2008年08月18日

レトロゲーム万里を往く その80 メタルマックス


つまりそれは、「はがねのつるぎ」を装備するか、88mm砲を積むかという、厳然たる壁だ。「ゴールドを稼ぐ」か「賞金を稼ぐ」かの、越えられない壁だ。


1991年という年は、ゲーム業界における文字通りの過渡期だった。

スーパーファミコンというハードが既に出現し、「ファミコンで出る予定だったあのゲームがSFCで」という噂がゲーム雑誌を跳ね回り始めていた頃。一方で、ファミコンのゲーム開発もいい加減煮詰まり、様々な「到達点」や「二番煎じ、三番煎じ」と言うべきタイトルが発売されていた頃。

PCエンジンもメガドライブもまだまだ現役で、一方任天堂はファミコンの普及台数を背景にSFCの勢力拡張を進めており、ハード間戦争が本当の意味で深刻だった頃。ラングリッサーが、マスターオブモンスターズが、イースIIIが発売されていた頃。ゲーセンにいけばストIIの筐体が立ち並び、対戦格闘ブームの狼煙が挙がり始めていた頃。

この時代を一言で言い表すとすれば、「新旧勢力の大乱戦」とでも表現するべきだろう。ハードにおいてもソフトにおいても、「王道」というべき方向はもうはっきりと示されており、世代交代の混沌を縫う様に、色んな開発者達がその「王道」に追随したり、二匹目三匹目のドジョウを狙ったり、ゲリラ戦を繰り広げたりしていた。


そんな中、メタルマックスは「アンチテーゼ」として出現した。


メタルマックス。近未来風RPG。1991年5月、データイーストより発売。ゲームデザインは堀井雄二氏と共にドラクエを手がけた宮岡寛氏であり、「竜退治はもう飽きた!」という「アンチドラクエ」的なキャッチコピーが当時話題になった。

「戦車を駆る」ということを起点とした独自のゲームシステムや、近未来風のとんがった世界観、当時としては常識外れに高い自由度、極端な様に見えて考えつくされたゲームバランスなどが人気を博し、SFCにおける「2」「リターンズ」の発売を経て熱狂的なファン層を獲得するに至った。

参照URLを挙げておく。

ゲームの背景に関してはWikipediaに詳しい。
Wikipedia:メタルマックス

画面に関しては、こちらのページから参照することが出来る。
メタルマックスシリーズ概要

さて、ゲームの話にいこう。


・「戦車」に始まり、「戦車」に終わるゲームシステム。

メタルマックスがアンチテーゼであり得た理由はたった一つ。そこに「戦車」があったから、である。

メタルマックスは、全編通して、「自分を鍛える以上に戦車を強化する」ことがメインテーマとなるRPGである。戦車に乗って戦えない場所も時にはあるが、ゲームの大半の場面において、主人公は戦車を駆ってフィールドを進み、アイテムを漁り、モンスターと戦う。ゲームの至上命題は、主人公を鍛えることではなく、ストーリーを追ってエンディングを見ることですらなく、「戦車を改造して最強にすること」なのだ。

実際の所、賞金首もフィールドモンスターも、うっかりするとラスボスすらも、より戦車を強くする為の「手段」でしかない、というのがこのゲームのとんがった部分である。全てはエクスカリバーを、OHCカルメンを、160ミリアモルフを入手する為の手段であり、エンジンの積載量を増やし、デカくて重い大砲を載せ、戦艦ばりの装甲タイルを張る為の手段だった。

RPGのキモはキャラクターの成長である。主人公キャラクターが、あるいは仲間が、レベルアップすることで強くなり、より強い敵を倒すことでカタルシスを得る。その「成長」という部分を、殆どそっくりそのまま「戦車を改造する」ということに置き換えたのがメタルマックスである。言ってみれば、「成長させる」その対象を主人公から切り離したことで、メタルマックスは既存の様々なRPGが求められてきた幾つもの制約から解放された。

戦車に乗れば生身の状態よりアットー的に強いのは当たり前のことである。つまり、戦車に乗れる状況であれば、普段より数段強い敵をがんがん出してもゲームは破綻しない。強い敵を出せるということは、強い武器を出してもいいということで、プレイヤーは「強くなる」カタルシスを序盤から存分に味わうことが出来る。それまで「主人公の成長に合わせて」展開を小出しにするという制約を、メタルマックスはそれ程要しないということになる。

一方、戦車から降りればアットー的に戦力が落ちることも当たり前のことである。つまり、「戦車を降りないと進めない」エリアを設定しさえすれば、当然の如く難易度は上がり、容易にゲーム展開のメリハリをつけることが出来る。105ミリキャノンを拾って辺りを蹂躙しようが、戦車を降りればただの人。マッドマッスルやアダムアントに大苦戦するのも、むべなるかな。


戦車というものを軸にした、主流RPGへの対抗。メタルマックスが発売当時アンチテーゼであり得た理由は、まさにそのメインテーマがあった故、なのである。

ちなみに、世界観というものもメタルマックスにおいてはひっじょーに重要な要素だと思うのだが、私が考える限り、メタルマックスの世界観を完成させたのはSFC版の2である。その為、今回は世界観や音楽には触れず、次項に回すことにする。


・竜か戦車か、ミニ四駆。


若干話が飛ぶが、ゲームとしてのメタルマックスは、二つのタイトルと比較することが出来る。RPGとしての比較対象に、「サンサーラ・ナーガ」。システムとしての比較対象に、「レーサーミニ四駆」。

サンサーラ・ナーガは、竜使いの少年を主人公にした、ファンタジー風の異色RPGである。押井守や桜玉吉が揃ってゲームに携わっていたというのも、今から考えれば感慨深い。「育つのは竜であって、主人公ではない」点、「竜が主人公よりずっと強い」点、「稀に主人公一人で行動しなくてはならない」点などが、メタルマックスのバランス調整と通底する部分だろう。

レーサーミニ四駆は、ミニ四駆好きな少年少女性別不明を主人公にした、ボードゲーム風ミニ四駆改造ゲームである。人生ゲームの様な様々なイベントをくぐって、主人公は自分のミニ四駆を軽量化したりモーターを変えたりグリスを塗ったり穴を開けすぎてぶっ壊したりしながら、色々なキャラとのレースに挑む。戦車の様々な「改造」要素に関しては、このゲームと共通する部分が多々見られると思う。

サンサーラナーガもレーサーミニ四駆も、底堅い面白さと奇抜な発想を特徴とする佳作であるのだが、いずれもどこか妙な味を漂わせており、メジャー路線からは外れていた。そんなところにも、メタルマックスと近いものがある気はする。


・メタルマックスとは、「男の子回路刺激ソフト」である。


まあそんなことより何よりも、メタルマックスの魅力の源泉は「雰囲気」だと思うのである。

どうのつるぎやはがねのつるぎではないのだ。大砲なのだ。武器の名前は「105ミリキャノン」であり、「165ミリロングT」なのだ。アイテムの名前はやくそうでもどくけしそうでもなく、「タイルパック」であり、「アルカリワックス」であり、「ドッグシステム」なのだ。乗り物は馬車でも気球でもチョコボでもなく、バギーであり、タイガーであり、Rウルフなのだ。これが燃えずにいられようか。

いつの時代も、「運転手さん」や「パイロット」に憧れる子供は尽きることがなく、「戦車」とか「車」とか「改造」という言葉に惹かれる子供がいなくなることもない。メタルマックスは当時、こういった「鉄の臭いに憧れる」少年達を魅了すること大であった。

ここで「戦車」に魅了された少年達の内何人かは、例えば後にアーマードコアやパンツァーフロントへと突っ込み、あるいはメタルサーガに快哉を叫ぶことになる。


と。随分長くなったので今回はこの辺で。
次回は引き続きメタルマックス絡みの話になる可能性が高い。続編にして到着点、「メタルマックス2」がタイトルに挙がる予定である。
posted by しんざき at 17:49 | Comment(7) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月25日

レトロゲーム万里を往く その79 バトルシティーと、「敗北条件」。

ゲーム業界で一番最初に成功したリメイクって、実はこれじゃないかと思うんだ。


まず最初に。もしかすると既存の議論の焼き直しになるかも知れないが、ゲームの「勝利条件」と「敗北条件」について考えてみる。


勝利条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの勝ち(ゲームクリア)」という条件だ。例えば「インベーダーを全て倒す」とか「ステージ内のエサを全て食う」に始まり、「カイを救い出す」であるとか「ゾーマを倒す」であるとか「相手のライフをゼロにする」であるとか「金旋で全国統一する」であるとか、勝利条件というものは古今東西無数にある。

敗北条件というのは、読んで字の如く、「この条件を満たせばプレイヤーの負け(ゲームオーバー)」という条件だ。「自機が敵と接触する」や「タイムオーバー」に始まり、「プレイヤーのライフがゼロになる」とか「部屋に入った瞬間すっ飛んできたナイフに刺さる」であるとか「金旋が首を斬られる」であるとか、こちらも古今東西色々ある。


あらゆるゲームは、「勝利条件」と「敗北条件」の設定方法によって4つのパターンに分類出来る。

・勝利条件も敗北条件も両方あるゲーム:「ラスボス」が存在する様々なアクションゲーム、パズルゲーム、シューティングゲーム、格ゲー、またはゲームオーバーが存在するアドベンチャーゲームなど。

・勝利条件はあるが、敗北条件はないゲーム:ドラクエの様な、多くのRPG、戦略シミュレーション。「ゲームオーバー」という概念が存在しないゲーム。

・勝利条件はないが、敗北条件はあるゲーム:バルーンファイトやゼビウスなど、初期〜中期のループゲーム。「ゲームクリア」の概念が存在しないが、ゲームオーバーは存在するゲーム。

