したことが影響しているだろう。
そんな中、アクション・シューティング全盛だったファミコン業界に強く食い込んできたのが、王道ジャンルとして形成されつつあったRPGである。
1986年2月に、「ゼルダの伝説」。同じく3月に「ハイドライドスペシャル」、5月に「ドラゴンクエスト」。8月に「ワルキューレの冒険」。9月には、どこをどうひっくりかえしてみてもシューティングなのにRPGを自称していた「キングスナイト」も発売されている。
12月の「魔鐘」と「ディープダンジョン」、87年1月の「リンクの冒険」を挟んで、同じく87年1月に発売されたのが、かの「ドラゴンクエストII」である。週刊少年ジャンプの強烈なプッシュもあり、発売直後から空前の大ヒットを巻き起こしたのがドラクエ2だ。おそらく、RPGというジャンルが家庭用業界において完全に「王道」として認識されたのが、87年1月26日ではなかったか。
ここから考えると、アルゴスの戦士というゲームが移植される際、企画会議にて「どうせ完全移植は無理なんだし、今売れ筋のRPGっぽくしちゃえばよくね?」という思考が働いたのではないか、という推測は容易に可能である(開発期間が数ヶ月というのは、ファミコン時代に関していえばそれ程無茶な長さではない(参照:ファミコン登場から20年、成長モデルの限界)。アルゴスがそれに当てはまるのかどうかは保証しないが)。
この前後、グーニーズ2や月風魔伝、ディスク版の奇々怪界にまでRPG的な味付けが導入されていたことを考えれば、当時のゲーム業界の空気が想像出来ようというものだ。
ちなみに、源平程極端なものは少ないが、移植する際に微妙にジャンルを調整することでゲーム性を拡張する、という手法が使われたタイトルは他にも枚挙に暇がない。ヴァリスとか大魔司教ガリウスとかマイティボンジャックとか。妖怪道中記もそうかな。まあ、これについてはいずれまた、他の万里にて改めて取り上げたいと思う。
・それはそうと、アルゴスの話に戻りますが。
風の滑車の使い方のコツを覚えるのがこのゲーム最大の難関なんじゃねえかと思ったりもする訳ですが、何であのアイテムはあんなに使いにくいんですか。昔よく、ロープにはまったものと勘違いして崖に飛び降りてました。
というのはまあともかくとして、このゲームの個人的な印象としては、とにかく高い、というものがある。勿論値段ではなく、高度の話である。別の言い方をすれば、戦士高い所登り過ぎ。
このゲームはサイドビュー・トップビューが入り混じった複数のマップで構成されているのだが、一部のサイドビュー画面において、戦士がそりゃもうどこまで行くんだっていうくらい高く高く上っていくのである。一番高かったのは多分ロルセニア渓谷だろうか。木登り大好き高い所大好きの私は、転落したら30回くらい死ねるんじゃないかという高さを想像して、なんとなくハイになりながらよく操作ミスで水辺に転落して死んでいたものである。
ちなみに、このゲームの主人公であるアルゴスの戦士も、任天堂ジャンプアクションもかくやと思わせる超人的ジャンプ力の所有者である。多分スケール的には、アイスクライマーの主人公とタメがはれるんではないだろうか。一度「ジャンプアクション選抜ジャンプ力測定決戦」とかやってみると面白いかも知れない。
ということで、随分長くなったのでそろそろこの辺で。
付け加えになるが、冒頭れとろげーむまにあ様が挙げられている源平については、「月風魔伝が先に出てしまったから」こそのボードゲーム化だったりするのではないか、と私は以前書いた。手前味噌だが、参照URLとして挙げさせて頂く。
レトロゲーム万里を往く その51 源平討魔伝(FC版)
レトロゲーム万里を往く その50 源平討魔伝
次回は多分大航海時代に戻ります。
「れとろげーむまにあ」様より。
れとろげーむまにあ:アーケードから移植された納得のいかないファミコン作品
れとろげーむまにあ様には申し訳ないが、私はこのエントリーに対してはこう申し上げなくてはならない。
違うだろう、と。
もっと重要なヤツを忘れているだろう、と。
マイティファイナルファイトなんて普通の良作を取り上げてる場合じゃないだろう、と。
およそありとあらゆる家庭用ハードの中で、ファミコンというハード程「移植」という言葉の裏に数々のドラマを秘めているハードは他に存在しないだろう。
PCやアーケードとの性能差は山より高く聳え立っているのに、開発陣は容赦なく「××を移植すれ!」という理不尽なオーダーを受ける。絶対的なハード性能の差に、原作ファンの厳しい視線。はじめから負けが見えている戦に敢然と戦いを挑む開発陣。
そしてファミコン市場にはアフターバーナーが、魔界村が、沙羅曼蛇が、熱血硬派くにおくんが、オペレーションウルフが、ハードの限界を越えて送り出されてきたのである。
そんな中。とある一つの硬派タイトルが、妥当なシステム変更と、凄まじいまでのイメージチェンジを施された上でファミコン業界に降り立った。
そう、その名は「アルゴスの戦士 はちゃめちゃ大進撃」。
アルゴスの戦士。アクションゲーム。1986年、テクモよりアーケード版発売。その翌年、87年4月にファミコン版に移植された際には、RPG風の味付けと、見下ろし型マップなどの追加要素と、「はちゃめちゃ大進撃」という恐るべき副題を引っさげて業務用ファンの度肝を抜いた。ついでに、パッケージには誰だよお前とつぶやきたくなる様な、可愛らしい3頭身の戦士がアルゴスの戦士として描写されていた。(参照: 琵琶湖のほとり様より)
ファミコンへの移植の際に奇妙な副題がつくというのは意外によくあるパターンなのだが、ゲームごと180度の路線変更を行った「スプラッターハウス わんぱくグラフィティ」、PCアドベンチャーの雄「ジーザス 恐怖のバイオモンスター」などと並んで、最もインパクトが強烈な部類に入るといっていいだろう。ゲームそのものはアーケード・ファミコン版共に良作と言うべき出来であっただけに、そのインパクトは一層際立っていた。
当時、ファミコンが「お子様マーケット」であると認識されていたことは想像に難くないし、玩具メーカーとしての任天堂の存在を考えても、それは別におかしな話ではない。ただ、だからといって「サブタイトルでお子様に受けそうなテイストをつけよう」という発想はちょっとどうなんだ、と思わざるを得ない。確かにアルゴスの戦士は硬派硬派とした硬派ゲーであった訳だが、中身は割と硬派なまま看板とパッケージだけお子様用に変えてみました、というスタンスには若干の議論の余地が残るだろう。その点「全とっかえ」のスプラッターハウスはまだ潔かったといえなくもない。
まあ、この辺は数ある移植のドラマの内だ。まず、参照URLを挙げてみる。
ゲームの背景についてはWikipediaに詳しい。
Wikipedia:アルゴスの戦士
ファミコン版の攻略に関してはこちらのページが白眉だろう。画面写真も参照することが出来る。
アルゴスの戦士
業務用については、こちらでインストカードから画面写真まで参照することが出来る。恐るべき情報量である。
アルゴスの戦士 -テクモ 1986
あんまり関係ないが、アルゴスの戦士はPS2に移植された際も、「マッスルインパクト」などという、人によってはキン肉マンものと間違いかねないサブタイトルを冠されている。なんというか、元来サブタイトルに恵まれていないシリーズなのだろうか。
さて、ゲームの話にいこう。
・胸力って何?(業務用ファン談)
アーケード版のアルゴスの戦士は、どこまでもストイック、かつ硬派なジャンプアクションだった。
主人公のアルゴスの戦士は、ヨーヨー状の武器「ディスカーマー」を駆使しながら、獣王ライガーを倒す為、敵をなぎ倒したり踏んづけたり飛び越えてスルーしたりする。「インドラ」というパワーアップアイテムこそ存在したものの、そのゲーム性自体にとんがった部分はそれ程ない。適度な難易度と丁寧なステージ構成、殺伐としたインストカード(上記URL参照)が特徴である程度である。
その一方、ファミコン版に移植された際には、他の数々の移植タイトルと同様、アルゴスの戦士は大きく姿を変えていた。「腕力」「胸力」「精神力」などの各種パラメータ。ボウガンやくさりガマなど、「特殊な地形を越える為のアイテム」に双方向のマップ。敵を倒すことで成長するという経験値稼ぎの要素と、仙人からの情報収集。
そう、そのゲーム性は極めて強くRPGを意識したものになっていたのである。これはこれで十分丁寧な作りこみがされてはいたし、単体でも十分面白いゲームではあったのだが、業務用をイメージして始めてみたらびっくり仰天、という度合いでは源平に劣るものではない。
何故アルゴスの戦士はこの様なアレンジを施されたのか?それを知る為には、時代背景を考えてみる必要がある。
・1987年4月という時期、ファミコン業界には何が起きていたか。
以前も何度か書いているが、86年中盤から87年後半くらいにかけて、ファミコン業界はジャンルのカンブリア爆発を経験する。その背景には、86年2月にディスクシステムが発売され、安くなったメディア供給を背景に、様々なメーカーが山ほどの実験作を送り出したことが影響しているだろう。
そんな中、アクション・シューティング全盛だったファミコン業界に強く食い込んできたのが、王道ジャンルとして形成されつつあったRPGである。
1986年2月に、「ゼルダの伝説」。同じく3月に「ハイドライドスペシャル」、5月に「ドラゴンクエスト」。8月に「ワルキューレの冒険」。9月には、どこをどうひっくりかえしてみてもシューティングなのにRPGを自称していた「キングスナイト」も発売されている。
12月の「魔鐘」と「ディープダンジョン」、87年1月の「リンクの冒険」を挟んで、同じく87年1月に発売されたのが、かの「ドラゴンクエストII」である。週刊少年ジャンプの強烈なプッシュもあり、発売直後から空前の大ヒットを巻き起こしたのがドラクエ2だ。おそらく、RPGというジャンルが家庭用業界において完全に「王道」として認識されたのが、87年1月26日ではなかったか。
ここから考えると、アルゴスの戦士というゲームが移植される際、企画会議にて「どうせ完全移植は無理なんだし、今売れ筋のRPGっぽくしちゃえばよくね?」という思考が働いたのではないか、という推測は容易に可能である(開発期間が数ヶ月というのは、ファミコン時代に関していえばそれ程無茶な長さではない(参照:ファミコン登場から20年、成長モデルの限界)。アルゴスがそれに当てはまるのかどうかは保証しないが)。
この前後、グーニーズ2や月風魔伝、ディスク版の奇々怪界にまでRPG的な味付けが導入されていたことを考えれば、当時のゲーム業界の空気が想像出来ようというものだ。
ちなみに、源平程極端なものは少ないが、移植する際に微妙にジャンルを調整することでゲーム性を拡張する、という手法が使われたタイトルは他にも枚挙に暇がない。ヴァリスとか大魔司教ガリウスとかマイティボンジャックとか。妖怪道中記もそうかな。まあ、これについてはいずれまた、他の万里にて改めて取り上げたいと思う。
・それはそうと、アルゴスの話に戻りますが。
風の滑車の使い方のコツを覚えるのがこのゲーム最大の難関なんじゃねえかと思ったりもする訳ですが、何であのアイテムはあんなに使いにくいんですか。昔よく、ロープにはまったものと勘違いして崖に飛び降りてました。
というのはまあともかくとして、このゲームの個人的な印象としては、とにかく高い、というものがある。勿論値段ではなく、高度の話である。別の言い方をすれば、戦士高い所登り過ぎ。
このゲームはサイドビュー・トップビューが入り混じった複数のマップで構成されているのだが、一部のサイドビュー画面において、戦士がそりゃもうどこまで行くんだっていうくらい高く高く上っていくのである。一番高かったのは多分ロルセニア渓谷だろうか。木登り大好き高い所大好きの私は、転落したら30回くらい死ねるんじゃないかという高さを想像して、なんとなくハイになりながらよく操作ミスで水辺に転落して死んでいたものである。