・勝利条件も敗北条件もないゲーム:環境シミュレーションなど。どうぶつの森とか。



この辺の話は、つきつめると万里が三回くらい書けそうだ。あまり前置きが長くなるとアレなので、取り敢えずこれくらいにしておこう。

ともあれ、こういった「敗北条件」の変遷の、一つの草分けになったタイトルが「タンクバタリアン」であり、この「バトルシティー」だったのではないかと、私はそんな風に思う訳である。

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posted by しんざき at 17:24 | Comment(2) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月05日

レトロゲーム万里を往くその78 ゲームにおける、「振り出しに戻る」の重要性。


コンティニューが裏技だった時代から、まあ随分遠くにきたもんだなあ。と。


まず、結論から先に書いてみる。

1.「振り出しに戻る」というのは、ゲームの進行、キャラクターの育成などに関して、何らかの方法でリセットすることを指す。昔から、たくさんのゲームがこの「振り出しに戻る」機能を有していた。

2.近年、色んなジャンルのゲームが「育てる」「集める」という要素を内包している。「育てる」「集める」は非常に高い中毒性を期待出来るツールだが、「基本的に面倒くさい」「育つにつれて更に面倒くさくなる」「育つにつれてだんだん飽きてくる」といったマイナス要素とワンセットであることが多い。

3.「振り出しに戻る」という機能は、この二つの要素と一見矛盾している様だが、上手く取り込むことが出来ると、「飽きにくい」という物凄く有効な武器になる。

4.特にMMORPGであるとか、「継続して遊んでもらう必要がある」ゲームにおいては、この「振り出しに戻る」機能をいかに上手く取り込むか、ということが一つの生命線になるんじゃないだろうか。



と。先に言いたいことを全部書いてしまったので、上の4つの順番で、以下ざっくばらんに話を進めてみよう。


・「振り出しに戻る」の歴史について。

いや、ぶっちゃけ1980年台のゲームって8割がた「振り出しに戻る」なんですけどね。


ゲームの歴史から言うと、むしろ「振り出しに戻らない」方が後から付け加わった機能だと考えていい。古くはスペースウォーの頃から、ゲームの大多数は「死んだら最初から」となるのが当然だった。ゲームオーバーは「最初からやり直し」という意味だった訳で、感覚としては駆けっこやかくれんぼといった「遊び」と一緒である。

で、一番最初に「残る」を実現した機能が、多分「ハイスコア」というヤツだ。その日プレイしていた人の中で、一番稼いだ人の点数が表示される、アレである。インベーダーの頃にはもう存在した機能だから、少なくとも成立はそれ以前の筈だ。

で、その後、裏技としてのコンティニュー、パスワード方式を経由して、「バッテリーバックアップ」という「振り出しに戻らない方法」が出現した頃から、ぼちぼちゲーム業界は「集める」「育てる」という遊びの有用性を取り入れ始めた。RPGがゲーム業界に隆盛し始める時期と、「育成要素」というものの出現時期は、まあ大体重なっている。経験値稼ぎが、レアアイテム取得が、「やり込み要素」が、段々とその形を明確にしていく訳だ。

この辺については、以前も私は同じ様なことを書いた。手前味噌だが、以下のURLをご参照頂けると幸い。

「集める」ゲーム性と「育てる」ゲーム性
レトロゲーム万里を往く その45 「集める」ゲーム論

ともあれ。「振り出しに戻らないゲーム」が主要なジャンルとして、いつからかゲーム業界に隆盛していったということは言えるだろう。


・「育てる」ゲームの弱点について。

めんどーくさいこと。


一言で終了してしまったが。以前も書いたが、「育てる」「集める」ゲームの最大の弱点は、楽しみを味わっていけばいく程、それ以上楽しむ余地を削ってしまうこと、である。

例えばドラクエで言えば、ある程度以上レベルを上げてしまえば、苦戦する敵というものは殆どいなくなる。それ以降、全ての戦闘は「遊び」から「作業」になってしまう。遊びは楽しいが、作業はあんまりは楽しくない。これが、「育てゲー」の最大の弱点な訳である。FFでも信長でも同じことが言える。

例えばメガテンで言えば。仲魔を集めるのは楽しいが、簡単に強い仲魔集め切ってしまえるとゲームにならない。だから強い悪魔であればある程仲魔にするのは難しい訳だが、これがまた、タイトルによってはやってられないくらいめんどーくさい。ミカエルを、ルシファーを仲魔にしようとした人ならば誰でもわかるだろう。その面倒くささは、一般人を軽く挫折してしまう程のレベルである。


集めるのは楽しい、育てるのは楽しい。だが大抵のゲームの場合、ある程度以上楽しんだその先には高い壁がそびえている。

普通のオフラインタイトルであれば、そんな「壁」は大した問題にはならないのだが、ずーっと継続して遊んでもらうことを前提に考えられているオンラインRPGなんかでは、実は結構この「壁」が重大な問題になってくると思うのだ。ROも、FFも、ある程度以上の強さのプレイヤーは「廃人」と称される。人生捨てる程の覚悟がないと到達出来ない領域が存在する、ということだ。遊び続けている内に「廃人になるか、ならないか」という選択肢をプレイヤーに突きつけるのは、収益性という側面からは可能な限り避けたい。


・じゃあ解決法はなんだろう。

「振り出しに戻る」と「育てる」「集める」を両立させてしまえばいい訳である。


多分、上記二者を両立させている、一つの理想的な例が「不思議のダンジョン」シリーズだろう。「育成」という要素を飽くまで保持しつつ、プレイヤーは「振り出しに戻る」ことを前提としたゲームに何の違和感も感じない。ダンジョンに何百回挑んでも新鮮味が失われない、その要因はひとえに「主人公が死ねば装備・レベルがリセットされる」という一点に尽きる。その一方で、「育てた武器を残す方法もある」ということは、プレイヤーの収集要素を決して減衰させない。

「残る」ものと「消える」ものの両立。結果的に、トルネコやシレンは、育成ゲームでありながら「遊び」の要素を色濃く残した、ローグライクゲームとしても出色のタイトルに育った訳だ。この辺りには学ぶ要素が多いんじゃないかと思う。


ここまで考えて、ふと最近のタイトルを見回すと、上手い具合に「振り出しに戻る」を導入している例が幾つもある。例えばディスガイアやマビノギの転生システム。強さの核になる部分は残しつつレベルを1にリセットして、その後の育てる楽しみを継続する、というのは、プレイヤーのやる気を喚起するという意味では実に上手いやり方だ。

一方、「振り出しに戻す」システムを用意していないゲームとの場合、遊び続けてもらう為には新要素をざくざく投入していく他手段がない。これは、あんまりコストパフォーマンスがよろしくない。



振り出しへの戻し方。最近のゲーム業界を見てると、これ、結構重要なキーワードなんじゃねえかなあ、と私は思った訳である。



ということで。大概長くなったので、今回はこれくらいにしておくことにする。

次回は多分タイトルもの書きます。
posted by しんざき at 19:18 | Comment(9) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月19日

レトロゲーム万里を往く その77 ザナック

さてここで問題です。あなたにとって、「ファミコン最高のシューティング」とは何でしょう?


何度か似たようなことを書いているが、それが何であれ、「最高」を決めるのは意外に難しい。「最高のゲーム」などというテーマではより一層その難しさに拍車がかかり、「人の数だけベストゲームがある」というテーゼはあながち誇大でもないんじゃないかと思わせてくれる。

例えばゼビウスやグラディウス、あるいはツインビーといった、ファミコン初期の偉大な移植作を挙げる人がいるかも知れない。スターソルジャーやへクター'87といったキャラバン系シューティングも名前が挙がるだろうし、「烈火」やオーバーホライゾンといったFC後期のタイトルが出てきても不思議ではない。

スカイキッドやイメージファイト、B-WINGやエクセリオンといったタイトルに入れ込んだ人もいるし、アーガスやテラクレスタ、ヴォルガードII辺りも当然アリだろう。ファルシオンやコズミックイプシロンの様な擬似3Dシューティングが候補にあがる可能性だってある。私にとっても、「ファミコン最高のシューティング」というテーマで一つのタイトルを選ぶのは結構難しい。

が、「ファミコン最強のシューティング」という言葉を使うとしたら、私は一つのタイトルを迷いなく挙げることが出来る。

「ザナック」である。

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posted by しんざき at 17:01 | Comment(10) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月20日

撃墜王の一夜

エース様じゃねぇか。今日は何にする。


返事をする気にもならなかった。上目遣いにバーテンを見上げると、ため息ひとつと一緒にダブルが押し出されてきた。申し訳程度に氷が浮かんだマッカラン。もう何年も、飛んだ後の夜にはこれしか飲んでない。

確かに、パラシュートを積まずに飛んでいるのは、今では俺一人しかいない。勇敢な訳じゃない、むしろ逆だ。パラシュートで降りる羽目になって、無抵抗で宙に浮いている時間が、俺にはとても耐えられないのである。

とどめを刺すも刺さないも敵次第、放っておかれても魚の餌になる確率が5割以上。それくらいなら、自分の意思が及ばない境遇に怯えるくらいなら、一瞬でさっぱり逝く方が遥かにマシだと、俺は本気で思っていた。