ちなみに、このゲームの主人公であるアルゴスの戦士も、任天堂ジャンプアクションもかくやと思わせる超人的ジャンプ力の所有者である。多分スケール的には、アイスクライマーの主人公とタメがはれるんではないだろうか。一度「ジャンプアクション選抜ジャンプ力測定決戦」とかやってみると面白いかも知れない。
ということで、随分長くなったのでそろそろこの辺で。
付け加えになるが、冒頭れとろげーむまにあ様が挙げられている源平については、「月風魔伝が先に出てしまったから」こそのボードゲーム化だったりするのではないか、と私は以前書いた。手前味噌だが、参照URLとして挙げさせて頂く。
レトロゲーム万里を往く その51 源平討魔伝(FC版)
レトロゲーム万里を往く その50 源平討魔伝
次回は多分大航海時代に戻ります。
2008年11月26日
レトロゲーム万里を往く その84 大航海時代
レオン「ふー、ようやくサントドミンゴについた。さて、サンゴを積み込んでと。あれ?」
ロッコ「どうしやした、提督」
レオン「なんかサンゴ売ってないんだけど。ピーナッツ油なんて交易品あったっけ?」
ロッコ「隣のサンファンって港で売ってるそうですぜ、提督」
レオン「そんな港あったっけ?…って、なんで一桁しか買えないんだこれ。金も倉庫も足りてるぞ、こらオヤジ」
交易所店主「カテ4がいるっす」
レオン「カテ4?何それ」
交易所店主「仕入発注書っす。ちょっと前まではブーメランで購入量回復したけど、お上の手が入って厳しくなったっす」
レオン「だから何それ。ブーメラン?武器?」
交易所店主「カテ4集めはジャカルタの交易クエがオススメっす。セビリアまで往復することになるっすけど」
レオン「一体何の話をしてるんだあああっ!!」
(「オンライン浦島太郎物語(民明書房刊)」より一部抜粋)
PCゲーとコンシューマーの間に越えられない壁があった時代が、かつてあった。
PCを買う重要な動機が「ファミコンやスーファミでは出来ないゲームをしたい」だった時代があった。インターネットの隆盛など想像もしなかった時代、PCが本当に高級機だった時代、今のCPUクロック数の100分の1以下の性能のPCが今のハイエンドモデルの値段で売られていた時代、そしてPCでないと出来ないゲームがとても重要だった時代があった。
ファミコン時代にゲームを触っていた人の中には、「あー、パソコンのゲームやりたいなー」と思ったことがある人がかなりの数いる筈だ。当時、PCの美しいグラフィック、凄まじい音質、そして数々の「PCならでは」のタイトルは、一部のファミコン小僧達の羨望の的だった。
例えば、アドベンチャーゲーム。初期のデゼニランドやサラトマからジーザス、スナッチャー、ポリスノーツまで、真っ先にコンシューマーに取り込まれていったジャンルではあるが、そのグラフィックは後々まで崩れない牙城だった。
例えば、RPG。夢幻の心臓やウルティマ、ウィザードリィから、イース、ブランディッシュ、ソーサリアン、ザナドゥなどのファルコムシリーズ。ルナティックドーンも有名だろう。ファザナドゥの例を出すまでもなく、ファミコンで「そのまんま」のRPGを遊ぶことは極めて難しいことであり、当時のRPGの本場は間違いなくPC市場だった。
例えば、シミュレーション。ロードモナークやパワーモンガー、大戦略、あるいはパワードール。ポピュラスにもシムシティにも、パソコンでないと出来ない時代があった。RPGと並んで、PCゲーム市場の中核だったといっていいだろう。
例えば、ギャルゲーやエロゲー。草分けとなったのは多分「同級生」だろう。一時代を築いたプリンセスメーカーや、メルクリウスプリティなんてタイトルもあったと思う。
アーケードゲーム業界と並んで、PCゲーム業界がゲーム市場をリードしていた時代、英雄伝説やエメラルドドラゴンがコンシューマーに移植されれば大騒ぎされていた時代、もう遥か昔の話だ。
当時は日本ファルコムが、アートディンクが、マイクロキャビンが、システムソフトが、確かにゲーム業界を回す焦点の一角だったのである。
そしてそんな中でも、PC-コンシューマーという軸においておそらく最強の影響力を有していたのが光栄というメーカーであり、信長の野望であり、三國志であり、提督の決断であり、大航海時代だった訳なのである。
大航海時代。シミュレーションゲーム。1990年、光栄よりPC版が発売。当時の光栄は「リコエーションゲーム」と称していたと思う。極めて高い自由度を中核として、グラフィック、音楽、ゲームバランス、どれをとってもハイレベルなゲームだった。そして、おそらく、PCがコンシューマーゲーム機に対して絶対的な優位を保っていた最後の時代のゲームだった、ともいえるのではないだろうか。
PC-8800が最初のプラットフォームだった筈だが、おそらく最も売れたのは、後に光栄定番シリーズで復刻されたPC-98版だろう。翌年1991年3月にはファミコンにも移植され、92年に発売されたSFC版と並んで人気を博し、後の「大航海時代2」を経てシリーズとしての人気を磐石なものとした。現在稼動しているオンライン版は、信長と並んで光栄産MMOの代表格となっている筈である。
以下は、ゲームとしての大航海時代についての参照URLである。まずはWikipedia。
Wikipedia:大航海時代 (ゲーム)
SFC版だが、画面写真はこちらから参照出来る。
大航海時代(FC)
まずはゲームの話にいこう。
・世界地図教育用ソフト。(注:沿岸限定)
大航海時代は、16世紀初頭、ヨーロッパが世界各地に船を派遣していた時代を舞台にした船舶ゲームである。プレイヤーは船を駆ってリスボンから航海に発ち、貿易をしたり海戦をしたりポーカーをしたり酒場女を口説いたりカノン砲をぶっ放したりする。
ゲーム全体を通していえることは、自由度が極めて高いことだろう。ゲームは基本的には「金稼ぎ」「名声稼ぎ」を主軸として行われることになるのだが、その為に出来ることは実に多種多様だ。プレイヤーは港から港を飛び回って交易をしてもいいし、船を襲いまくって海賊と化してもいいし、ギルドで仕事を請け負ってあちらこちらの港で投資をしてもいいし、酒場でひたすらブラックジャックやポーカーに魂を燃やすという選択もある。
とはいえ、ゲームのメインが「交易」と「海戦」にあることは間違いなく、ゲームとしての面白さもそこらへんに詰まっている。
交易の基本は、安い交易品をたくさん仕入れて、高く買ってくれる別の港に運んで売ることである。このたった一文に、大航海時代というゲームのエキスが3割程度は含まれている。
ある港では安く買えて、よその港に持っていくと高く売れる交易品を探すこと。たくさんの交易品を積む為に、もっと大きな船を買うこと。このサイクルには麻薬的な楽しみがあった。例えば「ボルドーでワインを仕入れてリスボンで売り飛ばす」であるとか、「アフリカで象牙を仕入れてロンドンで売り飛ばす」といった様々な交易路を開拓する内に、プレイヤーは自然と地中海沿岸の地図を覚えこみ、アフリカや新大陸といった、更に遠くの港を目指すことを考える様になる。
近海の交易は安全、かつ短期間で収益を挙げることが出来るが、儲けの幅は小さい。遠方の港の特産品は、運んでくれば一気に儲けることが出来るが、ハイリスクである。
この辺の絶妙なバランスがこのゲームの肝の一つであり、コショウを求めて命をかけた当時の船乗り達の気分を味わわせてくれる、気がしないでもない。気のせいかも知れないが。
一方の海戦はというと、強い船に大砲や水夫をたくさん積んで、自分より弱い船を襲う、ただひたすらこれである。
戦闘自体は、大砲の射程を有効利用した船同士のドッグファイトという趣で、三國志や信長の海戦と大きくは変わらない。カルバリン砲やカノン砲を敵の背後からぶっ放すことに全力集中するのみであるが、やはりなんといっても「勝利後の積荷分捕り」がいかにも海賊海賊としていて超絶楽しい。襲い掛かってきた討伐艦隊を寡勢で返り討ちにする楽しみもあれば、戦闘力がそれ程高くない商船隊を片っ端から切り込み倒す楽しみもあり、交易と同じく最終的には「金を稼いでいい船に乗る」という目標に落ち着く。
船選びに関してはまた、様々に男の子回路をくすぐる要素が満載されている。交易向けの船、戦闘向けの船、移動用の船。食料や水を載せるスペースはどうするかといった工夫や、切り込みをするならやっぱりガレーだろといったこだわりから、カラックやジーベック、ガレオンや重ガレオンといった船種をそろえる楽しみまで、この奥深さは相当なものだ。何せ積荷の単位が「樽」なのである。冒険小説を読んで備蓄物資に萌える私の特殊な性癖はおいておくとしても、「船を扱う」という楽しさにはまっていた人もファンの中にはいただろう。この辺、メタルマックスの戦車システムとも通じるものがあると思う。
あんまり関係ないが、交易に関して言えば、私はこのゲームの影響で長いこと「リスボンの特産品は砂糖」だと勘違いしていた。マディラ諸島や砂糖キビプランテーションの歴史を知って初めてこの誤解は解かれることになるのだが、まあボルドーとかバレンシアとか、その辺の特産品は大体合っていた気がするからよしとしておこう。
・外洋の音楽が超好きなんですが。
縁者のPCにたまに触れさせてもらっていた私にとっては、大航海時代は「音や絵の違い」に初めて衝撃を受けたタイトルでもある。MS-DOSの5.0が、丁度Windows3.1に置き換わろうとしていた時代だったと思う。ファミコン版の出来だって決して悪いものではなかったが、PC版大航海時代のグラフィックや音質は、当時のファミコン小僧達の常識から外れていた。
三國志や信長と並んで、大航海時代シリーズの作曲は菅野よう子さんであることは有名だろうと思うが、中でも外洋の曲「喜望峰でダンス」などは今でも明瞭に曲調を思い出すことが出来る。武将風雲録の曲と並んで、私の中では光栄の幾多のゲームタイトルの中でも最高峰に「ハマリ曲」が多いシリーズである。ザベストオブ光栄Vol.2は、中古CD屋さんで見かけたら是非入手しておくべきだと提言しておきたい。
あんまり関係ないが、私の手元には「武将風雲録」のサントラもある。このゲームの曲も私は大変気にいっているのだが、最後のトラックに入っている「陽炎」というボーカル曲だけどうにも正体がよく分からない。なんでしょうアレ。いや、別にキライな曲じゃないんですけど。
更に余談だが、縁者がバイトをして買った当時のPCはコレだったと思う。PC-9821Ap2。当時としてはかなりハイスペックな部類だったろうとは思うが、66Mhzというクロック数に中古車が余裕で買える定価には瞠目する他ない。縁者もよく頑張ったなあとつくづく思う。
・今回は続きますよ。
その他、カルロータがどうとか王女様にまつわるイベントは色々とどうなんだとか、色々とこのゲームのネタは多い訳なのですが。
実のところ私の中では、大航海時代というゲームはこの時点では未完成だったと思っている。このゲームを完成させたのは、多分続編、「大航海時代2」だ。
ということでゲーム内個別の様々なネタについては、次回、「2」の回でまた書いていきたいと思う。多分2週間以内くらいには書く気がします。
参照:PCゲーに進化の余地はあるのだろうか。
2008年11月10日
レトロゲーム万里を往く その83 レイストーム
眼下に、世界があった。
それがどんなゲームであれ、「一語で魅力を表す」ということは大変に難しい。ゲームというのは様々なウリ、様々な魅力の集合体だ。全体として面白いゲームであれ、それほどでもないゲームであれ、あるゲームの魅力を表現するにはどこまでも言葉を尽くさなくてはならない。
ただ、ことレイストームというゲームにおいては、私はたった一つの言葉で、ゲームの中核部分の4割程度は説明出来るのではないかと思っている。
たった一つの言葉。それは、「圧倒的な視点コントロール」。