その内俺が呼ばれる様になった名が、こともあろうに「レッドバロン」ときた。呼ぶ方も呼ぶ方だが、黙って呼ばれている方も呼ばれている方だ。自覚はある。


風船が何で割れるか、知ってるか、知ってるかよ、おい。


カウンターの右の方、もう十年も空気が動かずに淀み続けている様に見える薄暗い空間から、何やらぼそぼそとした声がした。

横目で一瞥してみると、体の成分の数十パーセントがアルコールで出来ているんじゃないか、と思える様な酒臭いオヤジが、数ミリの安酒が残ったコップに向かってなにやら話しかけている。

バーテンの眉の角度から察するに、さっきからずっと、故障したCDプレイヤーの様に同じことを繰り返している様だった。


ヘリウムガスが詰まってるから、詰まってるからよう、ゴムの表面が張り詰めてるんだよ。膨れてるから割れるんだよ。膨れてなければ割れねぇ、よな、へへ。


オヤジは際限なく、くだらない言葉を垂れ流し続けていた。マッカランを傾ける。

昔は、これを一緒に飲むヤツが、もう一人いた。パラシュートを積んでいなかったもう一人、俺が唯一、自分の上を飛ぶことを許していた男。スコアを争って、お互い数知れない相手を叩き落としていた男。飛行中に落雷に遭って、雲下に姿を消してから、もうそろそろ一年になる。

ヤツの仇名は、確か「ブルース」と言った。これも質の悪い冗談だ。


だがよう、ガスが詰まってない風船は飛べねえ、飛べねえんだよ、水風船にもならねえわな。へへ。飛ぶのが風船の唯一の仕事、風船が風船であろうとしたら、いつかは割れるしかねぇんだよ。因果、因果だよな。


飲み終えた。いつもよりちょっと早いが、これもオヤジの下らない言葉の恩恵だ。

金を置いて、席を立つ。グラスを拭いていたバーテンが、それが義務であるかの様に、こちらにちらりと視線を向けた。目も合わせずに、バーの出口に向かって歩き出す。


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「どういうことだ?これは」

テーブルが一つ置かれたっきりの出撃準備室。目の前にフライト予定図がある。フライト前にこれに目を通すのは、俺達に許された数少ない権利だ。

いつもなら書き込まれている、複数の敵の姿がない。地形図すら書き込みはなく、ただあるのは・・・海と、一面の雷雲。

俺の言葉は、部屋の片隅の魚眼レンズに向かって放たれたものだったのだが、勿論魚眼レンズも、その向こうにいる顔を見たこともない誰かさんも、何の言葉も返しはしなかった。いつも通り。


ハメられたか。


多分、俺は目立ち過ぎたのだろう。今まで叩き墜として来た相手の数は、勿論100や200では到底利かない。俺に恨みを持つ人間の数など、数える気にもならない。それでも、いつかはこちらが落とされる立場になるだろうと思っていたし、後ろから撃たれる羽目になるかも知れない、というのも覚悟の内だった。今更動揺はしない。

聞いたことはある。生還不能のミッション。ただひたすら雲海を飛び続け、いつか力尽きて海に落ちるか、落雷に落とされるか、選択肢はその二つだけ。名前は何と言ったか。


風船が風船であろうとしたら、いつかは割れるしかねぇんだよ。因果、因果だよな。


脈絡もなく昨日のオヤジの言葉が思い出されて、勝手に俺の口から笑みがこぼれた。上等じゃないか、という思考がよぎったことは否定出来ない。


いってみるか。


俺は、出撃準備室の窓の外、今から俺が飛ぶことになる空に目をやった。雲海の上には、多分青空がある。終わりのない戦いを越えた後には、一体何があるのだろうか。雷雲を抜けて、終わりのない空を飛び続けて、もう一度、どこかを目指してみようか。墜とされる恐怖とも、墜とす恐怖とも無縁で暮らせるどこかを。


ひとつ、力尽きるまで飛び続けてみようか。

どこかに辿り着くまで飛び続けてみようか。

割れない風船もこの世にはある、ということを見せ付けてやろうか。


二度と戻ってくることのないだろう出撃準備室の、無愛想な雰囲気をもう一瞥すると、俺は相棒のバックパックに手をかけた。今までも、これからも、俺が相棒と呼べるのはこれ一つっきりだ。


背負う。俺の仇名の由来である、二つの赤い風船が翻った。

最後のフライトに向かう。

発射台に歩き出す時、さっきは思い出せなかったミッション名が、唐突に頭の中に浮かび上がってきた。平和な単語だ。戻ることのないミッションには、そんな名前の方がふさわしいのかも知れない。


バルーントリップ。








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このエントリーのタイトルは、本来は「レトロゲーム万里を往く その76 バルーンファイト」でしたが、不倒城のロジックミスで変換されました。ご了承下さい。
posted by しんざき at 13:16 | Comment(5) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月13日

レトロゲーム万里を往く その75 ファイアーエムブレム

ノルダの町近くの山中、とある戦士が斧を片手に傭兵を追い掛け回していたのだが、ある時泉に斧を落としてしまった。

すると不思議なことに、泉の中からたおやかな女神が現れ、こう言われた。

「バーツよ、あなたが落としたのはこちらの使い古しの鉄の斧ですか?それとも武器屋で高く売れるこちらの銀の斧ですか?」

「女神様」

戦士は静かに答えて曰く、

「ぶっちゃけどちらも要らないので、むしろハンマーを下さい」

〜レトロゲーム箴言集「消えたペラティ連続殺人事件」より一部抜粋〜



ワルキューレの時のコピペじゃね?


いや、素で思うのだが、ファイアーエムブレムは何の草分けって「リメイクに伴う悲喜劇」の草分けじゃあるまいか。


最近でこそメタルマックスのアレとかヴァルケンのソレとか、「レトロゲームのリメイク」とそれに伴う色々というのは珍しくもなんともなくなったが、この当時はリメイクもの自体がまだ殆ど見られなかった。ユーザー達は、「移植」と「続編」という二つの単語だけ記憶していればそれで事足りた。

そこにちらほらと「旧ハード作品のリメイク」というものが姿を見せ始めたのが1993年頃の話だ。ある程度手を加えた、「過去の名作」の再利用。スーパーマリオコレクション、ドラクエ1/2、メタルマックスリターンズ辺りと前後して、「ファイアーエムブレム 紋章の謎」が姿を見せた訳である。

家庭用ゲーム史上に現れた「リメイク作品」の影。今回はその辺の話も書いてみようと思う。
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posted by しんざき at 19:40 | Comment(3) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月22日

レトロゲーBGM子守唄理論・実測編。

レトロゲームの曲は子守唄に最適だ、と思う訳である。


赤ん坊はなにせまだ赤ん坊なので、いま一つ謎なタイミングで泣いたり転がったり叫んだりする。

理由もまあ色々で、おむつが濡れていたり、お腹が減っていたり、眠かったり暑かったり暇だったりする。

想定し得るあらゆる手を尽くしてもいま一つ赤ん坊の機嫌が直らない時、親は歌う訳である。歌って赤ん坊の機嫌を直す訳である。

レトロゲームのBGMの良い点は、幾つかある。

・赤ん坊は総じて「繰り返し」が好きである。レトロゲームのBGMにも短い周期での繰り返しが多い。

・音数が少なく、メロディがシンプルである場合が多い。

・多くの場合、主旋律が分かりやすく口ずさむのが容易である。

・歌ってる側のテンションが上がる。


いいことづくめな訳である。特に最後とか。

ということで、私の脳内メモリーには幸い大量のレトロゲームBGMが蓄積されているので、自分の息子(生後7ヶ月)に実際にレトロゲームBGMを色々歌ってみて、反応を調べてみたよ。

分かりやすい様に、youtubeとかMIDIサイトで聴ける曲はリンクもつけてみるよ。


サラダの国のトマト姫・オープニング〜stage1:オープニングののどかな曲は寝かしつけに最適。小声で歌っているとすぐに目がとろーんとする。ただし、ステージ1に入ってしまうといきなり曲のテンションが上がるので注意。一回寝かしつけに失敗した。MIDIサイト様

パオパオ島へいこう!(パズルボブル):入浴中に歌うと大変喜ぶ。にへらーという表情。寝かしつけにもそこそこ使える。youtube

チャレンジャー一面:同じく、入浴中、機嫌が悪い時などに歌うと喜ぶ曲。基本テンションの高い曲なので、寝かしつけには不向き。you tube

DADDY MULK(ニンジャウォーリアーズ一面):三味線パートだけ喜ぶ。ただ、歌っている時の父親の表情の方を見て喜んでいる可能性も高い。親のテンションが無闇に高いので寝かしつけには不向き。ちなみに、ダライアスシリーズもそれに準ずる。youtube:太鼓の達人 MIDIサイト様

バブルボブルメインBGM:入浴中、頭を洗っていると息子は大変暴れるのだが、この曲を歌うと割とおとなしくなる。寝かしつけにもまあまあ使える。youtube

遥かなる故郷(FF5):あんまり反応がないけど、寝かしつける時には割と適している気がする。親が楽しいのでいいや別に。MIDIサイト様

ハーヴェスト(FF5):入浴中に前奏を始めると、ケラケラ笑って喜ぶ。寝かしつける時には歌ってはいけない。MIDIサイト様

ファンタジーゾーン:一面の曲よりも二面の曲の方が好きらしい。レトロゲームのBGMを歌っていると、脳内の展開と曲の展開が被ることが常である為、頑張って二面まで曲を進める必要がある。youtube


けっきょく南極大冒険:寝かしつける時には結構いい。というかスケーターズワルツなんだけど、まあ細かいことは気にするな。というか、このペンギンは一体秒速何キロで走ってるんだろうな。youtube


悪魔城ドラキュラ・FC版1面:どうも嫌いらしく、歌うとしかめっつらになる。いい曲なんだけどな。ちなみにグラディウスの曲もあんまり好きじゃないみたいです。youtube

ツインビー:青ベルをとると喜ぶ。通常時の曲はあまりお気に召さない様なので、なるべく早くパワーアップしなくてはいけない。もしかするとコナミがあまり好きじゃないのかも知れない。youtube

マッハライダー:ゲームオーバーになった時ちょっと喜ぶ。この曲は一度歌い始めるとなかなか終わらないので大変である。youtube

迷宮組曲:井戸に落ちた時のみ喜ぶ。なるべく早く井戸まで辿り着かなくてはいけない。一応、部屋の中の曲で寝かしつけに成功したこともある。youtube

源平討魔伝:義経に遭った時のみ喜ぶ。周防ルートを通らざるを得ない。youtube


スペランカー:開始直後にエレベーターから落ちた時のみ喜ぶ。youtube


今後も逐次情報を収集する予定。選曲が偏ってるのは仕様なのでまあ気になさるな。

posted by しんざき at 18:49 | Comment(8) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月16日

レトロゲーム万里を往く その74 「失望」のゲームデザイン


私が思うに、シューティングの醍醐味はなんといっても「自機がやられた時」である。


グラディウスで、ビッグコアのレーザーに接触した時のビッグバイパーの爆発音。ファンタジーゾーンのオパオパが飛散する時の効果音。ダライアス外伝で、シャコのばら撒き弾の前にボンバーが尽き、弾避けに力尽きた時の悲哀。我々は、時として「クリアした時」以上に、自機の消失というイベントを強く胸に焼き付けられている。


およそ、ありとあらゆるゲームジャンルの中で、シューティング程「ノーミスクリア」という単語の比重が高いジャンルは他にないだろう。ダラ外しかり、グラディウスしかり、R-TYPEしかり、シューティングをある程度やりこむ人は、大抵の場合「ノーミスクリア」というものを一つの目標に据える。別に神業でもスーパープレイでもない、ごく一般的なゲーマーが一般的に目指す目標として、「ノーミスクリア」というものが存在しているのだ。


これは、シューティングというゲームジャンルにおいて、「ミス」「自機の消失」というイベントが、物凄く重大な事件であることを示している、と私は考える。


・「失望」と「達成」の揺れ幅について。

あるゲームを評価する際、その尺度のひとつに「「失望」をどう演出しているか」というものがある、という気がしている。失望の演出がうまいゲームは面白い。麻薬的な面白さといってもいい。


それは何でかというに。人間の精神が、「触れ幅」に凄く敏感だから、ではあるまいか

ちょっとゲームと話がずれるが、以前、恋愛のコツ的な話で「感情体積を増やす」という話を読んだ。以下、参照リンクである。

異性をほぼ確実に落とす方法
とすると、ずっと「いい人」は差分が0点。
「いい人」が「すごくいい人」になっても差分30点。
「悪い人」と「すごくいい人」を『繰り返す』人は何百点でも稼げてしまう。

多分、根っこは同じ様な話なのかなあ、と。

ゲームにおいて何かに失敗し、あるいは何かを得ることが出来ずに、失望する。失望が強く胸に焼き付けられる。この失望があってこそ、何かに成功し、何かを得た時の喜び、興奮が倍増する。これが、ゲームにおける「達成感」の構造なんではないか、と私は推測するのである。


別に上の話はシューティングに限らないのだが、シューティングというジャンルには、分厚い「失望の地層」とでも言うべきものが体積している様な気がする。ジャンル自体が失望というものに関する根強いテンプレートをもっていると思うのだ。

シューティングにおける典型的な「失望デザイン」というものは、ざっと以下の様な感じである。

・ミスした時の自機の弱体化。純粋に難易度が激増するケース。
・稼ぎの問題。ミスが得点の低下に直結するケース。残機がボーナス点に加算される場合など。


一昔前には、

・ミスした際の復活形式。

というものもあった。自機がやられるとちょっと前まで戻されて、弱体化した件もあいまって復活にエラい苦労を強いられた、アレである。残機潰しによる得点稼ぎとか、バトルガレッガみたいな例外もあるが、シューティングにおける「失望」のゲームデザインは基本的に一様であり、しかも極めて有用だ。ここでは、「失望」という要素はゲームデザインの中に完璧な形で組み込まれている。

そしてこれこそが、シューティングというゲームジャンルにおける、麻薬的な魅力を生み出すソースの一つになっているんじゃないだろか、と私は思う。


・「失望のデザイン」いま・むかし。

ちょっとシューティングというジャンルから離れてみよう。

例えば、RPGでいうとウィザードリィにおけるキャラクターのロスト(消失)だとか。ヴァンパイアロードに2レベルも3レベルもドレインされたりだとか。

ロンダルキアの洞窟で、進んでも進んでも落とし穴に落ち、さっぱり先に進めなかったりだとか。

苦労に苦労を重ねてラスボスまで辿り着き、MP切れでこてんこてんにフルボッコにされたりだとか。

全滅すると所持金が半分になる、といったペナルティも、「失望のデザイン」のよくある様式の一つだろう。


いわゆる「集めゲー」においては、試行回数が量的な失望を演出している。倒しても倒しても出ないレアアイテム。探しても探しても出現しないレアモンスター。会心の一撃を何度決めても仲間にならないはぐれメタル。

試行回数が高まるごとに、「量としての失望」ゲージが上がっていき、これがあればこそ目的のアイテムを見つけた時の達成感が麻薬的なものになる。近年のMMOなんか、大体のタイトルがこの要素を取り入れているんじゃないだろうか。行き過ぎてMMO廃人とか量産しちゃうと色々とアレだが。


話は勿論RPGに限らない。SLGだろうがパズルゲームだろうがアクションゲームだろうが、「達成感」を演出しているゲームは、多かれ少なかれ「失望」という要素をゲームデザインの中に含んでいる。テトリスで赤ブロックがさっぱり出現せずに画面をブロックが埋め尽くすことだって、ドルアーガでイシターとサキュバスを勘違いしてZAPされることだって失望の内だ。


これらの「失望デザイン」は、色んな分類が可能だと思う。例えば、それがリカバリの効くものなのかどうか。プレイヤーに与える衝撃度はどの程度か。実際に失われるものは何か。

ウィザードリィが全世界で愛された理由の一つは、このゲームにおける「失望」が時として絶対に取り返せないものであり、それ故にプレイヤーの心中に強烈な印象を残したからじゃあないか、と私は思ったりもする訳だ。


・そしてプレイヤーは、新たな失望へ歩みだす。

敢えてもってまわった言い方をすると、良質な失望は、決して絶望には転化しない。


失望しても失望しても、その向こうにある「達成」をプレイヤーに求めさせてしまうタイトルこそが、「麻薬的な名作」と称されるべきだろう。開発者があの手この手で用意した「失望」という要素を、私は愛好する。その向こうにどんな「達成」が待っているのか、楽しみでならないからである。


次に私が出会う失望はどんな形をしているだろう。


以下、まとめてみる。


・ゲームを評価する軸の一つとして、「失望」をどう演出しているか、というものがある気がする。
・何故かというに、「失望」と「達成」の触れ幅は、強烈な面白さとしてプレイヤーの印象に残るからである。
・「失望」の演出が上手いゲームは、ハマリ者を大量生産する。
・シューティングは、ジャンル自体が「失望」というものに対するゲームデザインを内包しており、すげえ面白いと思う。
・ここまでOK?よし、じゃあそろそろPゾーンのクラスティハンマーに突っ込んでみようか。


シューティング衰退してないよシューティング。少なくとも私んちでは。

参照:のとーりあす なぜシューティングは衰退したのか

posted by しんざき at 11:45 | Comment(5) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月09日

レトロゲーム万里を往く その73 マッピー

私は、自分の発想力にそれ程信をおいていない。


故に、「ねずみ年だから取り敢えずマッピー」などという発想は安易極まると断定してしまってよかろう、と思った。こんな安易な発想は、Webでは既にJOIN THE CREWばりに氾濫しまくっており、年賀状用のフリー素材は見渡す限りマッピーの図案に埋め尽くされ、エントリーをあげてしまったが最後「スパム書くなハゲ」などという論難が滝の様に私のブログに押し寄せるのではあるまいか、と私は怯えていた訳である。戦々恐々としていた訳である。

しかし、まずはぐぐる先生にお伺いを立てた所、思った程ページが引っかからない。どうも、「ネズミ→マッピー」という即決論理回路を構築している人材は、世にそれ程多くはない様なのである。


何故だ。ネズミと言えばマッピーだろ、どう考えても。ゲゲゲの鬼太郎だの浦安の魔法の国の話なんかしている場合じゃないだろ。こら、そこの君、勘違いするな。ソニックはハリネズミであってネズミではない。レミーのおいしいレストラン?なんスかそれ。宮沢賢治スか。

我々には余りにもマッピー分が不足している。我々は手に入るだけのマッピーを必要としているのである。


ともあれ、どうやら私のブログが「スパム書くなハゲ」という書き込みで大炎上する恐れはそれ程ない様なので、安心して安易なネタを書くことにする。


今年はネズミ年であり、ネズミと言えばマッピーである。


「マッピー」。アクションゲーム。1983年、ナムコより業務用発売。翌1984年には「ギャラクシアン」「パックマン」「ゼビウス」などのタイトルに続く移植作としてファミコンで発売され、遊びやすく、かつ奥深いアクションと、印象的でコミカルなキャラクターによって幅広いユーザーに好評を博した。

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posted by しんざき at 13:14 | Comment(10) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月05日