レイストーム。縦スクロールシューティング。1996年、タイトーから業務用発売。翌1997年にはPS・SSにそれぞれ移植され、特にPS版はかなりの再現度と、アレンジバージョンである「エクストラモード」が好評を博した。特にフルアレンジされたBGMに関しては、それだけで単独のCD(ノイ・タンツ・ミックス)が売れてしまう程の恐ろしい完成度だった。ZUNTATAの黄金期だったと言っていいだろう。
フルポリゴンでありながらドットの細やかな表現と比して何の遜色もないグラフィックと、通常弾とは別に相手を攻撃することが出来る「ロックオンレーザー」が大きな特徴である。ゲームバランス、BGM、演出、世界観と、頭の先からつま先まで一級品オンリーで構成されているタイトルだが、私はこのゲームが名作である所以が「視点」にあると考えている。
レイストームというゲームの話は、それ単体では完結しない。まずは同じタイトー生まれの先達の話から始めるべきだろう。
・シューティングにおける、「見下ろす」という感覚。
縦スクロールシューティングと、横スクロールシューティングの間には、様々な厚さの壁がある。その一つ、縦シューでは味わうことが出来るが、横シューでは決して得ることが出来ないというものが、「見下ろす」という感覚である。
大半の縦シューは、基本的に「上から見下ろす」という画面構成で形作られている。プレイヤーは丁度自機や敵機の更に上に陣取っており、そこから自機や敵機の動き、更には背景画面である「地上」を見下ろしている、というのが多くの縦シューに共通する構図だ。
視点に限っていえば、縦シューのプレイヤーは神の位置にいる。こればっかりは、自機や敵機を横から眺める形である横シューではどうあがいても体感出来ない。
といっても、私が「今、自分は背景を見ているのではなく、遥か下方を見下ろしているんだ」という感覚を本当に体感出来たのは、かなり後になってからのことである。ゼビウスに、ツインビーに、究極タイガーに、イメージファイトに、私は様々な形で衝撃を受けたが、「自分が神の視点にいる」ことを必ずしも実感できた訳ではなかった。
私に関する限り、画面ではなく舞台を「見下ろしている」ということを初めて意識出来たのは、「ガンフロンティア」における出来事だった。
5面冒頭。遥か眼下に広がる敵機の大群は、まさに「軍勢」。その上空を飛び、敵の本拠である峡谷にたった一騎で突入する自機、流れるBGMは鳥肌が立つ程の悲壮感「ユンファオ」。殺す気純度100%の弾幕を潜り抜けた果てに、部下である筈の敵機を蹴散らしながら現れる5面ボスと、流れ出す1面BGM「砂漠の山嵐」。
(03:37くらいから)
5面→6面の展開と併せて、ゲーム史上に残る熱い展開だったと言うべきだろう。面構成だけで物語を表現し切った「ガンフロンティア」。STGで演出の話をするならば、やはりガンフロンティアというタイトルを外して語る訳にはいかない。
そして、_ガンフロンティアで表現されたあの眼下の大群を、ゲームと直結させたタイトルが言わずと知れた「レイフォース」である。
レイフォースというゲームを、私は二つのキーワードで捉えている。一つは、「1ミリの狂いもなく統一された演出と世界観」。もう一つは、「「視点」という要素をゲームシステムに持ち込んだ、ロックオンレーザーというシステム」。
ロックオンレーザーというのは、自機と同じ面に攻撃する通常のショットとは別に、「自機の下方」にいる敵機をロックオンし、そこに落ちていく誘導レーザーを発射出来るというシステムである。アフターバーナーにおけるミサイルでゼビウスの対地ブラスターを撃ったもの、と考えればそれ程外れない。
ガンフロンティアにおいては、飽くまで演出だった「眼下の敵」。レイフォースでは、遥か下方の敵が得点稼ぎのターゲットであり、突如上昇して攻撃してくる敵であり、世界を彩る劇団員でもあったのである。
ロックオンレーザーは、「様々に高さの違う敵」という要素と、「一度に複数の敵をロックオンレーザーで倒したらボーナス」という要素をSTGに持ち込んだ。この二つの要素は、プレイヤーにどの様な影響を与えたか。
一つは、「眼下に次々と現れる敵を追うことによって、ごく自然に「見下ろす気分」を味わうことが出来た」。もう一つは、「眼下の敵をどういう順番でロックオンし、どの様にまとめて撃墜するか、というパズル的要素を楽しむことが出来た」。この二点が、レイフォースを「通常の縦シュー」ではなくしているポイントである。
そして、レイフォースのエキスをそのまま受け継ぎ進化させた、生まれるべくして生まれた名作が私にとっての「レイストーム」である訳なのだ。
・レイストームが見せた「進化」。
レイフォースに比べてレイストームが進化した点は幾つかあるが、ゲームシステム的にはなんといっても
・対空レーザーの出現
・二号機(追尾型レーザー:レーザーを発射した後も引き続きロックオンが出来る)の登場
の二点が大きいだろう。
レイフォースにおけるロックオンレーザーの標的は、飽くまで「下」の敵に限られる。自分と同じレイヤーの敵は、今までのSTGと同じくショットでなぎ払わなくてはいけない。それに対し、「やろうと思えば全ての敵をロックオンレーザーで倒せる」様になったのがレイストームだ(実際にやるかどうかはまた別の話だが)。
レイフォースにおけるロックオンレーザーは、基本的に「ロックオンし終わった後」発射しなくてはいけない。その為、場面によっては「ただロックオンしているだけ」という動作が必要になることも多い。それに対し、「撃ってからロックオンを追加してもちゃんと反応してくれる」という要素を持ち込んだのがレイストームの二号機、追尾型レーザーだ。
「全ての敵をロックオン出来る」「動きながらロックオンレーザーを撃てる」という二つの進化は、ロックオンレーザーというシステムをレイフォース以上に輝かせた。眼下の敵を見下ろしてロックオンレーザーをトリガーする感覚に魅せられたプレイヤーは、それぞれのやり方でロックオンパターンの開発に打ち込み、各面でのロックオンボーナス稼ぎに取り憑かれることになる。
・TAITOシュー演出と、ZUNTATAサウンドの真髄。
まあ一言で言うと、「4面や7面の演出超絶かっこいい」という話なのだが。
私は冒頭で、「視点コントロール」という言葉を使った。私が知る限り、「プレイヤーの視点を操る」という点で、レイストーム程演出が卓絶しているゲームはそうざらにはないと思う。
例えば1面冒頭。画面奥から手前の方向に飛行する自機R-GRAY。一瞬後に、カメラがぐるっと旋回し、横スクロールの様な視点を経て通常の縦シュー視点に収まる。
ここだけ見るとほんの軽い演出だが、この直後から始まる「ロックオンレーザーによる「見下ろす」という感覚」と相俟って、レイストームはごくごく自然にプレイヤーの視線を「吸い込む」。ほんの一瞬前まで三人称の位置にいたプレイヤーは、カメラの旋回と「下方から上昇してくる敵機をロックオンする」という動作を経て、殆ど瞬間的に「見下ろす」という視点に遷移しているのである。
4面の演出は更に顕著だ。冒頭のカメラワーク(参照:youtube)の移動も然ることながら、この面では文字通り「遥か下方」の戦艦がロックオンターゲットとなり、攻撃を打ち上げてくる敵ともなる。スケールで言えば数キロから数十キロは離れているであろう戦艦を見下ろしながら、そこにレーザーを撃ち下ろし、あるいは撃ちあがってきたレーザーを紙一重でかわす。プレイヤーの視線を「高さ」「深さ」というレベルで縦横無尽に操る縦シューは、そうそうありふれたものではないと私は思う。
無論、レイストームの演出は三次元的なものばかりではない。1面と打って変わって涼やかな2面のBGM、3面で高速スクロールする背景の美しさと滝上をかすめながら始まるボス戦。4面の宇宙戦は2DSTGの枠を完全に飛び越えたものだったし、5面のラストで突如画面下方から踊り出るガイセリックには恐ろしい存在感があった。
6面7面と悲壮感を上増ししていくBGMに、立ち塞がる「アラリック」や「スパルタカス」。最終ボスで流れるBGM、余りにも重厚な「HEART LAND」と「INTOLERANCE」に至るまで、レイストームというゲームにはとことん「浮いた」演出がない。TAITOシューの世界観作りの一つの集大成だと言ってもいいだろう。
私に関する話をすれば。
私は元来横シューターである。これは別に横シューが上手いという意味ではなく、横シューよりも縦シューが遥かに下手っぴーであるということを意味する。3面中盤のドレイクどころか1ボスペンドラゴンのちょい太レーザーでも死にかねない、私の下手っぴーぷりは括目に値すると言えよう。
レイストームの難易度は、中盤以降遠慮会釈なく上昇する。4ボスゼノビアの浮遊機雷 + 高速レーザー、5面中盤の悪魔クレイジービット。アラリックのビット+ばら撒きの二重攻撃といい、ガンフロ5面を思い起こさせる7面道中の本気過ぎる弾幕といい、私の様な下手っぴーシューターを300回くらい挫折させてもおかしくない難易度である。
しかしそれでも挫折出来ず、幾度となくコインをつぎ込んだ理由は、やはりこのゲームの魔的な世界観、魔的な演出の魅力にあったと思う。極論を言えば、私は「INTOLERANCE」が流れるユグドラシル戦に辿りつく為に、このゲームを遊び続けていたと言ってもいい。
死に続ける内に少しずつ少しずつ学習させてくれる難易度も、どの場面場面を切り取っても見尽くせない世界観も全てひっくるめて、レイストームは疑いなく私にとっての「最強の縦シュー」である。
ということで、今回はこれくらいで。次回はもうちょっと前の時代に戻る予定。
それがどんなゲームであれ、「一語で魅力を表す」ということは大変に難しい。ゲームというのは様々なウリ、様々な魅力の集合体だ。全体として面白いゲームであれ、それほどでもないゲームであれ、あるゲームの魅力を表現するにはどこまでも言葉を尽くさなくてはならない。
ただ、ことレイストームというゲームにおいては、私はたった一つの言葉で、ゲームの中核部分の4割程度は説明出来るのではないかと思っている。
たった一つの言葉。それは、「圧倒的な視点コントロール」。
レイストーム。縦スクロールシューティング。1996年、タイトーから業務用発売。翌1997年にはPS・SSにそれぞれ移植され、特にPS版はかなりの再現度と、アレンジバージョンである「エクストラモード」が好評を博した。特にフルアレンジされたBGMに関しては、それだけで単独のCD(ノイ・タンツ・ミックス)が売れてしまう程の恐ろしい完成度だった。ZUNTATAの黄金期だったと言っていいだろう。
フルポリゴンでありながらドットの細やかな表現と比して何の遜色もないグラフィックと、通常弾とは別に相手を攻撃することが出来る「ロックオンレーザー」が大きな特徴である。ゲームバランス、BGM、演出、世界観と、頭の先からつま先まで一級品オンリーで構成されているタイトルだが、私はこのゲームが名作である所以が「視点」にあると考えている。
レイストームというゲームの話は、それ単体では完結しない。まずは同じタイトー生まれの先達の話から始めるべきだろう。
・シューティングにおける、「見下ろす」という感覚。
縦スクロールシューティングと、横スクロールシューティングの間には、様々な厚さの壁がある。その一つ、縦シューでは味わうことが出来るが、横シューでは決して得ることが出来ないというものが、「見下ろす」という感覚である。
大半の縦シューは、基本的に「上から見下ろす」という画面構成で形作られている。プレイヤーは丁度自機や敵機の更に上に陣取っており、そこから自機や敵機の動き、更には背景画面である「地上」を見下ろしている、というのが多くの縦シューに共通する構図だ。
視点に限っていえば、縦シューのプレイヤーは神の位置にいる。こればっかりは、自機や敵機を横から眺める形である横シューではどうあがいても体感出来ない。
といっても、私が「今、自分は背景を見ているのではなく、遥か下方を見下ろしているんだ」という感覚を本当に体感出来たのは、かなり後になってからのことである。ゼビウスに、ツインビーに、究極タイガーに、イメージファイトに、私は様々な形で衝撃を受けたが、「自分が神の視点にいる」ことを必ずしも実感できた訳ではなかった。