レトロゲーム万里を往く その72 SDガンダム ガチャポン戦士2 カプセル戦記

武者ゼータを倒せる気がしない。


おかしい。何かがおかしい。私が得意とする戦術は元来遊撃戦であって、主戦線から外れた所でこっそり百式やR=ジャジャ辺りを進軍させておいて、長駆敵の本陣をつくのが勝ちパターンであった筈である。百式級が3体もあれば、昔なら勝負はついていた筈なのだ。

ところがどうだ、百式3体はビームナギナタとファンネルの前に一矢すら報いずに圧殺され、敵陣のガチャベースで急遽生産してきたドライセンは敵のバリアを外すことも出来ずに2秒で瞬殺、あまつさえνガンダムすら余裕で食われた。これは一体どんなチートだ。それとも武者Zにダグラス・カイエンでも乗っておるのか。続き描け、いや描いてください永野護。

まあ分析するに、今考えるべきは「私がファンネルつきのMSにからきし勝てなくなっていること」ではなく、「「作戦名星一号」というマップに何故ギラドーガがわらわらひしめいているのか」ということですらなく、百式やリックディアスが自力で大気圏を離脱出来るのはちょっとどうなんだ、ということなのである。いや、私が知らないだけで、ちょっと根性入れればザクでもグフでも大気圏の一つや二つ離脱出来るのか知らんが。


ということで、今回は一見するとガンオタっぽい用語が飛び交いますが、すいません、実はしんざきあんまりガンダム見たことがありません。私の知識は基本的に、ゲーム版のSDガンダムシリーズとWikipedia由来です。なるべくボロが出ない様気をつけて知ったかぶります。

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posted by しんざき at 11:43 | Comment(9) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月24日

レトロゲーム万里を往く その71 俺達がレトロゲームから間違って教わったこと


ROMカートリッジには、人生を誤解させる内容がたくさん含まれている。

そう、俺達は忘れていたんだ。人生は8ビットだけで構成されている訳じゃない、ウソテクも含まれているんだってことを。


・ファミコンジャンプが俺達に間違って教えたこと

よく訓練されたゴールキーパーはサイヤ人や北斗神拳伝承者を瞬殺出来る。


・三國志が俺達に間違って教えたこと

郭図は顔良より強い。

世の中の大抵のトラブルは火計で解決する。

訓練は他にすることがない場合にやること。


・ロックマン3が俺達に間違って教えたこと

スライディングをすると歩くより速い。

崖に落ちても、2コンの左キーを押しっぱなしにすれば何とかなる。


・ゼビウスが俺達に間違って教えたこと

どんなに堅いものでも、256発殴れば壊せるよ!壊せるよ!


・魔界村が俺達に間違って教えたこと

墓場はデートスポット。

パンツ一丁で敵に攻撃されると人は白骨化する。


・ドラゴンバスターが俺達に間違って教えたこと

人間はどれだけ高い所から落ちても割と平気である。


・スーパーマリオブラザーズが俺達に間違って教えたこと

人間はどれだけ高い所から落ちても割と平気である。


・けっきょく南極大冒険が俺達に間違って教えたこと

よく訓練されたペンギンは、素で走っても音速を越える。


・ぺんぎんくんWARSが俺達に間違って教えたこと

ビーバー >>>>>>>>>>(越えられない壁) >>>>>>>>>>> パンダ


・忍者龍剣伝やシャドーダンサーが俺達に間違って教えたこと

忍者たるもの、単身敵に突っ込んで、二百や三百全滅させてなんぼ。


・ファミリーベーシックが俺達に間違って教えたこと

インタプリタ用のスタック領域は、ゲームを作る場合にはためらわずにがんがん使うべき領域。

出来る限りコードは省略するべきもの。コードの再読性などというヌルいものは不要。


・キャプテン翼2が俺達に間違って教えたこと

語尾に「たい」をつければ大体の日本語は九州弁になる。

よく訓練されたストライカーは、シュートを打った時ゴールキーパーを含めた4人を吹っ飛ばして、ゴールのネットを突き破ることが出来る。

ドライブシュートが許されるのはグレミオ戦までよねー。キモーイ。

って、「ドライブシュートは俺には効かないぜ」ってサッカーの台詞としては何か間違っている様な気がする。テニスの王子様って実はゲーム版のキャプテン翼を参考に書かれてないか?


・るろうに剣心が俺達に間違って教えたこと

二重の極み。


最後のはレトロゲームと関係ない気もするな。

前回の続き

すいません、次回から普通の万里に戻ります。

posted by しんざき at 12:57 | Comment(5) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月20日

レトロゲーム万里を往く その70 レトロゲームが俺達に教えてくれたこと。

人生において大事なことは、みんなROMカートリッジが教えてくれた。

そう、俺達の人生は、実は8ビットで出来ているんだ。


・迷宮組曲が俺達に教えてくれたこと。(人生の基本編)

結局のところ、世の中金である。

手っ取り早く大金を得るには裏技を使うしかない(コンティニュー連打楽器箱)。

音楽は人生に潤いを与えてくれる。

潤いは所詮、金である(音符をお金に換算)。

井戸の中に落ちると超危ない。

雷に当たると超危ないけど、まあ二、三回なら案外なんとかなる。

人気があるヤツの真似をすると話題になる。(タイトル画面で高橋名人的連射)


・ウィザードリィが俺達に教えてくれたこと。(人生の厳しさ編)

首をはねられると大抵のヤツは死ぬ。

人は基本的に一人では生きていけない。(あっという間に死ぬから)

でも、ある程度以上強いヤツなら一人でも十分生きていけたりする。

人間の善悪なんて、選択一つでころころと変わる程度のものである。

人間、どんなヤツでも死ぬ時は死ぬ。ロストする時はロストする。

げんこつを食らうと即死する。

見た目が可愛いと思って油断していると首をはねられるから超危ない。(ボーパルバニー)


・ロックマン2が俺達に教えてくれたこと。(人生の交渉術編)

目的を達成するには根回しが重要である。(ボスを倒す順番)

交渉事をクリアするには、相手の弱点を的確につくべき。

役に立たないと思っていた人が、最後の最後で凄い働きをすることがある。(バブルリード)

ラスボスだと思っていた人を乗り越えても、必ずその後にもう一人真のラスボスがいる。


・シティコネクションが俺達に教えてくれたこと。

車の運転超危ない。

猫をいじめると呪われる。

パトカーを怒らせない方が人生平和である。


・ドラゴンズレアが俺達に教えてくれたこと。

時にはあきらめることも必要である。


・コンボイの謎が俺達に教えてくれたこと。

時にはあきらめることも必要である。


・ツインビーとファンタジーゾーンとグラディウスが俺達に教えてくれたこと。

スピードの出し過ぎは死ぬから超危ない。


・アイスクライマーが俺達に教えてくれたこと。

ヤラレル前ニヤレ。


・スペランカーが俺達に教えてくれたこと。

薬物ダメ。ゼッタイ。(死ぬから)

エレベーターから飛び降りるのは超危ない。

爆弾が爆発する時に同じ画面にいると結構死ぬ。

人間、つまづいて転んだだけで死ぬ時もある。

洞窟に安易な気持ちで入ってはいけない。(死ぬから)

職業選択をミスると色々と苦労する。


・俺達が高橋名人に騙されていたかも知れないこと。(16連打編)

高橋名人の16連打すげえ!というプロパガンダ。

毛利名人の14連打も、速度では高橋名人には劣るけど正確性ですげえ!というプロパガンダ(良く考えると連打の正確性ってなんだろう)

いつの頃からか、「人間の限界は16連打」的な無意識的限界値を植えつけられてしまっていた俺達

実はちょっと頑張れば18連打くらい簡単にいけるんじゃないか?←今ここ

連射測定機で死ぬ気で連射してみる

結果が9連打で絶望する。



最後のは何か違う気もするな。

次回は「レトロゲームが俺達に教えてくれなかったこと」の予定。(かどうかは知らない)

(追記 07/10/24)------------------------------------------
続き。

posted by しんざき at 14:46 | Comment(9) | TrackBack(1) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月02日

レトロゲーム万里を往く その69 サラダの国のトマト姫と、ハドソン帝国の盛衰



すいません、「サラダロンに食わせる」っていうコマンドないですか?>柿っぱち
(インゲンボムを食わせる>柿っぱち でも可)

アドベンチャーゲームにおける助手の必要性、というものにはちょっと論じる価値があるんじゃないかと思う。古くはポートピアにおけるヤスに始まり、デッドゾーンにおけるフォジー、さんまの名探偵におけるさんま、ミシシッピー殺人事件のワトソンからメタルスレイダーのエリナに至るまで、無口無反応な主人公に代わって感情表現をしてくれる助手は古今東西たくさんいる(エリナはちょっと違うが)。

そんな中でも、勝手に荷物持ちをして片っ端から所持品を落としてくれる柿っぱちはなかなか異彩を放っている。PC版ではいなかったんですよこいつ、覚えてますか?