私に関する限り、画面ではなく舞台を「見下ろしている」ということを初めて意識出来たのは、「ガンフロンティア」における出来事だった。
(03:37くらいから)
5面→6面の展開と併せて、ゲーム史上に残る熱い展開だったと言うべきだろう。面構成だけで物語を表現し切った「ガンフロンティア」。STGで演出の話をするならば、やはりガンフロンティアというタイトルを外して語る訳にはいかない。
そして、_ガンフロンティアで表現されたあの眼下の大群を、ゲームと直結させたタイトルが言わずと知れた「レイフォース」である。
レイフォースというゲームを、私は二つのキーワードで捉えている。一つは、「1ミリの狂いもなく統一された演出と世界観」。もう一つは、「「視点」という要素をゲームシステムに持ち込んだ、ロックオンレーザーというシステム」。
ロックオンレーザーというのは、自機と同じ面に攻撃する通常のショットとは別に、「自機の下方」にいる敵機をロックオンし、そこに落ちていく誘導レーザーを発射出来るというシステムである。アフターバーナーにおけるミサイルでゼビウスの対地ブラスターを撃ったもの、と考えればそれ程外れない。
ガンフロンティアにおいては、飽くまで演出だった「眼下の敵」。レイフォースでは、遥か下方の敵が得点稼ぎのターゲットであり、突如上昇して攻撃してくる敵であり、世界を彩る劇団員でもあったのである。
ロックオンレーザーは、「様々に高さの違う敵」という要素と、「一度に複数の敵をロックオンレーザーで倒したらボーナス」という要素をSTGに持ち込んだ。この二つの要素は、プレイヤーにどの様な影響を与えたか。
一つは、「眼下に次々と現れる敵を追うことによって、ごく自然に「見下ろす気分」を味わうことが出来た」。もう一つは、「眼下の敵をどういう順番でロックオンし、どの様にまとめて撃墜するか、というパズル的要素を楽しむことが出来た」。この二点が、レイフォースを「通常の縦シュー」ではなくしているポイントである。
そして、レイフォースのエキスをそのまま受け継ぎ進化させた、生まれるべくして生まれた名作が私にとっての「レイストーム」である訳なのだ。
・レイストームが見せた「進化」。
レイフォースに比べてレイストームが進化した点は幾つかあるが、ゲームシステム的にはなんといっても
・対空レーザーの出現
・二号機(追尾型レーザー:レーザーを発射した後も引き続きロックオンが出来る)の登場
の二点が大きいだろう。
レイフォースにおけるロックオンレーザーの標的は、飽くまで「下」の敵に限られる。自分と同じレイヤーの敵は、今までのSTGと同じくショットでなぎ払わなくてはいけない。それに対し、「やろうと思えば全ての敵をロックオンレーザーで倒せる」様になったのがレイストームだ(実際にやるかどうかはまた別の話だが)。
レイフォースにおけるロックオンレーザーは、基本的に「ロックオンし終わった後」発射しなくてはいけない。その為、場面によっては「ただロックオンしているだけ」という動作が必要になることも多い。それに対し、「撃ってからロックオンを追加してもちゃんと反応してくれる」という要素を持ち込んだのがレイストームの二号機、追尾型レーザーだ。
「全ての敵をロックオン出来る」「動きながらロックオンレーザーを撃てる」という二つの進化は、ロックオンレーザーというシステムをレイフォース以上に輝かせた。眼下の敵を見下ろしてロックオンレーザーをトリガーする感覚に魅せられたプレイヤーは、それぞれのやり方でロックオンパターンの開発に打ち込み、各面でのロックオンボーナス稼ぎに取り憑かれることになる。
・TAITOシュー演出と、ZUNTATAサウンドの真髄。
まあ一言で言うと、「4面や7面の演出超絶かっこいい」という話なのだが。
私は冒頭で、「視点コントロール」という言葉を使った。私が知る限り、「プレイヤーの視点を操る」という点で、レイストーム程演出が卓絶しているゲームはそうざらにはないと思う。
例えば1面冒頭。画面奥から手前の方向に飛行する自機R-GRAY。一瞬後に、カメラがぐるっと旋回し、横スクロールの様な視点を経て通常の縦シュー視点に収まる。
ここだけ見るとほんの軽い演出だが、この直後から始まる「ロックオンレーザーによる「見下ろす」という感覚」と相俟って、レイストームはごくごく自然にプレイヤーの視線を「吸い込む」。ほんの一瞬前まで三人称の位置にいたプレイヤーは、カメラの旋回と「下方から上昇してくる敵機をロックオンする」という動作を経て、殆ど瞬間的に「見下ろす」という視点に遷移しているのである。
4面の演出は更に顕著だ。冒頭のカメラワーク(参照:youtube)の移動も然ることながら、この面では文字通り「遥か下方」の戦艦がロックオンターゲットとなり、攻撃を打ち上げてくる敵ともなる。スケールで言えば数キロから数十キロは離れているであろう戦艦を見下ろしながら、そこにレーザーを撃ち下ろし、あるいは撃ちあがってきたレーザーを紙一重でかわす。プレイヤーの視線を「高さ」「深さ」というレベルで縦横無尽に操る縦シューは、そうそうありふれたものではないと私は思う。
無論、レイストームの演出は三次元的なものばかりではない。1面と打って変わって涼やかな2面のBGM、3面で高速スクロールする背景の美しさと滝上をかすめながら始まるボス戦。4面の宇宙戦は2DSTGの枠を完全に飛び越えたものだったし、5面のラストで突如画面下方から踊り出るガイセリックには恐ろしい存在感があった。
6面7面と悲壮感を上増ししていくBGMに、立ち塞がる「アラリック」や「スパルタカス」。最終ボスで流れるBGM、余りにも重厚な「HEART LAND」と「INTOLERANCE」に至るまで、レイストームというゲームにはとことん「浮いた」演出がない。TAITOシューの世界観作りの一つの集大成だと言ってもいいだろう。
私に関する話をすれば。
私は元来横シューターである。これは別に横シューが上手いという意味ではなく、横シューよりも縦シューが遥かに下手っぴーであるということを意味する。3面中盤のドレイクどころか1ボスペンドラゴンのちょい太レーザーでも死にかねない、私の下手っぴーぷりは括目に値すると言えよう。
レイストームの難易度は、中盤以降遠慮会釈なく上昇する。4ボスゼノビアの浮遊機雷 + 高速レーザー、5面中盤の悪魔クレイジービット。アラリックのビット+ばら撒きの二重攻撃といい、ガンフロ5面を思い起こさせる7面道中の本気過ぎる弾幕といい、私の様な下手っぴーシューターを300回くらい挫折させてもおかしくない難易度である。
しかしそれでも挫折出来ず、幾度となくコインをつぎ込んだ理由は、やはりこのゲームの魔的な世界観、魔的な演出の魅力にあったと思う。極論を言えば、私は「INTOLERANCE」が流れるユグドラシル戦に辿りつく為に、このゲームを遊び続けていたと言ってもいい。
死に続ける内に少しずつ少しずつ学習させてくれる難易度も、どの場面場面を切り取っても見尽くせない世界観も全てひっくるめて、レイストームは疑いなく私にとっての「最強の縦シュー」である。
ということで、今回はこれくらいで。次回はもうちょっと前の時代に戻る予定。
2008年10月09日
レトロゲーム万里を往く その82 桃太郎電鉄
73年目の6月、だった。
私の知人の家では、スーパーファミコンが一台と、そこに挿さりっぱなしのスーパー桃太郎電鉄IIIが、テレビの裏に放置されている。
その桃鉄IIIには、一つのデータが保存されている。99年桃鉄の73年目。知人の名前と、女の子の名前と、いぬやま社長の3人プレイ。
彼は言う。彼と、半年前に別れた彼女との歴史は、その99年桃鉄と共に刻まれているのだという。
彼の部屋に彼女が遊びに来る度に、ちまちまと刻まれていった99年桃鉄の歴史。10年目の頃にはキングボンビーの出現にきゃーきゃーと騒ぎ、20年目の頃には北海道と九州がそれぞれのプレイヤーの色に染まり、30年目の頃にはいぬやま社長の資産がマイナス100億に達し…そして、73年目より後の日付に、その桃鉄が進むことはない。
彼の言葉を静かに聴きながら、私は思った。
他に思い出の品らしきものが禄にないことが別れた原因の一つなんじゃねえか、と。
「別れた彼女とやり掛けのデータが入ったままの桃鉄」という物体は、全日本痛いアイテム選手権トップ10くらいには入れるんじゃないかと個人的に思うのだが、まあそれはそれとして。
ハドソンというメーカーには、私はそれなりの思いいれと、ある程度の分量の「言いたいこと」を抱えている。以前にも書いたことがあるが、ファミコン黎明期のハドソンには、後のナムコやコナミと肩を並べるだけのポテンシャルが十分にあったと思う。しかし、平成の世も20年を過ぎて、今ハドソンゲームナビに並んでいるのは、「ボンバーマン」と「天外魔境」と「桃鉄」に埋め尽くされたゲームリストだ。
ハドソンはどの様にゲーム業界を泳ぎ、どの様に舵を切ってきたのか。振り返ってみると、様々に示唆深いことがそこには隠れている様に思う。
まずは桃鉄の話だ。
桃太郎電鉄。ボードゲーム風パーティゲーム。1988年12月、ハドソンよりファミコン版が発売。複数のプレイヤーが鉄道会社の社長に扮し、日本地図を模したボードをサイコロを振って行ったり来たりしつつ、物件を買い漁って収益を挙げる。当時の日本はバブル景気真っ只中であり、ある種時世を反映したゲームでもあった。モチーフは西武グループであった筈だ。
初代「桃太郎電鉄」はおそらく「A列車で行こう」シリーズとモノポリーをそれぞれ意識して制作された筈で、貧乏神もいなければカードの概念すらなく、ターンは一年に4回しかなかった。その後「スーパー桃太郎電鉄」SFCにプラットフォームを移しての「スーパー桃太郎電鉄II」「スーパー桃太郎電鉄III」とゲーム性の拡張を続け、パーティゲームとしては異例ともいえる大人気を博し、現在でも続編が出続けるハドソンの代表的シリーズの一柱となった。
シリーズの推移についてはWikipediaに詳しい。
Wikipedia:桃太郎電鉄シリーズ
20周年ということで、ハドソンの公式サイトではシリーズのタイトルを一覧することが出来る。流石にハドソンというかなんというか、ものっそい数である。始まった時期のことを考慮しても、テイルズシリーズといい勝負じゃないだろうか。
桃太郎電鉄シリーズ
さて、まずは歴史の話から始めてみよう。
・「桃太郎電鉄」進化ルート。
桃鉄というゲームは、「スーパー桃鉄」の時点で9割がた完成していた、と私は思う。
上でも書いたが、初代「桃太郎電鉄」は、今の桃鉄とは遥かに隔たったゲームだった。
・1年が春夏秋冬の4ターンで構成され、移動フェイズとイベントフェイズに分かれている。
・カードの概念が存在しない。
・貧乏神の概念が存在しない。
・物件の収益率が一律25%で、駅・種類による差異がない。
・目指す「目的地」がプレイヤーごとに異なる。
この時期のファミコンというハードには、いわゆる「パーティゲーム」や「ボードゲーム」といえるジャンルがまだ殆ど存在していなかった。
デービーソフトから「鉄道王」が発売されたのが1987年。その後、タイトーから「たけしの戦国風雲児」88年11月に発売されているものの、「レーサーミニ四駆」が89年、「爆笑!人生劇場」が同じく89年、「いただきストリート」が91年ということを考えていくと、「桃鉄」がコンシューマーにおけるボードゲーム形式の事実上の草分けと考えてもそれ程支障はないだろう。発売された当初、まだこのゲームは「実験作」の部類だった筈だ。
その為かどうかは分からないが、初代「桃鉄」は、ゲームとしてはかなり慎重な作りこみをされていると感じる。上述の通り、私はこのゲームを「モノポリー」と「A列車」の流れを汲んだ上で、国とりゲームの要素を振りかけて発想されたタイトルではないかと考えているのだが、初代のゲーム展開は随分大人しい。
参照ページを挙げさせて頂く。
桃太郎電鉄 初代FC版
初代桃鉄のゲーム展開は「物件購入」と「サイコロイベント」がメインとなっている。リストを一見してもらえば分かる通り、「サイコロイベント」で発生する内容は、ほぼ後の「プラス駅」「マイナス駅」に該当するものだが、「スーパー」以降を考えると遥かに金の出納が穏やかである。激しい逆転要素は、せいぜいインフレが発生して収益・支出の金額が2倍になる程度のものだ。
私の勝手な想像だが、この時点での桃鉄は「物件売買シミュレーションゲーム」に近いものをイメージされていたのではないかと思う。パーティゲームというよりは、収益を挙げて目標を達成する「経営シミュレーション」。そのゲームバランスは、ある意味リアル指向とすら言える。
そんな桃鉄は、「スーパー」で怒涛の舵取りを見せた。
ターン数の純増。収益金額の時間経過に伴うインフレと、「効率のいい物件」「効率の悪い物件」の大量導入。皆で同じ場所を一度に目指す「目的地」という競争要素。貧乏神や「スリの銀二」などのマイナスイベントの導入と、それに伴う逆転要素の大幅増加。きゅうこうカードやリニアカードの導入と、同じくぎゅうほカードやふういんカードの導入によるゲーム性拡張。
「物件経営シミュレーション」がたったの一作で「皆でわいわい遊ぶパーティゲーム」に激変した瞬間である。初代だって皆で遊ぶのは楽しかったが、「スーパー」以降のカード乱れ飛び、逆転逆転の資産乱高下に比べれば、流石に競争要素が薄い。
以降の桃鉄は、「いかに「皆で」遊んでもらうか」「競争要素、逆転要素をどう持ち込むか」ということをメインテーマに、ひたすら「刺激的な要素」を導入していくことになる。必然的に、「一度に動く金額」が大きなイベントは、シリーズを重ねる毎にざくざく盛り込まれていった。
キングボンビーやハワイの導入、キングデビルカードの出現もその一つだが、7のギーガボンビーなどはその最たるものだろう。全プレイヤーの所持金・物件がリセットされるというイベントは、複数プレイヤーが長期間遊ぶ場合のダレを解決する為の手段以外の何物でもない。
そういった面で歴代シリーズのタイトルを見ていくと、「III」以降はほぼマイナーチェンジの積み重ねがひたすら続いている様にも見える。それだけ「スーパー」時点での桃鉄が完成していたということでもあるだろうし、シリーズ各作品を遊んでみると「楽しい」ことは確かなのだが、「一つのシリーズをひたすら使いまわす」という体質をハドソンに感じている私としては、ちょっともにょもにょとした気分になる面もある。
・ハドソンの「古くからの体質」について。
なんつーか、「一つのキャラ・一つのシリーズをひたすら再利用」って傾向がある気がするんですよね。昔から。
迷宮組曲といい、サラトマといい、初代ボンバーマンといい、ハドソンには「面白いオリジナルゲーム」を作る能力が十二分にあった。ファミコンが遊ばれ始めた当初、コロコロコミックとハドソンを中心にゲーム業界が回っていた時代があったのだ。迷宮組曲やサラトマのテンションでハドソンがオリジナル作品を作り続けていれば、ハドソンの代表的タイトルはこんな数では済んでいなかった筈だ。
「サラダの国のトマト姫」の項でも書いたが、私はこれを「間違った成功体験」の為ではないかと考えている。
一言で言うと、迷宮組曲よりも「高橋名人の冒険島」や「ドラえもん」の方が売れてしまったから。サラトマよりも「ミッキーマウス 不思議の国の大冒険」の方が売れてしまったから。
雑誌とのタイアップなどの事情(特に高橋名人関連で)もあるのだろうが、「とにかく人気のあるキャラクターを前面に出して売る」という手法を、この時ハドソンが経験則として身につけてしまったんではねえか、とか私は思ってしまう訳だが。天外もボンバーマンも桃鉄もそれぞれに面白いのだが、サラトマや迷宮組曲の様な「オリジナルの良作」にハドソンがリソースを向け続けていたらどうなっていたか、などと私は妄想してしまう訳である。
まあ、「シリーズひたすら再利用」に関しては人のこと言えないメーカーさんもたくさんある気はする。実際、ある程度の売り上げが保証されているってのは営業さん的にも大きいのだろう。この辺は余談。
・私にとってのスーパー桃鉄。
どういう訳か、「しあわせのかたち」で桜先生がちょりそノブやサイバー佐藤と遊んでいた桃鉄のイメージが何より強かったりするんですけど、桜先生は最近お元気でしょうか。
ちなみに、自分の中では「スーパー桃鉄III」が一番好きだったりもします。当時は良く99年桃鉄やったなあ。えんまが言う程強くなかったけど。
私の得意戦術は東北地方・及び襟裳を中心とした農林王国狙いだったりもするんだけど、それも元々は「しあわせのかたち」の影響かも知れない。
と、例によって長くなったので今回はこの辺で。次回は多分またタイトルものです。
私の知人の家では、スーパーファミコンが一台と、そこに挿さりっぱなしのスーパー桃太郎電鉄IIIが、テレビの裏に放置されている。
その桃鉄IIIには、一つのデータが保存されている。99年桃鉄の73年目。知人の名前と、女の子の名前と、いぬやま社長の3人プレイ。
彼は言う。彼と、半年前に別れた彼女との歴史は、その99年桃鉄と共に刻まれているのだという。
彼の部屋に彼女が遊びに来る度に、ちまちまと刻まれていった99年桃鉄の歴史。10年目の頃にはキングボンビーの出現にきゃーきゃーと騒ぎ、20年目の頃には北海道と九州がそれぞれのプレイヤーの色に染まり、30年目の頃にはいぬやま社長の資産がマイナス100億に達し…そして、73年目より後の日付に、その桃鉄が進むことはない。
彼の言葉を静かに聴きながら、私は思った。
他に思い出の品らしきものが禄にないことが別れた原因の一つなんじゃねえか、と。
「別れた彼女とやり掛けのデータが入ったままの桃鉄」という物体は、全日本痛いアイテム選手権トップ10くらいには入れるんじゃないかと個人的に思うのだが、まあそれはそれとして。
ハドソンというメーカーには、私はそれなりの思いいれと、ある程度の分量の「言いたいこと」を抱えている。以前にも書いたことがあるが、ファミコン黎明期のハドソンには、後のナムコやコナミと肩を並べるだけのポテンシャルが十分にあったと思う。しかし、平成の世も20年を過ぎて、今ハドソンゲームナビに並んでいるのは、「ボンバーマン」と「天外魔境」と「桃鉄」に埋め尽くされたゲームリストだ。
ハドソンはどの様にゲーム業界を泳ぎ、どの様に舵を切ってきたのか。振り返ってみると、様々に示唆深いことがそこには隠れている様に思う。
まずは桃鉄の話だ。
桃太郎電鉄。ボードゲーム風パーティゲーム。1988年12月、ハドソンよりファミコン版が発売。複数のプレイヤーが鉄道会社の社長に扮し、日本地図を模したボードをサイコロを振って行ったり来たりしつつ、物件を買い漁って収益を挙げる。当時の日本はバブル景気真っ只中であり、ある種時世を反映したゲームでもあった。モチーフは西武グループであった筈だ。
初代「桃太郎電鉄」はおそらく「A列車で行こう」シリーズとモノポリーをそれぞれ意識して制作された筈で、貧乏神もいなければカードの概念すらなく、ターンは一年に4回しかなかった。その後「スーパー桃太郎電鉄」SFCにプラットフォームを移しての「スーパー桃太郎電鉄II」「スーパー桃太郎電鉄III」とゲーム性の拡張を続け、パーティゲームとしては異例ともいえる大人気を博し、現在でも続編が出続けるハドソンの代表的シリーズの一柱となった。
シリーズの推移についてはWikipediaに詳しい。
Wikipedia:桃太郎電鉄シリーズ
20周年ということで、ハドソンの公式サイトではシリーズのタイトルを一覧することが出来る。流石にハドソンというかなんというか、ものっそい数である。始まった時期のことを考慮しても、テイルズシリーズといい勝負じゃないだろうか。
桃太郎電鉄シリーズ
さて、まずは歴史の話から始めてみよう。
・「桃太郎電鉄」進化ルート。
桃鉄というゲームは、「スーパー桃鉄」の時点で9割がた完成していた、と私は思う。
上でも書いたが、初代「桃太郎電鉄」は、今の桃鉄とは遥かに隔たったゲームだった。
・1年が春夏秋冬の4ターンで構成され、移動フェイズとイベントフェイズに分かれている。
・カードの概念が存在しない。
・貧乏神の概念が存在しない。
・物件の収益率が一律25%で、駅・種類による差異がない。
・目指す「目的地」がプレイヤーごとに異なる。
この時期のファミコンというハードには、いわゆる「パーティゲーム」や「ボードゲーム」といえるジャンルがまだ殆ど存在していなかった。
デービーソフトから「鉄道王」が発売されたのが1987年。その後、タイトーから「たけしの戦国風雲児」88年11月に発売されているものの、「レーサーミニ四駆」が89年、「爆笑!人生劇場」が同じく89年、「いただきストリート」が91年ということを考えていくと、「桃鉄」がコンシューマーにおけるボードゲーム形式の事実上の草分けと考えてもそれ程支障はないだろう。発売された当初、まだこのゲームは「実験作」の部類だった筈だ。
その為かどうかは分からないが、初代「桃鉄」は、ゲームとしてはかなり慎重な作りこみをされていると感じる。上述の通り、私はこのゲームを「モノポリー」と「A列車」の流れを汲んだ上で、国とりゲームの要素を振りかけて発想されたタイトルではないかと考えているのだが、初代のゲーム展開は随分大人しい。
参照ページを挙げさせて頂く。
桃太郎電鉄 初代FC版
初代桃鉄のゲーム展開は「物件購入」と「サイコロイベント」がメインとなっている。リストを一見してもらえば分かる通り、「サイコロイベント」で発生する内容は、ほぼ後の「プラス駅」「マイナス駅」に該当するものだが、「スーパー」以降を考えると遥かに金の出納が穏やかである。激しい逆転要素は、せいぜいインフレが発生して収益・支出の金額が2倍になる程度のものだ。
私の勝手な想像だが、この時点での桃鉄は「物件売買シミュレーションゲーム」に近いものをイメージされていたのではないかと思う。パーティゲームというよりは、収益を挙げて目標を達成する「経営シミュレーション」。そのゲームバランスは、ある意味リアル指向とすら言える。
そんな桃鉄は、「スーパー」で怒涛の舵取りを見せた。
ターン数の純増。収益金額の時間経過に伴うインフレと、「効率のいい物件」「効率の悪い物件」の大量導入。皆で同じ場所を一度に目指す「目的地」という競争要素。貧乏神や「スリの銀二」などのマイナスイベントの導入と、それに伴う逆転要素の大幅増加。きゅうこうカードやリニアカードの導入と、同じくぎゅうほカードやふういんカードの導入によるゲーム性拡張。
「物件経営シミュレーション」がたったの一作で「皆でわいわい遊ぶパーティゲーム」に激変した瞬間である。初代だって皆で遊ぶのは楽しかったが、「スーパー」以降のカード乱れ飛び、逆転逆転の資産乱高下に比べれば、流石に競争要素が薄い。
以降の桃鉄は、「いかに「皆で」遊んでもらうか」「競争要素、逆転要素をどう持ち込むか」ということをメインテーマに、ひたすら「刺激的な要素」を導入していくことになる。必然的に、「一度に動く金額」が大きなイベントは、シリーズを重ねる毎にざくざく盛り込まれていった。
キングボンビーやハワイの導入、キングデビルカードの出現もその一つだが、7のギーガボンビーなどはその最たるものだろう。全プレイヤーの所持金・物件がリセットされるというイベントは、複数プレイヤーが長期間遊ぶ場合のダレを解決する為の手段以外の何物でもない。
そういった面で歴代シリーズのタイトルを見ていくと、「III」以降はほぼマイナーチェンジの積み重ねがひたすら続いている様にも見える。それだけ「スーパー」時点での桃鉄が完成していたということでもあるだろうし、シリーズ各作品を遊んでみると「楽しい」ことは確かなのだが、「一つのシリーズをひたすら使いまわす」という体質をハドソンに感じている私としては、ちょっともにょもにょとした気分になる面もある。
・ハドソンの「古くからの体質」について。