まあ、置いといて。


サラダの国のトマト姫。アドベンチャーゲーム。1988年5月、ハドソンよりFC版発売。1984年に発売された同名の8ビットPC版タイトルの移植であり、「デゼニランド」からの路線であったシークワード式のゲームから、殆ど別物に近い程のアレンジが施されていた。

登場キャラクターは二人を除いて全員擬人化野菜、主人公はキュウリの戦士でお供は柿の少年「柿っぱち」、トマト姫からナスの護衛に至るまで、世界観はメルヘンチックに統一されている。当時、その特徴的なビジュアルから、女の子への人気も割と高かったという話を聞く。

特筆すべきは、どの場面をとっても素晴らしいBGMと「とんがった」部分の無い丁寧な語り口とビジュアルで、派手な印象こそないが非常に高いレベルでまとまったAVGだった。PCものの移植ということを考えても、そのアレンジ具合は「最適化」というにふさわしい。迷宮組曲と並んで、ハドソンオリジナルタイトルの傑作と評するべきだろう。

後述するが、ハドソンのゲームって、キャラクターもの(高橋名人含む)とそれ以外のゲームの出来の差が総じて激しい様に思う。ファンの方には申し訳ないが、私にはBugってハニーとこのゲームを同じメーカーが作ったとはとても信じられない。

画面写真を参照出来るサイト様があった。ちょっと引っ張ってみる。
サラダの国のトマト姫(ファミコン版)攻略チャート

取り敢えずゲームの話をしよう。

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posted by しんざき at 19:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月08日

レトロゲーム万里を往く その68 シリーズものゲームの「追加」「複雑化」を科学する。

ちょっと予定変更。今回はちょっと個別タイトルを離れて、ゲーム業界に大氾濫している「シリーズもの」の展開について、古きを思いて新しきを知ってみようぜ、というお話。


およそ、シリーズものが陥りやすい罠は、「複雑化・高難度化して客・新規離れ」に尽きる。

大体において、続編が作られる様なタイトルには、ある程度以上の数のファンがいるに決まっているのだ。当然ファンは、前作・元祖の記憶を引きずりながらも、前作以上の面白さを期待する。

この「記憶」というのが厄介だ。シリーズものの優位な点は「前作が面白かったから今度も面白いだろう」という意識に他ならず、前作が好きだった人こそが最大のマーケット、という事情の故に、あまり根本的にゲームを変える訳にもいかない。

一方で、開発者は「なんだよ、前作と全然変わってねえじゃん」とか「前作の方が面白かった」などという期待外れとも闘わなくてはいけない。

つまり、「前作の面白さ」は強力な武器であると同時に、最大の敵でもある。

変え過ぎてもいけないし、そのまんまでもいけない。

この過酷な縛りの為に、多くの続編は「前作を大きくは変えずに、色んな要素をちょこちょこ追加していく」という方針で作られざるを得なかったのだ。シリーズものが複雑化していくのは、実は宿命的な問題なのである。

じゃあ、この宿命から逃れる為にはどうすりゃいいんでしょ、という話になる。多分方法は二つしかない。「丁度いい範囲での「追加」を模索する」か、「「追加」以外のゲームの作り方を考える」の二通りである。

順番に考えてみよう。


1.丁度いい「追加」を考える。


上の縛りにハマった典型的な例が、多分格ゲー業界だろう。多くの格ゲーのシリーズものは、「基本的には変わらないシステム+次から次へと新要素」という作られ方をしていって、最後には肥大した追加要素に耐え切れずに自沈していった。

といっても、およそあらゆるシリーズものの初期には、成功した続編がつきものである。格ゲーの場合、スト2ダッシュやターボのヒットがなければ、業界そのものが成立しなかった。何で「初期の続編」はヒットするかというと、変化の「相対量」は大きいけど「絶対量」が少ないからだ。

スト2ダッシュの例で言うと、実はあのゲーム、ちょちょいとバランスがいじられて四天王が追加されただけで、後は殆ど前作と変わらなかった。それでも空前の大ヒットをした理由は、当時は「その程度の変化だけで十分驚天動地の変化だったから」に他ならない。

絶対量で見ればそれ程変わっていないので、前作ファンがこぞって100%楽しむことが出来る。相対量では物凄く変わっているので、前作ファンがこぞって「前作よりすげえ」と感じることが出来る。ドラクエやFFの二作目三作目も同じ様な事情だった。

つまり、「追加要素」という道を選んだ時の理想的な続編とは、「相対量では大きな変化だけど、絶対量で見るとそれ程でもない」という作り方である、ということがまずはいえそうだ。


これ、言うまでもなく難しい。シリーズが重なれば重なる程、一作品辺りの「変化の相対量」は目減りしていく。ちょっとやそっとの変化量ではユーザーを誤魔化せなくなっていく開発者は、ガンガン追加要素を加えていかざるを得ない。KOF然り、飢狼しかり。この辺考えると、格ゲー業界の最大の悲劇は「それ程システム的に発展性はないのに、続編作りまくって引っ張り過ぎました」という一点に尽きる様な気がする。

ちなみに、RPG業界も似た様なことになっている様な気はする。こっちは、システムの複雑化というよりはプレイ時間の増加が敷居を高くしてる様にも思うけど。


と、あんまり意味がないなあと思ったところで、もう一つの手法。


2.「追加」以外での続編の作り方を考えてみる。

幸いなるかな、われわれは過去の例を考えてみることが出来る。続編でゲーム性ごとものすげえ方向転換をしてみましたというタイトルは、かつて星の数程存在した。

この変遷をジャンルごと体験したのは、おそらくアドベンチャーゲームだろう。ポートピアの時にも書いたが、かつては「単語探しゲーム」だったアドベンチャーゲームは、ある時期を境に「コマンド総当り+テキストを楽しむゲーム」という凄まじい方向転換を行った。代表的な例が「サラダの国のトマト姫」だろう。

この変化は、コマンドに対応するテキスト量の純増という方向に向かい、更に方向性を突き詰めた「サウンドノベル」に流れこんでいくことになる。これは、変化というよりは単純化という方向に向かったゲームの好例であり、何かの解決法がここにあるんじゃないか、とか漠然と感じるところがある。

「パックマン」→「パックランド」の方向も瞠目するべきものがあった。ドットイートゲームにさくっと見切りをつけて、作られた横スクロールアクションは珠玉の職人芸。ワルキューレの冒険→伝説の例も鑑みると、ナムコの底力を感じずにはいられない。ファミスタ?知らん。

SDガンダム2(戦闘画面はアクション)→SDガンダム3(ガンダム版大戦略)の変化も大きかった。評判はいまひとつだったのか、SDガンダムXで元の鞘に納まった時は大評判だったけど。ああ、先祖がえりって手法も有用かも知れないな。


と、ここまで例を挙げてみるとお分かりかと思うが、われわれは当然源平討魔伝にも触れる必要があるだろう。アーケード版での超ド級和風アクションが、どういう訳かボードゲーム風RPGへの華麗なる転進。あれは衝撃的な続編だった。私自身は、「月風魔伝」が既に発売されていたということが、このゲームが生まれた理由ではないかなーと想像するのだが、まあ細かい話はこちらをご参照頂きたい。

あ、そろそろこの項の結論出す時間ですか。そうですか。続編の作り方に困ったら、いっそ全部国取りボードゲーム(フィギュアつき)にしてしまうというのが斬新でいいんじゃないかな、って感じで。



・まとめ。

ということで、変化が大き過ぎてもいけないし、小さ過ぎてもいけないし、いずれにせよ複雑化し過ぎるとまずいよね、ということになると開発者さんの苦労が偲ばれる。

取り敢えず、アドベンチャーゲームが辿った「ゲーム性転換→単純化」という道は、ちょっと他のジャンルとは違う様に思えるのだな。つまり、足し算ではなく、引き算の続編という可能性だ。

次回万里では、ハドソンの例のアレなんかを主題にして、この辺についてもうちょっと考えてみたいと思う。
posted by しんざき at 18:18 | Comment(8) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月01日

レトロゲーム万里を往く その67 ダウンタウン熱血行進曲 それゆけ大運動会

「ば、馬鹿な、この俺を道連れに!」
「こ、今度ばかりはタネはありません。ほ、本当にさよならです!!」
「すがたーーーっ!!(爆弾パンチでごうだを巻き込んでリングアウト)」


このゲームに対する個人的イメージ。



正直なところ、テクノスジャパンすげー勿体無かった。

FC中期〜後期において、データイーストから分派した彼らが作ったアクションゲーム・スポーツゲームって凄い質が高かったと思うんだけど、どういう訳か「ダブルドラゴン」「くにおくん」以外のタイトルでは鳴かず飛ばず。

その二つのシリーズにおいても、SFCでの華々しいスタートに若干失敗した感のある「くにおたちの挽歌」、落ちものに特攻して撃沈した「くにおのおでん」、完全な対戦格闘となったけど微妙に外してしまったネオジオ版「ダブルドラゴン」辺りで失墜し、二大看板を失ったテクノスジャパンはさくっと倒産してしまった。

「ファイナルファイト」系のゲームだけでは生き残れないという経営判断があったんだと思うんだが、ダウンタウンシリーズであそこまで明確に培ったノウハウがあったのだから、いっそSFCでもデフォルメ系アクションゲーム路線に突っ走れば良かったんじゃないかとか強く思う。いや、すごろクエストも割と好きでしたけどね。

それはそうと、「熱血行進曲」についてである。
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posted by しんざき at 22:10 | Comment(6) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

リフレインというものが好きだ。


GダライアスのEDで、初代ダライアスの「Boss7」のメロディが流れるのが好きだ。

雷電IIで、長い長い弾除けと撃ち込みの果て、最終面で突如2面のBGMが流れるのが好きだ。

「ワルキューレの伝説」のEDで、「冒険」のメロディが流れるのが好きだ。ドラクエIIのオープニング音楽が、IIIのエンディング前で初めて流れるのが好きだ。ギアガの大穴に落ちた後、突如流れ出すアレフガルドの曲が好きだ。FF9で、不意打ちの様に流れる「ウネとドーガのテーマ」が好きだ。

悪魔城シリーズで、初代のBGMがこれでもかとアレンジされまくる、あざといまでの演出が好きだ。

ガンフロンティアの5面ボスで、突如一面のBGM「砂漠の山嵐」が流れるのが好きだ。好き過ぎる。熱くて死ぬ。


音楽用語としての「リフレイン」の正確な意味がどうなのかは知らんが、んなこたまあどうでもいいのだ。「以前に聴いたフレーズが、様々な展開を挟んで再び流れ出す」という演出が、とにかく私は好きなのである。


ということで、何で好きなのか、ということを自己分析してみたよ。


・BGMというものは、視覚と結びついて非常に深く記憶に残り易い。

・昔そのBGMを聴いていた頃の、「楽しかった記憶」とか「大変だった記憶」とか「グレートシングとの戦いの記憶」とか「2面でボムを使い切って雑魚敵の高速弾に瞬殺された記憶」みたいなものが頭の中に去来する。

・「うおお、こう来たか」みたいな混沌とした感嘆。

・目から塩水。



ただ、この「好き度」は、いき過ぎると「○○の音楽がアレンジされているって!?買う」などという、食い物にされやすいレトロゲーオタの典型の様な行動を示してしまい勝ちになりそうな気配もある。


結局、「昔の思い出がプラスの電荷を帯びている人というのは、割と安く食い物に出来る」という結論が出せそうな気がしないでもない。レトロゲーオタって軽く昔のBGM挟んでおくと勝手に感動してくれるから楽だよね、みたいな。


いいじゃねえかよ別に。奇々怪界2作れこの野郎。

posted by しんざき at 19:26 | Comment(3) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月08日

レトロゲーム万里を往く その66 セクロスの悲哀と、主にバイクゲーのヨタ話。

まず最初に、あなたはGoogleの検索結果を参照するべきだ。そして、画面に示される惨憺たる事実に、衝撃を受ける必要がある。


そもそも、キミらニチブツに申し訳ないとは思わんのか。1ミリグラムも思わんのか。


移植・開発なんでもござれ。クレイジークライマーを、ムーンクレスタを、テラクレスタを、そしてF1サーカスを世に送りだしてきたニチブツに対して、私は暗く深い哀惜の念を禁じえない。

一体ニチブツが何をしたというのだ。ラクロスの巻き添えをくらってしまったとはいえ、代表作の一つが性行為の言い換え語に使われてしまう様な、そこまで悪いことをニチブツはしたのだろうか?結構面白いゲームだったんだよ?セクロス。なんつーか、俺たちがエキサイトバイクで感じていた、「チクショウ、今弾撃ってこいつ撃破出来たらすげー気持ちいいのになあ」という類の野望を満たしてくれるゲーム、みたいな感じで。

そう、セクロスはまさに「諸行無常版エキサイトバイク」とでも言うべきゲームだったのだ。エキサイトバイクでは轢かれても轢かれても平気な顔でバイクの元に駆け戻っていたあの連中が、セクロスでは壁にぶつけられただけであっさりと爆発炎上して影も形も見えなくなる。

エキサイトバイクで広まった、「ああ、バイク乗りって基本サイボーグなんだね、強くてカッコイイ!」などという危険極まりない誤解を、セクロスは「あ、やっぱり人間高速で壁に激突すると死ぬんだ、そりゃそうだよな・・・」とか「やっぱりバイクって後ろから射撃されまくると爆発するんだ、そりゃそうだよな・・・」という正しい認識に矯正してくれたのだ。これによって、当時バイク乗りを目指していた何人の少年が救われたことだろうか。

正味な話、「エキサイトバイクに憧れて二輪免許をとった人」よりは、「セクロスに憧れて二輪免許をとった人」の方が遥かに適性が上なんじゃないかと私は考えるのだ。一方はジャンプ台と見ると突っ込んでお空をカッ飛ぶところ、一方は「弾避け」の概念を学習しているから通行人を巧みに避けることも可能。母数がそれぞれ何人いるかは知らんが。
後にマッハライダーまで発売してバイク乗りの不死身っぷりを喧伝した任天堂に比べると、ニチブツは国土交通省に表彰されてもいいくらいなんじゃないかと思う(思わない)。


っていうか、任天堂は何故あそこまでライダーを不死身にしたがったんだろうか。ものすげー勢いで100メートルくらい大ジャンプして、着地に失敗して5回くらい前転しても平気な顔してバイクに駆け戻る(ボタン連打で加速)エキサイトバイク。1ドットでも岩石に触れるとライダーごとバイクが大爆発するけど、何故か一瞬後には分割されたヒトデの如く集合・再生するマッハライダー。当時の任天堂の中の人たちには、仮面ライダーV3か戸愚呂兄が含まれていたに違いない。


と、まあ、話が凄絶に逸れまくったが、一体何の話だっけ。ああ、一般語化の話だったな。


ゲームの一般名が「ファミコン」となってしまったことと微妙に似て非なる例は、レトロゲーム業界でも割と頻繁に見られる。つまり、いつの間にやら一般的な言葉・現象として定着してしまったが、元ネタが何だったか知らない人も多い、という現象だ。セクロスはまさにこの現象に見舞われたのである。発祥の経緯はちょっと違うみたいだけど。


プロ野球の多村仁のことを「スペランカー」と呼ぶ慣わしは、昨今元ネタを良く知らない一般の人にまで及んできた様子だ。パックマン買収も証券の世界では既に一般語である。


フジテレビがバレーボールのイメージキャラクターにパチ夫くんを採用したことは記憶に新しいし、「竹槍をとると死を招く」という都市伝説はいまや世界的に広まっているし、数理学会にはゼビ数字の元ネタがゼビウスだと知らない人が結構いるらしいし、バントでホームランはすっかり一般的なテクニックになってしまった。一般化は母体が大きければ大きい程影響が巨大であるというが、ファミコンの市場がいかに一般に膾炙していたかが分かろうというものである。

っていうか、このエントリー4月1日の日付にしといた方がいいかしらん。←ダメなブログ運営の例



一応参照URLを挙げておく。
セクロス(YouTube)
エキサイトバイク(Wikipedia)
マッハライダー(ファミコン探偵ブログ)


ところで、ニチブツって最近何やってるんだろう。企業沿革もないし年間売上は20億円のままになってるし、ホント謎。

posted by しんざき at 11:59 | Comment(6) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月09日

PS3版塊魂発売中止の話から、ハード間紛争の話を懐古してみる。


考察とかではなく、まあ、感傷。

発売中止になるPS3版「ビューティフル塊魂」

なんだか、ひどく懐かしいものを感じた。しっくりくる、というのかな。こうこなくっちゃ、って言うと語弊がありそうだけど。


最近の「ハード信者の宗教論」に関して、何故だか妙に空疎なものを感じていた。ソフトがなければゲーム機なんてただの箱、というのは当然の前提であるにしても、どうせユーザーから見たハードの格差なんて大したもんじゃないのに、一体何頑張ってんの、という感覚があったことは確かだ。


かつての「ファミコン→スーファミ」「PCエンジン」「メガドライブ」の三つ巴時代を思い出す。懐かしいといっても、それはどちらかというと中学時代のグループ間抗争ごっこを振り返る様な、余り好んで触れたいとは思わない、なまぐさくて生ぬるい懐かしさだ。

ゲーム雑誌の発売予定タイトル一覧は、修羅場だった。

「マルチ展開って何スか?」という時代だった当時の雰囲気。業務用のタイトルが移植されると聞くと、どのハードの所有者も一様に味わった息が詰まる様な思い。FCのスプラッターハウスとPCEのそれを比べた際の、なんともいえない絶望感と高揚。ドラクエ3の所有者が感じた視線と、「メガドライブって最近どんなゲームが出てるの?」と聞かれた時の、次に口を開いたヤツが死ぬ、と言わんばかりのロシアンルーレットな空気。X68000所有者の、ごく当然に醸造される選民意識。

ハード間の性能には絶対的な差があって、商売の上手い下手にも絶対的な差があって、発売されるタイトルにも絶対的な差があった。メガドラ所有者とSFC所有者は、それこそ異次元の住人同士だったのだ。

あの頃の話なら分かる。ゲーム好きにとって、異なるゲームハードはまさに「敵」だった。ハード間の有利不利、強み弱みが絶対的なものだった時代、ナムコの業務用アクションはPCエンジン、セガゲーはメガドライブでしか「遊べなかった」時代だ。当時の家庭用ゲーム業界の盛り上がりというのは、それこそハード間紛争抜きでは語れない。

冒頭のニュースを聞いて、なーんとなく、あの当時の頃のことを思い出した。あのタイトルがあっちで出るとかあっちでは出ないとか。「完全移植」などという言葉が死語になった今、サードパーティーの参加有無以外のレベルで、こんな話が出てくるのは割と新鮮だ。


ちょっと話は変わる。

懐古上等で敢えて言うなら、家庭用ハードの性能は低いままだった方が、もしかするとゲーム業界には良かったんじゃないか、とか思う。

家庭用ゲーム機の性能がアーケード業界に軽々と追いついた時、「移植タイトルの出来・不出来」というハード間の紛争要因も消失した。技術制限の元に試行錯誤で生まれた、突然変異的珍妙タイトル群も姿を消した。周の世に帰れなどと言うつもりはないが、例えばセガの様な「世間一般のセンスから微妙にズレた技術力とアイディアだけで勝負」的な集団は、ある程度混乱したレース場でしか生き残れなかったんじゃないだろうか。


現状、ハード間の性能差というものは、既にユーザーの手の届かない位置にしか存在していないと思う。性能的には移植出来ないタイトルなどというものは存在せず、それ以前に、ゲーセンのタイトルは既に起爆剤の地位から失墜している。