なんつーか、「一つのキャラ・一つのシリーズをひたすら再利用」って傾向がある気がするんですよね。昔から。
迷宮組曲といい、サラトマといい、初代ボンバーマンといい、ハドソンには「面白いオリジナルゲーム」を作る能力が十二分にあった。ファミコンが遊ばれ始めた当初、コロコロコミックとハドソンを中心にゲーム業界が回っていた時代があったのだ。迷宮組曲やサラトマのテンションでハドソンがオリジナル作品を作り続けていれば、ハドソンの代表的タイトルはこんな数では済んでいなかった筈だ。
「サラダの国のトマト姫」の項でも書いたが、私はこれを「間違った成功体験」の為ではないかと考えている。
一言で言うと、迷宮組曲よりも「高橋名人の冒険島」や「ドラえもん」の方が売れてしまったから。サラトマよりも「ミッキーマウス 不思議の国の大冒険」の方が売れてしまったから。
雑誌とのタイアップなどの事情(特に高橋名人関連で)もあるのだろうが、「とにかく人気のあるキャラクターを前面に出して売る」という手法を、この時ハドソンが経験則として身につけてしまったんではねえか、とか私は思ってしまう訳だが。天外もボンバーマンも桃鉄もそれぞれに面白いのだが、サラトマや迷宮組曲の様な「オリジナルの良作」にハドソンがリソースを向け続けていたらどうなっていたか、などと私は妄想してしまう訳である。
まあ、「シリーズひたすら再利用」に関しては人のこと言えないメーカーさんもたくさんある気はする。実際、ある程度の売り上げが保証されているってのは営業さん的にも大きいのだろう。この辺は余談。
・私にとってのスーパー桃鉄。
どういう訳か、「しあわせのかたち」で桜先生がちょりそノブやサイバー佐藤と遊んでいた桃鉄のイメージが何より強かったりするんですけど、桜先生は最近お元気でしょうか。
ちなみに、自分の中では「スーパー桃鉄III」が一番好きだったりもします。当時は良く99年桃鉄やったなあ。えんまが言う程強くなかったけど。
私の得意戦術は東北地方・及び襟裳を中心とした農林王国狙いだったりもするんだけど、それも元々は「しあわせのかたち」の影響かも知れない。
と、例によって長くなったので今回はこの辺で。次回は多分またタイトルものです。
2008年09月12日
レトロゲームが大好きだけど、「今に比べて昔は良かった」とは全然思わない
今回、完全にひとり語り。ご容赦頂きたい。
私はレトロゲームが好きである。
ファミコンやスーパーファミコンやマークIIIやPCエンジンやメガドライブやF2やF3やバブルシステムのゲームが大好きである。古ぼけた旅館の一角にある半分ぶっ壊れた様なテーブル筐体や、デパートの屋上にひっそりと置いてある錆かけた体感ゲームが大好きである。
多分、一般的にいえば「懐古」の部類なんだろうと思う。私にとっては全然懐古じゃないんだけど。
ただ、何故だろうな。私は、「昔のゲームは楽しかった」という言い方には全然共感しないのだ。「今のゲームより昔のゲームの方が面白い」という言い方には近寄りたくもないのだ。今のゲームが好きじゃないからって、そこで昔のゲームを引き合いに出すなよこの野郎、とか思ってしまうのだ。
頭の中を漁ってみた。多分、理由が三つくらいある。
・面白いゲームも全然面白くないゲームも全部含めて「レトロゲームというジャンル」なのに、一概にそれが美化されることへの違和感。
・何かをけなす為のダシとして自分の好きなものが引き合いに出されることへの嫌悪感。
・「思い出」を抜きにして、純粋にゲームとしてレトロゲームを評価したい、評価して欲しいというマニア根性。
多分、私にとって、2000年以降より2000年以前の方が「ツボにハマるタイトル」が多かった、というのは事実なんだろうと思う。1980年台後半〜1990年台後半にかけて「子供」という生き物でいられたことは、私にとって物凄く幸運なことだったんだろう、と思う。
子供の頃遊んだゲームの方が、大人になってから遊ぶゲームよりも面白く思えることが多い、というのも理解している。
だが、あるいはそれ故に、私は「今のゲームをくさす為の比較対照物」としてレトロゲームが使われるのを嫌う。たいして遊びもせずにスペランカーやバンゲリングベイをクソゲーとして扱う、その様なレビューと同等か、あるいはそれ以上に「昔に比べて今は」という言説を嫌う。
今のゲームも昔のゲームも、同じ「ゲーム」という一ジャンルの構成員だから。
「全然面白くない今のゲーム」があった以上に、「全然面白くない昔のゲーム」も山ほどあったことを私は知っているから。「全然面白くない昔のゲーム」も、私が大好きなレトロゲームというジャンルの一部だから。「全然面白くない昔のゲーム」を思考から削除されたくないから。
「思い出フィルタ」なんてゲタをはかせなくても、レトロゲームは十分今のゲームと張り合えると私は思っているから。
私は今でもゲーム好きだから。昔のゲームが楽しかった様に、今のゲームもこれからずっと楽しめると思っているから。
うん、そういうことだな。これ書いてからなんとなくもやっとしていたけど、頭の中身を書き出したらすっきりした。
私にとって、「レトロゲーム」というのは一つのジャンルである。
私にとって、レトロゲームは1ミリグラムの美化の対象でもなく、1ナノグラムの卑下の対象でもない。私はこれからも、飽くまで「レトロ」という部分には依拠しない、「一つのジャンル」としてのレトロゲームについて書き続けたいと思う。
2008年08月19日
レトロゲーム万里を往く その81 メタルマックス2
…押してもいいんだぜ!懐かしいドラム缶をよ!
(メタルマックス2 デスクルス看守の発言より引用)
当然話はこれからな訳だ。
かつてゲーム業界に、データイーストという異能集団があった。
異能とかなんとかいうといかにも中二病っぽい大仰な言い方になるが、彼らに限っては異能と言う他に言葉が見つからない。
彼らの作るゲームの特徴は、たった一言で表現出来る。
「自重を知らないゲーム作り」。
データイーストは、一方ではB-WINGやバルダーダッシュ、ウルフファングやマジカルドロップの様な良作・名作を生み出す傍ら、もう一方ではカルノフやチェルノブ、トリオ・ザ・パンチやザ・グレートラグタイムショーの様な、「普通のメーカーなら思いついても作らない」凄まじいゲームを世に送り出し続けた。彼らの凄いところは、いわゆるイロモノゲームのみに留まらず、例えばヘラクレスの栄光や神宮寺三郎といった「まともな」名作群にも、色濃く彼らの「味」を残し続けたことだろう。
100点満点な優等生ゲームは一本たりとも存在しないが、どれ一つをとってもデータイーストの味わいを感じられないゲームはない。彼らはある意味、セガ以上に自分達の「味」を知り尽くしていたのかも知れない。
メタルマックスに含まれる「鉄」と「油」の臭いは、紛れもなく、データイーストでなければ表現し得ない味だったのである。
メタルマックス2。近未来風RPG。1993年3月、SFCにてデータイーストより発売。前作のシステムをひとかけらも取りこぼすことなく、その「とんがった」ゲーム性と世界観を全面にわたって押し出した、この作品こそがメタルマックスシリーズを確立したと言っていい。
戦車を中心にしたゲームシステムはもとより、グラップラー四天王やビイハブ船長、ガルシアやバトー博士やピチピチブラザーズといった、前作のウルフに勝るとも劣らない「濃い」キャラクター達が、メタルマックスという世界観に圧倒的な色づけをしたと言えるだろう。
ゲーム的には、例えばLOVEマシンであるとか、4種類から選んで戦車を自作出来るシステムであるとか、姉ちゃんでなくイリットであることなどが前作との大きな違いとして挙げられる。が、それより何より、データイーストならではの自重してなさというものが大幅にパワーアップしていることこそ、この作品をメタルマックスたらしめているということが出来るだろう。
メタルマックスシリーズ、特に「2」がどれだけ自重していないゲームか。今回はこれをメインにして話を進めてみたいと思う。
・死体が自重してない。
いきなり細かい話になるが、多分メタルマックスの殺伐さを分かりやすく表現している要素の一つだと思うので、軽く触れておこう。
RPGにおける「死」の取り扱いというものは、結構面白いテーマである。ざっくりといえば「やられた状態」というものをどう扱うか、「戦闘不能」や「死」というものをどう扱っているかという話で、たとえばドラクエであれば死んだ仲間は棺おけで表現されるし、FFでは単に「戦闘不能」になり、フィールド画面ではそもそも表示されない。この辺は、「死」がかなりの度合い隠蔽されている例だろう。
で、メタルマックスの場合どうなのかという話なのだが、端的に言ってぜんっぜん隠蔽されてねえ。
仲間の死体はもうまるっきりそのまんま、思いっきりどざえもん風の「死体」というグラフィックでずりずりと引きずられていくし、海やダンジョンの周辺に死体がぷかぷか浮いていたりする。ソルジャーは仲間になる前に何度か死体の状態で主人公と対面していたりするし、テッドブロイラー様の火炎放射では容赦なく黒焦げになったりするし、ドクターミンチに話かけると「なんだこの死体は!まだ生きとるじゃないか!」とか怒られたりする。この殺伐っぷりは流石データイーストとしか言い様がない。
一事が万事で、メタルマックスの世界観は「殺伐」という一語で全般が統一されている、ということがまずは言えるだろう。
・台詞が自重してない。
上記の「殺伐」っぷりを強烈にアシストしているのが、頭の先から足の先まで漏れなく殺伐としている、NPC軍団の台詞である。言わずと知れたデスクルスの住人達を始めとして、どの町もこの町も乾燥した台詞をはくNPC、張り紙、スワン住人、マリリンなどで埋め尽くされている。
ただフリーズドライであるばかりでなく、時にはおバカな台詞、時には寂漠とした台詞、時には狂気に満ちた台詞が入り乱れて、「メタルマックス」という世界観を形成していると言うべきだろう。一例を挙げる以上の説明はない。
「あんたは強え! 強えヤツはただしい!」
「あけろ あけろ!ひひひ!せかいじゅうのドアというドアを!きんこというきんこを!」
「しにてェ・・・・。」
「グラップラーのやつらは野バスをころすばかりで、じぶんのクルマにすることはできなかったのさ!」
「これで 死ねる・・・・ あんしんして のう!」
「キャタピラにならひかれて死んでもいいわ!」
「2」を遊んだ人にとってはなじみのある台詞ばかりだろう。スーパーファミコンのRPGという畑で、「しゅうじんはクソ!かんしゅはかみさま!」などという台詞を一片のためらいもなくモニターに表示してみせた、データイーストの自重の無さに戦慄する他ない。
勿論台詞だけでなく展開も自重していない訳で、特にドラム缶とかドラム缶とかドラム缶とか、殆ど「刷り込み」というレベルでデスクルスの存在をプレイヤーの頭に焼き付けた、あの辺のイベントは余人では到底ゲーム化出来なかったであろう。その他、スカンクス戦→モンキーセンターの一連の展開とか、テッドブロイラーの顔見せ→決戦とか、エバ博士とカリョストロにまつわる色々であるとか、どれをとっても「浮いてない」ケレン味たっぷりのイベントばかりである。
そんな中、殆ど唯一に近いオアシスであるイリットに転ぶハンターが多いのは当然ではあるのだが、それでもあの弟さんは地雷を配置し過ぎなので誰かどうにかしてください。どんだけ結婚までの展開が速いのかと。
・戦闘が自重してない。
特にバランスの話であるのだが。「2」の戦闘バランスは前作に輪をかけて絶妙であると思う。崩壊しそうで崩壊していない、工夫次第で楽にもなればハードにもなる、強大火力の乱れ撃ち。
始めの頃はまるで歯が立たなかった賞金首が、頭を捻って用意した装備で雑魚と化す、この極端さもこのゲーム独自のものだったと思う。今となっては、サイゴンに苦戦していた日々が遠い。
「ハンター一人旅」であるとか「戦車無しプレイ」であるとか、様々な縛りプレイが隆盛した要因でもあったろう。
前作に比べて人間戦闘がハードになっていることも一つの要素だ。マダム・マッスルやアダムアントもさることながら、最後の最後に待ち構える因縁の賞金首・テッドブロイラー。これは燃える(二つの意味で)。テッド様には、裏技など使わず、是非正面から生身で挑むべきであると、私は強く主張したい。
余談になるが、戦車の選択、及び戦車に積む装備の選り取りは、「2」では前作を数段圧して面白くなっていると思う。
バトー博士の研究所で4種類の戦車が自作出来るのも一つだが、レオパルトの様なウルフの様ないかにも戦車戦車とした戦車から、いわずと知れた野バスやバギーの様な「クルマ」まで、全てが精細なグラフィックで装備を表示してくれる。スタイルにこだわるも良し、攻撃力にこだわるも良し、S=Eにこだわるも良し、様々な「こだわり」をプレイヤーに提供してくれるという意味では、このゲームは当時出色の出来だったと思う。
「見た目にこだわって」195ミリバーストを積むかどうかが論争になるという、この様なゲームが当時他にあっただろうか。ちなみに私自身は、「大砲とS=Eは全車両違うものを使う」「ウルフには177ミリアモルフ」というスタンダードなんだかそうでもないんだかよく分からないこだわりを現在に至るまで保持しており、一方でサウルス砲を使ったことは一回もありませんすいません。私のパーティはレオパルド、ウルフ、ゲパルトなんですけど、一体どれに載せればいいんスかアレ。
まあ、ゲームに慣れてしまうとあまり大砲を買う必要自体がなくなってしまったりするのだが、それはご愛嬌ということで。155ミリスパルクはちょっと優秀過ぎるよなあ。
・ポチが自重してない。
「すきな人」の基準が「最後にえさをくれた人」なんですけど、食欲で生きているこの爆裂おばかドッグを誰かどうにかしてください。あと、つやつやしなくていいから戦闘レベルを上げろっていっといてください。
その他、数々のBGMからグラフィック、OPからEDに至るまで、全てがメタルマックス2を形成している欠かさざる要素である為に、いくら語っても話は終わらないのだが。取り敢えず言えることは、このゲームってSFCの数あるRPGの中でも指折りの「BGMがマッチしまくっているゲーム」ですよねー。
と、いくら何でもエントリーが長くなり過ぎたので、取り敢えず今回はこの辺で締めておきたいと思う。
データイーストは残念ながら倒産してしまったが、彼らの「残り香」とでも言うべきものは、様々なメーカーに移り住んでいる。再びデコゲーの味わいに出会えることを祈るのみ、である。
(メタルマックス2 デスクルス看守の発言より引用)
当然話はこれからな訳だ。
かつてゲーム業界に、データイーストという異能集団があった。
異能とかなんとかいうといかにも中二病っぽい大仰な言い方になるが、彼らに限っては異能と言う他に言葉が見つからない。
彼らの作るゲームの特徴は、たった一言で表現出来る。
「自重を知らないゲーム作り」。
データイーストは、一方ではB-WINGやバルダーダッシュ、ウルフファングやマジカルドロップの様な良作・名作を生み出す傍ら、もう一方ではカルノフやチェルノブ、トリオ・ザ・パンチやザ・グレートラグタイムショーの様な、「普通のメーカーなら思いついても作らない」凄まじいゲームを世に送り出し続けた。彼らの凄いところは、いわゆるイロモノゲームのみに留まらず、例えばヘラクレスの栄光や神宮寺三郎といった「まともな」名作群にも、色濃く彼らの「味」を残し続けたことだろう。
100点満点な優等生ゲームは一本たりとも存在しないが、どれ一つをとってもデータイーストの味わいを感じられないゲームはない。彼らはある意味、セガ以上に自分達の「味」を知り尽くしていたのかも知れない。
メタルマックスに含まれる「鉄」と「油」の臭いは、紛れもなく、データイーストでなければ表現し得ない味だったのである。
メタルマックス2。近未来風RPG。1993年3月、SFCにてデータイーストより発売。前作のシステムをひとかけらも取りこぼすことなく、その「とんがった」ゲーム性と世界観を全面にわたって押し出した、この作品こそがメタルマックスシリーズを確立したと言っていい。
戦車を中心にしたゲームシステムはもとより、グラップラー四天王やビイハブ船長、ガルシアやバトー博士やピチピチブラザーズといった、前作のウルフに勝るとも劣らない「濃い」キャラクター達が、メタルマックスという世界観に圧倒的な色づけをしたと言えるだろう。
ゲーム的には、例えばLOVEマシンであるとか、4種類から選んで戦車を自作出来るシステムであるとか、姉ちゃんでなくイリットであることなどが前作との大きな違いとして挙げられる。が、それより何より、データイーストならではの自重してなさというものが大幅にパワーアップしていることこそ、この作品をメタルマックスたらしめているということが出来るだろう。
メタルマックスシリーズ、特に「2」がどれだけ自重していないゲームか。今回はこれをメインにして話を進めてみたいと思う。
・死体が自重してない。
いきなり細かい話になるが、多分メタルマックスの殺伐さを分かりやすく表現している要素の一つだと思うので、軽く触れておこう。
RPGにおける「死」の取り扱いというものは、結構面白いテーマである。ざっくりといえば「やられた状態」というものをどう扱うか、「戦闘不能」や「死」というものをどう扱っているかという話で、たとえばドラクエであれば死んだ仲間は棺おけで表現されるし、FFでは単に「戦闘不能」になり、フィールド画面ではそもそも表示されない。この辺は、「死」がかなりの度合い隠蔽されている例だろう。
で、メタルマックスの場合どうなのかという話なのだが、端的に言ってぜんっぜん隠蔽されてねえ。
仲間の死体はもうまるっきりそのまんま、思いっきりどざえもん風の「死体」というグラフィックでずりずりと引きずられていくし、海やダンジョンの周辺に死体がぷかぷか浮いていたりする。ソルジャーは仲間になる前に何度か死体の状態で主人公と対面していたりするし、テッドブロイラー様の火炎放射では容赦なく黒焦げになったりするし、ドクターミンチに話かけると「なんだこの死体は!まだ生きとるじゃないか!」とか怒られたりする。この殺伐っぷりは流石データイーストとしか言い様がない。
一事が万事で、メタルマックスの世界観は「殺伐」という一語で全般が統一されている、ということがまずは言えるだろう。
・台詞が自重してない。
上記の「殺伐」っぷりを強烈にアシストしているのが、頭の先から足の先まで漏れなく殺伐としている、NPC軍団の台詞である。言わずと知れたデスクルスの住人達を始めとして、どの町もこの町も乾燥した台詞をはくNPC、張り紙、スワン住人、マリリンなどで埋め尽くされている。
ただフリーズドライであるばかりでなく、時にはおバカな台詞、時には寂漠とした台詞、時には狂気に満ちた台詞が入り乱れて、「メタルマックス」という世界観を形成していると言うべきだろう。一例を挙げる以上の説明はない。
「あんたは強え! 強えヤツはただしい!」
「あけろ あけろ!ひひひ!せかいじゅうのドアというドアを!きんこというきんこを!」
「しにてェ・・・・。」
「グラップラーのやつらは野バスをころすばかりで、じぶんのクルマにすることはできなかったのさ!」
「これで 死ねる・・・・ あんしんして のう!」
「キャタピラにならひかれて死んでもいいわ!」
「2」を遊んだ人にとってはなじみのある台詞ばかりだろう。スーパーファミコンのRPGという畑で、「しゅうじんはクソ!かんしゅはかみさま!」などという台詞を一片のためらいもなくモニターに表示してみせた、データイーストの自重の無さに戦慄する他ない。
勿論台詞だけでなく展開も自重していない訳で、特にドラム缶とかドラム缶とかドラム缶とか、殆ど「刷り込み」というレベルでデスクルスの存在をプレイヤーの頭に焼き付けた、あの辺のイベントは余人では到底ゲーム化出来なかったであろう。その他、スカンクス戦→モンキーセンターの一連の展開とか、テッドブロイラーの顔見せ→決戦とか、エバ博士とカリョストロにまつわる色々であるとか、どれをとっても「浮いてない」ケレン味たっぷりのイベントばかりである。
そんな中、殆ど唯一に近いオアシスであるイリットに転ぶハンターが多いのは当然ではあるのだが、それでもあの弟さんは地雷を配置し過ぎなので誰かどうにかしてください。どんだけ結婚までの展開が速いのかと。
・戦闘が自重してない。
特にバランスの話であるのだが。「2」の戦闘バランスは前作に輪をかけて絶妙であると思う。崩壊しそうで崩壊していない、工夫次第で楽にもなればハードにもなる、強大火力の乱れ撃ち。
始めの頃はまるで歯が立たなかった賞金首が、頭を捻って用意した装備で雑魚と化す、この極端さもこのゲーム独自のものだったと思う。今となっては、サイゴンに苦戦していた日々が遠い。
「ハンター一人旅」であるとか「戦車無しプレイ」であるとか、様々な縛りプレイが隆盛した要因でもあったろう。
前作に比べて人間戦闘がハードになっていることも一つの要素だ。マダム・マッスルやアダムアントもさることながら、最後の最後に待ち構える因縁の賞金首・テッドブロイラー。これは燃える(二つの意味で)。テッド様には、裏技など使わず、是非正面から生身で挑むべきであると、私は強く主張したい。
余談になるが、戦車の選択、及び戦車に積む装備の選り取りは、「2」では前作を数段圧して面白くなっていると思う。
バトー博士の研究所で4種類の戦車が自作出来るのも一つだが、レオパルトの様なウルフの様ないかにも戦車戦車とした戦車から、いわずと知れた野バスやバギーの様な「クルマ」まで、全てが精細なグラフィックで装備を表示してくれる。スタイルにこだわるも良し、攻撃力にこだわるも良し、S=Eにこだわるも良し、様々な「こだわり」をプレイヤーに提供してくれるという意味では、このゲームは当時出色の出来だったと思う。
「見た目にこだわって」195ミリバーストを積むかどうかが論争になるという、この様なゲームが当時他にあっただろうか。ちなみに私自身は、「大砲とS=Eは全車両違うものを使う」「ウルフには177ミリアモルフ」というスタンダードなんだかそうでもないんだかよく分からないこだわりを現在に至るまで保持しており、一方でサウルス砲を使ったことは一回もありませんすいません。私のパーティはレオパルド、ウルフ、ゲパルトなんですけど、一体どれに載せればいいんスかアレ。
まあ、ゲームに慣れてしまうとあまり大砲を買う必要自体がなくなってしまったりするのだが、それはご愛嬌ということで。155ミリスパルクはちょっと優秀過ぎるよなあ。
・ポチが自重してない。
「すきな人」の基準が「最後にえさをくれた人」なんですけど、食欲で生きているこの爆裂おばかドッグを誰かどうにかしてください。あと、つやつやしなくていいから戦闘レベルを上げろっていっといてください。
その他、数々のBGMからグラフィック、OPからEDに至るまで、全てがメタルマックス2を形成している欠かさざる要素である為に、いくら語っても話は終わらないのだが。取り敢えず言えることは、このゲームってSFCの数あるRPGの中でも指折りの「BGMがマッチしまくっているゲーム」ですよねー。
と、いくら何でもエントリーが長くなり過ぎたので、取り敢えず今回はこの辺で締めておきたいと思う。
データイーストは残念ながら倒産してしまったが、彼らの「残り香」とでも言うべきものは、様々なメーカーに移り住んでいる。再びデコゲーの味わいに出会えることを祈るのみ、である。
2008年08月18日
レトロゲーム万里を往く その80 メタルマックス
つまりそれは、「はがねのつるぎ」を装備するか、88mm砲を積むかという、厳然たる壁だ。「ゴールドを稼ぐ」か「賞金を稼ぐ」かの、越えられない壁だ。
1991年という年は、ゲーム業界における文字通りの過渡期だった。
スーパーファミコンというハードが既に出現し、「ファミコンで出る予定だったあのゲームがSFCで」という噂がゲーム雑誌を跳ね回り始めていた頃。一方で、ファミコンのゲーム開発もいい加減煮詰まり、様々な「到達点」や「二番煎じ、三番煎じ」と言うべきタイトルが発売されていた頃。
PCエンジンもメガドライブもまだまだ現役で、一方任天堂はファミコンの普及台数を背景にSFCの勢力拡張を進めており、ハード間戦争が本当の意味で深刻だった頃。ラングリッサーが、マスターオブモンスターズが、イースIIIが発売されていた頃。ゲーセンにいけばストIIの筐体が立ち並び、対戦格闘ブームの狼煙が挙がり始めていた頃。
この時代を一言で言い表すとすれば、「新旧勢力の大乱戦」とでも表現するべきだろう。ハードにおいてもソフトにおいても、「王道」というべき方向はもうはっきりと示されており、世代交代の混沌を縫う様に、色んな開発者達がその「王道」に追随したり、二匹目三匹目のドジョウを狙ったり、ゲリラ戦を繰り広げたりしていた。
そんな中、メタルマックスは「アンチテーゼ」として出現した。
メタルマックス。近未来風RPG。1991年5月、データイーストより発売。ゲームデザインは堀井雄二氏と共にドラクエを手がけた宮岡寛氏であり、「竜退治はもう飽きた!」という「アンチドラクエ」的なキャッチコピーが当時話題になった。
「戦車を駆る」ということを起点とした独自のゲームシステムや、近未来風のとんがった世界観、当時としては常識外れに高い自由度、極端な様に見えて考えつくされたゲームバランスなどが人気を博し、SFCにおける「2」「リターンズ」の発売を経て熱狂的なファン層を獲得するに至った。
参照URLを挙げておく。
ゲームの背景に関してはWikipediaに詳しい。
Wikipedia:メタルマックス
画面に関しては、こちらのページから参照することが出来る。
メタルマックスシリーズ概要
さて、ゲームの話にいこう。
・「戦車」に始まり、「戦車」に終わるゲームシステム。
メタルマックスがアンチテーゼであり得た理由はたった一つ。そこに「戦車」があったから、である。
メタルマックスは、全編通して、「自分を鍛える以上に戦車を強化する」ことがメインテーマとなるRPGである。戦車に乗って戦えない場所も時にはあるが、ゲームの大半の場面において、主人公は戦車を駆ってフィールドを進み、アイテムを漁り、モンスターと戦う。ゲームの至上命題は、主人公を鍛えることではなく、ストーリーを追ってエンディングを見ることですらなく、「戦車を改造して最強にすること」なのだ。
実際の所、賞金首もフィールドモンスターも、うっかりするとラスボスすらも、より戦車を強くする為の「手段」でしかない、というのがこのゲームのとんがった部分である。全てはエクスカリバーを、OHCカルメンを、160ミリアモルフを入手する為の手段であり、エンジンの積載量を増やし、デカくて重い大砲を載せ、戦艦ばりの装甲タイルを張る為の手段だった。
RPGのキモはキャラクターの成長である。主人公キャラクターが、あるいは仲間が、レベルアップすることで強くなり、より強い敵を倒すことでカタルシスを得る。その「成長」という部分を、殆どそっくりそのまま「戦車を改造する」ということに置き換えたのがメタルマックスである。言ってみれば、「成長させる」その対象を主人公から切り離したことで、メタルマックスは既存の様々なRPGが求められてきた幾つもの制約から解放された。
戦車に乗れば生身の状態よりアットー的に強いのは当たり前のことである。つまり、戦車に乗れる状況であれば、普段より数段強い敵をがんがん出してもゲームは破綻しない。強い敵を出せるということは、強い武器を出してもいいということで、プレイヤーは「強くなる」カタルシスを序盤から存分に味わうことが出来る。それまで「主人公の成長に合わせて」展開を小出しにするという制約を、メタルマックスはそれ程要しないということになる。
一方、戦車から降りればアットー的に戦力が落ちることも当たり前のことである。つまり、「戦車を降りないと進めない」エリアを設定しさえすれば、当然の如く難易度は上がり、容易にゲーム展開のメリハリをつけることが出来る。105ミリキャノンを拾って辺りを蹂躙しようが、戦車を降りればただの人。マッドマッスルやアダムアントに大苦戦するのも、むべなるかな。
戦車というものを軸にした、主流RPGへの対抗。メタルマックスが発売当時アンチテーゼであり得た理由は、まさにそのメインテーマがあった故、なのである。
ちなみに、世界観というものもメタルマックスにおいてはひっじょーに重要な要素だと思うのだが、私が考える限り、メタルマックスの世界観を完成させたのはSFC版の2である。その為、今回は世界観や音楽には触れず、次項に回すことにする。
・竜か戦車か、ミニ四駆。
若干話が飛ぶが、ゲームとしてのメタルマックスは、二つのタイトルと比較することが出来る。RPGとしての比較対象に、「サンサーラ・ナーガ」。システムとしての比較対象に、「レーサーミニ四駆」。
サンサーラ・ナーガは、竜使いの少年を主人公にした、ファンタジー風の異色RPGである。押井守や桜玉吉が揃ってゲームに携わっていたというのも、今から考えれば感慨深い。「育つのは竜であって、主人公ではない」点、「竜が主人公よりずっと強い」点、「稀に主人公一人で行動しなくてはならない」点などが、メタルマックスのバランス調整と通底する部分だろう。
レーサーミニ四駆は、ミニ四駆好きな少年少女性別不明を主人公にした、ボードゲーム風ミニ四駆改造ゲームである。人生ゲームの様な様々なイベントをくぐって、主人公は自分のミニ四駆を軽量化したりモーターを変えたりグリスを塗ったり穴を開けすぎてぶっ壊したりしながら、色々なキャラとのレースに挑む。戦車の様々な「改造」要素に関しては、このゲームと共通する部分が多々見られると思う。
サンサーラナーガもレーサーミニ四駆も、底堅い面白さと奇抜な発想を特徴とする佳作であるのだが、いずれもどこか妙な味を漂わせており、メジャー路線からは外れていた。そんなところにも、メタルマックスと近いものがある気はする。
・メタルマックスとは、「男の子回路刺激ソフト」である。
まあそんなことより何よりも、メタルマックスの魅力の源泉は「雰囲気」だと思うのである。
どうのつるぎやはがねのつるぎではないのだ。大砲なのだ。武器の名前は「105ミリキャノン」であり、「165ミリロングT」なのだ。アイテムの名前はやくそうでもどくけしそうでもなく、「タイルパック」であり、「アルカリワックス」であり、「ドッグシステム」なのだ。乗り物は馬車でも気球でもチョコボでもなく、バギーであり、タイガーであり、Rウルフなのだ。これが燃えずにいられようか。
いつの時代も、「運転手さん」や「パイロット」に憧れる子供は尽きることがなく、「戦車」とか「車」とか「改造」という言葉に惹かれる子供がいなくなることもない。メタルマックスは当時、こういった「鉄の臭いに憧れる」少年達を魅了すること大であった。
ここで「戦車」に魅了された少年達の内何人かは、例えば後にアーマードコアやパンツァーフロントへと突っ込み、あるいはメタルサーガに快哉を叫ぶことになる。
と。随分長くなったので今回はこの辺で。
次回は引き続きメタルマックス絡みの話になる可能性が高い。続編にして到着点、「メタルマックス2」がタイトルに挙がる予定である。
2008年06月25日
レトロゲーム万里を往く その79 バトルシティーと、「敗北条件」。
ゲーム業界で一番最初に成功したリメイクって、実はこれじゃないかと思うんだ。
まず最初に。もしかすると既存の議論の焼き直しになるかも知れないが、ゲームの「勝利条件」と「敗北条件」について考えてみる。
勝利条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの勝ち(ゲームクリア)」という条件だ。例えば「インベーダーを全て倒す」とか「ステージ内のエサを全て食う」に始まり、「カイを救い出す」であるとか「ゾーマを倒す」であるとか「相手のライフをゼロにする」であるとか「金旋で全国統一する」であるとか、勝利条件というものは古今東西無数にある。
敗北条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの負け(ゲームオーバー)」という条件だ。「自機が敵と接触する」や「タイムオーバー」に始まり、「プレイヤーのライフがゼロになる」とか「部屋に入った瞬間すっ飛んできたナイフに刺さる」であるとか「金旋が首を斬られる」であるとか、こちらも古今東西色々ある。
あらゆるゲームは、「勝利条件」と「敗北条件」の設定方法によって4つのパターンに分類出来る。
・勝利条件も敗北条件も両方あるゲーム:「ラスボス」が存在する様々なアクションゲーム、パズルゲーム、シューティングゲーム、格ゲー、またはゲームオーバーが存在するアドベンチャーゲームなど。
・勝利条件はあるが、敗北条件はないゲーム:ドラクエの様な、多くのRPG、戦略シミュレーション。「ゲームオーバー」という概念が存在しないゲーム。
・勝利条件はないが、敗北条件はあるゲーム:バルーンファイトやゼビウスなど、初期〜中期のループゲーム。「ゲームクリア」の概念が存在しないが、ゲームオーバーは存在するゲーム。
・勝利条件も敗北条件もないゲーム:環境シミュレーションなど。どうぶつの森とか。
この辺の話は、つきつめると万里が三回くらい書けそうだ。あまり前置きが長くなるとアレなので、取り敢えずこれくらいにしておこう。
ともあれ、こういった「敗北条件」の変遷の、一つの草分けになったタイトルが「タンクバタリアン」であり、この「バトルシティー」だったのではないかと、私はそんな風に思う訳である。
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まず最初に。もしかすると既存の議論の焼き直しになるかも知れないが、ゲームの「勝利条件」と「敗北条件」について考えてみる。
勝利条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの勝ち(ゲームクリア)」という条件だ。例えば「インベーダーを全て倒す」とか「ステージ内のエサを全て食う」に始まり、「カイを救い出す」であるとか「ゾーマを倒す」であるとか「相手のライフをゼロにする」であるとか「金旋で全国統一する」であるとか、勝利条件というものは古今東西無数にある。
敗北条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの負け(ゲームオーバー)」という条件だ。「自機が敵と接触する」や「タイムオーバー」に始まり、「プレイヤーのライフがゼロになる」とか「部屋に入った瞬間すっ飛んできたナイフに刺さる」であるとか「金旋が首を斬られる」であるとか、こちらも古今東西色々ある。
あらゆるゲームは、「勝利条件」と「敗北条件」の設定方法によって4つのパターンに分類出来る。
・勝利条件も敗北条件も両方あるゲーム:「ラスボス」が存在する様々なアクションゲーム、パズルゲーム、シューティングゲーム、格ゲー、またはゲームオーバーが存在するアドベンチャーゲームなど。
・勝利条件はあるが、敗北条件はないゲーム:ドラクエの様な、多くのRPG、戦略シミュレーション。「ゲームオーバー」という概念が存在しないゲーム。
・勝利条件はないが、敗北条件はあるゲーム:バルーンファイトやゼビウスなど、初期〜中期のループゲーム。「ゲームクリア」の概念が存在しないが、ゲームオーバーは存在するゲーム。
・勝利条件も敗北条件もないゲーム:環境シミュレーションなど。どうぶつの森とか。
この辺の話は、つきつめると万里が三回くらい書けそうだ。あまり前置きが長くなるとアレなので、取り敢えずこれくらいにしておこう。
ともあれ、こういった「敗北条件」の変遷の、一つの草分けになったタイトルが「タンクバタリアン」であり、この「バトルシティー」だったのではないかと、私はそんな風に思う訳である。
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