「満たされない状況でこそ発生するパワー」というものが、かつてはあったと思う。ゲーム業界における童貞力、みたいなもんか。ゲームの面白さに「制限要因」が必要不可欠であるのと同じ様に、ゲーム業界にも性能の低さという「制限要因」は重要なスパイスだったのではあるまいか。


ハード間紛争の話も一つだが、例えば源平とかアルゴスの戦士の様な、「制限された性能の中でアレコレ工夫してみました」的なゲームが最近見られなくなったのは、なんとなく寂しかったりもする訳である。

posted by しんざき at 17:24 | Comment(14) | TrackBack(2) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

レトロゲーム万里を往く その65 あるゲーセンの記憶

ちょっと一人語りをする。


昔住んでいた家の近所に、「キャビン」という名前のゲーセンがあった。


キャビンは、私がいた当時、既に「ちょっと古びた」ゲーセンだった。体育館をミニチュアサイズにした様な、屋根の鉄骨が剥き出しになっているボロい建物で、中には1ゲーム50円のゲーム筐体がずらっと並んでおり、プライズゲームなど一台も置いておらず、妙に高い天井には飛行機の模型が幾つもぶら下がっていた。そんなゲーセンだった。

私がその頃住んでいたのは坂が多い町で、原付に乗れる年になると皆こぞってバイトで金を貯め始める様な土地柄だった。

私はそんな中でも終始一貫して自転車乗りで、あちらこちらのゲーセンを自転車で渡り歩く内、脚力だけは無闇についた。私が「上半身はガリガリだけど、足だけ妙にゴツい」という奇天烈な体型をしているのは、専ら長距離走とこの頃の坂道自転車行のせいである。

自宅の駐車場から自転車で走り始めて、角を二回曲がって、坂道を4分くらい転がり落ちていくと、左側にキャビンがあった。

キャビンにいつから通い始めたのかは、もう良く覚えていない。といっても、私が通い始めの頃にはもう対戦台がデカい図体を見せ始めていた記憶があるので、既にストIIダッシュの時代だったろう。当時の風潮としてはあまり褒められた話でもないが、私はガキの頃から随分とそこに通い詰めていた。最初は縁者にくっついておそるおそる。慣れてくるとそのゲーセンのオヤジと仲良くなり、一袋50円で売っているスナック菓子をおごってもらったりした。その頃には大手を振って一人でキャビンに通っていた。

私が初めてスコアアタックにはまったのは「中華大仙」というタイトーの横シューであり、これはそのオヤジの影響である。オヤジは店が空いている時は自分でもゲームを遊んだが、やるのは脱衣麻雀とテトリスと中華大仙くらいだった。

中華大仙は「西遊記」の孫悟空の様なキャラが主人公の横シューで、サングラスをかけたエキセントリックな大仏がボスだったり、ショップの店員の頭部が「ナルト」であったりすることを除けばごくシンプルな内容だった。私はすぐにオヤジよりも上手くなり、初めての1コインクリアにも成功した。スコアが80万点を越えた時には、「ゲーメスト」のハイスコアコーナーに送ってくれたりもした。煙草くさかったり、頭の形だけブルース・ウィリスに似ていたり、ゲーセンに女を連れ込んでいたりすることもあったが、オヤジは基本的にいい人だった。多分当時40過ぎというところだったろうと思う。独身なのか、離婚していたのかは知らないが、奥さんはいないようだった。

私の目の前で、キャビンのゲームのラインナップはめまぐるしく変わっていった。スパIIが入り、ストIIXが入り、やがてKOF94やサムスピが入ってきた。バーチャが入った時は対戦台の周りが人で埋まり、一方風雲黙示録は私くらいしかやってなかった。

ゲーセンの一角にはシブいレトロゲームもたくさん置いてあり、私はそこで随分色んなゲームを遊んだ。ニューマンアスレチックがあり、スプラッターハウスがあり、戦場の狼があり、エスケープキッズがあり、いつも変わらず中華大仙があった。

私は、時にはストライカーズ1945にはまったり、時にはダライアス外伝で見知らぬ誰かと熾烈なスコア争いを繰り広げたりしていた。そんな中でも、時折思い出した様に中華大仙をやった。私が中華大仙をやっていると、オヤジは横に座って、格ゲーの入れ替わるペースが速くて参る、みたいなことを愚痴っていた。煙草やめなよ、と私は答えた。


通い始めて6,7年は経っていたと思う。ヴァンパイアセイヴァーの対戦台が入ってきた頃、私はどういう訳か大学に受かり、東京に引っ越すことになった。


オヤジと話すと、おめでとう、と言われた。私は、ありがとう、と答えた。

常連さんが一人いなくなっちまうなー、と言われた。私は、また来るよ、と答えた。


最後に遊んだゲームはファンタジーゾーンだったと思う。私はスマートボムを抱えたまま、クラブンガーの直前で死んだ。

多分、当時はもう、私以外の「常連さん」はあんまり残っていなかったんだろう、と思う。私がいる時間に対戦が成立すること自体あまり見なかった。過疎という程でもないが、大型筐体の一台もない「街のゲーセン」は、その頃既に下火だった。多くのゲーセンは「アミューズメントスポット」か、あるいはメーカーの直営のゲーセンに移り変わっていた。


4年が過ぎた。


ちょっとした用事でその辺りに足を運ぶことになった私は、以前住んでいた家を外から眺めた後、キャビンにも足を運んでみた。というよりは、足が勝手にキャビンの方へ向いた。以前は自転車で転がり落ちていた坂道をてくてく歩いた。

薄水色のボロゲーセンには、シャッターが降りていた。

「閉店のお知らせ」の張り紙もなく、以前はあったボロい看板もなく、まあ、そんなもんだろうな、と思った。隣に建っていた真新しいビデオ屋を横目に、近所を散歩して帰った。



この前、自宅からだいぶ歩いた辺りに、潰れたゲーセンがあることに気付いた。その姿がキャビンとダブって見えて、急に上の様な話を思い出した。

「街のゲーセン」は、多分、近年ゆっくりと消えつつある。個人経営のゲーセンなんか、もう数年前から絶滅危惧種である。ゲーセンが「不良の溜り場」だった時代は遥か昔に終わりを告げ、格ゲーの新作が出る度に中高生が集まっていた時代も過ぎ、私のゲーセン通いの日々も今は昔だ。


だから、今の内に書き残しておこう。これは、かつてはどこの街にでもあった、ごく当たり前のゲーセンの記憶だ。キャビンで私とスコア争いをやっていた連中は今はもうゲームをやっていないかも知れないが、せめて誰かに拾ってもらえればなあ、と、そう思う。


ちなみに、中華大仙はしばらく前に新宿で見かけた。数年振りの中華大仙は4ボス止まりだったが、妙に嬉しかった。わざわざスコアネームを入れた。私のスコアネームは、SSI、という。数年振りに入れる三文字が、奇妙に感慨深く、また奇妙に懐かしくて、私はデモ画面を眺めて何度かスコア欄を見直した。オヤジに見せたくなった。


キャビンのオヤジが今何をやっているかは勿論知らない。ただ、相変わらずどこかのゲーセンで、禁煙パイプをくわえつつ、脱衣麻雀でもやってくれているといいな、と思うのみである。

posted by しんざき at 19:21 | Comment(9) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月08日

レトロゲーム万里を往く その64 バブルボブル

固定画面アクションゲームの粋が、そこにあった。


練りこまれた敵配置も、考え抜かれた面構成も、点稼ぎの爽快感も、飽きることのない操作性も、マニアックなテクニックも、掘っても掘っても底が見えない奥深さも、100面をクリアした時の達成感も、そこにはおよそ望みうる全てがあった。


「固定画面アクションゲーム」というジャンルが、ゲーム界の主要なシーンとして隆盛した時代が、多分あったと思う。1970年代末から、まあ大体1980年代の中盤くらいまで、だろう。

古くは「シェリフ」の様なSTGの発展形や、「ヘッドオン」やパックマン、ラリーXなどのドットイートゲームを祖として、ペンゴやドンキーコング、マリオブラザーズやロードランナー、あるいはディグダグやボンジャックなどを輩出する内、そのジャンルはパズル的な方向とアクション的な方向の二つに分かれていった。

その一方の到達点に「ソロモンの鍵」が君臨している。「削る」のではなく「創る」パズルアクション。パズル要素とアクション性の完全な融合。パズルアクションという土俵でソロモンの鍵と勝負し得るタイトルは、そうそう多くはないと思う。

もう一方。アクションとしての楽しさを追求していった固定画面アクションゲームの、一つの究極の形が「バブルボブル」だったのではないかと私は思うのだ。


バブルボブル。1986年、「フェアリーランドストーリー」に続く固定画面アクションゲームとしてタイトーから業務用発売。X68000、FM-TOWNS等の様々なハードに移植されたが、翌87年の10月「ディスクシステム」を舞台に発売された、ファミコン版に触れた人が多いかも知れない。タイトーとしては数少ない、コンシューマー畑でのキラーソフトでもあった。

上記でソロモンの鍵の名前を挙げたが、ソロモンとバブルボブルは丁度同年、1986年にアーケード版が発売されている。1986年という年は、業務用・家庭用共、冗談抜きで大豊作の年だった。中でもこの2タイトルは、丁度同じ時期に出現した、固定画面型アクションゲームの双璧と言っていいだろうと思う。

ゲームの解説は、いつもの通り「OKINIIRI」様の詳説をご参照頂ければと思う。業務用の画面も掲載されている。
OKINIIRI:バブルボブル

Wikipediaの関連項目も挙げておこう。
Wikipedia「バブルボブル」

さて、ゲームの話をしてみよう。

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posted by しんざき at 17:08 | Comment(4) | TrackBack(0) | レトロゲーム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする